野火丸
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「あ、ネコだ〜」
ふわふわした心地で、そしてふらふらした足取りで、私は道路の脇へと近づいた。白い猫がちょうど前を横切ったのだ。猫が向かっていったのは草木の生い茂る、手入れのされていない空き地。カサカサと音がするから、草を掻き分けて奥へ奥へと歩いているのかもしれない。
「ネコちゃーん。ほら、焼き鳥あるよ。おいでー」
しゃがみ込んで持っていた紙袋を軽く振る。中身はさっきまで飲んでいた居酒屋で買った焼き鳥だ。まだほんのり温かく、ほのかに漂う甘いタレの香りに私の喉がごくりと鳴った。ここのねぎまとつくねは絶品なんだよね。これならネコちゃんも堪らず顔を出すはず。しかし待てど暮らせど猫は姿を見せてくれなかった。
「もう、恥ずかしがり屋さんなんだから」
私は姿勢を低くしてでカサカサと音のするほうへと近づいて行った。草を掻き分け、虫を払い、そして白い後ろ姿を見つけて飛びつく。
「見ーつけた!」
がさり。
「がさり?」
ふわふわのもふもふ。可愛らしいにゃーんという鳴き声が聞こえてくるかと思えば、「がさり」とは。そういえば触り心地も無機質で、それでいて馴染みのある感じ。
私は目を凝らして手の中の白色を見つめた。次第にはっきりとしてくる輪郭に、眉を顰める。
「げっ」
そこにあったのはクシャクシャになった白いビニール袋だった。こんなものをネコちゃんと間違えるなんて、私、相当酔ってるな。まあいつものことだけど。
「……よし、帰るか」
猫には会えなかったけれど、気が済んだのでよしとしよう。私はよいしょと立ち上がり、そのまま左右に揺れながら空き地の出口へと向かった。四つん這いになって移動した時は広く感じたけれど、立ってしまえばそれほどでもない。さく、さくと足で膝辺りまで伸びた草を掻き分けていく。そしてその途中で、私は盛大に躓いた。
「あっぶな、なに⁈」
足元に何かがあった。ぐにっと柔らかい何か。
私はスマホのライトをつけて恐る恐る躓いた辺りを照らし、
「え?」
そこに黒くて小さい生き物を見つけた。今度はビニール袋じゃない。でも猫でもない。黒い毛並みに三角の耳、ふさふさの尻尾。
「犬……?」
子犬だろうか。じっと目を閉じて動かない。寝ているようにも見えなかった。そっと手を触れると、とく、とく、と小さくて弱々しい鼓動が伝わってくる。生きてはいる、けれど。このぬるついた感触はーー。私はひとつ深呼吸をして手のひらをひっくり返した。そこには予想通り、べとりと赤黒いものが付いていた。
「ひっ」
これって血? どうしよう。この子、怪我してる。
こういう時はどうしたらいいんだろう。警察? 救急車? 違う違う、人じゃないし。そうだ病院。こんな夜遅くに動物病院ってやってるんだっけ。
ぐるぐると思考が回る。ペットなんて飼ったことないからどうしたらいいのかわからない。どうしよう。どうしよう。
私はちらりと周囲に目をやった。人気は全くない。
ーー見なかったことにする?
