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オリジナル

「先輩!」
展示用の絵を描いていた手を止め、声のした方を向いた。そこには部活の後輩。
覚悟を決めたような顔をして、私の目を真っ直ぐ見つめている。
「先輩、好きです!私と付き合ってください!!」
校舎中に響き渡りそうな大声と共に、後輩は綺麗な九十度のお辞儀をした。
「だめ、ありきたり。あと声が大きすぎてうるさい」
間髪入れずにそう答える。後輩はお辞儀の姿勢のまま床に崩れ落ちた。
「そんな……」
この世の終わりみたいな声を出しながら、がっくりと肩を落としている。

うちの後輩には、好きな人がいる。なんと私の幼なじみ。何でも、オープンキャンパスで一目見た瞬間に好きになったんだとか。
私はあいつの何がいいのか全然分からないけれど、可愛い後輩の恋は応援してあげたい。できれば役に立ってあげたい。そう思って、『告白の練習』を提案したのだ。
ただ、その……うちの後輩は、あんまり、文才がないというか……とにかく下手なのだ、気持ちを伝えるのが。
今日のは自信があったらしい。確かに、いつもよりお辞儀にはキレがあった。お辞儀には。
あとは並だったけど。
「これじゃいつまで経っても告白できない……」
涙目になりながらそう呟く。うなだれる姿は子犬みたいで、後輩には悪いけどちょっと可愛い。
思わず頭を優しく撫でる。少しくせのついた髪の毛はオレンジのヘアピンで留められていて、触れると柔らかい感じがする。少しびっくりしたように、後輩はこっちに顔を向けた。
「ほら、いつまで座ってるのよ。スカート汚れちゃうわよ」
「うぅ〜、先輩優しい……」
そう言って私の手を支えに立ち上がる。あぁほら、スカートに埃ついちゃってるじゃない。
「告白するなら、まず身だしなみに気をつけないとね」
スカートの埃を払い、ついでによれていたスカーフを直す。
「えへへ、ありがとうございます」
後輩は少し頬を赤らめ、えくぼを浮かべて笑った。
「告白の練習はまた今度。先に展示用の絵、描き終えちゃいましょう」
「了解です!」
パタパタと足音を響かせて、後輩はキャンバスの前に戻る。描きかけのハイビスカス。夏休みに行った家族旅行で見かけたらしい。毒々しいほどの赤色は、少し埃っぽい教室には不相応なほど鮮やかだった。
筆の流れる音だけが教室に響く。後輩の方を見ると、口を固く結んでキャンバスに向き合っていた。筆だけが休むことなく動いている。
どこかで吹奏楽部の合奏が聞こえる。アルトサックスの音が、微かに教室の中に入ってきた。もうすぐ文化祭だからだろう、いつもより気合いが入っている気がする。
今私達が描いているのも、文化祭で展示する予定の絵だ。毎年テーマが違っていて、今年のテーマは『花』だった。
キャンバスの中の花を眺める。紫色の菫。道端で咲いている姿が凛としていて、見かけるといつも写真を撮ってしまう。
開けっ放しの窓から風が吹いてくる。銀木犀の香りが風に乗って、教室の中に溶けていった。


「先輩、今日やるところまでできました」
後輩の声で現実に戻る。いけない、集中しすぎていた。
時計を見ると五時半になっていた。下校時刻まであと十五分。
「わ、もうこんな時間……早く片付けて帰りましょうか」
よく見ると後輩はもう片付けも終えていて、どうやら私の絵のキリがいいところまで待っていてくれたらしい。ちょっと悪いことしちゃったな。
筆を手洗い場で洗う。まだ秋とはいえ、夕方になると気温も下がるし風も吹く。生徒の何人かは、セーラー服の上にセーターや上着を羽織っていた。そんなときに冷水を使うのは、やっぱり何度やったって慣れそうにない。
薄く紫に染まった水が、冷たさが、指先に刺さる。外を見ると、夕暮れはもう沈みかけていた。
「先輩、教室の鍵かけときましたよ!」
後ろを見ると、後輩が手に鍵を持ってにこにこ笑っている。
よく見ると、頬のところに赤い絵の具がついていた。その無邪気な姿が可愛くて、つい微笑んでしまう。
「ありがとう。私ももう洗い終わるから、一緒に職員室に返しに行きましょう」
すっかり色の落ちた筆を、筆立ての中に入れた。
職員室に鍵を返しに行く。
すっかり暗くなった廊下に、職員室の光が漏れている。それだけで結構安心する。
外に出るとさっきまで滲んでいた夕日も、もう見えなくなっていた。
「あっ」
ふと、後輩が声をあげる。目線の方を見ると、そこには月が浮かんでいた。
夜の暗闇には不釣り合いなくらいの輝き。あまりに大きくて、どこも欠けていない。
「すごいわね……」
思わず声に出る。横にいる後輩は、首が取れちゃうんじゃないかなってくらい大きく頷いていた。
「こんなに大きい月初めて見ました!」
目を輝かせて、子供みたいに大きく笑う。その姿に、思わず私も笑みがこぼれる。
後輩が、月に近づこうとするみたいに道を駆けていく。あの子だったら本当に月まで行けちゃうかも、そんなふうに思ってしまう。
私は月まで行けないからかな。
「先輩!」
後輩が振り向く。ぼうっと後輩の後ろ姿を見ていた私と目が合う。
月の光に照らされた後輩は、どこか儚くて。
目を離すとどこかに消えてしまうような気さえした。
えくぼを作って笑うと、後輩が口を開けた。
「月が綺麗ですね」
……あーあ。
なんにも知らないんだろうな、この子は。
後輩の純粋で無垢な性格が、今だけは恨めしい。
別にこの気持ちに気づいてほしいわけじゃないし、寧ろ気づいてほしくないって思ってるけど。
でも、それでも。
こんなのなんの意味も持ってないって、私しかこんな気持ちになってないって、分かってるのに。
分かってても、嬉しい。
分かってるから、虚しい。
「……先輩?」
後輩の心配するような声にハッとする。
「あっ、ごめんね、ちょっとぼうっとしてたみたい。そうね……綺麗だと、思うわ」
「ですよね!写真撮っとこうかな……」
スマホを取り出して、写真を撮る後輩。
こんなにも綺麗な子が欠けることなんて、あってはならないから。だから、私は、自分の気持ちに蓋をするんだ。
それが私にできる応援だから。
「……私だったら、死んでもいいわ」
「? 先輩何か言いました?」
「何も?ほら、写真撮ったら早く帰りましょう」
月の光が後輩の行く道を照らしていた。

酷く眩しい光だった。
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