新風(6月)
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おまけ
ぼんやりしてしまう山本の話。
道場の後片付けをしているときのことだった。
ふと小さな歌声が耳に入った山本は、動きを止めて音の出所を見る。ここにいるのは山本とレイしかいない。だから歌声の主はレイしかいない。
歌とは言っても鼻歌で、メロディだけが小さくころころと鼓膜を打つ。
そのメロディはどこかで聞いた気もするが、ピンとくるものがない。
穏やかで、そんなに難しくなく、音楽に大した興味のない山本でも何度か聞けば覚えられそうな短いメロディだった。イタリアの曲だろうか。
それをレイは繰り返し歌っている。恐らく大した理由なく、なんとなく歌っている。
そして、山本に聞こえているとは欠片も思っていないのだろう。隅の方に残った足跡をモップで拭く背中に、変な力は入っていない。
普段とは違って高くて軽やかな細い声。音楽の授業で一度聞いた歌声とも違う声。特別上手くなく、少しふわついているのに、どこか心地よい声。
その少年のような見た目からはちょっと想像の付かない声に、山本は思ったよりも意識を奪われていた。
そして、ボ、という音が足元で響く。よそ見をしていたら、ずいぶんと近くにあった自身のエナメルバックを蹴っ飛ばしていたようだ。
鼻歌は止まり、レイがこちらを向く。
「どうした?」
女子にしては低めで芯のある、いつもの声が飛んできた。
「わり、よそ見してたらカバン蹴っちまった」
そう返せば、彼女は「そっか。じゃあ、これ片付けてくる」とあっさり納得して、モップを持ち上げて歩き始めた。
歌は止んだままだ。
「瀬切」
なんとなく名残惜しくて呼び掛けると、レイは素直にこちらを向く。しかしやはり鼻歌は再開されない。
なんでもない、と返せば、レイは不思議そうにしながらもすぐにモップの埃を落とし始めた。
もう、さっきの鼻歌は出てこない。もったいないことをしてしまった。
『竹寿司』と書かれた暖簾をくぐって自宅に入る。
すでに客がいた。今年7歳になる女の子がいる家庭だ。
女の子の祖父に当たる人が常連で、たまに息子夫婦を連れて店に来てくれる。今日は息子夫婦と一人娘だけのようだ。
こんちわ、と軽く挨拶をして、そして足が止まった。
女の子が足をプラプラさせながら歌っていたそのメロディは、少し前に聞いたそれと同じものだった。
「なあ、その歌何の歌なんだ?」
何度か顔を合わせているからか、急に声をかけても女の子は警戒を見せなかった。素直にアニメのタイトルを教えてくれる。
聞いたことのないタイトルのアニメだ。
不思議そうな顔をしている山本に、女の子の母親が助け舟を出してくれた。
「教育テレビの5分アニメなの。この子、それが好きで」
「へぇ」
「おにいちゃん知らないの?」
「アニメは知らねぇや。でもその曲は、今日ダチが歌ってるの聞いたから知ってたぜ」
そう返せば、女の子は自分の好きなエピソードと、何曜日の何時何分からやっているかを細かく教えてくれた。
自室に上がり、荷物を置いてテレビの電源を入れ、久しぶりに教育テレビをつけた。
普段からプロ野球の試合でもなければ集中してテレビを見ないし、教育テレビなんて甲子園の時期でもなければ基本付けない。
それでもなんとなく気になってしまった。
もちろん、今ちょうど例のアニメがやっているわけもない。テレビに映っているのは、乳幼児向けの番組だ。
ぼんやりと眺めていると、自分でも知っている着ぐるみのキャラクターが、相棒の女の子と知らない曲を歌って踊りはじめた。
レイは教育テレビを観るのか。
いや、恐らくレイ自身が自発的に観ているのではなく、あの家にいるランボやイーピンに巻き込まれる形で観ているのだろう。リビングのリモコン戦争について、過去にツナが愚痴っていたのを思い出す。
何となく、彼女とフゥ太はリモコンを人に譲っていそうなイメージがある。特にレイは自分が見たい番組を特に持っておらず、誰かが見たいものを一緒に眺めているような気がする。
ランボかイーピンがリモコンを握っているリビングにレイがいて、あのアニメに何度か遭遇して、なんとなく曲を気に入って、覚えて。そして、ああして口ずさんでいた。
レイの自宅での過ごし方、 そしてあのメロディを気に入るという感性。
ほとんどが山本の妄想でしかない。
