心臓(8月その1)
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気付けば景色はだいぶ赤みを増してきた。随分と伸びた影は、それでも隣を歩く影よりは短い。
ゆったりと歩く山本の手は、ポケットに入れられている。どうして自分はあんなことを、何の断りもなく山本の手を握ろうとしたのだろうか。今になって恥のような感覚がわいてきて、レイはボディバッグのベルトを軽く握った。
気付けばもう竹寿司は目の前だ。今日の別れを告げるために立ち止まろうとしたが、何故か山本はそのままスタスタと自宅を通り過ぎていく。
「山本」
「ん?」
「家、通り過ぎてる」
「そうだな、行こうぜ」
呼び止めても、山本は自宅を通り越したところから振り返って笑い、そしてまた歩き出してしまった。慌ててその背中を追いかけて、Tシャツの裾を掴む。
「行こうぜって、どこに?」
「お前ん家」
「ツナに用が?」
「いや?特に今はねぇかな」
訊いても山本は楽しそうに質問を躱す。真意が一切読めないレイは、そんな山本にただただ困惑するだけだった。
とにかく山本がそうするのであれば、レイに止める権利はないように思えて、どうしたものだかと悩みながらも沢田家への帰路を共に進む。
先ほどまで気にならなかったはずの沈黙が、突然妙な質量をもってのしかかってくる。
不快なわけではない。ただ、これまでとは明確に何かが違う。
何が違うのだろうか。山本だろうか、それともレイ自身だろうか。
「あのさ」
声を掛けられて思わず肩が跳ねた。いつの間にか俯いていたようだ。
隣を見上げれば、少し自信なさげな表情が目に飛び込む。
「嫌だったりするか?」
「え」
「こうやって一緒に帰るの」
「……嫌じゃない」
山本のことは信頼しているし、友人としての好感度も高い。感謝だってしている。当然、一緒にいて嫌だと思ったことはない。
ただ最近、何故か妙に居心地が悪くなる時がある。制御はできるがあまり長時間感じていたくない妙な不快感に近い何かが、山本と2人で過ごすときに感情を席巻してくるのだ。
これまで出会い、共に過ごした誰とも違う。経験したことがない。
分からない。考えれば考えるほどに沼にはまるようだった。それでも、一緒にいたくない、嫌だとは思わない。
「嫌だって思ったことはない」
「そっか」
念を押すように言えば、山本は顔を綻ばせてくれた。
その顔に、どうしてか喉元が鷲掴みにされたように苦しくなる。
民家の立ち並ぶ道には人影こそ少ないが、魚を焼く匂い、煮物特有のしょうゆの匂い、言うことを聞かない子どもを席に着かせようとする親の声。様々なものが各家庭の換気扇からあふれてくる。
「そういや今更だけどさ」
「何?」
「瀬切って自分のこと『ボク』って言うよな?何か理由とかあるのか?」
「え、ないけど……。兄さんやお父さんがそうだったから真似してて、誰にも何も言われなくてそのまま」
「へー」
「……変かな?」
「いや、瀬切らしくてオレは好きだぜ」
「そ、うか」
やっぱり今日はどこかおかしい。
イタリアと似ているようでやはり違う夕方の情緒に包まれたまま、何かをごまかすようにレイは自分の影を見つめた。
沢田家の目の前、ランボのはしゃぐ声が屋外に漏れていた。今日はまた一段と声が大きい。「随分元気だな」と山本が笑う。
山本はレイが家に入るまで見届けるつもりなのか、立ち止まったままレイを見ている。
名残惜しさと居心地の悪さを振り払いたくて、レイは玄関に足を向けた。
「じゃあ、また」
「なあ、瀬切」
玄関ポーチに片足がかかったところで、名前を呼ばれたので振り返る。
「今日、手握ってくれてありがとな」
さっさと忘れようと思っていたことを掘り返されて、少し体が熱くなる。
「別にあれくらい……」
「あれくらい、なんていうなよ。すごく嬉しかった」
それだけ言うと、「じゃ、またな。来週も手合わせしようぜ」とだけ言い残して、山本は駆けて行ってしまった。
どうしてか、その後ろ姿から目を離せなかった。別れの挨拶もまともに言えなかった。
最後に山本の見せた表情は、一体何だったのだ。
深みのある、柔らかいあの目は。
庇護の対象として、友人として、家族として、優しい目を向けられた経験なんて何度もある。ただ、
