原作未来編ifルート
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夢のような、しかし夢でないことだけははっきり分かる出来事が、山本の頭の中に残っている。
10年前の己が経験した、苦い敗北と痛みの残る勝利。それらは不思議と新鮮なままで刻み込まれていた。
明らかに変わった世界の中で山本をはじめ、10年前と入れ替わったり、それに深く関わったメンバーは、消えたはずの悲惨な世界と、そうではない比較的平和な世界という2つの記憶を抱えたままだった。
混乱の残る中で山本が真っ先に向かった自宅では、死んでいたはずの父がいつも通り笑顔で出迎えてくれた。
家に飛び込んできて顔を見るなり、でかい図体で嗚咽を漏らした息子に、心底驚いていた父の顔。今なら思い出して笑うことができる。
着実に残りの工事が進んでいく並盛の地下拠点を歩いていると、ボーッと廊下の貼り紙を眺めるレイを見つけた。
山本達が戻った数日後に、レイは拠点に戻ってきた。彼女はツナを見るなり無言で詰め寄り、その顔面を拳で一発殴った。
そして倒れ込んだツナの胸倉を掴み、どすの利いた声で「あんな風に置いていくなら、最初にボクを殺してからやれ」と言い放った。
普段ならばツナに手を上げた時点で声を荒げる獄寺も、宥めて止める山本も、ただその様子を静観していた。
2人もレイより先にツナに手を出したので、口を出す権利はない。
それにレイが日本にやってきたのは中学三年生、つまり、10年前の中学二年生の時点でツナたちと出会っていなかった。だからこそ、仲間が、友人が10年前の彼らと次々に入れ替わる中で、彼女は1人でこの時代に取り残されていたのだ。
たった1年会うのが遅かった。
それだけのことで、あの諸々に立ち会うことなく部外者でいるしかなかった。下手をしたら、彼女のここまでの人生に大きな空白ができるところだった。その恐怖は察するに余りある。
だから止めなかったし、ツナもその拳を甘んじて受け入れているようだった。
その後レイは少し鼻をすすってから「おかえり」と言い、ツナの「ただいま、ごめんな」という言葉をもって手打ちにした。
そして以降は何事もなかったかのように仕事をし、拠点内を動き回っていた。
今の彼女は見たところ、何か急ぎの仕事があるわけではなさそうだ。
「瀬切」
声を掛ければ、彼女はパッとこちらを振り向いて笑顔を浮かべた。ツナが、皆が戻ってきたからか、あの夜にあった被膜は、もうない。
前と同じように友人として、そしてほんの少し隠し切れない好意をにじませた、温かい目をしている。
「山本。どうした?」
特に何か抱えているようには見えなかった。
あの夜を忘れているというわけではないだろうが、レイの中では終わったことにしているのかもしれない。
でも、山本にそのつもりはなかった。
「時間あるか?少し話したいことがある」
山本の質問に、レイはわずかばかりの逡巡を見せた。そして「時間はある」と答えて、山本について歩き出した。
複数の構成員とすれ違ったが、誰も気にしない。守護者と重鎮、そして一部の信頼が置ける面々を除き、ほとんどの構成員にはレイが男だと言っている。彼女の身長や見た目からそれを疑う者はほぼいない。
山本とレイの関係性も普通の男友達と思われており、だからこそ気兼ねなく自室まで連れてこられた。
あの夜は躊躇いなく入ってきたレイが、今は入り口で立ち止まっている。
「瀬切、入れよ」
呼び掛ければ、レイは居心地悪そうにゆっくり部屋に入ってきた。あの日と逆だなぁ、と呑気に考える。
何かされると警戒されているわけではなさそうで、そこの信頼は損ねていないことに安堵する。
立ちすくんでいるレイを前に、自分だけ椅子やベッドに腰掛けるのも気が引けて、立ったまま口を開く。
「世界が変わる前、瀬切がここを出てった前のことだけどな」
小細工は苦手だから、真正面から切り出す。
レイはなんとなく予想がついていたのか、苦笑しながら言った。
「ああ。あれは、まあ……、忘れてくれ。色々と重なってヤケを起こしてたんだ。わかるだろ?」
付き合い自体は長いので、その回答の予想はついていた。
「そう言うと思った」と口にはしながらも、山本は踏み込む。
「でもオレは無かったことにしたくねぇんだよ。瀬切のこと、ずっと好きだったから」
躊躇いは一切なかった。
