真相
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「うおっ」
「大丈夫か?せめて歩きながら携帯いじるのはやめた方がいいぞ」
「ははは、悪い。そうだな」
携帯電話の小さい画面に夢中になり、縁石に躓きかけたことを薫に諫められる。
午後5時を過ぎたとはいえ、まだまだ十分に明るい道を歩いていく。
午後から晴れ上がったせいか、かなり蒸し暑い。
ジャージの前を開けるだけでは足りず、山本は腕を捲っていた。
ヴェルデからの資料は、6限目の授業中や練習の合間にチラチラと眺める程度でも「なんとなく分かる」くらいには噛み砕いて書かれていた。
しかし、ドールについての基礎知識を頭に入れなければ、という焦りが解消できない。
薫が隣を歩いていることに甘え、ダメと分かっていても歩きながら携帯電話の文章を眺めていた。
しかし、夏の大会を前に怪我なんかをしてしまえばチームメイトや顧問に申し訳が立たない。
流し読みながらもとりあえずは全体に目を通した。さすがにじっくり読むのは自室の方がよさそうだ。
そう思って顔を上げれば、何故かスーパーマーケットが目の前にあった。
「あれ、なんでスーパー?」
「『買い物当番だからスーパーに行くけど』って言ったら武が『おー』って言ってついてきたんだろ」
「マジ?」
「おい、本当に大丈夫か?」
笑って言えば、薫は呆れたように息を吐く。
カバンの中から買い物袋を取り出しながら、でもよ、と彼は言葉を続ける。
「心配なのは分かるぞ。炎真も、みんなも心配してる」
誰のことを、と言われずともそれが分かってしまって苦笑する。
京子の件、そしてレイがクロームの意識を奪ってその場から逃走した件、その両方にシモンは図らずも関わることになった。
しかし、彼らが詳細を求めてくることはなかった。
自分達への信頼を礎に、友人として適切な距離を保ちながら、こちらのことを心配してくれていた。
「ありがとな」
そう返して、山本はスーパーに背を向けて歩き出す。
「じゃあ、また明日な」
「おう」
いつもと違う帰路、途中で公園の横を通ることになった。
中からは子どものはしゃぐ声が聞こえる。こんなに足元が悪く蒸し暑い日に遊ぶ子どももいるのだな、と自身の幼少期を棚に上げて、山本は園内を覗き込んだ。
そして小さく息を呑んだ。
公園の中にはランボとフゥ太とイーピン、そしてイーピンと目線を合わせるように屈んでいるレイの姿があった。
怪我はもう大丈夫なのか、気持ちは落ち着いたのか、今自分が会ってもいいのか、顔を合わせたら逃げてしまわないか。
そんなことを考えながらも、気付けば体は公園の中に入りこんでいた。
「あ、山本!」
いち早く山本に気付いて声を上げたのはランボだった。砂場で遊んでいたのか、顔服や顔に泥がついている。
「オレっちとあそぶ?ねぇあそぶ?」
ランボが期待に目を輝かせながら飛び跳ねる。
山本はしゃがみ込んで、硬いのか柔らかいのか分からない不思議な感触の髪をかき回した。
「悪い、遊ぶのは今度でいいか?」
「えー……。うーん、しょうがないなぁ。ランボさんは心がひろいもんね!」
「さすがだな、サンキュ!」
2歩ほど離れたところではランボを止めることができなかったフゥ太が、申し訳なさそうに山本を見て苦笑いを浮かべている。
一方で、山本の存在には気付いているだろうに、数メートル先のレイはこちらを見ない。
その背中を見てから目配せをすれば、フゥ太はそれだけで意図を察して、ランボに「あっちでボール遊びしようよ」と呼びかけた。
ランボが素直に応じ、男児2人は遊具のない開けた場所へと駆けていった。
ゆっくりとレイに近付く。
未だこちらを見ないレイよりも先に目が合ったのはイーピンだった。
イーピンは山本を見て、少し遠くに行ったランボ達を目を凝らして見て、最後にレイの顔を見上げて、そして山本に礼儀正しく頭を下げてからランボ達のもとへと走っていった。
あんなに小さい子にまで気を遣わせてしまった。申し訳なさを覚えつつ、小さい後ろ姿を見送る。
イーピンの足音が少し遠くなってから、山本は口を開いた。
「瀬切」
呼び掛けてみれば、レイはあっさりとこちらを振り返った。
その表情は、予想したものよりもずっと穏やかで、こちらを拒絶するような刺々しさや痛々しさはない。
ただ、目元は少し赤かった。人知れず泣いたのだろうか、1人で泣いて泣いて、そして何とか気持ちを整理させて、その表情を取り戻したのだろうか。
言葉に詰まった山本を見て、レイは膝に付いた砂を払って立ち上がる。