あの目は初めてだった。何が違うのか分からないが、明らかに何かが違う。敵意や脅威は微塵もないというのに、喜びと共に恐怖に近いものを感じているのは何故だろうか。
しばらくしてから、ようやくゆっくりと呼吸ができるようになって、それでもまだ体も頭も心もおかしいままだった。
相反したまま爆発しそうな感情を何とか体の中に押し込んで、ゆっくりと玄関の扉にカギを刺し込んだ。
扉を開けると、エアコンでほどよく冷えた空気が肌を撫でる。
まな板と包丁がぶつかる小気味いい音、そして子ども達のはしゃぐ声に、少しずつ心が凪いでいく。
ふと気配を感じて顔を上げれば、ビアンキがちょうど2階から降りてくるところだった。
「あら、おかえりなさい」
「ビアンキさん、ただいま」
靴を脱ごうと壁に手をついたところで、ビアンキの視線が強く注がれていることに気付いて、レイは動きを止めて恐る恐る彼女の顔を見た。
「あの……、どうかしました?」
「レイ。ちょっと顔を見せなさい」
「へ?」
白く長く、柔らかい指で顎を軽く押し上げられる。ビアンキが廊下から降りずに腰を折ったのか、かなり近い距離から見つめ合っている。
困惑するも、妙に真剣な視線のせいで口を挟むこともできない。
数秒間レイの顔を見ていたビアンキは、弟と同じ色の目を丸くしてからこう言った。
「あなた、恋をしたのね」
思いもよらない単語に、息が止まる。
ビアンキはわざわざイタリア語でも「魚じゃないわ、恋よ」と言い直した。
二の句を告げずに固まっているレイの顎から頬に、手入れされた美しい指先が滑っていく。
「初恋でも恐れる必要はないわ」
慈愛に満ちた目が、声が、毒か蜜のようにとぷりとレイの中に落とされた。
「それはきっと、あなたにとって大切なものになるもの」
そこからのことはあまり覚えていない。
夕食を終え、たしかイーピンと風呂に入っていたはずだが、気付けば灯りも点けずに自室のベッドで仰向けに寝転がっていた。
ツナに何か話しかけられた気がするが、覚えていない。
枕元に置かれた携帯電話を充電しなければと思うも、体を起こすことすら億劫になっている。
ビアンキの言葉を反芻する。
恋。
古今東西あらゆる創作物において、恋愛はメインテーマあるいはスパイスとして顔を出してくる感情だ。
現実世界で恋に生きる者たちを目にすることも少なくない。それを悪いものと思ったことはないし、むしろ美しいものだと感じている。
だが、それが己の身に起きたとしたら話は別だ。愛する人達こそいれど、自分がそんな感情を持てるとも思っていなかった。
ツナに対する『大切』とも、クロームや獄寺達に対する『友愛』とも、ボンゴレの守護者達に対する『信頼』とも違う。ディーノやキャバッローネの人達に対する『親愛』でもない。
誰に対してかなど、今更自問する必要すらなかった。
笑った顔に、ツナ達と一緒にいるときの楽しそうな声に、手合わせの時に少し冷える瞳に、野球に真摯に向き合う姿に、あの日に深く問わずにずっと寄り添っていてくれた手に。
今日、どうしてか目を離せなかったあの後ろ姿に。その全てに対する感情が、これまで出会った誰に対するものとも違う。
違うということだけは、前から分かり切っていた。
それにようやく今日、名前が与えられてしまっただけだ。俗にいう「恋」という名前が与えられてしまった。
「困った……」
小さく声が漏れる。今の心境を最も的確に表せる言葉を、レイは「困った」しか持ち合わせていない。
「どうしたらいいんだ」
自分が抱えるはずもないと思っていた感情がキャパシティーを超えたのか、視界が水気を含み始める。
がらんどうのはずの虚構の体が、高鳴る心臓などないはずの胸が痛い。人間を模しただけの心身。
そこに、本当にこの感情は必要だったのだろうか。
ドールならばドールらしく、オーナーだけを至上とすればいいはずなのに。
兄も、恋をしたことはあるのだろうか。あったとしてもわざわざ年の離れた妹に報告するわけもないが、友人としてディーノは何か聞いていないだろうか。でもこんなことをディーノに相談するのも、なんだか嫌だった。
ごろりと横向きになった拍子に、とうとう涙が落ちる。
