新門紅丸
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「おいおい紅ちゃん、随分と可愛らしいもん持ってんじゃねェか!」
「鬼に金棒、破壊王に……くくっ。こいつはいい酒の肴になりそうだ」
「珍しいこともあるもんだなァ。こりゃ明日は大雨か⁉︎」
町を歩けば誰かしらに声をかけられる、なんてのはいつものことだ。だが今日は揃いも揃ってぞろぞろと、追っ払っても追っ払っても付いて来やがる。どいつもこいつも他にやることあンだろうが。
詰所の中まで押しかける勢いの冷やかしどもをひと睨みすると、にやけた面々が一瞬たじろぐ。
「……うるせェよ、ほっとけ」
そう告げて、ぴしゃり、思い切り戸を閉めてやった。ついでにちと早ェが戸締りも。
連中はすぐに開けろと騒ぎ立てたが知ったことか。振り返らずにその場を後にする。
てめェらに言われなくとも、柄じゃねェのは俺が一番わかってンだ。
***
磨硝子の小さな窓が橙に染まる。少しだけ開いた窓からは、豆腐屋のらっぱや子どもたちの帰りを急ぐ声、ここではないどこかの、夕餉支度の音や匂いが入り込んでくる。私はこの時間帯が、何だかあたたかくて好きなのだけど。
玄関のほうからぴしゃりと思い切り戸の閉まる音がして、ああ、機嫌悪いなぁと苦笑する。どかどかと聞こえてくる足音も心なしか苛立っていて、今日の夕餉は彼の好物にして正解だったみたいだ。特別な日ではないので、すき焼き『風煮』だけども。
早いとこ作って、美味しいご飯とお酒で機嫌を直してもらうとしよう。
支度を急いでいると、不機嫌を隠そうともしない足音が私の背後でぴたりと止んだ。
「……おい」
「お帰りなさい、紅ちゃん。仕事頼んじゃってごめんね、行ってきてくれてありがとう」
私としたことが、今日中に皇国側に提出しなければならない書類があったのをすっかり忘れていた。しかも提出先は紅ちゃんと相性の良くない第ニ。私も紺兄さんもどうしても手が離せず駄目元で紅ちゃんに頼んでみたのだが、たまたま気が向いたのか彼は心底嫌な顔をしつつも引き受けてくれた。
何かあっては大変と念のため第八に付き添いをお願いしていたのだけれど、特に連絡もなかったので、無事用事を済ませてきたのだと思う。
シンラくんかアーサーくんか、一緒に行ってくれた第八の子たちにはまた後日お礼をしないと。
「なァ」
「ちょっと待ってね。もう少しでできるから」
味見をして納得の出来に鍋の火を止める。冷めたら具材に味が染みて、もっと美味しくなるはずだ。あとは副菜をいくつか、ご飯ももうすぐ炊けてーー。
「いい加減こっち向け、」
名前を呼ばれ、振り返るより先に強く肩を掴まれる。そのまま強引に体を反転させられて、流しに腰をぶつけた。痛みはないものの突然のことに驚いて顔を上げると、眉を下げ、難しそうな顔をした紅ちゃんと目が合った。
何か言いたげに口を開いては、言葉が見つからないのか、唇を固く引き結ぶ。色々な感情の詰まった赤が私から逸れて、彼は諦めたようにがしがしと頭を掻いた。
皇国に出向いて何かあったのだろうか。不安になって様子のおかしい彼に手を伸ばすと、再び赤い瞳に見つめられて動けなくなる。さっきとは違う、迷いのない真っ直ぐな赤だ。
「……やる」
目を奪われる、なんてのは彼の赤だけで充分だとそう思っていたのに。
独り言のように低く呟かれた言葉とともに彼が差し出したそれに、私は大好きな赤と同じくらい、目を奪われてしまった。
***
喧嘩を売られたら買ってやろうと思っていた。こっちから吹っかけンのでもいい。紺炉やあいつがいねェから好き放題やってやる、そのつもりだったンだが。
「こいつァどういう了見だ?」
「どうと言われても、見ての通りです!」
