保科宗四郎
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非常階段は非常時にのみ使うべきだという考えは、いつからか頭の片隅に行ってしまった。
それも全部、ある同期のせいだ。彼女がしょっちゅう息抜きと言って人気のない非常階段に入り浸るから、同期である僕が毎回連れ戻す羽目になって。
非常階段へと続くドアノブを回すのにも、今やためらいはない。重たい扉を開けて、さて彼女は上か、下か。一瞬悩んだのちに、僕は上へと足を向けた。理由は特はなく、ただの勘だ。彼女は非常階段という場所を好んでいるが、たむろしている階は気まぐれで変わる。上にいない可能性もあるが、その時はその時で下に向かうだけのこと。幸いこの後、急ぎの用事はない。
普段使いされることのない階段を一段ずつ上っていく。金属でできた階段は、歩くたびに音がよく響いた。そのまましばらく行くと開けた場所が見えてきて、
「やっぱりここにおったか」
どこかしらの踊り場にいるだろうと踏んでいたがビンゴだったらしい。見覚えのあるシルエットに声を掛けると、僕に気づいた彼女がゆるりと振り向いた。
「あれ、保科じゃん。どうしたの?」
紫煙を燻らせてきょとんとする彼女に毒気を抜かれる。
「どうしたの、やないねんホンマ。小隊長会議すっぽかしよってからに」
「えっ、今日だったっけ? やば、忘れてた。あとで海老名さんにどやされそう」
「せやろなぁ。ま、その前に僕がこってりしぼったるけど」
「私たち一応同期でしょ。そこは大目に見てよ副隊長殿。人間誰しもミスを犯すものだし」
そう言ってけらけら笑う彼女に、僕はため息をついた。のらりくらり。まさにそんな言葉がぴったりの、掴みどころのない彼女。そんな彼女のペースに乗せられて、前もって用意していた説教は何ひとつ僕の口から出てこなかった。
「今回だけやぞ。次からはちゃんとしてもらわんと、他の隊員たちに示しがつかへんからな」
「はーい」
「それから、海老名小隊長の説教は諦めてちゃんと聞くこと」
「了解了解」
「あと煙草は喫煙所で吸いや。誰もおらんからって、ここで吸っていいわけちゃうやろ」
「それはごめん。でももう吸わないから大丈夫。今日で最後だから」
「…………は?」
言葉の意味を理解するのに思いのほか時間がかかったのは、彼女が愛煙家だと知っていたからだ。それもこちらが心配になるほどの。
いや出会った当初は、彼女は煙草を吸っていなかった。それがいつからか日に一、二本吸うようになり、今では休憩となれば煙草を吸うようになったのだ。それもかなり重いものを。彼女はその煙草の匂いが気に入っているのだと僕に話し、彼女の髪や隊服にはいつだってその匂いが染みついていた。
ーーもう、やめたほうがええんとちゃう?
僕は幾度となく、彼女にそう伝えてきた。
表向きは、彼女の身体を心配して。しかし本音を言えば、彼女の纏うその匂いが気に食わなかったからだ。
彼女の吸う煙草は、彼女の好きな男と同じものだった。
そんなもの、僕が好きになれるはずがない。
けれど僕の嫉妬まじりの忠告が彼女に届くことはなかった。きっと口うるさい同期がまた何か言っているな程度にしか思われていなかったのだろう。彼女はいつだって曖昧な笑顔を浮かべて、同じ言葉を繰り返した。
ーーでも、好きなんだよねぇ。
と。
そんな彼女が煙草をやめる? ありえない話だ。今までどれだけ僕が言ってもやめなかったくせに。
けどもし本当だとすれば、それはーー。
瞠目し黙り込む僕に、彼女がへらりと笑いかける。
「振られたんだよね、私」
言ってから、彼女は否定するように首を振った。
「違うな。ちゃんと振られることすらできなかった」
彼女は肺いっぱいに吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出して、上着のポケットに手を突っ込んだ。中から出てきたのは、恐らく綺麗にラッピングされていたであろう箱。今は包装に皺が寄り、結ばれたリボンも解けかかっていた。
「結婚するんだって、彼」