ここでこの子を捨て置いたらきっと死んでしまうだろう。でもそれで私を責めるような人はいない。だって誰も見ていないのだから。
私は、一歩二歩と出口のほうへと向かった。そして道路まで出たところで、ガシガシと頭を掻いた。
「ああもう!」
ペットなんて飼ったことないからわからない。動物病院もこの時間だと多分開いていない。
私が何かしたところで、結果は何も変わらないかもしれない。
それでも、
「寝覚めが悪いのだけはごめん!」
気づけば私は空き地に引き返し、黒い子犬を抱えて上げていた。
***
頭がズキズキする。
カーテンの隙間から差し込む陽射しは、朝というには些か眩しすぎた。天井を仰いで低く呻く。久々の二日酔い。原因は飲みすぎたことよりも、ろくに水を飲まないまま寝てしまったことにあるだろう。昨日は慣れないことをして、疲れて果ててそのまま眠ってしまった。寝返りついでに床を見れば昨夜の惨状を物語るように救急箱がひっくり返り、包帯やら消毒液やらが散らばっている。そしてその先にあるのは大きめの段ボールだ。中にブランケットを敷いて、手当てした子犬を寝かせた段ボール。中がどうなっているかまでは、ここからではわからない。
あの子はまだ生きているだろうか。ちゃんと確認しないと。
重たい身体を起こし、ベッドから這い出そうとして、私は見事に頭から床にずり落ちた。
「いったぁ」
横着はするものじゃない。たんこぶはできてなさそうだけど、さっきよりも頭がズキズキがする。こういう時、彼氏でもいれば優しく手を差し伸べたりしてくれるんだろうか。
「大丈夫ですか?」
そうそう、こんな風に……って。
「え?」
今のは空耳? それにしてはやけにはっきり聞こえたような。私は一人暮らしで、当然同居人もいない。だから人の声なんて聞こえるはずがないのだけど、さっきから視界の端に映るこの子どもの手は……。
「あの、大丈夫ですか?」
「ひぃっ」
再び声をかけられて、恐怖で思わず後ずさった。その拍子にベッドに後頭部をぶつけて、また呻く。痛む後ろ頭を押さえて前屈みになっていると、すっとあの小さな手のひらが再び視界に飛び込んできた。
やっぱり幻聴でも幻覚でもない。私は逃げることもできず、恐る恐る顔を上げた。
想像していたのは、ホラー映画に出てくるようなこどもの霊だった。もしそうなら事故物件じゃないかと不動産屋に訴えに行こうとも。けれどそこにいたのは、想像よりずっと綺麗な少年だった。さらりとした金色の髪に、蜂蜜色の瞳。頭にはヘッドホン(イヤマフかもしれない)をしていて、いいとこの子が着るようなカッチリとしたスーツに身を包み……。
「えっ、誰?!」
親戚にもこんな子はいない。見知らぬ少年は一瞬きょとっと目を丸くして、寂しそうに眉を下げた。
「もしかして僕のこと忘れちゃったんですか?」
「いや忘れるも何も、私たち初対面だよね?」
「そんなっ、昨日あんなに僕に優しくしてくれたじゃないですか」
昨日の私、このいたいけな少年に何したの?! 会話だけ聞けば、いつお巡りさんに通報されてもおかしくない状況だ。少年はよっぽど悲しかったのか、およよと目元を押さえている。
「ごめんなさい。私本当に覚えてないの。昨日は酔ってたし、拾った子犬の手当てでドタバタしてたから」
「なぁんだ。ちゃんと覚えてるじゃないですかー」
「え?」
蕩けそうな蜂蜜色の瞳がきゅっと細められる。そして少年はつけていたヘッドホンをゆっくりと外し、
「僕ですよ。僕」
そこからぴょこっと顔を出したのは、大きな三角の耳だった。おしりにはさっきまでなかったふさふさの尻尾も現れて。
「え。ちょ、えっ?!」
状況が飲み込めずあたふたする私を無視して、少年が三つ指をつく。
「先日は助けていただきありがとうございました。どうか僕に、このご恩を返させてください」
***
私があの日拾ったのは、子犬ではなく子狐だったらしい。しかもただの狐ではなく化狐。信じられないことだけど、目の前で少年の姿となってあれこれ尽くされては信じるほかない。
「ご飯できましたよー」