そして公園の隅のベンチを指さして言った。
「座ろう」
3人掛けのベンチに30cm、半人分の間を開けて腰掛ける。
公園の中でも遊具のないエリアで、きゃあきゃあと子どもが騒ぐ声が聞こえる。
しかし距離があって細かい表情や会話の内容までは分からない。
右に視線を向ける。レイは背もたれに上体を預けて、視線を子ども達に向けている。
彼女に倣って山本もベンチにもたれかかる。木製のベンチは少しひんやりとしていて心地いい。
このまま黙っているわけにもいかず、まずは当たり障りのない切り口から攻めることにした。
「怪我、大丈夫か?」
「大丈夫。もうほとんど治ったよ。ここも」
そういってわき腹を軽くさするレイは、Tシャツにチノパンというシンプルな恰好だった。
先日は肩やわき腹などの大きな傷だけでなく、顔や腕にもたくさんの小さな傷が走っていたはずだ。しかし、今露出している部分に傷跡は見えない。
ベンチに座るまでの体の運び方からしても、大怪我をしていた箇所が強く痛むようには見えなかった。
「よかったな」
語彙力のなさが恨まれるが、レイの治癒力に対する山本の言葉としては、これ以上もこれ以下もなかった。
痛みの時間は短い方が精神的な苦痛も減る。
レイも「そうだな」と、少し笑いながら返してきた。
笑顔を浮かべるだけの余裕はあると見込み、山本はもう少しだけ踏み込むことにした。
「瀬切のこと、小僧から色々聞いたぜ」
ちらりとこちらを見たレイは、口元に薄らと笑みを浮かべたまま、特にこれといった反応を見せない。
「ボクが人間じゃないって聞いて、どう思った?」
「特になんとも。ドールとかなんとか、ちょっと難しかったけど、そんな奴もいるかってくらい」
多分、ほかの奴もそう思ってるぜ。そう付け足せば「そうか、ありがとう」とため息のように小さな返事が返ってきた。
会話が途切れる。子ども達の甲高い声と風の音、たまに通る車の音くらいしか聞こえない。
少しだけ居心地の悪さを感じて身じろぎすれば、ふくらはぎにエナメルバッグが当たった。
「あ」
思わず声を上げると、レイは不思議そうにこちらを見た。
エナメルバッグの中に入っているものを思い出す。会えたら渡そうと思って持ち歩いていたが、今渡すべきだろうか。迷いが生じる。
しかし、いつまでも自分が持っているわけにもいかない。これだって早く持ち主のもとに帰りたいはずだ。
腹を決め、エナメルバッグの中に右手を突っ込む。
「山本?」
「ちょっと待ってろ……」
グローブや練習着、スパイクの入った袋、タオル、教科書類をかき分けて進む。
その中の一番奥、布越しでも硬度の分かるものが指にあたった。
「あった」
左手もカバンに入れ、通り道を確保しながらそっとそれを引き上げる。
それを持って、山本がレイの方に体が向くように浅めに座り直せば、レイもそれに倣って座り直す。
向き合う状態で、山本の手がタオルを開く。それまで山本の一連の動作を大人しく眺めていたレイが、そこで初めて反応を見せた。
鋭く深く、息を吸う音がした。
「それ……」
急に震えた声に、少しだけ胸が痛む。
実用性が高くも美しい装飾が施された柄、そして乳白色の剣身が、陽光を受けて山本の手の中で光る。
あの日、ヒロヤの体を貫いて、そしてそのまま置いて行かれた彼女の短剣だった。
「……どうして」
「お前の兄貴が消えたところに落ちてるの、オレと獄寺で気付いてさ」
レイはあそこに落としたことすら覚えていなかったのか。それくらい茫然自失としていたのだろう。
埃の多い場所に放置するわけにいかず、ツナに託すにも気が引け、獄寺と相談して山本が預かる形となっていた。
いつだったかディーノ達がくれた大事なものだと言った時のはにかんだ笑顔と、兄が消えた場所をぼんやり眺めていた顔が、山本の脳裏を荒らす。
目の前のレイは、言いようのない感情を目の奥にうごめかせたまま動かない。
「瀬切」
名前を呼んで短剣を差し出すと、レイは体をビクつかせてから半身をのけぞらせた。
一番近い感情を表すのであれば、恐怖だろうか。
薄く開かれた口元が震えていて、呼吸も浅い。
右手で身じろぎすらしないレイの左手をそっと掴んだ。
わずかに震えながら腕を引こうとするが、山本の手を振り払うほどの抵抗はない。
指先を震わせる手の平を空に向け、その中にそっと短剣の柄を押し込んだ。
右手にレイの左手と短剣の重さを感じる。
閉じようとしないその手を、両手で上下から包み込んだ。そうでもしないと、短剣を取り落としてしまいそうなほど、その手には力が入っていない。