ぐっと両手を握りしめて自信満々に第八の嬢ちゃんが言う。
「シンラとアーサーはパトロール中でして、代わりに私たちが新門大隊長の補佐を務めさせて頂きます」
マキ、といったか。一度手合わせしたから実力は知っている。あとは何やってンだかすっぽ抜けた服を半べそかいて拾う猫みてェな嬢ちゃんと、
「そっちは」
「シスターは別件で第ニに用事があるそうで、私たちはその付き添いも兼ねています」
金糸の髪を揺らして大人しそうな嬢ちゃんが頭を下げた。
補佐も付き添いも必要ねェが、一人で行くと後々紺炉たちが説教を垂れそうだ。俺は仕方なく了承し、第ニに向かった。
そしてひと暴れするつもりが用件はつつがなく終わりーー。
「わぁー、かっわいー‼︎」
俺は今、嬢ちゃんたちと皇国の花屋にいた。
しすたーの嬢ちゃんが店先に置かれていた鉢植えに興味を持ったことから始まり、そのまま吸い込まれるように店の中へ。俺はそのまま浅草に帰るつもりだったが、中からひょっこり顔を出した空色がそれを許さなかった。
「新門大隊長もいかがですか?奥様にプレゼントとか」
「俺ァ別に……」
「奥様はお花、嫌いですか?」
この嬢ちゃん、大人しそうなのは見た目だけらしい。夏空をはめ込んだような目は爛々と興味を映し、跳ね除けようにも変に毒気を抜かれ、調子が狂う。
「どうだろうな」
俺は花なんぞに興味ねェが、あいつはどうだろうか。ヒカゲとヒナタがその辺で摘んできた花は枯れるまで長いこと飾られていた気がするが、あの時あいつはどんな面してたンだったか。
「花なんざ渡したことねェからわからねェな」
そう言うと、信じられねェというような面で他の二人も顔を出す。
「うそ、結婚までしてるのに花を渡したことないんですか?」
「新門大隊長、絶対に奥さんに買って行ったほうがいいですよ! そうだ、そうしましょう‼︎」
ぐいぐいと食い気味の三人に押され、俺は観念して店に入った。途端に花特有の甘い匂いが鼻をつく。嬢ちゃんたちは籠に盛られた花やこじんまりとした置物を見ては『可愛い』を繰り返していた。男の俺にはさっぱりわからねェが、女はそういうもンなのだと、あいつが言っていたのを思い出す。
楽しげに笑う嬢ちゃんたちから離れて、広くねェ店の中をぶらつく。花のことをよく知らねェ俺からしたら、正直どの花も全部同じに見えた。この中からあいつに贈る花なんざ決められっこねェ。
店の奴に適当に見繕ってもらうかと辺りを見渡して、視界の端、ある一点に目が止まった。そこにあったのは、少々小ぶりだが俺もよく知る花だった。
背筋をぴんと伸ばして、真っ直ぐ前を向く。お天道さんみてェなそれは、陰気を吹き飛ばすあいつの笑顔に似ていた。
「向日葵、綺麗ですね」
しすたーの嬢ちゃんが隣に来て目を細める。こうやって見ると夏空に向日葵が咲いてるみてェだ。花に向けられていた目はすぐに俺へ移り、細首が傾く。
「このお花にされるんですか?」
知らねェ花よりは知った花がいい。あいつの好みはわからねェが、少なくとも俺は似合わねェことはねェと思う。
「あァ、そうだな」
そう言うと「決まりですね」とやわらかく笑んで、嬢ちゃんは店の奴を呼びに駆けて行った。
あいつはガキの頃から、面白ェくらいころころと表情の変わる奴だ。俺が柄にもなく花なんぞを贈ったら、あいつは一体どんな面をするだろう。もしまだ俺の知らねェ面を拝めるとしたら、それはそれで悪かねェ。
ふと顔を上げると硝子戸に映る自分と目が合って、そこで初めて、俺は自身の口元が緩んでいることに気付くのだった。
***
飛び込んできたのは、眩しい夏色。
一瞬何が起こったのかわからなくて紅ちゃんに視線を向けると、ちょうど眉間にぐっと深い皺が刻まれるところだった。
「やる」