買ってあげたフリル付きエプロンを翻しながら、化狐の少年、野火丸くんが私を呼んだ。
「はーい」
私は読んでいた雑誌を閉じて料理の置かれたテーブルへと向かった。今日の朝ご飯は和食だ。ほかほかのご飯に焼き鮭、だし巻き玉子、きゅうりの浅漬け、のり、大根と油揚げのお味噌汁。
鶴の恩返しならぬ狐の恩返しがしたいという野火丸くんと暮らし始めて数か月、コンビニかテイクアウトばかりだった私の食生活はぐんと良くなった。それもこれも、野火丸くんが三食美味しいご飯を作ってくれるから。でも美味しすぎてついいっぱい食べてしまって、次の健康診断がすごく怖い。
「どうですか? お口に合いました?」
「うん。今日もすごく美味しい」
「わあ、ならよかったです!」
いたいけな少年の笑顔が眩しくて目を眇める。社会人にはないきらめきだ。
「今日は怪我とかしなかった?」
「はい!」
「本当に?」
「……実はちょっとだけ火傷しちゃって」
「もう、ほら先に手当てしよう」
野火丸くんは毎日ご飯を作ってくれるけれど、実はあまり器用じゃないらしい。初めて作ってくれた時なんかは、彼の手が切り傷や火傷でそれはもう大変なことになっていた。私はその都度手当てしていたのもあって、今や応急処置もお手のものである。
「別にこれくらいすぐに治りますよ」
野火丸くん曰く、化狐や怪物と呼ばれる類は傷の治りが人間に比べてずっと早いらしい。野火丸くんを拾ったあの日の傷も結構な深手に見えたけれど、次の日には傷跡もなく綺麗さっぱり消え去っていた。今日できたばかりの火傷も数時間もしないうちにきっと治るのだろう。それでも、
「いいの。私がちゃんと手当てしたいだけだから」
多分手当てしたところで意味なんてない。でも野火丸くんが私のためにしてくれたことで傷ついているのに、すぐに治るからとそれをそのままにはしたくなかった。
「……貴女は本当に、馬鹿みたいに優しいですね」
「ん? 今何か言った?」
「いいえ、何も。あ、そういえば今日の晩ご飯食べたいものとかありますか?」
野火丸くんの赤くなった指先を冷やしていると、不意にそんなことを訊かれた。
「あ、ごめん。今日大学時代のサークルメンバーで飲みに行くことになってて。一応一次会で帰るつもりではあるんだけど」
「へえ。ご友人たちと」
「だから今日は晩ご飯はなくて大丈夫。野火丸くん一人でお留守番できそう?」
「もちろん。楽しんできてくださいね」
にこりと微笑む野火丸くんの頭を撫でて、なるべく早く帰るねと約束する。いつものの火丸くんだ。だからほんの一瞬垣間見えた冷えた眼差しは、気のせいだったのだろう。
***
できるだけ、なるべく早く帰ろう。そう思っていたのに、気づけば居酒屋をハシゴしてカラオケ店にいた。若くもないのに大学生のノリで何度も一気飲みさせられたからだろうか。ところどころ記憶が飛んでいる。
狭い室内は煙草とお酒の匂いが充満していた。誰も歌なんか歌っちゃいない。ぼんやりした頭で隣を見ると、サークルメンバーの男女が人目も憚らずイチャイチャしていた。あれ、あの二人って恋人同士だったっけ?
「よっ、飲んでる?」
ぎしりとソファが沈む。きつい煙草の匂いに思わず顔を背けた。誰だっけこの人。顔は見覚えあるけど、名前まではわからない。
「なに、照れてんの? かぁわい」
腰に手を回されて全身に鳥肌が立った。嫌だ。触らないで。抵抗したいのに上手く身体に力が入らない。
「俺らも楽しいことしようよ。ね?」
「やっ……」
男がぐっと身体を寄せてくる。誰か、誰か助けて。そう心の中で叫ぶと同時に、バンッと大きな音を立てて扉が開いた。
「野火、丸くん?」
どうしてそう思ったんだろう。そこに立っていたのはすらりと背の高い男の人で、小さくて可愛らしい野火丸くんとは全然違ったのに。
「な、何だよお前……!」
私の腰を抱いていた男が、部屋の入口に立つ青年を睨んだ。青年はちらりとこちらを一瞥し、パンパンと手を叩く。
「はいはーい、警察でーす。怪しい薬使ってる常習犯ってことで逮捕しまーす!」
