相模屋紺炉
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ふわりと鼻腔をくすぐる匂いに、ああ今年も秋がやってきたなぁと思う。香ばしくて、匂いだけで口の中に涎が溜まる、美味しい匂い。甘い金木犀の香りよりこっちのが秋を感じるようになってしまって、いつだったかヒカゲとヒナタが「「姉御は色気より食い気だな!」」と笑い飛ばしてたのを思い出す。いい大人だから色気も……と言いたいところだけど、この匂いを嗅いでしまってはどうしようもない。食欲が満たされないことには色気も、ね。
まだやることは山ほどあるけれど、足は自然と匂いのするほうへ。縁側に出ればたちまち美味しい匂いに包まれて、気の早いお腹がぐうと鳴った。もくもくと煙たい視界の先にはぽつんと丸い背中。大きくて広い紺色の背中は、姿勢のせいかいつもよりちょっぴり小さく見える。
紺炉さん、そう声を掛けようとして思い止まったのは先客がいたからだ。私と同じように匂いにつられてやって来たらしいその客は、紺炉さんと何やら話し込んでいるようで。
「まぁたお前さんか。何度来たって駄目なモンは駄目だ。ん? お前さんも違いがわかるってか。ああ、そうだ。今年の秋刀魚は去年よりずっと脂の乗りがいい。おっと、そんな目で見たって駄目だぜ。去年は目ェ離した隙にお前さんにしてやられたからなァ」
七輪を挟んでの交渉は秋刀魚が良い色に焼き上がるまで続いた。先客は一切隙を見せない紺炉さんに痺れを切らしたのか、不機嫌そうに尻尾を揺らし、「ニャン」とひと鳴きして塀の向こうへと去って行った。
「今年は守り切れましたね、秋刀魚」
「っと。いたのか嬢ちゃん」
つっかけを履いて紺炉さんに近寄ると、彼はわかりやすく肩を揺らした。一体いつからいたのかと頬を引き攣らせる彼を安心させるように「今さっきですよ」と笑顔を返す。
「そうか。ならよかっ……」
「私が聞いてたのはまぁたお前さんか、の辺りからです」
「うっ、嬢ちゃんも人が悪ィな」
私としてはいいものが見れたと内心ホクホクしてるのだけど、紺炉さんは結構恥ずかしかったらしい。両足の間に顔を埋めて長いため息を吐いている。
「内緒にしといてくれねェか。ヒカゲとヒナタには特に。あと若衆にもな」
ごにょごにょと地面に向かって話す紺炉さんの背はさっきよりも幾分か小さくなったようにも見える。
猫と話す紺炉さん、可愛かったのに言っちゃだめか。第八の女の子たちなら「かわいい!」って共感してくれただろうに。まあだめならだめで、そっと私の心の中に留めておくのも悪くない。
「いいですよ。誰にも言いません」
「! そうか、ありがとよ」
「ただし条件があります」
「条件……?」
ごくりと紺炉さんの喉が上下する。そんなに身構えなくても無茶な要求はしないのに。
私は良い匂いのする七輪を指差して、今日一番の笑顔で言った。
「これ、ひとくちくいただけますか?」
***
炊き立てのほかほかご飯に、白菜のお味噌汁。あといくつかの副菜に、中央には立派な秋刀魚の塩焼き。
「うひェひェひェ、見ろよヒナ。コンロのさんま、かじられてら!」
「あひェひェひェ、またあのどらねこじゃねェか? 去年はまるっと一匹持ってかれてたもんなァ!」
できれば温かいうちに食べてほしいのだけど、双子たちは紺炉さんの傍からなかなか離れようとしない。といっても二人の興味の先は紺炉さんではなく彼の手元の秋刀魚。ふっくらとした身の一部がぽっかりと齧られたようになっているのが気になって仕方ないらしい。
「なァなァコンロ、またどらねこか?」
「なァなァコンロ、今年もやられちまったのか?」
きらきらとした眼差しに挟まれて紺炉さんは居心地が悪そうだ。
「どらねこなんて可愛いモンじゃねェよ、ありゃあ」
おやおや、優しい条件を出してあげたのにそれはないのでは。もうひとくち貰っておけばよかったかもしれない。
聞こえてますよと咳払いをすると、紺炉さんが定規でも入ってるのかというくらいピンと姿勢を正す。
「ほら二人とも早く席に着いて食べちゃって。今年の秋刀魚は身がふっくらしてて、脂も乗ってて、お醤油がなくても美味しいんだから」
「なんだ姉御、食べたみたいな言い草だなァ」
「どうせ魚屋の受け売りだろ! まずかったら承知しねーかんな」
「ふふ、大丈夫。絶対に美味しいから」
