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*夢主の恋愛観がやや不健全
ピピピピ、ピピピピ、微かな電子音で目を覚ます。頭は起きているけれど、体は鉛のように重かった。思うように動かない腕を目いっぱいのばして、アラームを止めた。午前8時。薄く目を開けてみたら、カーテンから漏れる光は案外強かった。
ふと、隣で寝ている彼に目をやる。いつもきっちりと七三に分けられている前髪も今は下されていて、あどけない寝顔も相まっていつもより少しだけ幼く見えた。睫毛も長いし、なんだろう、この世って不平等だ。
思わず片手を伸ばそうとして、やめた。恋人のように頭を撫でたりする資格は私にはない。だって、残念ながら私と彼はただのセフレなのだから。
きっかけは、3年前。久々に会って、2人で飲んで、酔っ払った私が彼をホテルに誘った。断られると思っていたが、意外にも彼は私の提案に乗ってきた。可愛い後輩が自分のせいで汚れてしまったことに罪悪感はあったが、なんだかんだで今まで続いている。こんなに長く付き合ってくれるとは、想像もしていなかった。他のセフレ達は彼女を作ったり、私に飽きたりして少しずつ離れていったから、七海とも長くても2年でお別れするのだろうと当然のように思っていた。あれからもう、3年も経っている。
正直に言って、彼はセフレ兼後輩として最高だった。お互いに必要以上には干渉せず、飲んで、愚痴を溢して、冗談を言って、その気になったらそういうことをする。心の奥底に踏み込まず、踏み込ませない代わりに、歪だけど、平穏な幸せが手に入った。恋人同士の深い繋がりって、諸刃の剣だもの。
でも、そろそろこの心地良い関係も区切りを付けるべきかもしれない。最近、そう思うようになっていた。理由は簡単、彼に対する好意が、あまりに大きくなってしまったからだ。早めに対処しないと、痛い目に遭う。分かっていてもなかなか離れられないのだが。
今日こそは、話さなきゃ。離れなきゃ。彼が起きたら言おう、そう思って、もう一度目を閉じた。
「私、恋愛向いてないんだよね」
3月。まだ寒い中、しん、と静まりかえった廊下に、綺羅さんの声がぼんやり響いた。彼女に用事があって3年の教室まで来たのだが、ドアに伸ばしかけた手をピタリと止めた。好きな人が自分の恋愛観について誰かに語っている場に割り込む勇気は到底持ち合わせていなかった。
「確かに、なんか向いてなさそうだね」
「硝子、分かってるね。さすがだぜ」
どうやら話し相手は家入さんのようだ。告白を断る現場というわけでは無さそうで少し安心するが、それでも、彼女が恋愛を苦手としているらしいことには変わらない。盗み聞きするのは心苦しいが、もう少し、もう少しだけ聞いておきたい。
「友達ってさ、特別だけど、ほら、一線はあるじゃん?頼り過ぎたらだめだって思うし」
「あ、友達は他人派なんだ?」
「そうだね、そんな感じ。でも、恋人ってなんだか、どうしても行き過ぎることがあるっていうか」
「綺羅の『行き過ぎる』は怖いなぁ」
「お、分かる〜?なんか上手くいかないんだよね、途中まで良い感じでも。多分、重いんだと思う」
なんだ、それだけか、と溜め息をつく。彼女と共にいることができるなら、多少重いことなどなんでもない。それに、恋愛に関する面は知らないが、普段の彼女はカラリとした性格で、笑顔の可愛い人だ。後輩の面倒見もよくて、私も度々お世話になった。そんな人が、嫌になるほど「重く」感じるだろうか。否だ。
でも。
「今まで結構彼氏とかは出来てきたんだけどさ、長続きしないし、絶対フラれるし、もうなんか、ツラいんだよね。しんどいっていうか」
「だから正直、もう恋愛はしたくない、かな」
安堵しきっていた常春頭を、ガツン、と鈍器で殴られたような気がした。自分にとってあまりに不都合な展開に、指先が冷えていくのが分かった。だって、こんなの、告白せずに振られたようなものではないか。
衝撃的な発言は更に続いた。
「こう……週三くらいセフレに構ってもらって、ベッドの上でだけ、好きだよ、とか、可愛いね、とか言われて生きていたい。それだけで良い。ううん、それだけが良い」