それを合図に警棒を持った警察官が何人か部屋に乗り込んできた。両隣りの部屋にも警察が突入したらしく、あちこちから怒号や悲鳴が聞こえてくる。私は何が起こっているのかわからず、ただただ呆然としていた。
「大丈夫ですか?」
俯く私の視界に大きな手のひらが飛び込んできた。ハッとして顔を上げると、そこにいたのはあの時入口に立っていた青年だった。最初は何で野火丸くんと間違えたのかわからなかったけれど、彼は野火丸くんにどことなく似ていた。さらりとした金髪も蜂蜜色の瞳も、口元のほくろも。この人は人間で、ふさふさの耳と尻尾はないけれど、野火丸くんが大人になったらこんな感じかもしれない。
「すみません、大丈夫です」
差し出された手を取って立ち上がる。その拍子に足がもつれて転びそうになったところを、青年が抱き止めてくれた。
「あ、ありがとうございま……」
「嘘つき」
「え?」
「早く帰ってくるって言ったじゃないですか」
とろりとした蜂蜜色の瞳に見つめられ、つい飲み込まれそうな心地になる。
「野火丸、くん?」
「今更気づいたんですかー? 本当貴女は鈍い人ですね」
この人があの野火丸くん? それにしては言動に棘があるような。
困惑する私をよそに、自称野火丸くんはテキパキと部下らしき人に指示を与えていた。そして「帰りましょうか」と足の覚束ない私を抱きかかえ、用意してあった車に乗り込んだ。
頭がぼんやりしていて細かいところはよくわからなかったけれど、野火丸くんの話によると、最近ある怪物の作った薬が人間側に流出してしまったとのことだった。その薬は無味無臭の痺れ薬で、催淫効果もあるんだとか。だから今日みたいな場で使われることが多く、情報を得た警察が一斉検挙に乗り出したらしい。
「野火丸くんって、警察官だったんだね」
「何にやにやしてるんですか。貴女、下手したら取って食われてたかもしれないんですよ。幸い薬は飲んでないみたいですけど」
そういえばカラオケに行ってからは気持ち悪くて何も口にできなかった。もしあの場で飲み物を一口でも口にしていたら……想像しただけでゾッとする。
「もしかして野火丸くんがうちにずっといたのって、見張りのため?」
マンションに着き、水を飲みながら訊ねる。野火丸くんが警察なら薬がどこの誰に流れていったか把握していたはずだ。かつてのサークルメンバーは手慣れた様子だったし、初犯ではないだろう。現行犯逮捕するなら繋がりのある私を見張るのが手っ取り早い。何より、そうでなければ野火丸くんがいつまでもうちにいる理由がないし。
あの日、私は野火丸くんを拾って拙いながらも怪我の治療をした。恩返ししたいのはきっと本心だろう。でもその恩はもう充分すぎるほど返してもらった。
恩返しも終わって、警察としての仕事も無事に終わり。もう一緒にいる理由がないのだから、これで野火丸くんともお別れだ。鶴の恩返しだって、正体を見たら最後、そのまま飛び立って行ってしまうのだし。
「っ、今までありがとう、野火丸くん」
笑ってお礼を言おうと思ってたのに、情けないことに涙がぼろぼろ溢れてきた。野火丸くんと過ごす毎日が楽しくて、幸せで。それが今日で終わりとなるとやっぱり寂しい。でも早く泣き止まなきゃ。野火丸くんが困ってしまう。
「え、何泣いてるんですか急に」
「ごめ、ごめんね、野火丸くん。こんなつもりじゃなかったんだけど……」
「いや、別に構いませんけど。貴女、もしかして何か勘違いしてません?」
「へ? あの常習犯を捕まえるために私を見張ってたんじゃ」
私の言葉に野火丸くんは呆れたように溜息を吐いた。
「あんなものおまけです」
「お、おまけ?」
「僕は最初から貴女を手に入れるために近づいたんですよ。知ってます? 狐って死んだふりをして、まんまと近づいてきた獲物を狩るんです。貴女は面白いくらい引っかかりましたね」
「死んだふりって、血だってあんなに……」
「ああ、あれは血糊ですよ。よく出来てたでしょう。あとは僕の演技力のなせる技ですね」
にこにこと笑いながらネタバラシをする彼に私は頭を抱えた。私が野火丸くんと過ごしてきた数か月は一体何だったのか。文字通り狐に化かされただけなのか。