レイは自分自身の左手を凝視したまま動かなくなった。
山本もどこを見ればいいか迷って、己の手を、短剣の剣先を見る。
美しいだけでない、それなりの強度と殺傷力を持った実用性も高い切っ先が、2人の呼吸に合わせてゆっくりと光を反射する。
まだ駄目だったのだろうか、急ぎ過ぎたのだろうか。
そう悩み始めた時、不意に手元の近くで何かが落ちるのが見えた。少し視線を上げてみえば。
「あ……」
思わず声が漏れる。レイの口元は固く結ばれ、呼吸が乱れないようにかゆっくりと肩を上下させている。
しかし、その目からは涙がこぼれ、その頬を、顎を伝って落ちていく。
ぽつぽつと降っては、雨のようにレイのチノパンやベンチに跡を作っていく。
山本が見ることに気付いたのか、レイはさらにその顔を俯かせた。
「見ないでくれ」
「わ、悪い」
震えを隠せない声で言われて、咄嗟に謝る。
両手の中で、レイの左手がぎゅう、と短剣の柄を握り締めるのが分かった。
右手は自身の腿に爪を立てている。足も手も痛いだろうに。
そう思えばいてもたってもいられなくなった。
左手だけを剣から離し、その右手に伸ばす。レイの左手は、短剣を握っているのに山本の右手に収まってしまう。
レイの右手をすくい上げれば、レイは爪を立てるのをやめ、右手を握りこぶしへと変化させた。
山本はその手を自分の左手で包み込んだ。
両手に感じるレイの手の温度は、ほんの少し冷たく感じる。
されるがままのレイが、口を開いた。
「これ」
辛うじて声になっているが、今にも決壊しそうなほど水気を多分に含んだ声だった。
「なくしたかと思ってた。もう、見つからないと思って……。見つけてくれて、ありがとう」
それだけを何とか声に出してから、レイは崩れ落ちるように泣き出した。
子ども達が気付かないように声は抑えているが、山本の距離ではすべて音が届く、そのくらいの音だった。
嗚咽と涙が、2人の間にひっきりなしに落ちる。丸まってしまった肩も背中も、呼吸のたびに大きく震えて揺れる。
レイの右手はいつの間にか開かれ、山本の左手を縋るように握っていた。
山本の右手に包まれた左手は、震えながらも短剣の柄をしっかりと握り締めている。
揺れるつむじを見ながら、山本はレイが飲み込んだであろう言葉の数々を考えようとした。そしてやめた。
彼女が自分に対して言うべきだと思ったのは、短剣を拾って返してくれたお礼だけであり、それ以上は抱え込むと決めたのだ。
そこから先に踏み込む権利は、まだきっと自分にはない。
震える肩を抱くのも、ましてやその体ごと抱き締めるのも、きっと同じだ。
何よりこれ以上寄りかかることを、レイ自身が許さないだろう。
それを許すような性格であれば、とうにすべてを投げ出していてもおかしくない。
自分達を、ツナを巻き込むまいと、最後の最後まで心も膝も折らなかった。
その在り方の強さに対する敬意と、ほんの少しの寂しさが心の中で混ざり合う。
せめてもと、山本は唯一自分に縋ってくれているレイの手を強く握り返した。
数分後、レイがゆっくりと顔を上げた。
目元は赤く、呼吸の度に息をひくつかせ、頬にはいくつも涙の跡が走っているが、新しい涙が落ちる様子はない。
「……落ち着いたか?」
伺うように声をかければ、レイは小さく頷いた。
「多分、大丈夫」
「すげぇ鼻声」
見事な鼻声に笑えば、レイが唇を尖らせて顔をそむけた。
ひとしきり泣いたからなのか、彼女のまとう空気は一気に軽くなっていた。
これで心の整理が完全につくようなものだとは、山本も思わない。
しかし、少しでもレイの心が楽になったなら、そして一端を担ったのが自分であれば、それはとても嬉しいと思えた。
未だに手は触れ合ったままだ。
ただ、先ほどとは異なり、両手とも自然な力で握り合ったり支えたりしており、どこか心地よい。
そっと確かめるように手を握れば、潤んだ黒い目が、ようやく山本の目を見た。ああ、嬉しい。
穏やかな空気に身を任せていると。
「あ、レイが泣いてる!山本泣かせた!?」
間近で響いた大声に2人揃って飛び跳ねる。
「ラ、ランボ」
「いっけないんだー!ツナにチクったるもんね!」
声の主はボールを追って近くまで来ていたランボだった。
「ランボ!勝手に、って……、え……」
「ダイ、ジョーブ?イタイ?」
ランボを追いかけてきたフゥ太はレイの顔を見て硬直し、イーピンはレイの足元に駆け寄って小さい手で膝に触れている。
泣いている同居人に動揺する子ども達に、レイは慌てて目を擦りながら弁解を始めた。
