一歩(2月その2)
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
夕方の気配を抱え始めた住宅地を抜けていく。
彼の家に行くなど、別に珍しいことではない。今日違うのは、右手に下げた紙袋の存在だけだ。でもそれのせいで、異様に緊張する。
受け取ってくれるだろうか、いや、受け取ってはくれるだろう。
気持ちがバレるだろうか、いや、それはもうほぼ確実にバレている。
甘いものは苦手じゃなかっただろうか、いや、かなり甘そうな菓子パンを頬張っていたからきっと大丈夫。
口に合うだろうか、こればっかりはわからない。
ぐるぐると答えのないことに思考を奪われているうちに、気付けば竹寿司は目の前に迫っていた。
店はまだ開いていない。『準備中』と書かれた札がかかっている。
インターホンを押してもよいのだろうか。
店の正面に立つのも違う気がして、中途半端な位置で立ち止まる。
迷っているうちに扉の向こうから人の気配がして、ガラガラと引き戸が開いた。
「お?誰かいると思ったらレイちゃんじゃねぇか」
「あ……、こんにちは」
酢飯の香りとともに出てきたのは剛だった。
口振りからして、気配を感じて出てきたようだ。商売人としての勘か、あるいは剣士としての勘か。
流派も剣も父から継いだのだ、と山本が言っていたことを思い出す。
息子の友人を前に、剛は明るく声を掛けてくれた。
「どうした?武かい?」
「は、はい」
「悪いな、あいつ今そこらへん走ってんだ」
「そう、なんですね。じゃあ」
大丈夫です、と去るために頭を下げようとする。
そんなレイの動作を止めるように、剛が息子とよく似た笑顔でこう言った。
「だから中入って待ってな」
「準備中なのにごめんなさい」
「なに、あんな寒いとこにレイちゃん置いとくわけにはいかねぇよ。ほら、熱いから気を付けな」
「ありがとうございます」
カウンター席に座らされ、温かいお茶までもらう。
その時触れた指先から、温かい命がわずかに流れ込んできた。この人が炎を灯すことがあれば、きっと息子と同じ美しい青色になることだろう。
「悪いけど、色々と準備させてもらうよ」
そう言うと、剛はどこからか立派なタイを取り出し、そっとまな板に寝かせた。
見たことのない道具でタイの体を撫でれば、キラキラと輝きながら鱗が落ちていく。あまり目にすることのない光景に好奇心を刺激され、レイは思わず腰を浮かせて剛の手元を覗き込んだ。
一通り鱗が取れたのか、水を流した後に包丁に持ち帰る。使い込まれながらもよく研がれた刃が明かりを反射した。
そのままするすると音もなくその身体が薄く、細く、滑らかに剥がれていく。
手入れされた刃物と、熟達した手指の動き。美しい剣技のような動きに、思わず見入る。
そんなレイに、少し笑いながら剛が口を開いた。
「レイちゃんがこっちに来て、もうすぐ1年か。早いねぇ」
「はい」
「日本に来てから、どうだった?」
優しい声で問われて、並盛に来てからのことを思い返す。
キャバッローネという慣れた場所から離れた瞬間は、当然不安だった。学校だって知らなかったのだ。
しかし、ツナを中心とした、温かくも少し混沌とした人たちは、レイのことをためらいなく受け入れてくれた。レイの本質を知った一部の人たちは、それでも共にいてくれる。
一番大きな心の枷は、ひどい痛みとともに消えてしまった。
それでも大好きな人がたくさん増えた。己の楔となって欲しい人も、身を置きたい場所も、自分で選べた。得るはずはないと思っていた感情を、得ることができた。
「毎日、幸せだなって思います。イタリアにいた時も幸せだったけど、日本に来て本当によかったです」
素直なレイの回答に、剛が破顔した。その顔を見て、一つ忘れていたことを思い出す。
「あ。あと、いつも道場を使わせてくれて、ありがとうございます」
「なに、努力家に使ってもらえてるなら道場も喜んでるだろ。どうだ、やりたいことはうまい具合にできてるか?」
「一つできるようになったら、他のできないことが新しく見つかりました」
「真剣にやってりゃ壁は付き物だ。高校受験が終わったら、また腰を据えて向き合えばいい。道場は逃げねぇからな」