なにせ、焼きたてを食べた私が言うのだから嘘じゃない。
身をほぐせとねだる双子の向こうで紺炉さんが「来年こそは……」と意気込んでいたけれど、果たしてどうなることやら。ただ、あのとろけるような勝利のひとくちはまた来年も味わいたいと、私は密かに思うのだった。
まだやることは山ほどあるけれど、足は自然と匂いのするほうへ。縁側に出ればたちまち美味しい匂いに包まれて、気の早いお腹がぐうと鳴った。もくもくと煙たい視界の先にはぽつんと丸い背中。大きくて広い紺色の背中は、姿勢のせいかいつもよりちょっぴり小さく見える。
紺炉さん、そう声を掛けようとして思い止まったのは先客がいたからだ。私と同じように匂いにつられてやって来たらしいその客は、紺炉さんと何やら話し込んでいるようで。
「まぁたお前さんか。何度来たって駄目なモンは駄目だ。ん? お前さんも違いがわかるってか。ああ、そうだ。今年の秋刀魚は去年よりずっと脂の乗りがいい。おっと、そんな目で見たって駄目だぜ。去年は目ェ離した隙にお前さんにしてやられたからなァ」
七輪を挟んでの交渉は秋刀魚が良い色に焼き上がるまで続いた。先客は一切隙を見せない紺炉さんに痺れを切らしたのか、不機嫌そうに尻尾を揺らし、「ニャン」とひと鳴きして塀の向こうへと去って行った。
「今年は守り切れましたね、秋刀魚」
「っと。いたのか嬢ちゃん」
つっかけを履いて紺炉さんに近寄ると、彼はわかりやすく肩を揺らした。一体いつからいたのかと頬を引き攣らせる彼を安心させるように「今さっきですよ」と笑顔を返す。
「そうか。ならよかっ……」
「私が聞いてたのはまぁたお前さんか、の辺りからです」
「うっ、嬢ちゃんも人が悪ィな」
私としてはいいものが見れたと内心ホクホクしてるのだけど、紺炉さんは結構恥ずかしかったらしい。両足の間に顔を埋めて長いため息を吐いている。
「内緒にしといてくれねェか。ヒカゲとヒナタには特に。あと若衆にもな」
ごにょごにょと地面に向かって話す紺炉さんの背はさっきよりも幾分か小さくなったようにも見える。
猫と話す紺炉さん、可愛かったのに言っちゃだめか。第八の女の子たちなら「かわいい!」って共感してくれただろうに。まあだめならだめで、そっと私の心の中に留めておくのも悪くない。
「いいですよ。誰にも言いません」
「! そうか、ありがとよ」
「ただし条件があります」
「条件……?」
ごくりと紺炉さんの喉が上下する。そんなに身構えなくても無茶な要求はしないのに。
私は良い匂いのする七輪を指差して、今日一番の笑顔で言った。
「これ、ひとくちくいただけますか?」
***
炊き立てのほかほかご飯に、白菜のお味噌汁。あといくつかの副菜に、中央には立派な秋刀魚の塩焼き。
「うひェひェひェ、見ろよヒナ。コンロのさんま、かじられてら!」
「あひェひェひェ、またあのどらねこじゃねェか? 去年はまるっと一匹持ってかれてたもんなァ!」
できれば温かいうちに食べてほしいのだけど、双子たちは紺炉さんの傍からなかなか離れようとしない。といっても二人の興味の先は紺炉さんではなく彼の手元の秋刀魚。ふっくらとした身の一部がぽっかりと齧られたようになっているのが気になって仕方ないらしい。
「なァなァコンロ、またどらねこか?」
「なァなァコンロ、今年もやられちまったのか?」
きらきらとした眼差しに挟まれて紺炉さんは居心地が悪そうだ。
「どらねこなんて可愛いモンじゃねェよ、ありゃあ」
おやおや、優しい条件を出してあげたのにそれはないのでは。もうひとくち貰っておけばよかったかもしれない。
聞こえてますよと咳払いをすると、紺炉さんが定規でも入ってるのかというくらいピンと姿勢を正す。
「ほら二人とも早く席に着いて食べちゃって。今年の秋刀魚は身がふっくらしてて、脂も乗ってて、お醤油がなくても美味しいんだから」
「なんだ姉御、食べたみたいな言い草だなァ」
「どうせ魚屋の受け売りだろ! まずかったら承知しねーかんな」
「ふふ、大丈夫。絶対に美味しいから」
なにせ、焼きたてを食べた私が言うのだから嘘じゃない。
身をほぐせとねだる双子の向こうで紺炉さんが「来年こそは……」と意気込んでいたけれど、果たしてどうなることやら。ただ、あのとろけるような勝利のひとくちはまた来年も味わいたいと、私は密かに思うのだった。