低い呟きとともに手にしたものを強引に押し付けてくるものだから、私は取りこぼさないよう慌ててそれを両手で抱え込む。ちかちかと視界を埋め尽くすのは夏の日差しみたいに眩しい黄色。少しよれてしまったが、彼が押し付けてきたのは花束だった。両手でなければ抱えきれないほどの大きさの、向日葵の花束だ。
「紅ちゃん、これ……」
「いらねェのか」
「私に?」
「他に誰がいるってンだ」
花束なんて初めて貰った。実感がわかなくて、けれど腕の中からは確かにふうわりと花の香りがして。
どうしよう。紅ちゃんが私にとくれた花束を大事にしたいと思うのに、さっきよりもよれが酷くなる。でも唇を噛むだけでは、とても堪えきれそうになかったのだ。
花束を抱えたまま無言で俯く私を、下がり眉の彼が覗き込む。心配させまいと顔を上げたら、その拍子に張っていた膜が雫となって、ぽろりと目から零れ落ちてしまった。一度決壊してしまえば、あとはただ溢れるばかり。
一刻も早く止めなければと思うのに両手が塞がっていては拭うこともできず、流れるままにしていると、濡れた私の頬をあたたかいものが包み込んだ。このあたたかさはよく知っている。紅ちゃんの手だ。
「泣くほど嫌だったか?」
指の腹でそっと涙を拭いながら彼が問う。その目には後悔が滲んでいて、彼にそんな顔をさせてしまったことにぎゅっと胸が苦しくなる。私は上手く出せない声の代わりに頭を振って強く否定した。
「ち、ちがっ、違うの。これは、嬉しくて……」
引きつる喉からどうにか絞り出した言葉に、詰めていた息を漏らす気配がした。そしてそのままこつりと額が重なる。
「ならいい」
かかる髪と吐息がくすぐったくて思わず肩を竦めると、紅ちゃんが私の背中に腕を回してきた。ゆっくりと抱き寄せられて、間に挟まれた花束がかさりと音を立てる。きつすぎない抱擁は彼なりの配慮だろうか。花々は潰れることなく、私の腕の中で身を寄せ合っている。
「紅ちゃんありがとう。本当に、すごく、すごく嬉しい」
もっとちゃんと伝えたいのに、言葉にできたのはたったこれだけ。溢れる気持ちをそのまま全部伝えられたらいいのに、上手く言葉にできないのが口惜しい。彼から返ってくるのはひどくやさしい眼差しで、胸の奥がじんわりあたたかくなる。
ああ、私は本当に幸せ者だ。
愛しさがどこまでも募っていく。「大好き」と伝えたら「知ってる」と笑われた。
頭を撫でてくれる手のあたたかさに、またちょっとだけ涙が出た。
「おぅい紅ちゃん、奥方には渡せたかァ?」
「皇国の王子様とやらみてェに跪かねェとダメだぜ」
「ついでに愛の接吻も……なんてなァ!」
磨硝子の隙間から囃し立てるような声が聞こえてきた。姿までは見えないけれど、窓の外に何人かいるみたいだ。
「あいつら……あとで覚えとけよ」
ちっと舌打ちをして紅ちゃんが窓の外を睨みつける。その横顔を小窓から差し込む夕日が赤く照らした。
彼の意識が見えない誰かへと移る。それが寂しいなんて言ったら子供っぽいと笑われるだろうか。でも今日はもう少し、あと少しだけ彼を独り占めしたい。
いまだに外を睨む彼の法被を指先でくいと引く。足の爪先に力を入れて背伸びをすると、抱えていた花束がまた、かさりと音を立てた。
ほんの一瞬の沈黙。それでも彼の意識を戻すには充分過ぎたようで、私を映す不揃いの虹彩が珍しく何度もぱちくりと瞬いた。
「……お前なァ」
ゆっくりと身を屈める彼の顔が夕日と違う色に染まって見えたのは、多分気のせいじゃない。
***
一本じゃ格好がつかねェ。けど何が普通なのかもわからねェ。だから金は気にしなくていいと言い残して、後のことは第八の嬢ちゃんたちに任せた。
そしたら出来上がったのはどでけェ花束で、流石の俺も目を見張った。聞けば向日葵九十九本分らしく、あいつが持ったら顔が隠れちまいそうだ。