「だいぶ打ち解けてきて、そろそろ次に進もうかなと思ってたら貴女他の男に食べられそうになってるんですもん。困ったものです。ま、結果的に薬の流出先突き止められて飯生様にいい報告ができそうなんでよかったですけど」
「何で、こんなこと……」
震える声でそう言う私に、野火丸くんが微笑む。
「何でって、もちろん貴女のことが好きだからですよ」
蜂蜜色の瞳がその奥にある熱でどろりと蕩けていく。動けずにいる私を軽く抱き上げ、そのまま子ども姿の野火丸くんといつも一緒に寝ていた寝室に運び込まれる。
「好きな人の傍にいたい。自分だけのものにしたい。そう思うのはおかしなことですか?」
シングルベッドが大人二人分の重みに悲鳴を上げた。けれどそれを無視して野火丸くんは私の肌に口づけを落としていく。こんなの、だめだ。そう思うのに、私の口からは熱っぽい吐息ばかりが漏れていく。
「の、野火丸く……」
「ああ、嫌だったら抵抗してくださいね。できるなら、ですけど」
怪物が作ったという痺れ薬を私は口にしていない。なのに身体に力が入らなかったのは、私がとっくに目の前の彼に絆されていたからだ。
ふわふわした心地で、そしてふらふらした足取りで、私は道路の脇へと近づいた。白い猫がちょうど前を横切ったのだ。猫が向かっていったのは草木の生い茂る、手入れのされていない空き地。カサカサと音がするから、草を掻き分けて奥へ奥へと歩いているのかもしれない。
「ネコちゃーん。ほら、焼き鳥あるよ。おいでー」
しゃがみ込んで持っていた紙袋を軽く振る。中身はさっきまで飲んでいた居酒屋で買った焼き鳥だ。まだほんのり温かく、ほのかに漂う甘いタレの香りに私の喉がごくりと鳴った。ここのねぎまとつくねは絶品なんだよね。これならネコちゃんも堪らず顔を出すはず。しかし待てど暮らせど猫は姿を見せてくれなかった。
「もう、恥ずかしがり屋さんなんだから」
私は姿勢を低くしてでカサカサと音のするほうへと近づいて行った。草を掻き分け、虫を払い、そして白い後ろ姿を見つけて飛びつく。
「見ーつけた!」
がさり。
「がさり?」
ふわふわのもふもふ。可愛らしいにゃーんという鳴き声が聞こえてくるかと思えば、「がさり」とは。そういえば触り心地も無機質で、それでいて馴染みのある感じ。
私は目を凝らして手の中の白色を見つめた。次第にはっきりとしてくる輪郭に、眉を顰める。
「げっ」
そこにあったのはクシャクシャになった白いビニール袋だった。こんなものをネコちゃんと間違えるなんて、私、相当酔ってるな。まあいつものことだけど。
「……よし、帰るか」
猫には会えなかったけれど、気が済んだのでよしとしよう。私はよいしょと立ち上がり、そのまま左右に揺れながら空き地の出口へと向かった。四つん這いになって移動した時は広く感じたけれど、立ってしまえばそれほどでもない。さく、さくと足で膝辺りまで伸びた草を掻き分けていく。そしてその途中で、私は盛大に躓いた。
「あっぶな、なに⁈」
足元に何かがあった。ぐにっと柔らかい何か。
私はスマホのライトをつけて恐る恐る躓いた辺りを照らし、
「え?」
そこに黒くて小さい生き物を見つけた。今度はビニール袋じゃない。でも猫でもない。黒い毛並みに三角の耳、ふさふさの尻尾。
「犬……?」
子犬だろうか。じっと目を閉じて動かない。寝ているようにも見えなかった。そっと手を触れると、とく、とく、と小さくて弱々しい鼓動が伝わってくる。生きてはいる、けれど。このぬるついた感触はーー。私はひとつ深呼吸をして手のひらをひっくり返した。そこには予想通り、べとりと赤黒いものが付いていた。
「ひっ」
これって血? どうしよう。この子、怪我してる。
こういう時はどうしたらいいんだろう。警察? 救急車? 違う違う、人じゃないし。そうだ病院。こんな夜遅くに動物病院ってやってるんだっけ。
ぐるぐると思考が回る。ペットなんて飼ったことないからどうしたらいいのかわからない。どうしよう。どうしよう。
私はちらりと周囲に目をやった。人気は全くない。
ーー見なかったことにする?
