相模屋紺炉
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ああ、すっかり遅くなってしまった。
所用を済ませ、借りた提灯を片手に帰路を急ぐ。
早く家に帰りたい。ここから詰所までは一本道、そう時間は掛からないだろう。とはいえ月のない夜道を行くのに提灯の灯りだけではどうにも心許ない。
いつもならこの時間でも飲んべえの一人や二人ふらついているはずなのに、まったくこういう時に限っていないのだから。
秋の夜のひやりとした風が首筋を撫ぜ、雑木林がざわりと揺れる。
雑木林? と微かな違和感に足を止め、顔を上げた。おかしい。ここはよく知る浅草で、町中にこんな道はない。ないはずなのに、何故だろう、この道を知っているような気もする。
辺りをよく見ようと提灯を掲げると、照らすより先に夜風に吹かれ、頼りの火もかき消えてしまった。
闇夜に雑木林の影が色濃く浮かぶ。聞こえてくるのは虫の声と風に揺れる木々の音だけ。夜遅いとはいえ寝静まるにはまだ幾らか早い時間だ。浅草にしては"静か"すぎる。
何だか気味が悪い。
とりあえずこのままここに居るわけにはいかない。幸い通りの奥はぼうっと明るく、あちらに向かって歩けば知った道に出るかもしれない。少しでも早くここから抜け出したくて駆け足で最奥へと向かった。
早く帰らなきゃ。早く、早く、早く。
ーーどこに?
私はどこに帰ろうとしてたんだっけ。わからない。ああ、そうだ。私は家にーー。
「そっちじゃねェよ」
突然後ろから腕を掴まれて強く引き寄せられる。振り向くとそこには険しい顔をした紺炉さんがいた。
「紺炉さん、どうして……?」
「お前さんが帰って来ねェから迎えに来たんだ。詰所はそっちじゃねェよ」
そのままぐいぐいと来た道を戻らされる。掴まれた腕が痛い。帰りが遅くなったことを怒っているのだろうか。一言謝ると掴んだ手からゆるりと力が抜けるのがわかった。
「頼むから、もう二度と一人で帰ろうとしねェでくれ」
縋るような、祈るような。そんな声だった。腕を掴んでいた手が離れ、私の右手を包み込む。あたたかいはずの彼の手は今日は心なしかひんやりとしていた。
紺炉さんに手を引かれ詰所への道を行く。後ろ髪を引かれて振り返ると「どうかしたかい?」と紺炉さんが訊いた。
「あっちに行きてェのか?」
「いえ、何があるのかなと思っただけで」
「何もねェさ。お前さんは詰所 に帰りたかったンだろ?」
「……そう、ですね」
こくりと頷くと紺炉さんは満足そうに目を細め「さァ、早ェとこ帰ろう」と促した。
暗く不気味な雑木林を抜けると、その先には見慣れた浅草の景色が広がっていた。空にはぽっかりと綺麗な月が浮かんでいて提灯などいらないほど明るい。
「月なんて出てましたっけ?」
「何言ってンだ。今日は満月じゃねェか」
さっきまで影も形もなかったのに、あんなに大きな月、一体どこに隠れていたのだろう。
風に乗って遠くから篠笛の音が聴こえた気がした。摺り鉦に太鼓も。祭囃子の音がする。辺りを見渡してもその音がどこから鳴っているのか分からなくて紺炉さんを見るも、彼は真っ直ぐ前を見据えるばかりで、何も聴こえてないみたいだった。
詰所に帰るとすぐに私は布団に押し込まれた。
子どもじゃないのだから一人でも平気だというのに、紺炉さんは私が眠りにつくまでここにいると言い張る。
「またお前さんがどっか行っちまったら困るからな」
「どこにも行きませんよ。ここが私の家ですから」
「そうかい。ならいいけどよ」
身寄りも記憶もない私を紺炉さんが拾ってくれたあの日から、ずっとここが、ここだけが私の家だ。どこかに行こうだなんて思うはずがない。紺炉さんは何をそんなに心配しているのだろう。
包帯に巻かれた指先が顔に掛かった髪を払う。「早く寝な」と大きな手のひらで両目を覆われると自然と瞼が重くなった。冷たかった手はすっかりいつもの温度を取り戻していて、じんわりとしたあたたかさにゆっくりと目を閉じた。
虫の声に混じって、またあの笛の音が聴こえてくる。
「ねえ、紺炉さん。お囃子の音がしませんか?」
「ン? あァ、聴こえるなァ」
よかった、空耳じゃなかったみたいだ。それにしてもこんな夜更けに祭りの練習だろうか。あまり聴かない旋律だ。でもどこかで聴いたことがあるような。
「……何て曲でしたっけ」
沈みかけた意識の中で訊ねると、紺炉さんが私の頭を撫でる気配がした。そういえば前にもこんな風にやさしく撫でてくれたことがある。あれは初めて紺炉さんに会った時。そうだ。あの時もこのお囃子が聴こえていた。
「あれはな、」
「狸囃子ってンだ」
紺炉さんがぽつりと零したその言葉は、眠りに落ちた私には届かなかった。
所用を済ませ、借りた提灯を片手に帰路を急ぐ。
早く家に帰りたい。ここから詰所までは一本道、そう時間は掛からないだろう。とはいえ月のない夜道を行くのに提灯の灯りだけではどうにも心許ない。
いつもならこの時間でも飲んべえの一人や二人ふらついているはずなのに、まったくこういう時に限っていないのだから。
秋の夜のひやりとした風が首筋を撫ぜ、雑木林がざわりと揺れる。
雑木林? と微かな違和感に足を止め、顔を上げた。おかしい。ここはよく知る浅草で、町中にこんな道はない。ないはずなのに、何故だろう、この道を知っているような気もする。
辺りをよく見ようと提灯を掲げると、照らすより先に夜風に吹かれ、頼りの火もかき消えてしまった。
闇夜に雑木林の影が色濃く浮かぶ。聞こえてくるのは虫の声と風に揺れる木々の音だけ。夜遅いとはいえ寝静まるにはまだ幾らか早い時間だ。浅草にしては"静か"すぎる。
何だか気味が悪い。
とりあえずこのままここに居るわけにはいかない。幸い通りの奥はぼうっと明るく、あちらに向かって歩けば知った道に出るかもしれない。少しでも早くここから抜け出したくて駆け足で最奥へと向かった。
早く帰らなきゃ。早く、早く、早く。
ーーどこに?