店全部の向日葵を買い占めちまったかと思ったが、透明な硝子戸の向こうに一本だけ、ぽつんと残るのがあった。
「どうせならあれも入れてくれ。今更一、二本増えたところで変わりゃしねェよ」
それに九十九より百のほうがキリがいい。そう思ったのだが、しすたーの嬢ちゃんと店の奴は揃って顔を見合わせて、首を横に振った。
「この花束は九十九本でいいんです。それに残った一本を必要とする人が現れるかもしれませんから」
そう言ってしすたーの嬢ちゃんはにこりと微笑んだ。どういう意味か気にはなったが、難しいことはわからねェと、俺はそれ以上聞くのをやめた。
どでけェ花束を担いでいればそれだけで人目を引く。皇国は視線だけの分まだマシだったが、浅草の連中は容赦がねェ。わかりきってる癖に一々聞いてきやがって、早く帰りてェのに邪魔ばかりしやがる。ようやく辿り着いて一直線にあいつの元に向かえば、あいつはあいつで俺のほうを見向きもしねェ。
少しは待ってやった。だがいつまで経っても振り返らねェから無理やりこっちを向かせた。
向かせてから、何て言って渡すか考えていなかったことに気付く。
花を贈ったことがねェから、向日葵が笑ったお前に似てたから、受け取ったらどんな面すンのか見たかったから。どれも言える訳がねェ。
結局「やる」としか言えず、持っていた花束を突き出すと、あいつはわかりやすくきょとんと目を丸くした。やるって言ってンのに一向に受け取ろうとしねェから、これも無理やり押し付ける。
それがいけなかったのか、受け取ったあいつは黙りこくっちまって、終いには泣き出した。
驚くだろうとは思っていた。だがあいつのことだ、すぐに嬉しそうに笑うだろうと、そう思い込んでいた。
長い付き合いだがあいつはよっぽどのことがねェ限り涙を見せねェ。そんなあいつがぽろぽろと。俺はとんでもねェことをしちまったンじゃねェかと気が気じゃなかった。
あいつの頬を包んで涙を拭う。拭っても拭っても零れ落ちてきて、どうしたら止めてやれンのか。
「泣くほど嫌だったか?」
俺の問いかけにあいつは辛そうに唇を噛んだ。よっぽど嫌な思いをさせちまったらしい。悪いことをしたと詫びようとすれば、あいつは目から涙が零れるのも構わず首を振った。
「ち、ちがっ、違うの。これは、嬉しくて……」
張り詰めていたものが一気に解けた気がした。
着物をやった時も、簪をやった時も、櫛をやった時も、目を潤ませただけで泣きゃしなかったじゃねェか。
まぁでも嫌じゃねェとわかっただけまだいい。ひとつ息を吐いて額を合わせると、あいつがぴくりと身じろいだ。僅かばかりあいつとの距離が開いて、それすらももどかしく感じる。堪らず抱き寄せるとあいつはすんなり腕の中に収まった。本当は思い切り抱きしめてやりてェが、大事そうに花束を抱えて離しゃしねェ。仕方ねェから今日くれェは我慢してやるが。
「紅ちゃんありがとう。本当に、すごく、すごく嬉しい」
顔を上げて、あいつは一言一言大事そうに言葉を紡ぐ。
ああ、やっと見れたなァ。
泣くほど喜ばれンのも悪かねェ。けど俺は向日葵みてェに笑ってるほうがずっと好きだ。これからも俺の傍で、眩しいくらいに笑ってればそれでいい。
「おぅい紅ちゃん、奥方には渡せたかァ?」
わかっちゃいたが、この町の連中は空気なんてもの読みゃしねェ。外の奴らをどう追っ払おうか考えていると、くいと法被を引っ張られた。
どうしたのかと視線を戻すと随分と近くにあいつの顔があって、そのまま左頬にやわらかいものが触れた。
それがあいつからの口付けだと気付くのに数秒。地に踵を着けたあいつは俺の顔を見て、してやったりと微笑んだ。
「……お前なァ」
ああクソ、こっちは我慢してやってンのに。けど、すンのはそこじゃねェだろう?