ここでこの子を捨て置いたらきっと死んでしまうだろう。でもそれで私を責めるような人はいない。だって誰も見ていないのだから。
私は、一歩二歩と出口のほうへと向かった。そして道路まで出たところで、ガシガシと頭を掻いた。
「ああもう!」
ペットなんて飼ったことないからわからない。動物病院もこの時間だと多分開いていない。
私が何かしたところで、結果は何も変わらないかもしれない。
それでも、
「寝覚めが悪いのだけはごめん!」
気づけば私は空き地に引き返し、黒い子犬を抱えて上げていた。
***
頭がズキズキする。
カーテンの隙間から差し込む陽射しは、朝というには些か眩しすぎた。天井を仰いで低く呻く。久々の二日酔い。原因は飲みすぎたことよりも、ろくに水を飲まないまま寝てしまったことにあるだろう。昨日は慣れないことをして、疲れて果ててそのまま眠ってしまった。寝返りついでに床を見れば昨夜の惨状を物語るように救急箱がひっくり返り、包帯やら消毒液やらが散らばっている。そしてその先にあるのは大きめの段ボールだ。中にブランケットを敷いて、手当てした子犬を寝かせた段ボール。中がどうなっているかまでは、ここからではわからない。
あの子はまだ生きているだろうか。ちゃんと確認しないと。
重たい身体を起こし、ベッドから這い出そうとして、私は見事に頭から床にずり落ちた。
「いったぁ」
横着はするものじゃない。たんこぶはできてなさそうだけど、さっきよりも頭がズキズキがする。こういう時、彼氏でもいれば優しく手を差し伸べたりしてくれるんだろうか。
「大丈夫ですか?」
そうそう、こんな風に……って。
「え?」
今のは空耳? それにしてはやけにはっきり聞こえたような。私は一人暮らしで、当然同居人もいない。だから人の声なんて聞こえるはずがないのだけど、さっきから視界の端に映るこの子どもの手は……。
「あの、大丈夫ですか?」
「ひぃっ」
再び声をかけられて、恐怖で思わず後ずさった。その拍子にベッドに後頭部をぶつけて、また呻く。痛む後ろ頭を押さえて前屈みになっていると、すっとあの小さな手のひらが再び視界に飛び込んできた。
やっぱり幻聴でも幻覚でもない。私は逃げることもできず、恐る恐る顔を上げた。
想像していたのは、ホラー映画に出てくるようなこどもの霊だった。もしそうなら事故物件じゃないかと不動産屋に訴えに行こうとも。けれどそこにいたのは、想像よりずっと綺麗な少年だった。さらりとした金色の髪に、蜂蜜色の瞳。頭にはヘッドホン(イヤマフかもしれない)をしていて、いいとこの子が着るようなカッチリとしたスーツに身を包み……。
「えっ、誰?!」
親戚にもこんな子はいない。見知らぬ少年は一瞬きょとっと目を丸くして、寂しそうに眉を下げた。
「もしかして僕のこと忘れちゃったんですか?」
「いや忘れるも何も、私たち初対面だよね?」
「そんなっ、昨日あんなに僕に優しくしてくれたじゃないですか」
昨日の私、このいたいけな少年に何したの?! 会話だけ聞けば、いつお巡りさんに通報されてもおかしくない状況だ。少年はよっぽど悲しかったのか、およよと目元を押さえている。
「ごめんなさい。私本当に覚えてないの。昨日は酔ってたし、拾った子犬の手当てでドタバタしてたから」
「なぁんだ。ちゃんと覚えてるじゃないですかー」
「え?」
蕩けそうな蜂蜜色の瞳がきゅっと細められる。そして少年はつけていたヘッドホンをゆっくりと外し、
「僕ですよ。僕」
そこからぴょこっと顔を出したのは、大きな三角の耳だった。おしりにはさっきまでなかったふさふさの尻尾も現れて。
「え。ちょ、えっ?!」
状況が飲み込めずあたふたする私を無視して、少年が三つ指をつく。
「先日は助けていただきありがとうございました。どうか僕に、このご恩を返させてください」
***
私があの日拾ったのは、子犬ではなく子狐だったらしい。しかもただの狐ではなく化狐。信じられないことだけど、目の前で少年の姿となってあれこれ尽くされては信じるほかない。
「ご飯できましたよー」
買ってあげたフリル付きエプロンを翻しながら、化狐の少年、野火丸くんが私を呼んだ。
「はーい」
私は読んでいた雑誌を閉じて料理の置かれたテーブルへと向かった。今日の朝ご飯は和食だ。ほかほかのご飯に焼き鮭、だし巻き玉子、きゅうりの浅漬け、のり、大根と油揚げのお味噌汁。
