相模屋紺炉
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大きくなったら結婚してね、なんて可愛らしい約束をせがんできたのはいつだったか、などと遠い昔に思いを馳せてしまうのは、仕方のないことだろう。何せ目の前には華やかな振袖に身を包んだ、長年妹のように接してきた嬢ちゃんがいて、一緒に酒を嗜んでいるのだ。あんなに小さかったあの子が、だ。そりゃあ感慨深くもなる。
紅より二つ下の嬢ちゃんは、今日成人の日を迎えた。皇国の高校、大学とやらに通うことになり(えすかれーたー式、だったか?)、浅草を出て一人暮らしをするようになってからは顔を合わすことがめっきり減ったが、今日は特別な日だからとこっちの皆に挨拶をして回ってたらしい。そんな嬢ちゃんが詰所に顔を出したのはつい先刻、ちょうど夜四ツになろうかという頃だった。
久しぶりに幼馴染み同士が顔を合わせるとなれば積もる話もあるだろう。しかし紅ときたら、夕餉前に出かけたっきり帰って来ねェ。行き先は恐らく、馴染みの飲み屋か賭場。「出直すかい?」と訊ねれば、嬢ちゃんは興味なさげに首を横に振った。
「いないなら別にいいよ。あ、でもせっかくだからさ、紺さん付き合ってくれない? 私一人じゃ飲みきれそうになくて」
にこりと笑う嬢ちゃんの手には一升瓶が握られていた。ここに来るまでの間に、知り合いに貰ったらしい。それなりに上等な酒だ。
「俺ァ構わねェが、紅が知ったら……なァ?」
「そんなの知ーらない! いないのが悪んだから」
「はは、違ェねェ」
すっかり大人になってと思っていたが、べぇと舌を出す姿が子どもの時から変わってなくて苦笑してしまう。果たして紅が帰ってくるのが先か、俺と嬢ちゃんが酒を飲み干すのが先か。
結果はわかっちゃいたが、それにしたって酒が減りが早かった。嬢ちゃんは紅と違ってかなりいける口らしい。頬はほんのりと桃色に染まっているが、それ以外はけろっとしている。
「まさか嬢ちゃんがうわばみだったとはなァ」
「そんなんじゃないわよ。お酒がおいしくて止まらなかっただけ」
あり合わせで作ったつまみをつつきながら談笑し、その間にも嬢ちゃんは水を飲むみたいにするすると酒を呷っていく。下手したら俺より飲んでんじゃねェか? 惚れ惚れするようないい飲みっぷりに目を奪われていると、程なくして酒が底をついた。空瓶の軽い音が床を叩く。
嬢ちゃんはなみなみ注いだ最後の一杯をさして味わうでもなくくいと飲み干し、ふぅと息を吐いた。
「さすがに飲みすぎたかなぁ」
「よく言うぜ。足りねェようなら紅の秘蔵の酒を持ってくるが、どうする?」
「うーん、今日はもう充分」
そう言うと、嬢ちゃんはぐっと伸びをしてから脱力した。目が随分ととろんとしている。早朝からの挨拶回りで疲れたのだろう。そこに酒も加わればそりゃあ眠くもなる。
ふぁ、と欠伸を手で押さえた嬢ちゃんが横になろうと身体を倒すのが見えて、俺は慌てて手を伸ばした。
「おいおい、そのまま寝たらせっかくの晴れ着が皺になっちまうだろうが」
「えー」
寝転がるのを阻まれた嬢ちゃんは、俺にもたれながら不服そうに唇を尖らせている。その目は今にも閉じそうだ。
「眠ィなら家で寝な。ほら、送ってってやるから」
「やーだ、まだ帰りたくない」
嬢ちゃんはぐずるように俺の身体にぐりぐりと頭を擦り付けた。
思えば、昔はこんなやり取りしょっちゅうだった。帰りたくない、まだ遊ぶと駄々をこねる彼女を抱きかかえて、無理やり家に送り届けて。だが、今はそうもいかない。嬢ちゃんはもう、子どもじゃないからだ。
もたれかかってくる重みも、華奢で柔らかな身体も、ふうわり漂う甘さを含んだ香りも、あの頃とはまるで違う。大人の女のそれに違いなかった。
触れて初めてそんな当たり前のことを理解して、昔のようにあやそうと伸ばした両手が宙を彷徨う。
「……駄目だ。帰ンな」
「どうしても?」
「ああ」
俺の言葉に嬢ちゃんがきゅっと法被を掴んだ。
「ねえ紺さん。昔の約束、覚えてる」
俯く嬢ちゃんの表情は窺い知れない。だがその声は、微かに震えているような気がした。
「私、大人になったよ」
指先が縋るように、法被に皺を作る。
「好きよ、紺さん。昔からずっと、ずーっと。私じゃだめ? こんな小娘、女として見れない?」
顔を上げた嬢ちゃんの瞳が不安げに揺れていた。
脳裏に浮かぶのは、大きくなったら結婚してねという、幼い子どもにありがちな申し出。もちろんちゃんと覚えているし、子どもの発言とはいえ妹のように接してきた嬢ちゃんがそこまで慕ってくれることを、当時は嬉しいとさえ思っていた。