かさりと紙の擦れる音が耳を掠める。
俺はやわらかな弧を描く唇に、ゆっくりと自分のを重ねてやった。
「鬼に金棒、破壊王に……くくっ。こいつはいい酒の肴になりそうだ」
「珍しいこともあるもんだなァ。こりゃ明日は大雨か⁉︎」
町を歩けば誰かしらに声をかけられる、なんてのはいつものことだ。だが今日は揃いも揃ってぞろぞろと、追っ払っても追っ払っても付いて来やがる。どいつもこいつも他にやることあンだろうが。
詰所の中まで押しかける勢いの冷やかしどもをひと睨みすると、にやけた面々が一瞬たじろぐ。
「……うるせェよ、ほっとけ」
そう告げて、ぴしゃり、思い切り戸を閉めてやった。ついでにちと早ェが戸締りも。
連中はすぐに開けろと騒ぎ立てたが知ったことか。振り返らずにその場を後にする。
てめェらに言われなくとも、柄じゃねェのは俺が一番わかってンだ。
***
磨硝子の小さな窓が橙に染まる。少しだけ開いた窓からは、豆腐屋のらっぱや子どもたちの帰りを急ぐ声、ここではないどこかの、夕餉支度の音や匂いが入り込んでくる。私はこの時間帯が、何だかあたたかくて好きなのだけど。
玄関のほうからぴしゃりと思い切り戸の閉まる音がして、ああ、機嫌悪いなぁと苦笑する。どかどかと聞こえてくる足音も心なしか苛立っていて、今日の夕餉は彼の好物にして正解だったみたいだ。特別な日ではないので、すき焼き『風煮』だけども。
早いとこ作って、美味しいご飯とお酒で機嫌を直してもらうとしよう。
支度を急いでいると、不機嫌を隠そうともしない足音が私の背後でぴたりと止んだ。
「……おい」
「お帰りなさい、紅ちゃん。仕事頼んじゃってごめんね、行ってきてくれてありがとう」
私としたことが、今日中に皇国側に提出しなければならない書類があったのをすっかり忘れていた。しかも提出先は紅ちゃんと相性の良くない第ニ。私も紺兄さんもどうしても手が離せず駄目元で紅ちゃんに頼んでみたのだが、たまたま気が向いたのか彼は心底嫌な顔をしつつも引き受けてくれた。
何かあっては大変と念のため第八に付き添いをお願いしていたのだけれど、特に連絡もなかったので、無事用事を済ませてきたのだと思う。
シンラくんかアーサーくんか、一緒に行ってくれた第八の子たちにはまた後日お礼をしないと。
「なァ」
「ちょっと待ってね。もう少しでできるから」
味見をして納得の出来に鍋の火を止める。冷めたら具材に味が染みて、もっと美味しくなるはずだ。あとは副菜をいくつか、ご飯ももうすぐ炊けてーー。
「いい加減こっち向け、」
名前を呼ばれ、振り返るより先に強く肩を掴まれる。そのまま強引に体を反転させられて、流しに腰をぶつけた。痛みはないものの突然のことに驚いて顔を上げると、眉を下げ、難しそうな顔をした紅ちゃんと目が合った。
何か言いたげに口を開いては、言葉が見つからないのか、唇を固く引き結ぶ。色々な感情の詰まった赤が私から逸れて、彼は諦めたようにがしがしと頭を掻いた。
皇国に出向いて何かあったのだろうか。不安になって様子のおかしい彼に手を伸ばすと、再び赤い瞳に見つめられて動けなくなる。さっきとは違う、迷いのない真っ直ぐな赤だ。
「……やる」
目を奪われる、なんてのは彼の赤だけで充分だとそう思っていたのに。
独り言のように低く呟かれた言葉とともに彼が差し出したそれに、私は大好きな赤と同じくらい、目を奪われてしまった。
***
喧嘩を売られたら買ってやろうと思っていた。こっちから吹っかけンのでもいい。紺炉やあいつがいねェから好き放題やってやる、そのつもりだったンだが。
「こいつァどういう了見だ?」
「どうと言われても、見ての通りです!」
ぐっと両手を握りしめて自信満々に第八の嬢ちゃんが言う。