彼女のいう「彼」と僕は面識がない。わかっているのは彼女が自衛隊にいた頃の先輩で、彼女が防衛隊に転属した今も付き合いの続いている、彼女の想い人ということだけだ。
詳しくは知らないが、彼女の話を聞く限り二人の仲は良かったのだと思う。頻繁に連絡を取り合ったり、飲みに行ったり。向こうがどう思っていたかは知らないが、彼女が相手に好意を抱いているのは傍目にも明らかだった。そうでなければ相手の好みに合わせて髪を伸ばしたり、苦手としていた煙草に手を出したりしないだろう。
「今日の夜、一緒にご飯行く予定でさ。ちょうどバレンタインだったし、せっかくだからって作ったらこれだよ。あーあ、人生初の手作りチョコだったのに」
彼女が肩をすくめて手にした箱を振った。そのたびにかさりと空虚な音が鳴る。
「ま、大事な話があるって言われて勝手に期待した私が悪いんだけどさ。今日は私に彼女さん紹介してくれるんだって。お前は大事な後輩だからちゃんと顔合わせて報告したいって」
「そら地獄やな」
「でしょ。彼女さんだって仲のいい後輩って女の私を紹介されても困るだろうに。そういうのわからないんだろうね。まあ、わかるなら私の気持ちにだってとっくに気づいてるだろうし」
びゅうと冷たい風が吹いて、肩まで伸びた彼女の髪を攫った。あの煙草の匂いが強く鼻をついて、思わず顔を顰める。
「……だからやめとけ言うたのに」
「ん? なんか言った?」
「何も言ってへん。それより、そのチョコどないするん」
「あー、これ?」
手作りというチョコを見つめ、彼女が眉間に皺を寄せた。「捨てる、かなぁ」さすがに自分で食べる気にはなれないらしい。
「なら、僕がもらってもええ?」
「別にいいけど、なんで?」
「腹減ってんねん。それに食いもん粗末にしたらあかんやろ」
彼女が手にしたチョコの箱をじっと見つめた。どうやら本命のために作ったチョコを他人に渡すのは気が進まないらしい。
「僕、そういうの気にせんから」
ん、と催促するように手を出せば、彼女はしばらく迷った後に僕の手に箱を置いた。嘘に塗れた言葉だったが、彼女の背を押すのに役立ったなら何よりだ。
「ほな、ありがたく」
崩れかかったラッピングを解いていく。彼女が初めて作ったというそれはトリュフだった。
「大きいな」
「不恰好でしょ」
「食いでがありそうでええわ」
箱の中に窮屈そうに収まっていたうちの一粒をつまんで口に放り込む。どろりと舌の上で溶けていくチョコレートは、酷く甘かった。
「……あっま」
思わず口に出すと、同期の彼女は目を細めて僕を見た。
「彼、かなりの甘党だったんだよね。こんなに苦い煙草吸うくせに」
眉を下げて笑う彼女の瞳は、目の前の僕ではなく、ここにいない「彼」を映していた。泣いてくれでもすれば、慰めるなり何なりして僕が付け入る隙もあったかもしれないのに、彼女はそれさえ許してくれない。まだ大事に、叶うことのない恋心を抱きかかえている。
「僕はもっと苦いほうが好きや」
むせかえりそうなほどに甘いチョコレートをもう一粒口に放り込んでそう告げると、「なら食べなきゃいいのに」と苦笑された。
「背に腹は代えられんからなぁ」
「何それ、意味わかんない」
遠くを見つめ、彼女が肺を満たしていた煙をゆっくりと吐き出した。最後の一本がなくなるまで、もうしばらくかかりそうだ。
早く、なくなってしまえばいいのに。
苦くて重い煙草も、甘ったるいチョコレートも、彼女の想い人への気持ちも全部。疎ましい全てが、早くなくなってしまえばーー。
「保科?」
そんな僕の思いなど全く知らないであろう彼女が、不意に僕の名前を呼んだ。
「何や」
「いや、無理だったら本当食べなくていいからね」
難しい顔して食べてる、と彼女が自分の眉間を指して言った。それはそうだろう。僕が望んだことではあるが、自分以外の男のために作られた、それも本命のチョコを喜んで食べるやつがどこにいる。
僕は最後の一粒を咀嚼しながら、空になった箱をポケットに突っ込んだ。中でくしゃりと潰したことに恐らく彼女は気づいていない。
「無理はしとらん。僕には甘いけど、味は悪くないからな」
「そう? ならいいけど」