だというのに、まだ知らない彼女の一端に意図せず触れてしまったような気がして、 山本は勝手に気恥ずかしくなって目を泳がせた。
ぼんやりしてしまう山本の話。
道場の後片付けをしているときのことだった。
ふと小さな歌声が耳に入った山本は、動きを止めて音の出所を見る。ここにいるのは山本とレイしかいない。だから歌声の主はレイしかいない。
歌とは言っても鼻歌で、メロディだけが小さくころころと鼓膜を打つ。
そのメロディはどこかで聞いた気もするが、ピンとくるものがない。
穏やかで、そんなに難しくなく、音楽に大した興味のない山本でも何度か聞けば覚えられそうな短いメロディだった。イタリアの曲だろうか。
それをレイは繰り返し歌っている。恐らく大した理由なく、なんとなく歌っている。
そして、山本に聞こえているとは欠片も思っていないのだろう。隅の方に残った足跡をモップで拭く背中に、変な力は入っていない。
普段とは違って高くて軽やかな細い声。音楽の授業で一度聞いた歌声とも違う声。特別上手くなく、少しふわついているのに、どこか心地よい声。
その少年のような見た目からはちょっと想像の付かない声に、山本は思ったよりも意識を奪われていた。
そして、ボ、という音が足元で響く。よそ見をしていたら、ずいぶんと近くにあった自身のエナメルバックを蹴っ飛ばしていたようだ。
鼻歌は止まり、レイがこちらを向く。
「どうした?」
女子にしては低めで芯のある、いつもの声が飛んできた。
「わり、よそ見してたらカバン蹴っちまった」
そう返せば、彼女は「そっか。じゃあ、これ片付けてくる」とあっさり納得して、モップを持ち上げて歩き始めた。
歌は止んだままだ。
「瀬切」
なんとなく名残惜しくて呼び掛けると、レイは素直にこちらを向く。しかしやはり鼻歌は再開されない。
なんでもない、と返せば、レイは不思議そうにしながらもすぐにモップの埃を落とし始めた。
もう、さっきの鼻歌は出てこない。もったいないことをしてしまった。
『竹寿司』と書かれた暖簾をくぐって自宅に入る。
すでに客がいた。今年7歳になる女の子がいる家庭だ。
女の子の祖父に当たる人が常連で、たまに息子夫婦を連れて店に来てくれる。今日は息子夫婦と一人娘だけのようだ。
こんちわ、と軽く挨拶をして、そして足が止まった。
女の子が足をプラプラさせながら歌っていたそのメロディは、少し前に聞いたそれと同じものだった。
「なあ、その歌何の歌なんだ?」
何度か顔を合わせているからか、急に声をかけても女の子は警戒を見せなかった。素直にアニメのタイトルを教えてくれる。
聞いたことのないタイトルのアニメだ。
不思議そうな顔をしている山本に、女の子の母親が助け舟を出してくれた。
「教育テレビの5分アニメなの。この子、それが好きで」
「へぇ」
「おにいちゃん知らないの?」
「アニメは知らねぇや。でもその曲は、今日ダチが歌ってるの聞いたから知ってたぜ」
そう返せば、女の子は自分の好きなエピソードと、何曜日の何時何分からやっているかを細かく教えてくれた。
自室に上がり、荷物を置いてテレビの電源を入れ、久しぶりに教育テレビをつけた。
普段からプロ野球の試合でもなければ集中してテレビを見ないし、教育テレビなんて甲子園の時期でもなければ基本付けない。
それでもなんとなく気になってしまった。
もちろん、今ちょうど例のアニメがやっているわけもない。テレビに映っているのは、乳幼児向けの番組だ。
ぼんやりと眺めていると、自分でも知っている着ぐるみのキャラクターが、相棒の女の子と知らない曲を歌って踊りはじめた。
レイは教育テレビを観るのか。
いや、恐らくレイ自身が自発的に観ているのではなく、あの家にいるランボやイーピンに巻き込まれる形で観ているのだろう。リビングのリモコン戦争について、過去にツナが愚痴っていたのを思い出す。
何となく、彼女とフゥ太はリモコンを人に譲っていそうなイメージがある。特にレイは自分が見たい番組を特に持っておらず、誰かが見たいものを一緒に眺めているような気がする。
ランボかイーピンがリモコンを握っているリビングにレイがいて、あのアニメに何度か遭遇して、なんとなく曲を気に入って、覚えて。そして、ああして口ずさんでいた。
レイの自宅での過ごし方、 そしてあのメロディを気に入るという感性。
ほとんどが山本の妄想でしかない。
だというのに、まだ知らない彼女の一端に意図せず触れてしまったような気がして、 山本は勝手に気恥ずかしくなって目を泳がせた。