「はい、ありがとうございます」
言外に、これからもあの場所を使ってもいいと言ってもらい、レイはふっと息を吐いてから、いい香りのするお茶に口をつけた。
穏やかな作業の音を聞きながらぼんやりしていると、遠慮なく店の引き戸が開いた。冷気とともに、ランニングジャケットを着た山本が現れた。鼻の頭が赤い。
「ただいまー。なんか雪降り、そ……」
喋り始めは元気だったのに、目が合った瞬間に音がしぼんでしまった。扉を開け放したままで山本は硬直している。
その姿だけで、柔らかな幸福が体の中心を温めていった、
「おう、おかえり!暖房もったいねぇから早く閉めろ」
「あ、おう。え?瀬切?」
「おじゃましてます」
「ああ……」
父親に促されて扉を閉めながらも、キョロキョロと店内を見回し、またその目がレイを向く。
「ツナとかは?」
「来てない、ボクだけだ」
「え?今日、何かあったか?」
面白いくらいに動揺をしている。どうにも面白く、少しだけ居心地が悪い。
「そろそろ予約のお客さんが来るか……」
そんな剛の呟きも聞こえたので、さっさと渡して帰ってしまおうと腰を浮かせる。
が、紙袋を持ち上げる前に剛が声を上げた。
「レイちゃん、用があったのは武にだよな?」
「は、はい」
思ったよりも緊張していた中で、思いがけず降ってきた声に素直に返事をしてしまう。
え、と山本からまた芯のない声が落ちた。
「武、部屋連れてってやれ」
階段を上がって、山本の自室に通される。
ツナたちと一緒に入ったことはあるが、2人きりは初めてだ。あまり広くない空間で好きな相手と2人だけというのは、不思議な感覚がする。
電気がついた後、ピ、という音がして、エアコンが小さく唸りはじめた。20秒ほど経ってから、柔らかい温風がぶつかって前髪が揺れた。
それからようやく山本がこちらを向いた。今度は耳が赤い。
どこに居ればいいのかよく分からず立ち尽くしていたが、山本も立ったままだから別にいいか。
「そんで、用って?」
いつもより少しだけ強張った笑顔を浮かべている山本に、レイは彼に一歩近付いて、紙袋の中に手を入れる。
箱を震えそうな手に乗せてから、そっと差し出した。
「これを渡しにきた」
目の前に出てきた何の変哲もない小さな青色の箱に、山本は目を瞬かせた。
「なんだこれ?」
「マフィン」
「マフィン?」
まだ何もピンと来ていないようで、首を傾げている。
別に隠すことではないだろう。恐らく色々とバレているはずだし。
「チョコレートマフィン。明日バレンタインだから、山本に渡したかったんだ」
山本はレイの言葉に目を丸くして、バッと壁のカレンダーを見た。そして小さく「あ……」と呟いた。恐らく完全に忘れていたのだろう。
「なんで今日?」
「ツナに『明日は渡せないだろうから今日行ってこい』って言われた」
そう素直に伝えれば、山本は「あー、なるほどな……」と苦笑いを浮かべた。
苦笑いの意図が汲みきれず、少し不安になる。
「あの、渡すのは明日の方がよかったか?」
「んなことねぇよ」
日本のバレンタインのルールは、まだよく分からない。縁起が悪いとかあるのだろうかと少しだけ不安になる。
だが、目の前の山本の顔を見て、その不安は消えた。
「すげぇ嬉しい」
少し照れたような、しかし間違いなく嬉しそうな顔で、山本はその箱を大事そうに受け取ってくれた。
その表情一つで、またふわりと体の奥から熱が湧き上がってくる。
ぬくもりに押されるように、穏やかな声が喉の奥からまろび出ていった。
「山本と同じ高校に行けるように、あと少し頑張るよ」
好きだと伝える勇気も、伝えるだけの足場も、まだ少し足りていない。それでもせめて何かを伝えたかった。
同じところに居たいという願いだけでも、知っていて欲しかった。
山本はレイの言葉を聞いて、その目を柔らかく溶かしながらゆっくりと、噛み締めるように頷く。
「わかった」
陽だまりよりももっと暖かい声が、体の中に染み込んでいく。思わず上がってしまう口角を隠すこともせず、レイは彼の手の中に収まる箱を見た。
部屋に漂う妙に甘ったるい空気に、何だか気恥ずかしくなってくる。
「それを渡したかっただけだから、そろそろ帰る」