「綺羅って案外イイ性格してるよね」
「ふふ、バレたか」
「でもさーー」
ーー体の芯が冷え冷えとしている。今まで自分が彼女の何を見ていたのか分からなくなった。屈託の無い笑顔が好きだった。優しい瞳を見つめていたいと思った。七海くん、と呼ぶ声が愛おしかった。自分よりもずっと薄い肩を抱き締めたくて、閉じ込めてしまいたくてたまらなかった。そう、彼女は、側から見ていると愛に溢れているとしか思えない、春のような人だった。そんな彼女は、幻影か何かだったとでも言うのだろうか。
踵を返し、寮の自室に戻った。ベッドの上に座り、立てた膝に頭を乗せた。夢だ、嘘だと言い聞かせて、でも、そんな自己暗示を跳ね返すほど、彼女の言葉はあまりに衝撃的だった。耳の底に貼り付いて鳴り止まないあの言葉に堪えきれず、睡眠薬を2錠口に放り込んで、布団を被る。寝て起きたら、全て無かったことになっていれば良い。そう、本気で思っていた。
目が覚めると、綺羅さんは私の胸に額を寄せて眠っていた。何やら温かいと思っていた正体はこれだったか、と思わず頬が緩んだ。この人は何年経っても変わらなかった。
2年前、ホテルに誘われた時のことは、鮮明に覚えている。縋り付くように私の上着を掴み、掠れた声で「帰りたくない」と告げられた。“あのこと”を思い出し心臓が凍るような気がしたが、振り向いて見ると、普段の明るさが削げ落ちた、寂しげで、もしも断ってしまったらこのままどこか消えてしまうのではないかとさえ思わせるような顔をしていた。放っておけなかった。
『ごめん、冗談……』
『良いですよ』
少し目を見開いた彼女の眉が、ゆるゆると申し訳なさげに下がるのを見て、不思議な希望を覚えた。この人はまだ恋愛という人間関係を諦めてはいないのではないか、と。
あれから、もう2年が経った。高専時代から数えれば、更に長い付き合いになる。でも、彼女は変わらなかった。無邪気で、瞳が綺麗な、春の陽気が似合う人。あの頃自分が見ていた彼女は、ちゃんと存在していた。単に、他の面もあったという、それだけのことだった。そして、これからも新しい彼女を見つけながら、共に同じ時間を歩んでいきたい。そう願うようになるまで、さして時間はかからなかった。
自分の気持ちを見つめ直し、確認してから、出来ることは全てやった。自分以外の男がいなくても大丈夫だと感じさせるほど彼女の隣に居ること。殺風景な部屋に、インテリアや観葉植物を増やすこと。いつでも彼女と真正面から向き合い、逃げないこと……。そして、今、自分は綺羅さんにとって特別な存在だと確信している。
覚悟はできた。そろそろ最終段階の時だ。
「綺羅さん、起きてください」
「んん……」
「もう9時過ぎですよ」
「うぅ……はぁい……」
むくり、と体を起こし、思い切り背を伸ばす。七海がカーテンを開けて、室内が光に溢あふれる。視覚を刺激されて、一気に脳が覚醒した。
七海はガウンを羽織り、手際良く朝食の準備を始めた。私は慌ててスリッパを履き、キッチンに向かう。もとは米派だった私だが、七海に合わせてパンもよく食べるようになった。色んなパン屋さんに一緒に行ったな。過去になるのは、やっぱりちょっと、ううん、すごく……寂しい。
冷蔵庫からスープの入った鍋を取り出し、IHヒーターで温める。七海は隣で、フライパンに卵を割り入れた。2つ、黄身が割れることなく並んだ卵を見て、私は口を開こうとした。けど、
「綺羅さん」
「……なに?」
「結婚しませんか」
スープをかき混ぜる手が止まって、じゅうじゅうと卵が焼かれる音だけが響く。油がパチパチ弾けて、私の手の甲にぶつかったのが分かった。
「今、なん、て?」
「結婚しないかと言いました」
「なんで」
「分かりませんか」
淡々と言いながら、卵の殻に水を入れ、フライパンに注いで、蓋を閉じた。そして私の顔を見て、微かに笑った。
「好きです。高専にいた頃から」
「でも」
「あなたがずっと、恋愛を拒否していることは知っています」
「じゃあ、」
「しかし、そろそろ、」
そっと優しく抱き寄せられる。背中にまわされた腕の感触がいつもと違うような気がして、くらくらした。
「……観念して、私に愛されていただけませんか」