ただただ、胸の内を隠さず目の前の相手に渡すだけだった。
山本の気持ちを明け渡されたレイは硬直し、そして迷うような表情を見せた。
驚いている様子はない。やはり山本の気持ちは分かっていたのだ。逆も同じだったように。
ならば、駆け引きなんて無意味なことだった。直球勝負でいかせてもらう。
「オレさ、多分この先一生瀬切のこと好きなままだ。だから一緒にいてくれよ」
思ったことを口に出せば、意図せずプロポーズのような物言いになってしまった。
まあいいだろう。本音なのだから。
が、今度こそレイの動揺は大きかった。
「いや、ボクが人間じゃないことは知ってるだろ?」
震えて上擦った声が部屋に響く。
その顔に浮かぶのは、『困惑』だとか『恐れ』と銘打たれるものだ。
「恋人くらいならいいけど、一生って、流石にそれは」
「なんで恋人くらいならいいんだ?」
無意識に落としたであろう言葉をあえて拾う。レイは山本のあえての行為にすら気付けず、必死に言葉を続けていた。
「だって、セックスくらいはできるけど、ボクは子どもを産めない。何よりプロ野球選手のお相手が反社はダメだろ。嫌だ、ボクはキミの弱みになりたくない」
軽いパニックを起こしているのか、変なことまで口走っている。
お相手が反社だとかも、山本本人が反社の構成員どころか幹部なのに何を言っているのかと、少し笑いそうになる。
でも、そんなことで引いてやることはできない。
「じゃあ、オレのこと好きかどうかだけでも教えてくれよ」
学生の頃なら、いや、あの消えていった世界線を知らなければ。ここまで狼狽えているレイを前にしたら、流石に足踏みをしたことだろう。
しかし、山本は知ってしまった。
喪失がまとわりつく絶望を。
妙な躊躇いのせいで、その手を掴むことすらできない虚しさを。
気持ち一つ伝えられずに見送ってしまった後悔を。
知ってしまった、刻み込まれてしまった。
だから、もう止まれなかった。
「好きか、そうじゃないか。それだけでいい」
レイは、目を丸くして口を半開きにしたままでフリーズしてしまった。
申し訳ないことをしている自覚はある。山本も人のことは言えないが、彼女は明らかに恋愛について不慣れだ。
それでもあの夜、レイの方から踏み込んできてくれた。仮にその理由が『2度目を迎えられる確率が限りなく低いから』というネガティブで投げやりなものであってもだ。
だからこそ、今度は山本がその手を掴みに行かなければならない。
行動すら起こさないままで何もかも見送るのは、もう嫌だった。
きっとここを逃したら、もう一生レイとこういった話はできない。
だから引けない。
もしもレイが山本への好意を認めないのなら、その時は山本も大人しく引き下がるつもりだった。
隠せていないことが分かっていてもなお嘘を貫くというのなら、それは信念に値するものだからだ。
どうするのだろうと、山本は内心を不安と期待に苛まれながらレイの様子を伺う。
彼女は浅い呼吸を繰り返しながらも、黒い目だけは山本の目を見ていた。
不意にゆらり、と瞳が揺れて、ぽろりと一粒涙が落ちた。
そしてその一粒をきっかけに、レイから次へと涙をこぼしはじめた。
頬を流れて顎から落ちていく雫に、山本は慌てた。
レイが目に涙を滲ませたり、あるいはおそらく泣いているが顔を隠しているようなところであれば何度か遭遇したことがある。
しかし、こんな風に目の前で呼吸と肩を震わせながら涙を流す姿は見たことがなかった。
やってしまった。追い詰め過ぎてしまった。こんなことがしたかったわけではないのに。
謝ろうとした、その時だった。
「好きだよ」
涙で濡れそぼった声が、ぼとりと部屋に落ちた。開きかけた山本の口が固まる。
「好きだけど、どうしたらいいのか分からない……」
ひく、と喉の奥をひきつらせながらも、レイは山本に伝えようとしてくれる。
「ずっと好きなだけだったんだ。それで十分だったのに。こんなのどうしたらいいか分からない。キミが何をしたいのかも分からない」
普段の凛然とした姿からは想像もつかないほど、幼くて弱々しい言葉と声で、レイは山本に助けを求めていた。胸の前で両手を握り締め、必死に震えを抑えようとしている。
山本は石になってしまったような腕を持ち上げて、レイの頬に触れる。指で涙を拭っても追いつかなかった。
これでは涙を拭っているのか、塗り広げているだけなのか分からない。