「ち、違う、何でもない。なくしたと思ったものを山本が見つけてくれたんだ。だから嬉しくて」
「ほんとぉ?いじめられてない?ランボさんにウソついてなぁい?」
「本当だって!……ちょっと顔洗ってくる!」
年の離れた子どもに心配されて気恥ずかしいのか、今日一番の大声を出してレイはベンチから立ち上がった。
するりと離れる手が少し惜しい。
レイが腰元に短剣を押し込むと、短剣も空気に溶けるように消えた。霧の炎で編み上げられた、あの薄い布は、例え気分が落ちていようときちんと身に着けていたようだ。
水飲み場へと小走りで向かうレイの背中を見送る。ランボとイーピンも彼女を追って走って行った。
ベンチの近くに残ったフゥ太が落ちているボールを拾い上げて言った。
「今日公園に来たのはね、ランボがわがまま言ったからなんだ」
雨が続いていたここ数日、当然ながら外で遊ぶことはできなかった。
さらに家にいるはずのレイが部屋に籠ってかまってもくれないことと、ツナが浮かない顔をしていたのも重なり、ランボは相当ストレスを溜めていたらしい。
それでも、彼にしては珍しく気を遣い、我慢に我慢を重ねて。そしてとうとう爆発した。
ランボは、外に行くんだ、レイと遊ぶんだ、とレイの部屋の前で盛大に駄々をこねた。
「僕とイーピンで止めようとしたんだけど、途中からイーピンも釣られて泣き出しちゃったからどうしようもなくって」
「そっか」
「そしたらレイ姉が部屋から出てきてくれたんだ」
公園、行く?
レイのその言葉に、子ども達はすかさず手や服を引っ張った。そうしてレイは数日ぶりに外に出ることになったという。
「ランボさまさまだな」と小さく呟けば、「珍しくランボのわがままが役に立ったよね」とフゥ太が笑う。
なお、現在のランボは、水飲み場で顔を洗うレイの足元で下の蛇口に手を伸ばそうとしていた。
いつもの光景が戻ってきたことを噛み締める。
「レイ姉、元気になってよかった」
「そうだな」
「きっと武兄が来たからだよ」
10歳の子どもの言葉に、ほんの少しだけ喉が詰まる。
山本が何かを答える前に、水飲み場からイーピンの悲鳴が聞こえた。
ランボが蛇口を抑えたことで水が跳ね、イーピンとレイの足元にかかってしまったようだった。
喧嘩になりそうな最年少達を止めるべく、沢田家の真ん中っ子がすっ飛んでいった。
「そっか」
足元の喧騒に気付いて、慌て始めたレイを見て呟く。
「だったらいいな」
山本は小さく笑いながら、タオルを渡すべくベンチから立ち上がった。
唐突ではあるが、山本がレイに恋をしている。
自覚のきっかけは些細なものだった。
梅雨入りする少し前のこと、いつも通りに手合わせを行い、その後に縁側で涼んでいた時のことだった。
レイが日本の体育祭について知りたがったため、1年生時の出来事について掻い摘んで話していた。
ずっと山本の邪魔をしないように笑いを堪えていた彼女だったが、雲雀の乱入でとうとう我慢できなくなったのか、声を上げて笑い始めた。
それを見て。
かわいいな。
ぽん、と脈絡なく頭に浮かんだ言葉に、山本は困惑をした。
レイに可愛げがないわけではないが、見た目も性格も中性的であり、いわゆる「可愛らしい子」と言われるタイプではない。
本人だって唐突に「かわいい」と言われれば、顔を赤らめるよりも眉を顰めることだろう。
だからその場では、その違和感は押し込めた。
しかし、ツボにはまってずっと笑っているレイのことは「かわいい」と思い続けていた。
その夜、布団に転がりながら昼間のことを思い返した。
よくよく考えれば、レイと一緒にいる時に感じる、わずかな気恥ずかしさを伴った幸せについての呼称を考えたことがなかった。
例えば隣を歩くとき、苦手な国語を頑張って解こうとしているのを見たとき、最初はツナにしか見せなかった気の抜けた表情を見せるようになったとき、手合わせの後に次郎や小次郎を撫でている姿を見たとき。
日常の様々な場面でずっと、山本の中で揺れる感情がある。
一番それを強く感じるのは、笑っている顔を見るときと、まっすぐに視線が合うときだった。
それを総合する言葉が「かわいい」だというのなら。
ツナ達に向けるものとはほんの少しだけ違う、ずっと友情の一部だと思っていたこの感情がただの友情でないとしたら。
鈍いだの野球バカだの言われる自分であっても、さすがにここまで来れば嫌でも自覚せざるを得なかった。
そうか、好きなのか。それも恋愛的な意味で。
特に理由もなく、レイに触れたいと思うのはそのせいか。
随分あっさりとした自覚だった。