「シンラとアーサーはパトロール中でして、代わりに私たちが新門大隊長の補佐を務めさせて頂きます」
マキ、といったか。一度手合わせしたから実力は知っている。あとは何やってンだかすっぽ抜けた服を半べそかいて拾う猫みてェな嬢ちゃんと、
「そっちは」
「シスターは別件で第ニに用事があるそうで、私たちはその付き添いも兼ねています」
金糸の髪を揺らして大人しそうな嬢ちゃんが頭を下げた。
補佐も付き添いも必要ねェが、一人で行くと後々紺炉たちが説教を垂れそうだ。俺は仕方なく了承し、第ニに向かった。
そしてひと暴れするつもりが用件はつつがなく終わりーー。
「わぁー、かっわいー‼︎」
俺は今、嬢ちゃんたちと皇国の花屋にいた。
しすたーの嬢ちゃんが店先に置かれていた鉢植えに興味を持ったことから始まり、そのまま吸い込まれるように店の中へ。俺はそのまま浅草に帰るつもりだったが、中からひょっこり顔を出した空色がそれを許さなかった。
「新門大隊長もいかがですか?奥様にプレゼントとか」
「俺ァ別に……」
「奥様はお花、嫌いですか?」
この嬢ちゃん、大人しそうなのは見た目だけらしい。夏空をはめ込んだような目は爛々と興味を映し、跳ね除けようにも変に毒気を抜かれ、調子が狂う。
「どうだろうな」
俺は花なんぞに興味ねェが、あいつはどうだろうか。ヒカゲとヒナタがその辺で摘んできた花は枯れるまで長いこと飾られていた気がするが、あの時あいつはどんな面してたンだったか。
「花なんざ渡したことねェからわからねェな」
そう言うと、信じられねェというような面で他の二人も顔を出す。
「うそ、結婚までしてるのに花を渡したことないんですか?」
「新門大隊長、絶対に奥さんに買って行ったほうがいいですよ! そうだ、そうしましょう‼︎」
ぐいぐいと食い気味の三人に押され、俺は観念して店に入った。途端に花特有の甘い匂いが鼻をつく。嬢ちゃんたちは籠に盛られた花やこじんまりとした置物を見ては『可愛い』を繰り返していた。男の俺にはさっぱりわからねェが、女はそういうもンなのだと、あいつが言っていたのを思い出す。
楽しげに笑う嬢ちゃんたちから離れて、広くねェ店の中をぶらつく。花のことをよく知らねェ俺からしたら、正直どの花も全部同じに見えた。この中からあいつに贈る花なんざ決められっこねェ。
店の奴に適当に見繕ってもらうかと辺りを見渡して、視界の端、ある一点に目が止まった。そこにあったのは、少々小ぶりだが俺もよく知る花だった。
背筋をぴんと伸ばして、真っ直ぐ前を向く。お天道さんみてェなそれは、陰気を吹き飛ばすあいつの笑顔に似ていた。
「向日葵、綺麗ですね」
しすたーの嬢ちゃんが隣に来て目を細める。こうやって見ると夏空に向日葵が咲いてるみてェだ。花に向けられていた目はすぐに俺へ移り、細首が傾く。
「このお花にされるんですか?」
知らねェ花よりは知った花がいい。あいつの好みはわからねェが、少なくとも俺は似合わねェことはねェと思う。
「あァ、そうだな」
そう言うと「決まりですね」とやわらかく笑んで、嬢ちゃんは店の奴を呼びに駆けて行った。
あいつはガキの頃から、面白ェくらいころころと表情の変わる奴だ。俺が柄にもなく花なんぞを贈ったら、あいつは一体どんな面をするだろう。もしまだ俺の知らねェ面を拝めるとしたら、それはそれで悪かねェ。
ふと顔を上げると硝子戸に映る自分と目が合って、そこで初めて、俺は自身の口元が緩んでいることに気付くのだった。
***
飛び込んできたのは、眩しい夏色。
一瞬何が起こったのかわからなくて紅ちゃんに視線を向けると、ちょうど眉間にぐっと深い皺が刻まれるところだった。
「やる」