だが、子どもの「好き」は心の成長とともに細かく分類され変化していくもの。だから嬢ちゃんの俺に対する「好き」はまだ愛情の区別が曖昧な幼子特有のもので、じきに親愛に近いものに変わっていくと、そう思っていたのだが。
「……馬鹿なこと言うんじゃねェよ」
ぽつりと零した言葉に、嬢ちゃんがはっきりと傷付くのがわかった。でも、そうだろう。嬢ちゃんの「好き」は幼子の時の刷り込みのようなもの。それをこの歳になるまで大事に抱え込ませちまうとは。
あの時、幼い嬢ちゃんの言葉に「嬉しいねェ」なんて返さなければよかったのか。いや、そうでなくてももっと早く目を覚まさせてやればよかったのだ。そうすればひと回り以上離れた俺ではないほかの誰かに、真っ当な恋心を抱けただろうに。
「嬢ちゃんには俺なんかよりもっといい奴がいンだろ」
成人を迎えたとはいえ、嬢ちゃんはまだ年若い。今からだっていい出会いは山ほどあるはずだ。だから早いとこ俺への気持ちを捨てて、次に行かせたほうがいい。
諭すように嬢ちゃんの肩に手を置き、もたれたままの身体をゆっくりと離すと、嬢ちゃんがキッと俺を睨め上げた。その両目にはうっすらと涙の膜が張っている。が、悲しんでいるというよりは腑が煮え繰り返るといったほうがしっくりくる表情をしていた。
「紺さんよりいい奴って誰? いたらとっくにその人好きになってるんだけど」
低く怒気を孕んだ声に息を飲む。
「私、もう子どもじゃないの。自分の気持ちくらいちゃんとわかってる。その上で、紺さんのことが好きって言ってんの。馬鹿なこと言わないで」
ぐっと俺の胸ぐらを掴んでそう言い放った嬢ちゃんの目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。それを拭おうと手を伸ばせば、ぱしりとその手を叩かれる。
「その気もないのに優しくしないで」
「……悪ィ」
「別に。紺さんが私を妹としか見てないのはわかりきってたし。でも今好きな人とか恋人がいないなら、一回ちゃんと考えてほしいの。妹じゃなくて、一人の女として私を見て。それでも無理だったらすっぱり諦めるから」
涙で濡れた瞳を細め、嬢ちゃんが悪戯っぽく笑った。
「結論が出るまでアタックしまくるから、覚悟しといてよ紺さん!」
とんと胸を小突いてくる嬢ちゃんに、俺は喉元まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。
突き放して、恋心を捨てさせるなら今だったのに。
それをしなかった俺は、どこまでも卑怯で、狡い大人だ。
紅より二つ下の嬢ちゃんは、今日成人の日を迎えた。皇国の高校、大学とやらに通うことになり(えすかれーたー式、だったか?)、浅草を出て一人暮らしをするようになってからは顔を合わすことがめっきり減ったが、今日は特別な日だからとこっちの皆に挨拶をして回ってたらしい。そんな嬢ちゃんが詰所に顔を出したのはつい先刻、ちょうど夜四ツになろうかという頃だった。
久しぶりに幼馴染み同士が顔を合わせるとなれば積もる話もあるだろう。しかし紅ときたら、夕餉前に出かけたっきり帰って来ねェ。行き先は恐らく、馴染みの飲み屋か賭場。「出直すかい?」と訊ねれば、嬢ちゃんは興味なさげに首を横に振った。
「いないなら別にいいよ。あ、でもせっかくだからさ、紺さん付き合ってくれない? 私一人じゃ飲みきれそうになくて」
にこりと笑う嬢ちゃんの手には一升瓶が握られていた。ここに来るまでの間に、知り合いに貰ったらしい。それなりに上等な酒だ。
「俺ァ構わねェが、紅が知ったら……なァ?」
「そんなの知ーらない! いないのが悪んだから」
「はは、違ェねェ」
すっかり大人になってと思っていたが、べぇと舌を出す姿が子どもの時から変わってなくて苦笑してしまう。果たして紅が帰ってくるのが先か、俺と嬢ちゃんが酒を飲み干すのが先か。
結果はわかっちゃいたが、それにしたって酒が減りが早かった。嬢ちゃんは紅と違ってかなりいける口らしい。頬はほんのりと桃色に染まっているが、それ以外はけろっとしている。
「まさか嬢ちゃんがうわばみだったとはなァ」
「そんなんじゃないわよ。お酒がおいしくて止まらなかっただけ」
あり合わせで作ったつまみをつつきながら談笑し、その間にも嬢ちゃんは水を飲むみたいにするすると酒を呷っていく。下手したら俺より飲んでんじゃねェか? 惚れ惚れするようないい飲みっぷりに目を奪われていると、程なくして酒が底をついた。空瓶の軽い音が床を叩く。
嬢ちゃんはなみなみ注いだ最後の一杯をさして味わうでもなくくいと飲み干し、ふぅと息を吐いた。
「さすがに飲みすぎたかなぁ」