心臓がやたらとドキドキしたりだとか、顔が熱くなって仕方ないだとか。恋の自覚とはそういった衝撃を伴うものだと思っていた。
でもこの緩やかな自覚に不満はない。むしろ好ましいと思っていた。
こんな風に穏やかな感情で、これから先もレイが笑顔で近くにいてくれたら、それはきっととても喜ばしいことだ。
「いいって言ったのに」
「気にすんなよ。瀬切も本調子じゃねぇし、なんかあったらチビ達が困るぜ?」
いつの間にか西日が強くなった上に、子ども達の腹が鳴ったとなれば帰るしかない。
送らなくていいと言い張るレイを丸め込み、沢田家への道を歩く。
負傷していたとしても、レイとイーピンであればそこらの不審者程度は返り討ちにできるだろう。
ランボの潜在能力を考えれば、彼も戦力とできなくもない。
だが万が一がある。日没までまだ余裕もあるが、まだ本調子ではないレイと子ども達だけで帰すのは気が引けた。
だとかなんとか言い訳を考えているが、本当はもう少し一緒にいたい、というのが山本の本心だ。
「帰ったらツナと話すのか?」
「うん」
「そっか」
「オーナーになってほしいっていうのも、伝える」
「やっぱそうなるよな」
ドールとオーナーの関係性について聞いてから、レイのオーナーになるならツナかディーノくらいだろうとは思っていた。
恐らく、獄寺とクロームも同じように考えただろう。
「てことは、瀬切もボンゴレファミリーになるのか?」
「そう、だな。でもその前にクロームにも謝らないといけない」
京子や山本と異なり、クロームに直接的な被害を与えたのはヒロヤではなくレイであった。
特に仲の良かった相手の意識を説明もなしに奪ったという事実は、当人達の間にわだかまりを残すには十分な出来事だ。
しかしここ数日のクロームは、レイの心配こそすれ、怒りを抱いている様子は全く見受けられない。
強いて言えば、説明もなく、助力の1つも求めてくれなかったことに対して、怒りに近い寂しさを抱いているくらいだろう。
「アイツなら大丈夫だって」
眉を自信なさげに下げたまま頷くレイの肩を軽く叩いた。
ここ数日の学校の出来事を話していると、急にレイが「今更だけど」と首を傾げた。
「どうして公園に?通学路、違うだろ?」
「あー、それは……」
レイのことを少しでも知ろうと資料を読むのに集中しすぎて、何も考えず薫について行って気付けばスーパーに、そこから自宅に向かったので普段とルートが違ったのだ、と馬鹿正直に伝えるのは少々気恥しい。
「薫が今日買い物当番らしくてさ、部活終わりになんとなくスーパーまでついてった。店には入らずにそのまま別れたけどな」
嘘は言っていない。
レイも特に疑う様子はなく、7人分の買い物って大変そうだな、と呟いて立ち止まった。
山本も顔を上げれば、すでに沢田家は目の前だった。家の玄関の前で子ども達が待っている。
「その、今日は本当にありがとう。ジャージも今度返すよ。じゃあ、また」
レイははにかむような笑みを浮かべて、玄関に向かって足を向けた。その背中に1つ、小さな約束をしたくて呼び止める。
「瀬切」
ほんの一歩の距離、レイは体ごと山本の方を向いた。
どこにも変な力が入っていない、とても自然な表情と立ち姿だ。
その姿に自然と口角がり、喉から飛び出た声は弾んでいた。
「また手合わせしような!」
レイは目をきょとんと丸くしてから、じわじわと顔を喜色で染め上げた。
そして山本の思いに応えるように、満面の笑みを浮かべて、少しだけ声を裏返して言った。
「する!」
→おまけ2(ヒロヤの話)
「大丈夫か?せめて歩きながら携帯いじるのはやめた方がいいぞ」
「ははは、悪い。そうだな」
携帯電話の小さい画面に夢中になり、縁石に躓きかけたことを薫に諫められる。
午後5時を過ぎたとはいえ、まだまだ十分に明るい道を歩いていく。
午後から晴れ上がったせいか、かなり蒸し暑い。
ジャージの前を開けるだけでは足りず、山本は腕を捲っていた。
ヴェルデからの資料は、6限目の授業中や練習の合間にチラチラと眺める程度でも「なんとなく分かる」くらいには噛み砕いて書かれていた。
しかし、ドールについての基礎知識を頭に入れなければ、という焦りが解消できない。
薫が隣を歩いていることに甘え、ダメと分かっていても歩きながら携帯電話の文章を眺めていた。
しかし、夏の大会を前に怪我なんかをしてしまえばチームメイトや顧問に申し訳が立たない。
流し読みながらもとりあえずは全体に目を通した。さすがにじっくり読むのは自室の方がよさそうだ。
そう思って顔を上げれば、何故かスーパーマーケットが目の前にあった。