再び彼女が煙草を咥え、その先に赤く火が灯る。それからすぐにあの鼻につく匂いが漂ってきて、口の中に残っていた甘ったるさは込み上げてくる苦々しさにみるみる掻き消されていった。
それも全部、ある同期のせいだ。彼女がしょっちゅう息抜きと言って人気のない非常階段に入り浸るから、同期である僕が毎回連れ戻す羽目になって。
非常階段へと続くドアノブを回すのにも、今やためらいはない。重たい扉を開けて、さて彼女は上か、下か。一瞬悩んだのちに、僕は上へと足を向けた。理由は特はなく、ただの勘だ。彼女は非常階段という場所を好んでいるが、たむろしている階は気まぐれで変わる。上にいない可能性もあるが、その時はその時で下に向かうだけのこと。幸いこの後、急ぎの用事はない。
普段使いされることのない階段を一段ずつ上っていく。金属でできた階段は、歩くたびに音がよく響いた。そのまましばらく行くと開けた場所が見えてきて、
「やっぱりここにおったか」
どこかしらの踊り場にいるだろうと踏んでいたがビンゴだったらしい。見覚えのあるシルエットに声を掛けると、僕に気づいた彼女がゆるりと振り向いた。
「あれ、保科じゃん。どうしたの?」
紫煙を燻らせてきょとんとする彼女に毒気を抜かれる。
「どうしたの、やないねんホンマ。小隊長会議すっぽかしよってからに」
「えっ、今日だったっけ? やば、忘れてた。あとで海老名さんにどやされそう」
「せやろなぁ。ま、その前に僕がこってりしぼったるけど」
「私たち一応同期でしょ。そこは大目に見てよ副隊長殿。人間誰しもミスを犯すものだし」
そう言ってけらけら笑う彼女に、僕はため息をついた。のらりくらり。まさにそんな言葉がぴったりの、掴みどころのない彼女。そんな彼女のペースに乗せられて、前もって用意していた説教は何ひとつ僕の口から出てこなかった。
「今回だけやぞ。次からはちゃんとしてもらわんと、他の隊員たちに示しがつかへんからな」
「はーい」
「それから、海老名小隊長の説教は諦めてちゃんと聞くこと」
「了解了解」
「あと煙草は喫煙所で吸いや。誰もおらんからって、ここで吸っていいわけちゃうやろ」
「それはごめん。でももう吸わないから大丈夫。今日で最後だから」
「…………は?」
言葉の意味を理解するのに思いのほか時間がかかったのは、彼女が愛煙家だと知っていたからだ。それもこちらが心配になるほどの。
いや出会った当初は、彼女は煙草を吸っていなかった。それがいつからか日に一、二本吸うようになり、今では休憩となれば煙草を吸うようになったのだ。それもかなり重いものを。彼女はその煙草の匂いが気に入っているのだと僕に話し、彼女の髪や隊服にはいつだってその匂いが染みついていた。
ーーもう、やめたほうがええんとちゃう?
僕は幾度となく、彼女にそう伝えてきた。
表向きは、彼女の身体を心配して。しかし本音を言えば、彼女の纏うその匂いが気に食わなかったからだ。
彼女の吸う煙草は、彼女の好きな男と同じものだった。
そんなもの、僕が好きになれるはずがない。
けれど僕の嫉妬まじりの忠告が彼女に届くことはなかった。きっと口うるさい同期がまた何か言っているな程度にしか思われていなかったのだろう。彼女はいつだって曖昧な笑顔を浮かべて、同じ言葉を繰り返した。
ーーでも、好きなんだよねぇ。
と。
そんな彼女が煙草をやめる? ありえない話だ。今までどれだけ僕が言ってもやめなかったくせに。
けどもし本当だとすれば、それはーー。
瞠目し黙り込む僕に、彼女がへらりと笑いかける。
「振られたんだよね、私」
言ってから、彼女は否定するように首を振った。
「違うな。ちゃんと振られることすらできなかった」
彼女は肺いっぱいに吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出して、上着のポケットに手を突っ込んだ。中から出てきたのは、恐らく綺麗にラッピングされていたであろう箱。今は包装に皺が寄り、結ばれたリボンも解けかかっていた。
「結婚するんだって、彼」
彼女のいう「彼」と僕は面識がない。わかっているのは彼女が自衛隊にいた頃の先輩で、彼女が防衛隊に転属した今も付き合いの続いている、彼女の想い人ということだけだ。