耳元で囁かれた声は、言葉と同じくらい甘くとろけていて、頬が紅潮した。
「でも、私、すごくめんどうだよ」
「知っています」
「可愛げ無いし」
「ありますよ」
「七海にはもっといい子が」
「貴女でないと意味がない」
ぼろぼろと溢れる言葉を七海が優しく掬い取って、ただ私をひたすらに肯定してくれる。
「だけど、きっと、そういう関係になったら私のこと嫌いになるよ」
「なぜですか」
「だって、私、どうしようもなく醜い」
「……」
涙が滲んで、視界がぼやける。添えられた手が、優しく背中を撫でた。
「貴女は貴女が思っているほど醜くはありません。何年一緒にいたと思っているんですか」
「完璧な人間なんてどこにだっていませんよ」
「貴女は完璧主義過ぎます」
「だから、貴女が完璧でないことを知っていて、それでも貴女のことが好きでたまらない私と、一緒になりませんか」
「それって、私ばっかり得してない?」
「私にとっても得ですよ」
「……」
言い返そうと開いた口からは、もはや何も出て来なかった。七海がそっと近づいて、その間抜けな私の口に自分の唇を重ねた。軽く食んで、離れていく。いつもより少し下がった眉を、愛しいと思った。
「……七海、」
「はい」
「愛してくれる?」
「はい」
「……愛させて、くれる?」
「もちろん」
涙を流す私を見て、少し笑う七海。胸の奥がゆるゆると蕩けた気がした。だって、その瞳が、余りにも優しかったから。あまりにも、愛おしげだったから。
でも、その瞳を私は知っていた。けど、見て見ぬ振りをしていた。彼は、そんな茶番に、ずっと付き合ってくれたのだ。なんのために、なんて、もう私が1番分かってる。
勢いに任せて彼の首に手を回して、しゃくりあげるように息を吸い込んだ。「ずっと一緒にいさせてください」なんて言葉は、思っていたよりずっと簡単に零れ落ちた。側に居続けてくれた七海の温もりに、頑なな私が砂糖のように溶けてしまっていたのかもしれない、なんて。
(▪ 恋愛が怖いの女の子とずっとセフレだった七海の「観念して私に愛されてください」なお話)
ピピピピ、ピピピピ、微かな電子音で目を覚ます。頭は起きているけれど、体は鉛のように重かった。思うように動かない腕を目いっぱいのばして、アラームを止めた。午前8時。薄く目を開けてみたら、カーテンから漏れる光は案外強かった。
ふと、隣で寝ている彼に目をやる。いつもきっちりと七三に分けられている前髪も今は下されていて、あどけない寝顔も相まっていつもより少しだけ幼く見えた。睫毛も長いし、なんだろう、この世って不平等だ。
思わず片手を伸ばそうとして、やめた。恋人のように頭を撫でたりする資格は私にはない。だって、残念ながら私と彼はただのセフレなのだから。
きっかけは、3年前。久々に会って、2人で飲んで、酔っ払った私が彼をホテルに誘った。断られると思っていたが、意外にも彼は私の提案に乗ってきた。可愛い後輩が自分のせいで汚れてしまったことに罪悪感はあったが、なんだかんだで今まで続いている。こんなに長く付き合ってくれるとは、想像もしていなかった。他のセフレ達は彼女を作ったり、私に飽きたりして少しずつ離れていったから、七海とも長くても2年でお別れするのだろうと当然のように思っていた。あれからもう、3年も経っている。
正直に言って、彼はセフレ兼後輩として最高だった。お互いに必要以上には干渉せず、飲んで、愚痴を溢して、冗談を言って、その気になったらそういうことをする。心の奥底に踏み込まず、踏み込ませない代わりに、歪だけど、平穏な幸せが手に入った。恋人同士の深い繋がりって、諸刃の剣だもの。
でも、そろそろこの心地良い関係も区切りを付けるべきかもしれない。最近、そう思うようになっていた。理由は簡単、彼に対する好意が、あまりに大きくなってしまったからだ。早めに対処しないと、痛い目に遭う。分かっていてもなかなか離れられないのだが。
今日こそは、話さなきゃ。離れなきゃ。彼が起きたら言おう、そう思って、もう一度目を閉じた。
「私、恋愛向いてないんだよね」