どうしたいのか、どうなりたいのかも分からない。
一つ分かっていることは、これからも山本の近くにいたいと願う己の心だけだった。
ゆったりと歩く山本の手は、ポケットに入れられている。どうして自分はあんなことを、何の断りもなく山本の手を握ろうとしたのだろうか。今になって恥のような感覚がわいてきて、レイはボディバッグのベルトを軽く握った。
気付けばもう竹寿司は目の前だ。今日の別れを告げるために立ち止まろうとしたが、何故か山本はそのままスタスタと自宅を通り過ぎていく。
「山本」
「ん?」
「家、通り過ぎてる」
「そうだな、行こうぜ」
呼び止めても、山本は自宅を通り越したところから振り返って笑い、そしてまた歩き出してしまった。慌ててその背中を追いかけて、Tシャツの裾を掴む。
「行こうぜって、どこに?」
「お前ん家」
「ツナに用が?」
「いや?特に今はねぇかな」
訊いても山本は楽しそうに質問を躱す。真意が一切読めないレイは、そんな山本にただただ困惑するだけだった。
とにかく山本がそうするのであれば、レイに止める権利はないように思えて、どうしたものだかと悩みながらも沢田家への帰路を共に進む。
先ほどまで気にならなかったはずの沈黙が、突然妙な質量をもってのしかかってくる。
不快なわけではない。ただ、これまでとは明確に何かが違う。
何が違うのだろうか。山本だろうか、それともレイ自身だろうか。
「あのさ」
声を掛けられて思わず肩が跳ねた。いつの間にか俯いていたようだ。
隣を見上げれば、少し自信なさげな表情が目に飛び込む。
「嫌だったりするか?」
「え」
「こうやって一緒に帰るの」
「……嫌じゃない」
山本のことは信頼しているし、友人としての好感度も高い。感謝だってしている。当然、一緒にいて嫌だと思ったことはない。
ただ最近、何故か妙に居心地が悪くなる時がある。制御はできるがあまり長時間感じていたくない妙な不快感に近い何かが、山本と2人で過ごすときに感情を席巻してくるのだ。
これまで出会い、共に過ごした誰とも違う。経験したことがない。
分からない。考えれば考えるほどに沼にはまるようだった。それでも、一緒にいたくない、嫌だとは思わない。
「嫌だって思ったことはない」
「そっか」
念を押すように言えば、山本は顔を綻ばせてくれた。
その顔に、どうしてか喉元が鷲掴みにされたように苦しくなる。
民家の立ち並ぶ道には人影こそ少ないが、魚を焼く匂い、煮物特有のしょうゆの匂い、言うことを聞かない子どもを席に着かせようとする親の声。様々なものが各家庭の換気扇からあふれてくる。
「そういや今更だけどさ」
「何?」
「瀬切って自分のこと『ボク』って言うよな?何か理由とかあるのか?」
「え、ないけど……。兄さんやお父さんがそうだったから真似してて、誰にも何も言われなくてそのまま」
「へー」
「……変かな?」
「いや、瀬切らしくてオレは好きだぜ」
「そ、うか」
やっぱり今日はどこかおかしい。
イタリアと似ているようでやはり違う夕方の情緒に包まれたまま、何かをごまかすようにレイは自分の影を見つめた。
沢田家の目の前、ランボのはしゃぐ声が屋外に漏れていた。今日はまた一段と声が大きい。「随分元気だな」と山本が笑う。
山本はレイが家に入るまで見届けるつもりなのか、立ち止まったままレイを見ている。
名残惜しさと居心地の悪さを振り払いたくて、レイは玄関に足を向けた。
「じゃあ、また」
「なあ、瀬切」
玄関ポーチに片足がかかったところで、名前を呼ばれたので振り返る。
「今日、手握ってくれてありがとな」
さっさと忘れようと思っていたことを掘り返されて、少し体が熱くなる。
「別にあれくらい……」
「あれくらい、なんていうなよ。すごく嬉しかった」
それだけ言うと、「じゃ、またな。来週も手合わせしようぜ」とだけ言い残して、山本は駆けて行ってしまった。
どうしてか、その後ろ姿から目を離せなかった。別れの挨拶もまともに言えなかった。
最後に山本の見せた表情は、一体何だったのだ。
深みのある、柔らかいあの目は。
庇護の対象として、友人として、家族として、優しい目を向けられた経験なんて何度もある。ただ、