詳しくは知らないが、彼女の話を聞く限り二人の仲は良かったのだと思う。頻繁に連絡を取り合ったり、飲みに行ったり。向こうがどう思っていたかは知らないが、彼女が相手に好意を抱いているのは傍目にも明らかだった。そうでなければ相手の好みに合わせて髪を伸ばしたり、苦手としていた煙草に手を出したりしないだろう。
「今日の夜、一緒にご飯行く予定でさ。ちょうどバレンタインだったし、せっかくだからって作ったらこれだよ。あーあ、人生初の手作りチョコだったのに」
彼女が肩をすくめて手にした箱を振った。そのたびにかさりと空虚な音が鳴る。
「ま、大事な話があるって言われて勝手に期待した私が悪いんだけどさ。今日は私に彼女さん紹介してくれるんだって。お前は大事な後輩だからちゃんと顔合わせて報告したいって」
「そら地獄やな」
「でしょ。彼女さんだって仲のいい後輩って女の私を紹介されても困るだろうに。そういうのわからないんだろうね。まあ、わかるなら私の気持ちにだってとっくに気づいてるだろうし」
びゅうと冷たい風が吹いて、肩まで伸びた彼女の髪を攫った。あの煙草の匂いが強く鼻をついて、思わず顔を顰める。
「……だからやめとけ言うたのに」
「ん? なんか言った?」
「何も言ってへん。それより、そのチョコどないするん」
「あー、これ?」
手作りというチョコを見つめ、彼女が眉間に皺を寄せた。「捨てる、かなぁ」さすがに自分で食べる気にはなれないらしい。
「なら、僕がもらってもええ?」
「別にいいけど、なんで?」
「腹減ってんねん。それに食いもん粗末にしたらあかんやろ」
彼女が手にしたチョコの箱をじっと見つめた。どうやら本命のために作ったチョコを他人に渡すのは気が進まないらしい。
「僕、そういうの気にせんから」
ん、と催促するように手を出せば、彼女はしばらく迷った後に僕の手に箱を置いた。嘘に塗れた言葉だったが、彼女の背を押すのに役立ったなら何よりだ。
「ほな、ありがたく」
崩れかかったラッピングを解いていく。彼女が初めて作ったというそれはトリュフだった。
「大きいな」
「不恰好でしょ」
「食いでがありそうでええわ」
箱の中に窮屈そうに収まっていたうちの一粒をつまんで口に放り込む。どろりと舌の上で溶けていくチョコレートは、酷く甘かった。
「……あっま」
思わず口に出すと、同期の彼女は目を細めて僕を見た。
「彼、かなりの甘党だったんだよね。こんなに苦い煙草吸うくせに」
眉を下げて笑う彼女の瞳は、目の前の僕ではなく、ここにいない「彼」を映していた。泣いてくれでもすれば、慰めるなり何なりして僕が付け入る隙もあったかもしれないのに、彼女はそれさえ許してくれない。まだ大事に、叶うことのない恋心を抱きかかえている。
「僕はもっと苦いほうが好きや」
むせかえりそうなほどに甘いチョコレートをもう一粒口に放り込んでそう告げると、「なら食べなきゃいいのに」と苦笑された。
「背に腹は代えられんからなぁ」
「何それ、意味わかんない」
遠くを見つめ、彼女が肺を満たしていた煙をゆっくりと吐き出した。最後の一本がなくなるまで、もうしばらくかかりそうだ。
早く、なくなってしまえばいいのに。
苦くて重い煙草も、甘ったるいチョコレートも、彼女の想い人への気持ちも全部。疎ましい全てが、早くなくなってしまえばーー。
「保科?」
そんな僕の思いなど全く知らないであろう彼女が、不意に僕の名前を呼んだ。
「何や」
「いや、無理だったら本当食べなくていいからね」
難しい顔して食べてる、と彼女が自分の眉間を指して言った。それはそうだろう。僕が望んだことではあるが、自分以外の男のために作られた、それも本命のチョコを喜んで食べるやつがどこにいる。
僕は最後の一粒を咀嚼しながら、空になった箱をポケットに突っ込んだ。中でくしゃりと潰したことに恐らく彼女は気づいていない。
「無理はしとらん。僕には甘いけど、味は悪くないからな」
「そう? ならいいけど」
再び彼女が煙草を咥え、その先に赤く火が灯る。それからすぐにあの鼻につく匂いが漂ってきて、口の中に残っていた甘ったるさは込み上げてくる苦々しさにみるみる掻き消されていった。