低い呟きとともに手にしたものを強引に押し付けてくるものだから、私は取りこぼさないよう慌ててそれを両手で抱え込む。ちかちかと視界を埋め尽くすのは夏の日差しみたいに眩しい黄色。少しよれてしまったが、彼が押し付けてきたのは花束だった。両手でなければ抱えきれないほどの大きさの、向日葵の花束だ。
「紅ちゃん、これ……」
「いらねェのか」
「私に?」
「他に誰がいるってンだ」
花束なんて初めて貰った。実感がわかなくて、けれど腕の中からは確かにふうわりと花の香りがして。
どうしよう。紅ちゃんが私にとくれた花束を大事にしたいと思うのに、さっきよりもよれが酷くなる。でも唇を噛むだけでは、とても堪えきれそうになかったのだ。
花束を抱えたまま無言で俯く私を、下がり眉の彼が覗き込む。心配させまいと顔を上げたら、その拍子に張っていた膜が雫となって、ぽろりと目から零れ落ちてしまった。一度決壊してしまえば、あとはただ溢れるばかり。
一刻も早く止めなければと思うのに両手が塞がっていては拭うこともできず、流れるままにしていると、濡れた私の頬をあたたかいものが包み込んだ。このあたたかさはよく知っている。紅ちゃんの手だ。
「泣くほど嫌だったか?」
指の腹でそっと涙を拭いながら彼が問う。その目には後悔が滲んでいて、彼にそんな顔をさせてしまったことにぎゅっと胸が苦しくなる。私は上手く出せない声の代わりに頭を振って強く否定した。
「ち、ちがっ、違うの。これは、嬉しくて……」
引きつる喉からどうにか絞り出した言葉に、詰めていた息を漏らす気配がした。そしてそのままこつりと額が重なる。
「ならいい」
かかる髪と吐息がくすぐったくて思わず肩を竦めると、紅ちゃんが私の背中に腕を回してきた。ゆっくりと抱き寄せられて、間に挟まれた花束がかさりと音を立てる。きつすぎない抱擁は彼なりの配慮だろうか。花々は潰れることなく、私の腕の中で身を寄せ合っている。
「紅ちゃんありがとう。本当に、すごく、すごく嬉しい」
もっとちゃんと伝えたいのに、言葉にできたのはたったこれだけ。溢れる気持ちをそのまま全部伝えられたらいいのに、上手く言葉にできないのが口惜しい。彼から返ってくるのはひどくやさしい眼差しで、胸の奥がじんわりあたたかくなる。
ああ、私は本当に幸せ者だ。
愛しさがどこまでも募っていく。「大好き」と伝えたら「知ってる」と笑われた。
頭を撫でてくれる手のあたたかさに、またちょっとだけ涙が出た。
「おぅい紅ちゃん、奥方には渡せたかァ?」
「皇国の王子様とやらみてェに跪かねェとダメだぜ」
「ついでに愛の接吻も……なんてなァ!」
磨硝子の隙間から囃し立てるような声が聞こえてきた。姿までは見えないけれど、窓の外に何人かいるみたいだ。
「あいつら……あとで覚えとけよ」
ちっと舌打ちをして紅ちゃんが窓の外を睨みつける。その横顔を小窓から差し込む夕日が赤く照らした。
彼の意識が見えない誰かへと移る。それが寂しいなんて言ったら子供っぽいと笑われるだろうか。でも今日はもう少し、あと少しだけ彼を独り占めしたい。
いまだに外を睨む彼の法被を指先でくいと引く。足の爪先に力を入れて背伸びをすると、抱えていた花束がまた、かさりと音を立てた。
ほんの一瞬の沈黙。それでも彼の意識を戻すには充分過ぎたようで、私を映す不揃いの虹彩が珍しく何度もぱちくりと瞬いた。
「……お前なァ」
ゆっくりと身を屈める彼の顔が夕日と違う色に染まって見えたのは、多分気のせいじゃない。
***
一本じゃ格好がつかねェ。けど何が普通なのかもわからねェ。だから金は気にしなくていいと言い残して、後のことは第八の嬢ちゃんたちに任せた。
そしたら出来上がったのはどでけェ花束で、流石の俺も目を見張った。聞けば向日葵九十九本分らしく、あいつが持ったら顔が隠れちまいそうだ。
店全部の向日葵を買い占めちまったかと思ったが、透明な硝子戸の向こうに一本だけ、ぽつんと残るのがあった。