あの目は初めてだった。何が違うのか分からないが、明らかに何かが違う。敵意や脅威は微塵もないというのに、喜びと共に恐怖に近いものを感じているのは何故だろうか。
しばらくしてから、ようやくゆっくりと呼吸ができるようになって、それでもまだ体も頭も心もおかしいままだった。
相反したまま爆発しそうな感情を何とか体の中に押し込んで、ゆっくりと玄関の扉にカギを刺し込んだ。
扉を開けると、エアコンでほどよく冷えた空気が肌を撫でる。
まな板と包丁がぶつかる小気味いい音、そして子ども達のはしゃぐ声に、少しずつ心が凪いでいく。
ふと気配を感じて顔を上げれば、ビアンキがちょうど2階から降りてくるところだった。
「あら、おかえりなさい」
「ビアンキさん、ただいま」
靴を脱ごうと壁に手をついたところで、ビアンキの視線が強く注がれていることに気付いて、レイは動きを止めて恐る恐る彼女の顔を見た。
「あの……、どうかしました?」
「レイ。ちょっと顔を見せなさい」
「へ?」
白く長く、柔らかい指で顎を軽く押し上げられる。ビアンキが廊下から降りずに腰を折ったのか、かなり近い距離から見つめ合っている。
困惑するも、妙に真剣な視線のせいで口を挟むこともできない。
数秒間レイの顔を見ていたビアンキは、弟と同じ色の目を丸くしてからこう言った。
「あなた、恋をしたのね」
思いもよらない単語に、息が止まる。
ビアンキはわざわざイタリア語でも「魚じゃないわ、恋よ」と言い直した。
二の句を告げずに固まっているレイの顎から頬に、手入れされた美しい指先が滑っていく。
「初恋でも恐れる必要はないわ」
慈愛に満ちた目が、声が、毒か蜜のようにとぷりとレイの中に落とされた。
「それはきっと、あなたにとって大切なものになるもの」
そこからのことはあまり覚えていない。
夕食を終え、たしかイーピンと風呂に入っていたはずだが、気付けば灯りも点けずに自室のベッドで仰向けに寝転がっていた。
ツナに何か話しかけられた気がするが、覚えていない。
枕元に置かれた携帯電話を充電しなければと思うも、体を起こすことすら億劫になっている。
ビアンキの言葉を反芻する。
恋。
古今東西あらゆる創作物において、恋愛はメインテーマあるいはスパイスとして顔を出してくる感情だ。
現実世界で恋に生きる者たちを目にすることも少なくない。それを悪いものと思ったことはないし、むしろ美しいものだと感じている。
だが、それが己の身に起きたとしたら話は別だ。愛する人達こそいれど、自分がそんな感情を持てるとも思っていなかった。
ツナに対する『大切』とも、クロームや獄寺達に対する『友愛』とも、ボンゴレの守護者達に対する『信頼』とも違う。ディーノやキャバッローネの人達に対する『親愛』でもない。
誰に対してかなど、今更自問する必要すらなかった。
笑った顔に、ツナ達と一緒にいるときの楽しそうな声に、手合わせの時に少し冷える瞳に、野球に真摯に向き合う姿に、あの日に深く問わずにずっと寄り添っていてくれた手に。
今日、どうしてか目を離せなかったあの後ろ姿に。その全てに対する感情が、これまで出会った誰に対するものとも違う。
違うということだけは、前から分かり切っていた。
それにようやく今日、名前が与えられてしまっただけだ。俗にいう「恋」という名前が与えられてしまった。
「困った……」
小さく声が漏れる。今の心境を最も的確に表せる言葉を、レイは「困った」しか持ち合わせていない。
「どうしたらいいんだ」
自分が抱えるはずもないと思っていた感情がキャパシティーを超えたのか、視界が水気を含み始める。
がらんどうのはずの虚構の体が、高鳴る心臓などないはずの胸が痛い。人間を模しただけの心身。
そこに、本当にこの感情は必要だったのだろうか。
ドールならばドールらしく、オーナーだけを至上とすればいいはずなのに。
兄も、恋をしたことはあるのだろうか。あったとしてもわざわざ年の離れた妹に報告するわけもないが、友人としてディーノは何か聞いていないだろうか。でもこんなことをディーノに相談するのも、なんだか嫌だった。
ごろりと横向きになった拍子に、とうとう涙が落ちる。
どうしたいのか、どうなりたいのかも分からない。
一つ分かっていることは、これからも山本の近くにいたいと願う己の心だけだった。