鶴の恩返しならぬ狐の恩返しがしたいという野火丸くんと暮らし始めて数か月、コンビニかテイクアウトばかりだった私の食生活はぐんと良くなった。それもこれも、野火丸くんが三食美味しいご飯を作ってくれるから。でも美味しすぎてついいっぱい食べてしまって、次の健康診断がすごく怖い。
「どうですか? お口に合いました?」
「うん。今日もすごく美味しい」
「わあ、ならよかったです!」
いたいけな少年の笑顔が眩しくて目を眇める。社会人にはないきらめきだ。
「今日は怪我とかしなかった?」
「はい!」
「本当に?」
「……実はちょっとだけ火傷しちゃって」
「もう、ほら先に手当てしよう」
野火丸くんは毎日ご飯を作ってくれるけれど、実はあまり器用じゃないらしい。初めて作ってくれた時なんかは、彼の手が切り傷や火傷でそれはもう大変なことになっていた。私はその都度手当てしていたのもあって、今や応急処置もお手のものである。
「別にこれくらいすぐに治りますよ」
野火丸くん曰く、化狐や怪物と呼ばれる類は傷の治りが人間に比べてずっと早いらしい。野火丸くんを拾ったあの日の傷も結構な深手に見えたけれど、次の日には傷跡もなく綺麗さっぱり消え去っていた。今日できたばかりの火傷も数時間もしないうちにきっと治るのだろう。それでも、
「いいの。私がちゃんと手当てしたいだけだから」
多分手当てしたところで意味なんてない。でも野火丸くんが私のためにしてくれたことで傷ついているのに、すぐに治るからとそれをそのままにはしたくなかった。
「……貴女は本当に、馬鹿みたいに優しいですね」
「ん? 今何か言った?」
「いいえ、何も。あ、そういえば今日の晩ご飯食べたいものとかありますか?」
野火丸くんの赤くなった指先を冷やしていると、不意にそんなことを訊かれた。
「あ、ごめん。今日大学時代のサークルメンバーで飲みに行くことになってて。一応一次会で帰るつもりではあるんだけど」
「へえ。ご友人たちと」
「だから今日は晩ご飯はなくて大丈夫。野火丸くん一人でお留守番できそう?」
「もちろん。楽しんできてくださいね」
にこりと微笑む野火丸くんの頭を撫でて、なるべく早く帰るねと約束する。いつものの火丸くんだ。だからほんの一瞬垣間見えた冷えた眼差しは、気のせいだったのだろう。
***
できるだけ、なるべく早く帰ろう。そう思っていたのに、気づけば居酒屋をハシゴしてカラオケ店にいた。若くもないのに大学生のノリで何度も一気飲みさせられたからだろうか。ところどころ記憶が飛んでいる。
狭い室内は煙草とお酒の匂いが充満していた。誰も歌なんか歌っちゃいない。ぼんやりした頭で隣を見ると、サークルメンバーの男女が人目も憚らずイチャイチャしていた。あれ、あの二人って恋人同士だったっけ?
「よっ、飲んでる?」
ぎしりとソファが沈む。きつい煙草の匂いに思わず顔を背けた。誰だっけこの人。顔は見覚えあるけど、名前まではわからない。
「なに、照れてんの? かぁわい」
腰に手を回されて全身に鳥肌が立った。嫌だ。触らないで。抵抗したいのに上手く身体に力が入らない。
「俺らも楽しいことしようよ。ね?」
「やっ……」
男がぐっと身体を寄せてくる。誰か、誰か助けて。そう心の中で叫ぶと同時に、バンッと大きな音を立てて扉が開いた。
「野火、丸くん?」
どうしてそう思ったんだろう。そこに立っていたのはすらりと背の高い男の人で、小さくて可愛らしい野火丸くんとは全然違ったのに。
「な、何だよお前……!」
私の腰を抱いていた男が、部屋の入口に立つ青年を睨んだ。青年はちらりとこちらを一瞥し、パンパンと手を叩く。
「はいはーい、警察でーす。怪しい薬使ってる常習犯ってことで逮捕しまーす!」
それを合図に警棒を持った警察官が何人か部屋に乗り込んできた。両隣りの部屋にも警察が突入したらしく、あちこちから怒号や悲鳴が聞こえてくる。私は何が起こっているのかわからず、ただただ呆然としていた。
「大丈夫ですか?」
俯く私の視界に大きな手のひらが飛び込んできた。ハッとして顔を上げると、そこにいたのはあの時入口に立っていた青年だった。最初は何で野火丸くんと間違えたのかわからなかったけれど、彼は野火丸くんにどことなく似ていた。さらりとした金髪も蜂蜜色の瞳も、口元のほくろも。この人は人間で、ふさふさの耳と尻尾はないけれど、野火丸くんが大人になったらこんな感じかもしれない。
「すみません、大丈夫です」
差し出された手を取って立ち上がる。その拍子に足がもつれて転びそうになったところを、青年が抱き止めてくれた。