「よく言うぜ。足りねェようなら紅の秘蔵の酒を持ってくるが、どうする?」
「うーん、今日はもう充分」
そう言うと、嬢ちゃんはぐっと伸びをしてから脱力した。目が随分ととろんとしている。早朝からの挨拶回りで疲れたのだろう。そこに酒も加わればそりゃあ眠くもなる。
ふぁ、と欠伸を手で押さえた嬢ちゃんが横になろうと身体を倒すのが見えて、俺は慌てて手を伸ばした。
「おいおい、そのまま寝たらせっかくの晴れ着が皺になっちまうだろうが」
「えー」
寝転がるのを阻まれた嬢ちゃんは、俺にもたれながら不服そうに唇を尖らせている。その目は今にも閉じそうだ。
「眠ィなら家で寝な。ほら、送ってってやるから」
「やーだ、まだ帰りたくない」
嬢ちゃんはぐずるように俺の身体にぐりぐりと頭を擦り付けた。
思えば、昔はこんなやり取りしょっちゅうだった。帰りたくない、まだ遊ぶと駄々をこねる彼女を抱きかかえて、無理やり家に送り届けて。だが、今はそうもいかない。嬢ちゃんはもう、子どもじゃないからだ。
もたれかかってくる重みも、華奢で柔らかな身体も、ふうわり漂う甘さを含んだ香りも、あの頃とはまるで違う。大人の女のそれに違いなかった。
触れて初めてそんな当たり前のことを理解して、昔のようにあやそうと伸ばした両手が宙を彷徨う。
「……駄目だ。帰ンな」
「どうしても?」
「ああ」
俺の言葉に嬢ちゃんがきゅっと法被を掴んだ。
「ねえ紺さん。昔の約束、覚えてる」
俯く嬢ちゃんの表情は窺い知れない。だがその声は、微かに震えているような気がした。
「私、大人になったよ」
指先が縋るように、法被に皺を作る。
「好きよ、紺さん。昔からずっと、ずーっと。私じゃだめ? こんな小娘、女として見れない?」
顔を上げた嬢ちゃんの瞳が不安げに揺れていた。
脳裏に浮かぶのは、大きくなったら結婚してねという、幼い子どもにありがちな申し出。もちろんちゃんと覚えているし、子どもの発言とはいえ妹のように接してきた嬢ちゃんがそこまで慕ってくれることを、当時は嬉しいとさえ思っていた。
だが、子どもの「好き」は心の成長とともに細かく分類され変化していくもの。だから嬢ちゃんの俺に対する「好き」はまだ愛情の区別が曖昧な幼子特有のもので、じきに親愛に近いものに変わっていくと、そう思っていたのだが。
「……馬鹿なこと言うんじゃねェよ」
ぽつりと零した言葉に、嬢ちゃんがはっきりと傷付くのがわかった。でも、そうだろう。嬢ちゃんの「好き」は幼子の時の刷り込みのようなもの。それをこの歳になるまで大事に抱え込ませちまうとは。
あの時、幼い嬢ちゃんの言葉に「嬉しいねェ」なんて返さなければよかったのか。いや、そうでなくてももっと早く目を覚まさせてやればよかったのだ。そうすればひと回り以上離れた俺ではないほかの誰かに、真っ当な恋心を抱けただろうに。
「嬢ちゃんには俺なんかよりもっといい奴がいンだろ」
成人を迎えたとはいえ、嬢ちゃんはまだ年若い。今からだっていい出会いは山ほどあるはずだ。だから早いとこ俺への気持ちを捨てて、次に行かせたほうがいい。
諭すように嬢ちゃんの肩に手を置き、もたれたままの身体をゆっくりと離すと、嬢ちゃんがキッと俺を睨め上げた。その両目にはうっすらと涙の膜が張っている。が、悲しんでいるというよりは腑が煮え繰り返るといったほうがしっくりくる表情をしていた。
「紺さんよりいい奴って誰? いたらとっくにその人好きになってるんだけど」
低く怒気を孕んだ声に息を飲む。
「私、もう子どもじゃないの。自分の気持ちくらいちゃんとわかってる。その上で、紺さんのことが好きって言ってんの。馬鹿なこと言わないで」
ぐっと俺の胸ぐらを掴んでそう言い放った嬢ちゃんの目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。それを拭おうと手を伸ばせば、ぱしりとその手を叩かれる。
「その気もないのに優しくしないで」
「……悪ィ」
「別に。紺さんが私を妹としか見てないのはわかりきってたし。でも今好きな人とか恋人がいないなら、一回ちゃんと考えてほしいの。妹じゃなくて、一人の女として私を見て。それでも無理だったらすっぱり諦めるから」
涙で濡れた瞳を細め、嬢ちゃんが悪戯っぽく笑った。
「結論が出るまでアタックしまくるから、覚悟しといてよ紺さん!」
とんと胸を小突いてくる嬢ちゃんに、俺は喉元まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。
突き放して、恋心を捨てさせるなら今だったのに。
それをしなかった俺は、どこまでも卑怯で、狡い大人だ。