「あれ、なんでスーパー?」
「『買い物当番だからスーパーに行くけど』って言ったら武が『おー』って言ってついてきたんだろ」
「マジ?」
「おい、本当に大丈夫か?」
笑って言えば、薫は呆れたように息を吐く。
カバンの中から買い物袋を取り出しながら、でもよ、と彼は言葉を続ける。
「心配なのは分かるぞ。炎真も、みんなも心配してる」
誰のことを、と言われずともそれが分かってしまって苦笑する。
京子の件、そしてレイがクロームの意識を奪ってその場から逃走した件、その両方にシモンは図らずも関わることになった。
しかし、彼らが詳細を求めてくることはなかった。
自分達への信頼を礎に、友人として適切な距離を保ちながら、こちらのことを心配してくれていた。
「ありがとな」
そう返して、山本はスーパーに背を向けて歩き出す。
「じゃあ、また明日な」
「おう」
いつもと違う帰路、途中で公園の横を通ることになった。
中からは子どものはしゃぐ声が聞こえる。こんなに足元が悪く蒸し暑い日に遊ぶ子どももいるのだな、と自身の幼少期を棚に上げて、山本は園内を覗き込んだ。
そして小さく息を呑んだ。
公園の中にはランボとフゥ太とイーピン、そしてイーピンと目線を合わせるように屈んでいるレイの姿があった。
怪我はもう大丈夫なのか、気持ちは落ち着いたのか、今自分が会ってもいいのか、顔を合わせたら逃げてしまわないか。
そんなことを考えながらも、気付けば体は公園の中に入りこんでいた。
「あ、山本!」
いち早く山本に気付いて声を上げたのはランボだった。砂場で遊んでいたのか、顔服や顔に泥がついている。
「オレっちとあそぶ?ねぇあそぶ?」
ランボが期待に目を輝かせながら飛び跳ねる。
山本はしゃがみ込んで、硬いのか柔らかいのか分からない不思議な感触の髪をかき回した。
「悪い、遊ぶのは今度でいいか?」
「えー……。うーん、しょうがないなぁ。ランボさんは心がひろいもんね!」
「さすがだな、サンキュ!」
2歩ほど離れたところではランボを止めることができなかったフゥ太が、申し訳なさそうに山本を見て苦笑いを浮かべている。
一方で、山本の存在には気付いているだろうに、数メートル先のレイはこちらを見ない。
その背中を見てから目配せをすれば、フゥ太はそれだけで意図を察して、ランボに「あっちでボール遊びしようよ」と呼びかけた。
ランボが素直に応じ、男児2人は遊具のない開けた場所へと駆けていった。
ゆっくりとレイに近付く。
未だこちらを見ないレイよりも先に目が合ったのはイーピンだった。
イーピンは山本を見て、少し遠くに行ったランボ達を目を凝らして見て、最後にレイの顔を見上げて、そして山本に礼儀正しく頭を下げてからランボ達のもとへと走っていった。
あんなに小さい子にまで気を遣わせてしまった。申し訳なさを覚えつつ、小さい後ろ姿を見送る。
イーピンの足音が少し遠くなってから、山本は口を開いた。
「瀬切」
呼び掛けてみれば、レイはあっさりとこちらを振り返った。
その表情は、予想したものよりもずっと穏やかで、こちらを拒絶するような刺々しさや痛々しさはない。
ただ、目元は少し赤かった。人知れず泣いたのだろうか、1人で泣いて泣いて、そして何とか気持ちを整理させて、その表情を取り戻したのだろうか。
言葉に詰まった山本を見て、レイは膝に付いた砂を払って立ち上がる。
そして公園の隅のベンチを指さして言った。
「座ろう」
3人掛けのベンチに30cm、半人分の間を開けて腰掛ける。
公園の中でも遊具のないエリアで、きゃあきゃあと子どもが騒ぐ声が聞こえる。
しかし距離があって細かい表情や会話の内容までは分からない。
右に視線を向ける。レイは背もたれに上体を預けて、視線を子ども達に向けている。
彼女に倣って山本もベンチにもたれかかる。木製のベンチは少しひんやりとしていて心地いい。
このまま黙っているわけにもいかず、まずは当たり障りのない切り口から攻めることにした。
「怪我、大丈夫か?」
「大丈夫。もうほとんど治ったよ。ここも」
そういってわき腹を軽くさするレイは、Tシャツにチノパンというシンプルな恰好だった。
先日は肩やわき腹などの大きな傷だけでなく、顔や腕にもたくさんの小さな傷が走っていたはずだ。しかし、今露出している部分に傷跡は見えない。
ベンチに座るまでの体の運び方からしても、大怪我をしていた箇所が強く痛むようには見えなかった。
「よかったな」
語彙力のなさが恨まれるが、レイの治癒力に対する山本の言葉としては、これ以上もこれ以下もなかった。