「あ、ありがとうございま……」
「嘘つき」
「え?」
「早く帰ってくるって言ったじゃないですか」
とろりとした蜂蜜色の瞳に見つめられ、つい飲み込まれそうな心地になる。
「野火丸、くん?」
「今更気づいたんですかー? 本当貴女は鈍い人ですね」
この人があの野火丸くん? それにしては言動に棘があるような。
困惑する私をよそに、自称野火丸くんはテキパキと部下らしき人に指示を与えていた。そして「帰りましょうか」と足の覚束ない私を抱きかかえ、用意してあった車に乗り込んだ。
頭がぼんやりしていて細かいところはよくわからなかったけれど、野火丸くんの話によると、最近ある怪物の作った薬が人間側に流出してしまったとのことだった。その薬は無味無臭の痺れ薬で、催淫効果もあるんだとか。だから今日みたいな場で使われることが多く、情報を得た警察が一斉検挙に乗り出したらしい。
「野火丸くんって、警察官だったんだね」
「何にやにやしてるんですか。貴女、下手したら取って食われてたかもしれないんですよ。幸い薬は飲んでないみたいですけど」
そういえばカラオケに行ってからは気持ち悪くて何も口にできなかった。もしあの場で飲み物を一口でも口にしていたら……想像しただけでゾッとする。
「もしかして野火丸くんがうちにずっといたのって、見張りのため?」
マンションに着き、水を飲みながら訊ねる。野火丸くんが警察なら薬がどこの誰に流れていったか把握していたはずだ。かつてのサークルメンバーは手慣れた様子だったし、初犯ではないだろう。現行犯逮捕するなら繋がりのある私を見張るのが手っ取り早い。何より、そうでなければ野火丸くんがいつまでもうちにいる理由がないし。
あの日、私は野火丸くんを拾って拙いながらも怪我の治療をした。恩返ししたいのはきっと本心だろう。でもその恩はもう充分すぎるほど返してもらった。
恩返しも終わって、警察としての仕事も無事に終わり。もう一緒にいる理由がないのだから、これで野火丸くんともお別れだ。鶴の恩返しだって、正体を見たら最後、そのまま飛び立って行ってしまうのだし。
「っ、今までありがとう、野火丸くん」
笑ってお礼を言おうと思ってたのに、情けないことに涙がぼろぼろ溢れてきた。野火丸くんと過ごす毎日が楽しくて、幸せで。それが今日で終わりとなるとやっぱり寂しい。でも早く泣き止まなきゃ。野火丸くんが困ってしまう。
「え、何泣いてるんですか急に」
「ごめ、ごめんね、野火丸くん。こんなつもりじゃなかったんだけど……」
「いや、別に構いませんけど。貴女、もしかして何か勘違いしてません?」
「へ? あの常習犯を捕まえるために私を見張ってたんじゃ」
私の言葉に野火丸くんは呆れたように溜息を吐いた。
「あんなものおまけです」
「お、おまけ?」
「僕は最初から貴女を手に入れるために近づいたんですよ。知ってます? 狐って死んだふりをして、まんまと近づいてきた獲物を狩るんです。貴女は面白いくらい引っかかりましたね」
「死んだふりって、血だってあんなに……」
「ああ、あれは血糊ですよ。よく出来てたでしょう。あとは僕の演技力のなせる技ですね」
にこにこと笑いながらネタバラシをする彼に私は頭を抱えた。私が野火丸くんと過ごしてきた数か月は一体何だったのか。文字通り狐に化かされただけなのか。
「だいぶ打ち解けてきて、そろそろ次に進もうかなと思ってたら貴女他の男に食べられそうになってるんですもん。困ったものです。ま、結果的に薬の流出先突き止められて飯生様にいい報告ができそうなんでよかったですけど」
「何で、こんなこと……」
震える声でそう言う私に、野火丸くんが微笑む。
「何でって、もちろん貴女のことが好きだからですよ」
蜂蜜色の瞳がその奥にある熱でどろりと蕩けていく。動けずにいる私を軽く抱き上げ、そのまま子ども姿の野火丸くんといつも一緒に寝ていた寝室に運び込まれる。
「好きな人の傍にいたい。自分だけのものにしたい。そう思うのはおかしなことですか?」
シングルベッドが大人二人分の重みに悲鳴を上げた。けれどそれを無視して野火丸くんは私の肌に口づけを落としていく。こんなの、だめだ。そう思うのに、私の口からは熱っぽい吐息ばかりが漏れていく。
「の、野火丸く……」
「ああ、嫌だったら抵抗してくださいね。できるなら、ですけど」
怪物が作ったという痺れ薬を私は口にしていない。なのに身体に力が入らなかったのは、私がとっくに目の前の彼に絆されていたからだ。