「どうせならあれも入れてくれ。今更一、二本増えたところで変わりゃしねェよ」
それに九十九より百のほうがキリがいい。そう思ったのだが、しすたーの嬢ちゃんと店の奴は揃って顔を見合わせて、首を横に振った。
「この花束は九十九本でいいんです。それに残った一本を必要とする人が現れるかもしれませんから」
そう言ってしすたーの嬢ちゃんはにこりと微笑んだ。どういう意味か気にはなったが、難しいことはわからねェと、俺はそれ以上聞くのをやめた。
どでけェ花束を担いでいればそれだけで人目を引く。皇国は視線だけの分まだマシだったが、浅草の連中は容赦がねェ。わかりきってる癖に一々聞いてきやがって、早く帰りてェのに邪魔ばかりしやがる。ようやく辿り着いて一直線にあいつの元に向かえば、あいつはあいつで俺のほうを見向きもしねェ。
少しは待ってやった。だがいつまで経っても振り返らねェから無理やりこっちを向かせた。
向かせてから、何て言って渡すか考えていなかったことに気付く。
花を贈ったことがねェから、向日葵が笑ったお前に似てたから、受け取ったらどんな面すンのか見たかったから。どれも言える訳がねェ。
結局「やる」としか言えず、持っていた花束を突き出すと、あいつはわかりやすくきょとんと目を丸くした。やるって言ってンのに一向に受け取ろうとしねェから、これも無理やり押し付ける。
それがいけなかったのか、受け取ったあいつは黙りこくっちまって、終いには泣き出した。
驚くだろうとは思っていた。だがあいつのことだ、すぐに嬉しそうに笑うだろうと、そう思い込んでいた。
長い付き合いだがあいつはよっぽどのことがねェ限り涙を見せねェ。そんなあいつがぽろぽろと。俺はとんでもねェことをしちまったンじゃねェかと気が気じゃなかった。
あいつの頬を包んで涙を拭う。拭っても拭っても零れ落ちてきて、どうしたら止めてやれンのか。
「泣くほど嫌だったか?」
俺の問いかけにあいつは辛そうに唇を噛んだ。よっぽど嫌な思いをさせちまったらしい。悪いことをしたと詫びようとすれば、あいつは目から涙が零れるのも構わず首を振った。
「ち、ちがっ、違うの。これは、嬉しくて……」
張り詰めていたものが一気に解けた気がした。
着物をやった時も、簪をやった時も、櫛をやった時も、目を潤ませただけで泣きゃしなかったじゃねェか。
まぁでも嫌じゃねェとわかっただけまだいい。ひとつ息を吐いて額を合わせると、あいつがぴくりと身じろいだ。僅かばかりあいつとの距離が開いて、それすらももどかしく感じる。堪らず抱き寄せるとあいつはすんなり腕の中に収まった。本当は思い切り抱きしめてやりてェが、大事そうに花束を抱えて離しゃしねェ。仕方ねェから今日くれェは我慢してやるが。
「紅ちゃんありがとう。本当に、すごく、すごく嬉しい」
顔を上げて、あいつは一言一言大事そうに言葉を紡ぐ。
ああ、やっと見れたなァ。
泣くほど喜ばれンのも悪かねェ。けど俺は向日葵みてェに笑ってるほうがずっと好きだ。これからも俺の傍で、眩しいくらいに笑ってればそれでいい。
「おぅい紅ちゃん、奥方には渡せたかァ?」
わかっちゃいたが、この町の連中は空気なんてもの読みゃしねェ。外の奴らをどう追っ払おうか考えていると、くいと法被を引っ張られた。
どうしたのかと視線を戻すと随分と近くにあいつの顔があって、そのまま左頬にやわらかいものが触れた。
それがあいつからの口付けだと気付くのに数秒。地に踵を着けたあいつは俺の顔を見て、してやったりと微笑んだ。
「……お前なァ」
ああクソ、こっちは我慢してやってンのに。けど、すンのはそこじゃねェだろう?
かさりと紙の擦れる音が耳を掠める。
俺はやわらかな弧を描く唇に、ゆっくりと自分のを重ねてやった。