レイの目尻を人差し指でそっと撫でながら、言葉を喉から押し出した。
「オレは、もう後悔したくない」
別れ際のキスと言葉に、何一つまともに返せなかったあの日を思い出す。
「結婚とか、もっと将来のこととか、そこは正直オレもまだわかんねぇよ。……でも、お前を見送った時に『もっと早く気持ちを伝えればよかった』って思っちまった。オレが瀬切を好きで、瀬切もオレを好きでいてくれたことを知ってたのに、ずっと有耶無耶にしてたのを後悔した」
言葉もなく、ただ体を重ねた夜を思い出す。
「恋人でもなんでもいい。とにかく、オレは瀬切との関係に名前が欲しい」
学生の頃、何度も言葉を飲み込んだことを思い出す。
「『オレらは結局何だったんだろう』と思いながら、死にたくない」
こんな気持ちを抱くだなんて思いもしなかった、イタリアでの出会いを思い出す。
人生とは、こうもままならないものだったのだ。
気持ち一つ伝えるだけなのに、こんなにも時間がかかってしまった。
「…関係」
レイが声を震わせながら言う。
「『仲間』とか『ファミリー』とかがある。それにボクらは友達だろ?」
ここまできて、まだ逃げ道を探そうとするしぶとさに少し舌を巻く。
そして、その意地すらも愛おしいと思って、そんな己に苦笑するしかなかった。
「悪い。さっき『なんでもいい』っつったけど、それじゃあ足りない。オレは嫌だ」
山本は諦めた。取り繕うことはもうやめた。
彼女との間に、特別な何かが欲しい。
これまで無為にした時間を取り戻すことなどできないからこそ、今すぐにでも。
レイの目から、また新しく涙が落ちて、その体が動く。
どん、と肩の辺りに何かがぶつかってきた。
驚いて視線を少しだけ下にやれば、黒くて短い髪が山本の肩口に押し付けられている。
「一緒にいてほしい」
世界が止まる。
「名前はなんだっていい。キミへの気持ちを我慢しなくていいなら、もうなんだっていい。ボクだってずっと山本のことが好きだったんだ」
背中に回った腕が震えながらも、ぎゅう、と山本にしがみついている。
「一緒にいたい」
小さくて、震えていて、くぐもっていて、それでもしっかりと鼓膜を打つその願いに、山本は釣られて泣きそうになる。
震えてしまいそうな声をを意地で押さえ込み、「じゃあ、まずは恋人だ」と明るく宣言する。
そして、レイの体を遠慮なく抱き締めた。
10年前の己が経験した、苦い敗北と痛みの残る勝利。それらは不思議と新鮮なままで刻み込まれていた。
明らかに変わった世界の中で山本をはじめ、10年前と入れ替わったり、それに深く関わったメンバーは、消えたはずの悲惨な世界と、そうではない比較的平和な世界という2つの記憶を抱えたままだった。
混乱の残る中で山本が真っ先に向かった自宅では、死んでいたはずの父がいつも通り笑顔で出迎えてくれた。
家に飛び込んできて顔を見るなり、でかい図体で嗚咽を漏らした息子に、心底驚いていた父の顔。今なら思い出して笑うことができる。
着実に残りの工事が進んでいく並盛の地下拠点を歩いていると、ボーッと廊下の貼り紙を眺めるレイを見つけた。
山本達が戻った数日後に、レイは拠点に戻ってきた。彼女はツナを見るなり無言で詰め寄り、その顔面を拳で一発殴った。
そして倒れ込んだツナの胸倉を掴み、どすの利いた声で「あんな風に置いていくなら、最初にボクを殺してからやれ」と言い放った。
普段ならばツナに手を上げた時点で声を荒げる獄寺も、宥めて止める山本も、ただその様子を静観していた。
2人もレイより先にツナに手を出したので、口を出す権利はない。
それにレイが日本にやってきたのは中学三年生、つまり、10年前の中学二年生の時点でツナたちと出会っていなかった。だからこそ、仲間が、友人が10年前の彼らと次々に入れ替わる中で、彼女は1人でこの時代に取り残されていたのだ。
たった1年会うのが遅かった。
それだけのことで、あの諸々に立ち会うことなく部外者でいるしかなかった。下手をしたら、彼女のここまでの人生に大きな空白ができるところだった。その恐怖は察するに余りある。
だから止めなかったし、ツナもその拳を甘んじて受け入れているようだった。
その後レイは少し鼻をすすってから「おかえり」と言い、ツナの「ただいま、ごめんな」という言葉をもって手打ちにした。
そして以降は何事もなかったかのように仕事をし、拠点内を動き回っていた。
今の彼女は見たところ、何か急ぎの仕事があるわけではなさそうだ。