痛みの時間は短い方が精神的な苦痛も減る。
レイも「そうだな」と、少し笑いながら返してきた。
笑顔を浮かべるだけの余裕はあると見込み、山本はもう少しだけ踏み込むことにした。
「瀬切のこと、小僧から色々聞いたぜ」
ちらりとこちらを見たレイは、口元に薄らと笑みを浮かべたまま、特にこれといった反応を見せない。
「ボクが人間じゃないって聞いて、どう思った?」
「特になんとも。ドールとかなんとか、ちょっと難しかったけど、そんな奴もいるかってくらい」
多分、ほかの奴もそう思ってるぜ。そう付け足せば「そうか、ありがとう」とため息のように小さな返事が返ってきた。
会話が途切れる。子ども達の甲高い声と風の音、たまに通る車の音くらいしか聞こえない。
少しだけ居心地の悪さを感じて身じろぎすれば、ふくらはぎにエナメルバッグが当たった。
「あ」
思わず声を上げると、レイは不思議そうにこちらを見た。
エナメルバッグの中に入っているものを思い出す。会えたら渡そうと思って持ち歩いていたが、今渡すべきだろうか。迷いが生じる。
しかし、いつまでも自分が持っているわけにもいかない。これだって早く持ち主のもとに帰りたいはずだ。
腹を決め、エナメルバッグの中に右手を突っ込む。
「山本?」
「ちょっと待ってろ……」
グローブや練習着、スパイクの入った袋、タオル、教科書類をかき分けて進む。
その中の一番奥、布越しでも硬度の分かるものが指にあたった。
「あった」
左手もカバンに入れ、通り道を確保しながらそっとそれを引き上げる。
それを持って、山本がレイの方に体が向くように浅めに座り直せば、レイもそれに倣って座り直す。
向き合う状態で、山本の手がタオルを開く。それまで山本の一連の動作を大人しく眺めていたレイが、そこで初めて反応を見せた。
鋭く深く、息を吸う音がした。
「それ……」
急に震えた声に、少しだけ胸が痛む。
実用性が高くも美しい装飾が施された柄、そして乳白色の剣身が、陽光を受けて山本の手の中で光る。
あの日、ヒロヤの体を貫いて、そしてそのまま置いて行かれた彼女の短剣だった。
「……どうして」
「お前の兄貴が消えたところに落ちてるの、オレと獄寺で気付いてさ」
レイはあそこに落としたことすら覚えていなかったのか。それくらい茫然自失としていたのだろう。
埃の多い場所に放置するわけにいかず、ツナに託すにも気が引け、獄寺と相談して山本が預かる形となっていた。
いつだったかディーノ達がくれた大事なものだと言った時のはにかんだ笑顔と、兄が消えた場所をぼんやり眺めていた顔が、山本の脳裏を荒らす。
目の前のレイは、言いようのない感情を目の奥にうごめかせたまま動かない。
「瀬切」
名前を呼んで短剣を差し出すと、レイは体をビクつかせてから半身をのけぞらせた。
一番近い感情を表すのであれば、恐怖だろうか。
薄く開かれた口元が震えていて、呼吸も浅い。
右手で身じろぎすらしないレイの左手をそっと掴んだ。
わずかに震えながら腕を引こうとするが、山本の手を振り払うほどの抵抗はない。
指先を震わせる手の平を空に向け、その中にそっと短剣の柄を押し込んだ。
右手にレイの左手と短剣の重さを感じる。
閉じようとしないその手を、両手で上下から包み込んだ。そうでもしないと、短剣を取り落としてしまいそうなほど、その手には力が入っていない。
レイは自分自身の左手を凝視したまま動かなくなった。
山本もどこを見ればいいか迷って、己の手を、短剣の剣先を見る。
美しいだけでない、それなりの強度と殺傷力を持った実用性も高い切っ先が、2人の呼吸に合わせてゆっくりと光を反射する。
まだ駄目だったのだろうか、急ぎ過ぎたのだろうか。
そう悩み始めた時、不意に手元の近くで何かが落ちるのが見えた。少し視線を上げてみえば。
「あ……」
思わず声が漏れる。レイの口元は固く結ばれ、呼吸が乱れないようにかゆっくりと肩を上下させている。
しかし、その目からは涙がこぼれ、その頬を、顎を伝って落ちていく。
ぽつぽつと降っては、雨のようにレイのチノパンやベンチに跡を作っていく。
山本が見ることに気付いたのか、レイはさらにその顔を俯かせた。
「見ないでくれ」
「わ、悪い」
震えを隠せない声で言われて、咄嗟に謝る。
両手の中で、レイの左手がぎゅう、と短剣の柄を握り締めるのが分かった。
右手は自身の腿に爪を立てている。足も手も痛いだろうに。
そう思えばいてもたってもいられなくなった。
左手だけを剣から離し、その右手に伸ばす。レイの左手は、短剣を握っているのに山本の右手に収まってしまう。
