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オリジナル



いつも夢を見る。
私は鳥みたいに自由で、どこにでも行ける、そんな夢。
草原は青々しく茂っていて、空ではそよ風が春を運んで、私は心から笑えていて。

お母さんは優しくて、ご飯は美味しくて、布団は暖かい。


そんな自由な夢を。
叶うことのない夢を見ていた。



――――――――――――――――――――――

「真紀ちゃん!」
私を呼ぶ声に気づき振り向く。少しゆるめのセーターにスカートを折って短くしたその子は、パタパタと足音を響かせながら近づいてきた。
「どうしたの?」
「あのね、真紀ちゃんに教えてもらえたおかげで、英語で八十点とれたの!」
本当にありがとう、とその子は愛嬌よく笑った。
ゆるく巻いたミルクティーみたいな色の髪の毛が風になびく。前髪は全く崩れなかった。
「そうなんだ、おめでとう。私でよかったらまた頼ってね」
当たり障りのない言葉を選び、笑みを顔に貼り付ける。
毛先がうなじをくすぐった。
そんな私に気づかず、その子は心底嬉しそうに飛び跳ね、私に抱きついた。
思わず体がこわばる。が、それを悟られないように、名前も分からない子を抱きしめ返した。
香水だろうか、薔薇かバニラのような甘ったるい匂いが鼻をくすぐる。
「ほんとに、ほんとにありがとう!真紀ちゃん大好き!」
「あはは、こちらこそありがとう。私も大好きだよ」
そっと手を体から離す。それに呼応するように、その子も体を離した。
少しだけ見えた爪は、桃色のネイルを塗っているらしかった。
「彼氏が待ってるからそろそろ行かなきゃ。またね!」
「うん、またね。気をつけてね」
その子は私のところまで来たときと同じように、パタパタ足音を出しながら元来た道を戻って行った。
小走りで廊下を渡るその子をぼうっと眺める。女の子の好きそうなものを詰め込んだ、女子高生の見本みたいな子だった。
私とは違う生き物のような気がした。
私もああなれたら、どれほど良かったか。
開けた窓から秋風が吹く。崩れる前髪を押えてその場を離れた。
学校を出るために下駄箱へ向かう。
季節外れの蝉が鳴いていた。






荷物が肩にくい込むように痛い。
一生続いているような坂道をのぼる。昨日の雨のせいで地面が少し濡れていた。
向かい風に煽られて木々がざわめく。私を追い出したいかのように、それは大きくてうるさかった。
鯖と、煮物と、お味噌汁。
今日の晩ご飯を考えながら足を一歩ずつ前に出す。何か考えていないと、この場から動けなくなるような気がした。
前を見る。色が落ちて薄汚い紺色の瓦。私の家だ。
一歩、一歩、確実に地面を押して進む。
壁に這ったツタが見える。伸びすぎて根っこも切れなくなった朝顔。周りの栄養を全て奪って、毒々しいほど色鮮やかに咲いていた。
門の前に立つ。スカートのポケットから鍵を探して、錠に差し込んだ。
錆びた音がして扉が開く。
誰もいない廊下をゆっくり歩く。
床の軋む音が響いた。人一人もろくに支えられない家。
珠のれんをくぐる。お酒の缶であふれたちゃぶ台。タバコの跡がついた畳で、死んだように寝転がっているお母さんがいた。
「ただいま、お母さん」
独り言のように呟いて、台所へ向かう。
ガラスに乱反射した光が入ってきていた。薄汚いコンロを照らす。
ずっと肩にかけていたエコバックを机の上に置く。自分で立つこともできないそれはすぐに倒れた。中からりんごが一つ、転がって床に落ちる。
制服のまま、晩ご飯の用意にとりかかる。今日は、鯖と、煮物と、お味噌汁。
適当に髪を留めて、袖をまくって手を洗う。水が皮膚の中に染み入るように痛かった。
六時半にご飯を食べて、八時にお風呂に入って、九時に布団に入る。これがお母さんのルーティンだ。
切り身で買っておいた鯖に切れ目を入れる。塩をふって、キッチンペーパーで水気を取った。
鯖を焼く前に煮物とお味噌汁の野菜を切る。お母さんは固いものが嫌いだから、できるだけ柔らかくなるように小さめに切っておくのが大事。
黙々と、時間から逃げるように料理に取りかかる。何も考えずにいられるこの時間は、そんなに嫌いじゃない。
聞こえるはずのない時計の針の音が、やけに響いて頭に流れた。
お味噌汁の出汁を昆布でとる。空いた時間で洗濯物をとりこんだ。
密閉されていた部屋に空気が入り込んでくる。釜で混ぜられたように、家の中に蒸し暑さが広がった。
横目でお母さんを見る。何も言わず、一寸も動かない私の母親。本当に、死んでいるのかもしれない。
周りにはスナック菓子の袋や、使われた後の割り箸が捨てられていた。
「・・・何見てんの」
お母さんの声にハッとする。気づけばお母さんはこちらを向いていた。
縄張りに部外者が入ってきたように、私を睨めつける。
その目に思わず体がこわばる。息の仕方が一瞬分からなくなった。
「ご、ごめん、なさい」
無意識にお母さんから目線を外した。潰れた蜘蛛が視界に映る。
耳が、畳の擦れる音を捕らえた。瞬間。
乾いた音が部屋に響いた。
「ごめんじゃねえんだよ!!」
頬を抑える暇もなく、お母さんは私の髪の毛を掴む。粘着テープみたいに、ぶちぶち音を立てて抜けてしまいそうなほど強く。
「人のことじろじろ見やがって、どうせあれだろ?こんな親嫌だとか思ってんだろ!目障りなんだよこの役たたず!」
上から飛んでくる飛沫と罵声。
お母さんは落ち着く素振りを見せず、髪の毛を天井に向かって引っ張りながら怒鳴り声をあげた。
髪の毛が数本ちぎれた感覚が頭皮から伝わる。
何を言っているのかは、もう聞き取れなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
顔を下に向けながら、謝ることしかできない。視界がぼやけて色が混ざる。
ぐらぐら揺らされる頭はいやでも涙を誘う。
飲み込んだ唾は血の味がした。
「私が、悪かったです、こんなこともできなくてごめんなさい」
私は今日、何ができなかったんだろう。
「お願いします許してください、もうこんなことしません」
私は今日、何をしてしまったんだろう。
お母さんの気が済むまで、謝罪の言葉を口から吐き出す。

一体どれほど経っただろう。
「この、糞が。恥さらし!」
その一言とともに、人形を地面に投げるように手が髪の毛から離れた。
お母さんが振り払った速さのまま、私の体が畳に転がる。摩擦で太ももが熱くなるのがわかった。
そんな私を見世物のように眺めてから、お母さんは元いた場所に戻っていった。もう一度、畳の擦れる音が聞こえる。
何も言わずに、音をたてないようにしてその場に立つ。
まだ少しぼやける視界で台所を探した。夕暮れで暗くなったそれは、さっきまでの暴力を見ていなかったかのように静かだった。
きっと誰も、さっきの私達を見ていない。
この小さな場所には、私とお母さんしかいない。
まるで牢屋だ。
ヒリヒリ痛む足を引きずって、台所へたどり着く。



鍋で沸騰した水が、台所で虚しく響いていた。
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