嘘つき
あの子が他の子と帰っているのを見た。
塾があるからって言ってたのに、私に嘘ついて、笑っていた。
「もうむり、あんな子嫌い、好きにならなきゃよかった」
鼻をぐずぐずいわせながら、誰がいるわけでもない壁に向かって言葉を吐く。
爪が食い込むくらい強く握りしめたティッシュ。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
あの子が、私に嘘をついた。
あの子が、私以外の子の隣で、笑っていた。
こんなに汚い顔で泣く理由は、それだけで充分だった。
「わたしだけとしか帰らないって、言ってたのに」
思い出してまた涙が出てくる。『これからはずっと一緒に帰ろうね』と言ったときの、あの子の笑顔。少し見上げた時に見える、あの子の瞳。帰り道に手を繋いだ時の、ちょっと冷たくて、でも温かい、あの子の温度。夕風に揺れるあの子の髪の毛。
ぜんぶぜんぶ、好きだったのに。
大好きな時間だったのに。
私だけのものだと思っていた宝物が、粉々に崩れていく音がした。
鼻水をかむ。ゴミ箱に向かって投げたティッシュは、弱々しいカーブを描いて落ちた。ゴミ箱には全然届いていなかった。
愛が重いのはわかってる。でも両思いになったときにそれを許してくれたのはあの子だ。強制なんてしていない。
私の嫉妬にも笑顔で応えてくれた。他の子と喋らないでと言った次の日には、私の隣まで来てくれた。それからは毎日ずっと、あの子の定位置は私の隣だ。
私はあの子を愛していたし、あの子も私も愛してくれてた。少なくとも、私はそうだと思ってた。
なのに今日、あの子の隣は私じゃなかった。
何もかもを奪われた気さえしてくる。いや、実際に奪われている。あの子は私の全てだから。
ずっと涙が止まらない。とめどなく溢れてくるそれを止めることができない。
ぼやけた視界で窓の向こうを見る。もう空もずいぶん暗くなっていて、夕暮れが向かいの家の輪郭をにじませていた。
涙がひと粒、頬を伝って落ちる。
枕はとっくの昔に、使いものにならなくなっていた。
泣くことしかできないのが悔しい。あのとき、あの子の近くに駆け寄っていれば、それでちょっとくらい叩いても、きっとバチは当たらなかったのに。
心にぽっかり穴が空いた気がして、それがただただ怖くて、心が黒くなっていく気がして。
気づくとその場から逃げ出していた。
「あのとき私を見つけてたら、あの子どんな顔したんだろ」
頭の中でぐるぐると、同じことばかり響いている。
あの子が他の子と帰っていた事実と、あの子に砕かれたわたしの心。
もう嫌いになりたいのに、嫌いになったほうが楽なのに。
あの子にもらったうさぎのぬいぐるみのお腹に顔をうずめる。ベッドの周りは、あの子にもらったものであふれていた。
いつもならこんな時、あの子に電話するのに。
今日はあの子のせいでこうなってるから、電話できる人もいない。
私って、ほんとになんにもない。
寝返りをうって天井を見る。
泣きすぎて疲れた。少しだけ目を閉じよう。
起きたらあの子のことも、忘れられてるかも。
夢の世界へ向かうのに、時間はあまりかからなかった。
スマホの着信音で夢から戻された。
まだ少しぽわぽわしている頭を働かせて、充電していたスマホを取り出す。画面を注意して見ることもなく、スピーカーのマークをタップした。
『もしもし?』
あの子の声だった。
冷水でもかけられたみたいに、急に思考がはっきりしてくる。それと同じ速さで、さっきまでのぐるぐるした気持ちが戻ってくるのを感じた。
「……なに」
『あのね、今日は一緒に帰れなくてごめんって言おうと思って。塾の時間調整してもらったから、明日からはずっと一緒に帰ろうね』
なにそれ。
なにそれなにそれなにそれ。
「……いらない」