手持ち無沙汰に紙袋を畳みながらそう言えば、山本は「送ってく」と箱を机の上にそっと置いた。
彼の家に行くなど、別に珍しいことではない。今日違うのは、右手に下げた紙袋の存在だけだ。でもそれのせいで、異様に緊張する。
受け取ってくれるだろうか、いや、受け取ってはくれるだろう。
気持ちがバレるだろうか、いや、それはもうほぼ確実にバレている。
甘いものは苦手じゃなかっただろうか、いや、かなり甘そうな菓子パンを頬張っていたからきっと大丈夫。
口に合うだろうか、こればっかりはわからない。
ぐるぐると答えのないことに思考を奪われているうちに、気付けば竹寿司は目の前に迫っていた。
店はまだ開いていない。『準備中』と書かれた札がかかっている。
インターホンを押してもよいのだろうか。
店の正面に立つのも違う気がして、中途半端な位置で立ち止まる。
迷っているうちに扉の向こうから人の気配がして、ガラガラと引き戸が開いた。
「お?誰かいると思ったらレイちゃんじゃねぇか」
「あ……、こんにちは」
酢飯の香りとともに出てきたのは剛だった。
口振りからして、気配を感じて出てきたようだ。商売人としての勘か、あるいは剣士としての勘か。
流派も剣も父から継いだのだ、と山本が言っていたことを思い出す。
息子の友人を前に、剛は明るく声を掛けてくれた。
「どうした?武かい?」
「は、はい」
「悪いな、あいつ今そこらへん走ってんだ」
「そう、なんですね。じゃあ」
大丈夫です、と去るために頭を下げようとする。
そんなレイの動作を止めるように、剛が息子とよく似た笑顔でこう言った。
「だから中入って待ってな」
「準備中なのにごめんなさい」
「なに、あんな寒いとこにレイちゃん置いとくわけにはいかねぇよ。ほら、熱いから気を付けな」
「ありがとうございます」
カウンター席に座らされ、温かいお茶までもらう。
その時触れた指先から、温かい命がわずかに流れ込んできた。この人が炎を灯すことがあれば、きっと息子と同じ美しい青色になることだろう。
「悪いけど、色々と準備させてもらうよ」
そう言うと、剛はどこからか立派なタイを取り出し、そっとまな板に寝かせた。
見たことのない道具でタイの体を撫でれば、キラキラと輝きながら鱗が落ちていく。あまり目にすることのない光景に好奇心を刺激され、レイは思わず腰を浮かせて剛の手元を覗き込んだ。
一通り鱗が取れたのか、水を流した後に包丁に持ち帰る。使い込まれながらもよく研がれた刃が明かりを反射した。
そのままするすると音もなくその身体が薄く、細く、滑らかに剥がれていく。
手入れされた刃物と、熟達した手指の動き。美しい剣技のような動きに、思わず見入る。
そんなレイに、少し笑いながら剛が口を開いた。
「レイちゃんがこっちに来て、もうすぐ1年か。早いねぇ」
「はい」
「日本に来てから、どうだった?」
優しい声で問われて、並盛に来てからのことを思い返す。
キャバッローネという慣れた場所から離れた瞬間は、当然不安だった。学校だって知らなかったのだ。
しかし、ツナを中心とした、温かくも少し混沌とした人たちは、レイのことをためらいなく受け入れてくれた。レイの本質を知った一部の人たちは、それでも共にいてくれる。
一番大きな心の枷は、ひどい痛みとともに消えてしまった。
それでも大好きな人がたくさん増えた。己の楔となって欲しい人も、身を置きたい場所も、自分で選べた。得るはずはないと思っていた感情を、得ることができた。
「毎日、幸せだなって思います。イタリアにいた時も幸せだったけど、日本に来て本当によかったです」
素直なレイの回答に、剛が破顔した。その顔を見て、一つ忘れていたことを思い出す。
「あ。あと、いつも道場を使わせてくれて、ありがとうございます」
「なに、努力家に使ってもらえてるなら道場も喜んでるだろ。どうだ、やりたいことはうまい具合にできてるか?」
「一つできるようになったら、他のできないことが新しく見つかりました」
「真剣にやってりゃ壁は付き物だ。高校受験が終わったら、また腰を据えて向き合えばいい。道場は逃げねぇからな」
「はい、ありがとうございます」