私はどこに帰ろうとしてたんだっけ。わからない。ああ、そうだ。私は家にーー。
「そっちじゃねェよ」
突然後ろから腕を掴まれて強く引き寄せられる。振り向くとそこには険しい顔をした紺炉さんがいた。
「紺炉さん、どうして……?」
「お前さんが帰って来ねェから迎えに来たんだ。詰所はそっちじゃねェよ」
そのままぐいぐいと来た道を戻らされる。掴まれた腕が痛い。帰りが遅くなったことを怒っているのだろうか。一言謝ると掴んだ手からゆるりと力が抜けるのがわかった。
「頼むから、もう二度と一人で帰ろうとしねェでくれ」
縋るような、祈るような。そんな声だった。腕を掴んでいた手が離れ、私の右手を包み込む。あたたかいはずの彼の手は今日は心なしかひんやりとしていた。
紺炉さんに手を引かれ詰所への道を行く。後ろ髪を引かれて振り返ると「どうかしたかい?」と紺炉さんが訊いた。
「あっちに行きてェのか?」
「いえ、何があるのかなと思っただけで」
「何もねェさ。お前さんは
「……そう、ですね」
こくりと頷くと紺炉さんは満足そうに目を細め「さァ、早ェとこ帰ろう」と促した。
暗く不気味な雑木林を抜けると、その先には見慣れた浅草の景色が広がっていた。空にはぽっかりと綺麗な月が浮かんでいて提灯などいらないほど明るい。
「月なんて出てましたっけ?」
「何言ってンだ。今日は満月じゃねェか」
さっきまで影も形もなかったのに、あんなに大きな月、一体どこに隠れていたのだろう。
風に乗って遠くから篠笛の音が聴こえた気がした。摺り鉦に太鼓も。祭囃子の音がする。辺りを見渡してもその音がどこから鳴っているのか分からなくて紺炉さんを見るも、彼は真っ直ぐ前を見据えるばかりで、何も聴こえてないみたいだった。
詰所に帰るとすぐに私は布団に押し込まれた。
子どもじゃないのだから一人でも平気だというのに、紺炉さんは私が眠りにつくまでここにいると言い張る。
「またお前さんがどっか行っちまったら困るからな」
「どこにも行きませんよ。ここが私の家ですから」
「そうかい。ならいいけどよ」
身寄りも記憶もない私を紺炉さんが拾ってくれたあの日から、ずっとここが、ここだけが私の家だ。どこかに行こうだなんて思うはずがない。紺炉さんは何をそんなに心配しているのだろう。
包帯に巻かれた指先が顔に掛かった髪を払う。「早く寝な」と大きな手のひらで両目を覆われると自然と瞼が重くなった。冷たかった手はすっかりいつもの温度を取り戻していて、じんわりとしたあたたかさにゆっくりと目を閉じた。
虫の声に混じって、またあの笛の音が聴こえてくる。
「ねえ、紺炉さん。お囃子の音がしませんか?」
「ン? あァ、聴こえるなァ」
よかった、空耳じゃなかったみたいだ。それにしてもこんな夜更けに祭りの練習だろうか。あまり聴かない旋律だ。でもどこかで聴いたことがあるような。
「……何て曲でしたっけ」
沈みかけた意識の中で訊ねると、紺炉さんが私の頭を撫でる気配がした。そういえば前にもこんな風にやさしく撫でてくれたことがある。あれは初めて紺炉さんに会った時。そうだ。あの時もこのお囃子が聴こえていた。
「あれはな、」
「狸囃子ってンだ」
紺炉さんがぽつりと零したその言葉は、眠りに落ちた私には届かなかった。