『え?』
心の中が真っ黒になって、呼吸の仕方も忘れてしまいそうだった。
なんとも思ってないんだ、私に嘘ついたこと。
なんとも思ってないんだ、私の宝物を壊したこと。
思ってもないくせに。嘘のくせに。思ってもいない言葉なんか、嘘ばっかりの言葉なんか、
「ごめんなんかいらないよ!!」
思わず大きな声を出してしまう。スマホの向こう側のあの子は、私が急に怒り始めて驚いているみたいだった。
『どうしたの?なんで怒って……』
本当に理由がわからないみたいに、あの子は戸惑っている声をだす。
理由なんか、そんなの決まってるのに。
そんなの自分自身が一番わかってるはずなのに。
いつもは大好きな、私だけに向けられる少し甘ったるいあの子の声。今はただただ腹立たしかった。
「私、見たんだから、あんたが他の子と帰ってるとこ!ほんとにやだ、何でそんなことできるの?わたしがどんな気持ちになったかわかる?いつも私に好きだって言ってくれて、ギュッてしてくれたりするから、あぁ私のことこんなに好きでいてくれてるんだなって、だから私だって今日一緒に帰るの我慢したのに!他の子と帰ってるなんてひどいよ!!あんなに好きだって、愛してるって言ってくれたの、あれは嘘だったの?」
途中から、嗚咽をもらしながら喋っていた。
泣きながらでもいい、絶対に話し続けなければいけないと思った。私の気持ちが途切れたら、それこそ恥ずかしいことで、なにかに負けてしまう気がしたから。
少しの間、沈黙が私たちの隙間を埋める。私の泣き声と鼻をすする音だけが、気まずそうに流れては消えていった。
『……あのね、実はさ』
不意に、あの子が口を開く。
なにか言い訳でもする気なのかな。そうだとしても、聞いてなんかやらない。もう何も聞きたくない。
あの子が話し始める前に、耳をふさごうとした。
けど、一瞬遅かった。
『あれ、妹だよ』
……え?
いもうと……?
「ほんとにごめんなさい!」
『こっちこそごめん、紛らわしかったよね』
結局、あれはあの子と妹さんが一緒に歩いてるだけだった。それを私が見て、勘違いして、勝手に怒っていただけ。
あの子の優しさが、今だけは心に突き刺さって痛い。私の思い違いであの子に怒鳴ってしまったことも恥ずかしいのに、あの子はそれすらも許してくれた。
ほんとに優しい。絶対私が悪いのに。『私にも非があったよね』なんて、全然そんなことない。
このままじゃ、私の心が申し訳なさで埋まっちゃう。
「ほんとに、今度絶対お詫びするから!絶対だよ約束だからね!」
スマホに向かって小指を向ける。この小指はあの子に誓うための指。
『うーん……じゃあ今週の日曜日、買い物行くの付き合ってほしいな』
しばらく考えたあと、あの子が申し訳なさそうに呟く。
今週の日曜日……。確か家族で出かける予定があったはず。
でも。
「今週の日曜日ね!」
絶対何があっても意地でも予定をあけよう。
真っ赤なペンを取りだして、壁にかかっているカレンダーに大きな丸をつける。
ぐるぐるに囲まれた日にち。絶対に逃げられないみたいに、数字の周りにすき間はなかった。
『ふふ、嬉しいな。デートだね』
心の底から嬉しそうな声を出して、あの子が笑う。
いつもみたいな甘い声。私しか知らない、あの子の一面。
「ねえ」
『なぁに?』
さっきまでの気持ちが嘘みたい。なんであんなに怒ってたんだろう。こんなにも私を信じてくれて、可愛くて、愛しくて、優しさで包んでくれる子が、私を裏切るなんてありえないのに。
スマホの画面を見る。あの子のアイコン。私と初めて遊びに行ったときの、プリクラだった。
思わず顔に笑みが浮かぶ。何回も見てるはずなのに、今日はなんだかいつもよりキラキラ輝いて見えた。
愛しい気持ちが溢れてくる。思わず大きな声で、私は言った。