言外に、これからもあの場所を使ってもいいと言ってもらい、レイはふっと息を吐いてから、いい香りのするお茶に口をつけた。
穏やかな作業の音を聞きながらぼんやりしていると、遠慮なく店の引き戸が開いた。冷気とともに、ランニングジャケットを着た山本が現れた。鼻の頭が赤い。
「ただいまー。なんか雪降り、そ……」
喋り始めは元気だったのに、目が合った瞬間に音がしぼんでしまった。扉を開け放したままで山本は硬直している。
その姿だけで、柔らかな幸福が体の中心を温めていった、
「おう、おかえり!暖房もったいねぇから早く閉めろ」
「あ、おう。え?瀬切?」
「おじゃましてます」
「ああ……」
父親に促されて扉を閉めながらも、キョロキョロと店内を見回し、またその目がレイを向く。
「ツナとかは?」
「来てない、ボクだけだ」
「え?今日、何かあったか?」
面白いくらいに動揺をしている。どうにも面白く、少しだけ居心地が悪い。
「そろそろ予約のお客さんが来るか……」
そんな剛の呟きも聞こえたので、さっさと渡して帰ってしまおうと腰を浮かせる。
が、紙袋を持ち上げる前に剛が声を上げた。
「レイちゃん、用があったのは武にだよな?」
「は、はい」
思ったよりも緊張していた中で、思いがけず降ってきた声に素直に返事をしてしまう。
え、と山本からまた芯のない声が落ちた。
「武、部屋連れてってやれ」
階段を上がって、山本の自室に通される。
ツナたちと一緒に入ったことはあるが、2人きりは初めてだ。あまり広くない空間で好きな相手と2人だけというのは、不思議な感覚がする。
電気がついた後、ピ、という音がして、エアコンが小さく唸りはじめた。20秒ほど経ってから、柔らかい温風がぶつかって前髪が揺れた。
それからようやく山本がこちらを向いた。今度は耳が赤い。
どこに居ればいいのかよく分からず立ち尽くしていたが、山本も立ったままだから別にいいか。
「そんで、用って?」
いつもより少しだけ強張った笑顔を浮かべている山本に、レイは彼に一歩近付いて、紙袋の中に手を入れる。
箱を震えそうな手に乗せてから、そっと差し出した。
「これを渡しにきた」
目の前に出てきた何の変哲もない小さな青色の箱に、山本は目を瞬かせた。
「なんだこれ?」
「マフィン」
「マフィン?」
まだ何もピンと来ていないようで、首を傾げている。
別に隠すことではないだろう。恐らく色々とバレているはずだし。
「チョコレートマフィン。明日バレンタインだから、山本に渡したかったんだ」
山本はレイの言葉に目を丸くして、バッと壁のカレンダーを見た。そして小さく「あ……」と呟いた。恐らく完全に忘れていたのだろう。
「なんで今日?」
「ツナに『明日は渡せないだろうから今日行ってこい』って言われた」
そう素直に伝えれば、山本は「あー、なるほどな……」と苦笑いを浮かべた。
苦笑いの意図が汲みきれず、少し不安になる。
「あの、渡すのは明日の方がよかったか?」
「んなことねぇよ」
日本のバレンタインのルールは、まだよく分からない。縁起が悪いとかあるのだろうかと少しだけ不安になる。
だが、目の前の山本の顔を見て、その不安は消えた。
「すげぇ嬉しい」
少し照れたような、しかし間違いなく嬉しそうな顔で、山本はその箱を大事そうに受け取ってくれた。
その表情一つで、またふわりと体の奥から熱が湧き上がってくる。
ぬくもりに押されるように、穏やかな声が喉の奥からまろび出ていった。
「山本と同じ高校に行けるように、あと少し頑張るよ」
好きだと伝える勇気も、伝えるだけの足場も、まだ少し足りていない。それでもせめて何かを伝えたかった。
同じところに居たいという願いだけでも、知っていて欲しかった。
山本はレイの言葉を聞いて、その目を柔らかく溶かしながらゆっくりと、噛み締めるように頷く。
「わかった」
陽だまりよりももっと暖かい声が、体の中に染み込んでいく。思わず上がってしまう口角を隠すこともせず、レイは彼の手の中に収まる箱を見た。
部屋に漂う妙に甘ったるい空気に、何だか気恥ずかしくなってくる。
「それを渡したかっただけだから、そろそろ帰る」
手持ち無沙汰に紙袋を畳みながらそう言えば、山本は「送ってく」と箱を机の上にそっと置いた。