3月。まだ寒い中、しん、と静まりかえった廊下に、綺羅さんの声がぼんやり響いた。彼女に用事があって3年の教室まで来たのだが、ドアに伸ばしかけた手をピタリと止めた。好きな人が自分の恋愛観について誰かに語っている場に割り込む勇気は到底持ち合わせていなかった。
「確かに、なんか向いてなさそうだね」
「硝子、分かってるね。さすがだぜ」
どうやら話し相手は家入さんのようだ。告白を断る現場というわけでは無さそうで少し安心するが、それでも、彼女が恋愛を苦手としているらしいことには変わらない。盗み聞きするのは心苦しいが、もう少し、もう少しだけ聞いておきたい。
「友達ってさ、特別だけど、ほら、一線はあるじゃん?頼り過ぎたらだめだって思うし」
「あ、友達は他人派なんだ?」
「そうだね、そんな感じ。でも、恋人ってなんだか、どうしても行き過ぎることがあるっていうか」
「綺羅の『行き過ぎる』は怖いなぁ」
「お、分かる〜?なんか上手くいかないんだよね、途中まで良い感じでも。多分、重いんだと思う」
なんだ、それだけか、と溜め息をつく。彼女と共にいることができるなら、多少重いことなどなんでもない。それに、恋愛に関する面は知らないが、普段の彼女はカラリとした性格で、笑顔の可愛い人だ。後輩の面倒見もよくて、私も度々お世話になった。そんな人が、嫌になるほど「重く」感じるだろうか。否だ。
でも。
「今まで結構彼氏とかは出来てきたんだけどさ、長続きしないし、絶対フラれるし、もうなんか、ツラいんだよね。しんどいっていうか」
「だから正直、もう恋愛はしたくない、かな」
安堵しきっていた常春頭を、ガツン、と鈍器で殴られたような気がした。自分にとってあまりに不都合な展開に、指先が冷えていくのが分かった。だって、こんなの、告白せずに振られたようなものではないか。
衝撃的な発言は更に続いた。
「こう……週三くらいセフレに構ってもらって、ベッドの上でだけ、好きだよ、とか、可愛いね、とか言われて生きていたい。それだけで良い。ううん、それだけが良い」
「綺羅って案外イイ性格してるよね」
「ふふ、バレたか」
「でもさーー」
ーー体の芯が冷え冷えとしている。今まで自分が彼女の何を見ていたのか分からなくなった。屈託の無い笑顔が好きだった。優しい瞳を見つめていたいと思った。七海くん、と呼ぶ声が愛おしかった。自分よりもずっと薄い肩を抱き締めたくて、閉じ込めてしまいたくてたまらなかった。そう、彼女は、側から見ていると愛に溢れているとしか思えない、春のような人だった。そんな彼女は、幻影か何かだったとでも言うのだろうか。
踵を返し、寮の自室に戻った。ベッドの上に座り、立てた膝に頭を乗せた。夢だ、嘘だと言い聞かせて、でも、そんな自己暗示を跳ね返すほど、彼女の言葉はあまりに衝撃的だった。耳の底に貼り付いて鳴り止まないあの言葉に堪えきれず、睡眠薬を2錠口に放り込んで、布団を被る。寝て起きたら、全て無かったことになっていれば良い。そう、本気で思っていた。
目が覚めると、綺羅さんは私の胸に額を寄せて眠っていた。何やら温かいと思っていた正体はこれだったか、と思わず頬が緩んだ。この人は何年経っても変わらなかった。
2年前、ホテルに誘われた時のことは、鮮明に覚えている。縋り付くように私の上着を掴み、掠れた声で「帰りたくない」と告げられた。“あのこと”を思い出し心臓が凍るような気がしたが、振り向いて見ると、普段の明るさが削げ落ちた、寂しげで、もしも断ってしまったらこのままどこか消えてしまうのではないかとさえ思わせるような顔をしていた。放っておけなかった。
『ごめん、冗談……』
『良いですよ』
少し目を見開いた彼女の眉が、ゆるゆると申し訳なさげに下がるのを見て、不思議な希望を覚えた。この人はまだ恋愛という人間関係を諦めてはいないのではないか、と。
あれから、もう2年が経った。高専時代から数えれば、更に長い付き合いになる。でも、彼女は変わらなかった。無邪気で、瞳が綺麗な、春の陽気が似合う人。あの頃自分が見ていた彼女は、ちゃんと存在していた。単に、他の面もあったという、それだけのことだった。そして、これからも新しい彼女を見つけながら、共に同じ時間を歩んでいきたい。そう願うようになるまで、さして時間はかからなかった。