「ずっと大好き!」
塾があるからって言ってたのに、私に嘘ついて、笑っていた。
「もうむり、あんな子嫌い、好きにならなきゃよかった」
鼻をぐずぐずいわせながら、誰がいるわけでもない壁に向かって言葉を吐く。
爪が食い込むくらい強く握りしめたティッシュ。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
あの子が、私に嘘をついた。
あの子が、私以外の子の隣で、笑っていた。
こんなに汚い顔で泣く理由は、それだけで充分だった。
「わたしだけとしか帰らないって、言ってたのに」
思い出してまた涙が出てくる。『これからはずっと一緒に帰ろうね』と言ったときの、あの子の笑顔。少し見上げた時に見える、あの子の瞳。帰り道に手を繋いだ時の、ちょっと冷たくて、でも温かい、あの子の温度。夕風に揺れるあの子の髪の毛。
ぜんぶぜんぶ、好きだったのに。
大好きな時間だったのに。
私だけのものだと思っていた宝物が、粉々に崩れていく音がした。
鼻水をかむ。ゴミ箱に向かって投げたティッシュは、弱々しいカーブを描いて落ちた。ゴミ箱には全然届いていなかった。
愛が重いのはわかってる。でも両思いになったときにそれを許してくれたのはあの子だ。強制なんてしていない。
私の嫉妬にも笑顔で応えてくれた。他の子と喋らないでと言った次の日には、私の隣まで来てくれた。それからは毎日ずっと、あの子の定位置は私の隣だ。
私はあの子を愛していたし、あの子も私も愛してくれてた。少なくとも、私はそうだと思ってた。
なのに今日、あの子の隣は私じゃなかった。
何もかもを奪われた気さえしてくる。いや、実際に奪われている。あの子は私の全てだから。
ずっと涙が止まらない。とめどなく溢れてくるそれを止めることができない。
ぼやけた視界で窓の向こうを見る。もう空もずいぶん暗くなっていて、夕暮れが向かいの家の輪郭をにじませていた。
涙がひと粒、頬を伝って落ちる。
枕はとっくの昔に、使いものにならなくなっていた。
泣くことしかできないのが悔しい。あのとき、あの子の近くに駆け寄っていれば、それでちょっとくらい叩いても、きっとバチは当たらなかったのに。
心にぽっかり穴が空いた気がして、それがただただ怖くて、心が黒くなっていく気がして。
気づくとその場から逃げ出していた。
「あのとき私を見つけてたら、あの子どんな顔したんだろ」
頭の中でぐるぐると、同じことばかり響いている。
あの子が他の子と帰っていた事実と、あの子に砕かれたわたしの心。
もう嫌いになりたいのに、嫌いになったほうが楽なのに。
あの子にもらったうさぎのぬいぐるみのお腹に顔をうずめる。ベッドの周りは、あの子にもらったものであふれていた。
いつもならこんな時、あの子に電話するのに。
今日はあの子のせいでこうなってるから、電話できる人もいない。
私って、ほんとになんにもない。
寝返りをうって天井を見る。
泣きすぎて疲れた。少しだけ目を閉じよう。
起きたらあの子のことも、忘れられてるかも。
夢の世界へ向かうのに、時間はあまりかからなかった。
スマホの着信音で夢から戻された。
まだ少しぽわぽわしている頭を働かせて、充電していたスマホを取り出す。画面を注意して見ることもなく、スピーカーのマークをタップした。
『もしもし?』
あの子の声だった。
冷水でもかけられたみたいに、急に思考がはっきりしてくる。それと同じ速さで、さっきまでのぐるぐるした気持ちが戻ってくるのを感じた。
「……なに」
『あのね、今日は一緒に帰れなくてごめんって言おうと思って。塾の時間調整してもらったから、明日からはずっと一緒に帰ろうね』
なにそれ。
なにそれなにそれなにそれ。
「……いらない」
『え?』