「瀬切」
声を掛ければ、彼女はパッとこちらを振り向いて笑顔を浮かべた。ツナが、皆が戻ってきたからか、あの夜にあった被膜は、もうない。
前と同じように友人として、そしてほんの少し隠し切れない好意をにじませた、温かい目をしている。
「山本。どうした?」
特に何か抱えているようには見えなかった。
あの夜を忘れているというわけではないだろうが、レイの中では終わったことにしているのかもしれない。
でも、山本にそのつもりはなかった。
「時間あるか?少し話したいことがある」
山本の質問に、レイはわずかばかりの逡巡を見せた。そして「時間はある」と答えて、山本について歩き出した。
複数の構成員とすれ違ったが、誰も気にしない。守護者と重鎮、そして一部の信頼が置ける面々を除き、ほとんどの構成員にはレイが男だと言っている。彼女の身長や見た目からそれを疑う者はほぼいない。
山本とレイの関係性も普通の男友達と思われており、だからこそ気兼ねなく自室まで連れてこられた。
あの夜は躊躇いなく入ってきたレイが、今は入り口で立ち止まっている。
「瀬切、入れよ」
呼び掛ければ、レイは居心地悪そうにゆっくり部屋に入ってきた。あの日と逆だなぁ、と呑気に考える。
何かされると警戒されているわけではなさそうで、そこの信頼は損ねていないことに安堵する。
立ちすくんでいるレイを前に、自分だけ椅子やベッドに腰掛けるのも気が引けて、立ったまま口を開く。
「世界が変わる前、瀬切がここを出てった前のことだけどな」
小細工は苦手だから、真正面から切り出す。
レイはなんとなく予想がついていたのか、苦笑しながら言った。
「ああ。あれは、まあ……、忘れてくれ。色々と重なってヤケを起こしてたんだ。わかるだろ?」
付き合い自体は長いので、その回答の予想はついていた。
「そう言うと思った」と口にはしながらも、山本は踏み込む。
「でもオレは無かったことにしたくねぇんだよ。瀬切のこと、ずっと好きだったから」
躊躇いは一切なかった。
ただただ、胸の内を隠さず目の前の相手に渡すだけだった。
山本の気持ちを明け渡されたレイは硬直し、そして迷うような表情を見せた。
驚いている様子はない。やはり山本の気持ちは分かっていたのだ。逆も同じだったように。
ならば、駆け引きなんて無意味なことだった。直球勝負でいかせてもらう。
「オレさ、多分この先一生瀬切のこと好きなままだ。だから一緒にいてくれよ」
思ったことを口に出せば、意図せずプロポーズのような物言いになってしまった。
まあいいだろう。本音なのだから。
が、今度こそレイの動揺は大きかった。
「いや、ボクが人間じゃないことは知ってるだろ?」
震えて上擦った声が部屋に響く。
その顔に浮かぶのは、『困惑』だとか『恐れ』と銘打たれるものだ。
「恋人くらいならいいけど、一生って、流石にそれは」
「なんで恋人くらいならいいんだ?」
無意識に落としたであろう言葉をあえて拾う。レイは山本のあえての行為にすら気付けず、必死に言葉を続けていた。
「だって、セックスくらいはできるけど、ボクは子どもを産めない。何よりプロ野球選手のお相手が反社はダメだろ。嫌だ、ボクはキミの弱みになりたくない」
軽いパニックを起こしているのか、変なことまで口走っている。
お相手が反社だとかも、山本本人が反社の構成員どころか幹部なのに何を言っているのかと、少し笑いそうになる。
でも、そんなことで引いてやることはできない。
「じゃあ、オレのこと好きかどうかだけでも教えてくれよ」
学生の頃なら、いや、あの消えていった世界線を知らなければ。ここまで狼狽えているレイを前にしたら、流石に足踏みをしたことだろう。
しかし、山本は知ってしまった。
喪失がまとわりつく絶望を。
妙な躊躇いのせいで、その手を掴むことすらできない虚しさを。
気持ち一つ伝えられずに見送ってしまった後悔を。
知ってしまった、刻み込まれてしまった。
だから、もう止まれなかった。
「好きか、そうじゃないか。それだけでいい」
レイは、目を丸くして口を半開きにしたままでフリーズしてしまった。
申し訳ないことをしている自覚はある。山本も人のことは言えないが、彼女は明らかに恋愛について不慣れだ。
それでもあの夜、レイの方から踏み込んできてくれた。仮にその理由が『2度目を迎えられる確率が限りなく低いから』というネガティブで投げやりなものであってもだ。