自分の気持ちを見つめ直し、確認してから、出来ることは全てやった。自分以外の男がいなくても大丈夫だと感じさせるほど彼女の隣に居ること。殺風景な部屋に、インテリアや観葉植物を増やすこと。いつでも彼女と真正面から向き合い、逃げないこと……。そして、今、自分は綺羅さんにとって特別な存在だと確信している。
覚悟はできた。そろそろ最終段階の時だ。
「綺羅さん、起きてください」
「んん……」
「もう9時過ぎですよ」
「うぅ……はぁい……」
むくり、と体を起こし、思い切り背を伸ばす。七海がカーテンを開けて、室内が光に溢あふれる。視覚を刺激されて、一気に脳が覚醒した。
七海はガウンを羽織り、手際良く朝食の準備を始めた。私は慌ててスリッパを履き、キッチンに向かう。もとは米派だった私だが、七海に合わせてパンもよく食べるようになった。色んなパン屋さんに一緒に行ったな。過去になるのは、やっぱりちょっと、ううん、すごく……寂しい。
冷蔵庫からスープの入った鍋を取り出し、IHヒーターで温める。七海は隣で、フライパンに卵を割り入れた。2つ、黄身が割れることなく並んだ卵を見て、私は口を開こうとした。けど、
「綺羅さん」
「……なに?」
「結婚しませんか」
スープをかき混ぜる手が止まって、じゅうじゅうと卵が焼かれる音だけが響く。油がパチパチ弾けて、私の手の甲にぶつかったのが分かった。
「今、なん、て?」
「結婚しないかと言いました」
「なんで」
「分かりませんか」
淡々と言いながら、卵の殻に水を入れ、フライパンに注いで、蓋を閉じた。そして私の顔を見て、微かに笑った。
「好きです。高専にいた頃から」
「でも」
「あなたがずっと、恋愛を拒否していることは知っています」
「じゃあ、」
「しかし、そろそろ、」
そっと優しく抱き寄せられる。背中にまわされた腕の感触がいつもと違うような気がして、くらくらした。
「……観念して、私に愛されていただけませんか」
耳元で囁かれた声は、言葉と同じくらい甘くとろけていて、頬が紅潮した。
「でも、私、すごくめんどうだよ」
「知っています」
「可愛げ無いし」
「ありますよ」
「七海にはもっといい子が」
「貴女でないと意味がない」
ぼろぼろと溢れる言葉を七海が優しく掬い取って、ただ私をひたすらに肯定してくれる。
「だけど、きっと、そういう関係になったら私のこと嫌いになるよ」
「なぜですか」
「だって、私、どうしようもなく醜い」
「……」
涙が滲んで、視界がぼやける。添えられた手が、優しく背中を撫でた。
「貴女は貴女が思っているほど醜くはありません。何年一緒にいたと思っているんですか」
「完璧な人間なんてどこにだっていませんよ」
「貴女は完璧主義過ぎます」
「だから、貴女が完璧でないことを知っていて、それでも貴女のことが好きでたまらない私と、一緒になりませんか」
「それって、私ばっかり得してない?」
「私にとっても得ですよ」
「……」
言い返そうと開いた口からは、もはや何も出て来なかった。七海がそっと近づいて、その間抜けな私の口に自分の唇を重ねた。軽く食んで、離れていく。いつもより少し下がった眉を、愛しいと思った。
「……七海、」
「はい」
「愛してくれる?」
「はい」
「……愛させて、くれる?」
「もちろん」
涙を流す私を見て、少し笑う七海。胸の奥がゆるゆると蕩けた気がした。だって、その瞳が、余りにも優しかったから。あまりにも、愛おしげだったから。
でも、その瞳を私は知っていた。けど、見て見ぬ振りをしていた。彼は、そんな茶番に、ずっと付き合ってくれたのだ。なんのために、なんて、もう私が1番分かってる。
勢いに任せて彼の首に手を回して、しゃくりあげるように息を吸い込んだ。「ずっと一緒にいさせてください」なんて言葉は、思っていたよりずっと簡単に零れ落ちた。側に居続けてくれた七海の温もりに、頑なな私が砂糖のように溶けてしまっていたのかもしれない、なんて。
(▪ 恋愛が怖いの女の子とずっとセフレだった七海の「観念して私に愛されてください」なお話)
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