心の中が真っ黒になって、呼吸の仕方も忘れてしまいそうだった。
なんとも思ってないんだ、私に嘘ついたこと。
なんとも思ってないんだ、私の宝物を壊したこと。
思ってもないくせに。嘘のくせに。思ってもいない言葉なんか、嘘ばっかりの言葉なんか、
「ごめんなんかいらないよ!!」
思わず大きな声を出してしまう。スマホの向こう側のあの子は、私が急に怒り始めて驚いているみたいだった。
『どうしたの?なんで怒って……』
本当に理由がわからないみたいに、あの子は戸惑っている声をだす。
理由なんか、そんなの決まってるのに。
そんなの自分自身が一番わかってるはずなのに。
いつもは大好きな、私だけに向けられる少し甘ったるいあの子の声。今はただただ腹立たしかった。
「私、見たんだから、あんたが他の子と帰ってるとこ!ほんとにやだ、何でそんなことできるの?わたしがどんな気持ちになったかわかる?いつも私に好きだって言ってくれて、ギュッてしてくれたりするから、あぁ私のことこんなに好きでいてくれてるんだなって、だから私だって今日一緒に帰るの我慢したのに!他の子と帰ってるなんてひどいよ!!あんなに好きだって、愛してるって言ってくれたの、あれは嘘だったの?」
途中から、嗚咽をもらしながら喋っていた。
泣きながらでもいい、絶対に話し続けなければいけないと思った。私の気持ちが途切れたら、それこそ恥ずかしいことで、なにかに負けてしまう気がしたから。
少しの間、沈黙が私たちの隙間を埋める。私の泣き声と鼻をすする音だけが、気まずそうに流れては消えていった。
『……あのね、実はさ』
不意に、あの子が口を開く。
なにか言い訳でもする気なのかな。そうだとしても、聞いてなんかやらない。もう何も聞きたくない。
あの子が話し始める前に、耳をふさごうとした。
けど、一瞬遅かった。
『あれ、妹だよ』
……え?
いもうと……?
「ほんとにごめんなさい!」
『こっちこそごめん、紛らわしかったよね』
結局、あれはあの子と妹さんが一緒に歩いてるだけだった。それを私が見て、勘違いして、勝手に怒っていただけ。
あの子の優しさが、今だけは心に突き刺さって痛い。私の思い違いであの子に怒鳴ってしまったことも恥ずかしいのに、あの子はそれすらも許してくれた。
ほんとに優しい。絶対私が悪いのに。『私にも非があったよね』なんて、全然そんなことない。
このままじゃ、私の心が申し訳なさで埋まっちゃう。
「ほんとに、今度絶対お詫びするから!絶対だよ約束だからね!」
スマホに向かって小指を向ける。この小指はあの子に誓うための指。
『うーん……じゃあ今週の日曜日、買い物行くの付き合ってほしいな』
しばらく考えたあと、あの子が申し訳なさそうに呟く。
今週の日曜日……。確か家族で出かける予定があったはず。
でも。
「今週の日曜日ね!」
絶対何があっても意地でも予定をあけよう。
真っ赤なペンを取りだして、壁にかかっているカレンダーに大きな丸をつける。
ぐるぐるに囲まれた日にち。絶対に逃げられないみたいに、数字の周りにすき間はなかった。
『ふふ、嬉しいな。デートだね』
心の底から嬉しそうな声を出して、あの子が笑う。
いつもみたいな甘い声。私しか知らない、あの子の一面。
「ねえ」
『なぁに?』
さっきまでの気持ちが嘘みたい。なんであんなに怒ってたんだろう。こんなにも私を信じてくれて、可愛くて、愛しくて、優しさで包んでくれる子が、私を裏切るなんてありえないのに。
スマホの画面を見る。あの子のアイコン。私と初めて遊びに行ったときの、プリクラだった。
思わず顔に笑みが浮かぶ。何回も見てるはずなのに、今日はなんだかいつもよりキラキラ輝いて見えた。
愛しい気持ちが溢れてくる。思わず大きな声で、私は言った。
「ずっと大好き!」