だからこそ、今度は山本がその手を掴みに行かなければならない。
行動すら起こさないままで何もかも見送るのは、もう嫌だった。
きっとここを逃したら、もう一生レイとこういった話はできない。
だから引けない。
もしもレイが山本への好意を認めないのなら、その時は山本も大人しく引き下がるつもりだった。
隠せていないことが分かっていてもなお嘘を貫くというのなら、それは信念に値するものだからだ。
どうするのだろうと、山本は内心を不安と期待に苛まれながらレイの様子を伺う。
彼女は浅い呼吸を繰り返しながらも、黒い目だけは山本の目を見ていた。
不意にゆらり、と瞳が揺れて、ぽろりと一粒涙が落ちた。
そしてその一粒をきっかけに、レイから次へと涙をこぼしはじめた。
頬を流れて顎から落ちていく雫に、山本は慌てた。
レイが目に涙を滲ませたり、あるいはおそらく泣いているが顔を隠しているようなところであれば何度か遭遇したことがある。
しかし、こんな風に目の前で呼吸と肩を震わせながら涙を流す姿は見たことがなかった。
やってしまった。追い詰め過ぎてしまった。こんなことがしたかったわけではないのに。
謝ろうとした、その時だった。
「好きだよ」
涙で濡れそぼった声が、ぼとりと部屋に落ちた。開きかけた山本の口が固まる。
「好きだけど、どうしたらいいのか分からない……」
ひく、と喉の奥をひきつらせながらも、レイは山本に伝えようとしてくれる。
「ずっと好きなだけだったんだ。それで十分だったのに。こんなのどうしたらいいか分からない。キミが何をしたいのかも分からない」
普段の凛然とした姿からは想像もつかないほど、幼くて弱々しい言葉と声で、レイは山本に助けを求めていた。胸の前で両手を握り締め、必死に震えを抑えようとしている。
山本は石になってしまったような腕を持ち上げて、レイの頬に触れる。指で涙を拭っても追いつかなかった。
これでは涙を拭っているのか、塗り広げているだけなのか分からない。
レイの目尻を人差し指でそっと撫でながら、言葉を喉から押し出した。
「オレは、もう後悔したくない」
別れ際のキスと言葉に、何一つまともに返せなかったあの日を思い出す。
「結婚とか、もっと将来のこととか、そこは正直オレもまだわかんねぇよ。……でも、お前を見送った時に『もっと早く気持ちを伝えればよかった』って思っちまった。オレが瀬切を好きで、瀬切もオレを好きでいてくれたことを知ってたのに、ずっと有耶無耶にしてたのを後悔した」
言葉もなく、ただ体を重ねた夜を思い出す。
「恋人でもなんでもいい。とにかく、オレは瀬切との関係に名前が欲しい」
学生の頃、何度も言葉を飲み込んだことを思い出す。
「『オレらは結局何だったんだろう』と思いながら、死にたくない」
こんな気持ちを抱くだなんて思いもしなかった、イタリアでの出会いを思い出す。
人生とは、こうもままならないものだったのだ。
気持ち一つ伝えるだけなのに、こんなにも時間がかかってしまった。
「…関係」
レイが声を震わせながら言う。
「『仲間』とか『ファミリー』とかがある。それにボクらは友達だろ?」
ここまできて、まだ逃げ道を探そうとするしぶとさに少し舌を巻く。
そして、その意地すらも愛おしいと思って、そんな己に苦笑するしかなかった。
「悪い。さっき『なんでもいい』っつったけど、それじゃあ足りない。オレは嫌だ」
山本は諦めた。取り繕うことはもうやめた。
彼女との間に、特別な何かが欲しい。
これまで無為にした時間を取り戻すことなどできないからこそ、今すぐにでも。
レイの目から、また新しく涙が落ちて、その体が動く。
どん、と肩の辺りに何かがぶつかってきた。
驚いて視線を少しだけ下にやれば、黒くて短い髪が山本の肩口に押し付けられている。
「一緒にいてほしい」
世界が止まる。
「名前はなんだっていい。キミへの気持ちを我慢しなくていいなら、もうなんだっていい。ボクだってずっと山本のことが好きだったんだ」
背中に回った腕が震えながらも、ぎゅう、と山本にしがみついている。
「一緒にいたい」
小さくて、震えていて、くぐもっていて、それでもしっかりと鼓膜を打つその願いに、山本は釣られて泣きそうになる。
震えてしまいそうな声をを意地で押さえ込み、「じゃあ、まずは恋人だ」と明るく宣言する。
そして、レイの体を遠慮なく抱き締めた。