レイの右手をすくい上げれば、レイは爪を立てるのをやめ、右手を握りこぶしへと変化させた。
山本はその手を自分の左手で包み込んだ。
両手に感じるレイの手の温度は、ほんの少し冷たく感じる。
されるがままのレイが、口を開いた。
「これ」
辛うじて声になっているが、今にも決壊しそうなほど水気を多分に含んだ声だった。
「なくしたかと思ってた。もう、見つからないと思って……。見つけてくれて、ありがとう」
それだけを何とか声に出してから、レイは崩れ落ちるように泣き出した。
子ども達が気付かないように声は抑えているが、山本の距離ではすべて音が届く、そのくらいの音だった。
嗚咽と涙が、2人の間にひっきりなしに落ちる。丸まってしまった肩も背中も、呼吸のたびに大きく震えて揺れる。
レイの右手はいつの間にか開かれ、山本の左手を縋るように握っていた。
山本の右手に包まれた左手は、震えながらも短剣の柄をしっかりと握り締めている。
揺れるつむじを見ながら、山本はレイが飲み込んだであろう言葉の数々を考えようとした。そしてやめた。
彼女が自分に対して言うべきだと思ったのは、短剣を拾って返してくれたお礼だけであり、それ以上は抱え込むと決めたのだ。
そこから先に踏み込む権利は、まだきっと自分にはない。
震える肩を抱くのも、ましてやその体ごと抱き締めるのも、きっと同じだ。
何よりこれ以上寄りかかることを、レイ自身が許さないだろう。
それを許すような性格であれば、とうにすべてを投げ出していてもおかしくない。
自分達を、ツナを巻き込むまいと、最後の最後まで心も膝も折らなかった。
その在り方の強さに対する敬意と、ほんの少しの寂しさが心の中で混ざり合う。
せめてもと、山本は唯一自分に縋ってくれているレイの手を強く握り返した。
数分後、レイがゆっくりと顔を上げた。
目元は赤く、呼吸の度に息をひくつかせ、頬にはいくつも涙の跡が走っているが、新しい涙が落ちる様子はない。
「……落ち着いたか?」
伺うように声をかければ、レイは小さく頷いた。
「多分、大丈夫」
「すげぇ鼻声」
見事な鼻声に笑えば、レイが唇を尖らせて顔をそむけた。
ひとしきり泣いたからなのか、彼女のまとう空気は一気に軽くなっていた。
これで心の整理が完全につくようなものだとは、山本も思わない。
しかし、少しでもレイの心が楽になったなら、そして一端を担ったのが自分であれば、それはとても嬉しいと思えた。
未だに手は触れ合ったままだ。
ただ、先ほどとは異なり、両手とも自然な力で握り合ったり支えたりしており、どこか心地よい。
そっと確かめるように手を握れば、潤んだ黒い目が、ようやく山本の目を見た。ああ、嬉しい。
穏やかな空気に身を任せていると。
「あ、レイが泣いてる!山本泣かせた!?」
間近で響いた大声に2人揃って飛び跳ねる。
「ラ、ランボ」
「いっけないんだー!ツナにチクったるもんね!」
声の主はボールを追って近くまで来ていたランボだった。
「ランボ!勝手に、って……、え……」
「ダイ、ジョーブ?イタイ?」
ランボを追いかけてきたフゥ太はレイの顔を見て硬直し、イーピンはレイの足元に駆け寄って小さい手で膝に触れている。
泣いている同居人に動揺する子ども達に、レイは慌てて目を擦りながら弁解を始めた。
「ち、違う、何でもない。なくしたと思ったものを山本が見つけてくれたんだ。だから嬉しくて」
「ほんとぉ?いじめられてない?ランボさんにウソついてなぁい?」
「本当だって!……ちょっと顔洗ってくる!」
年の離れた子どもに心配されて気恥ずかしいのか、今日一番の大声を出してレイはベンチから立ち上がった。
するりと離れる手が少し惜しい。
レイが腰元に短剣を押し込むと、短剣も空気に溶けるように消えた。霧の炎で編み上げられた、あの薄い布は、例え気分が落ちていようときちんと身に着けていたようだ。
水飲み場へと小走りで向かうレイの背中を見送る。ランボとイーピンも彼女を追って走って行った。
ベンチの近くに残ったフゥ太が落ちているボールを拾い上げて言った。
「今日公園に来たのはね、ランボがわがまま言ったからなんだ」
雨が続いていたここ数日、当然ながら外で遊ぶことはできなかった。
さらに家にいるはずのレイが部屋に籠ってかまってもくれないことと、ツナが浮かない顔をしていたのも重なり、ランボは相当ストレスを溜めていたらしい。
それでも、彼にしては珍しく気を遣い、我慢に我慢を重ねて。そしてとうとう爆発した。
ランボは、外に行くんだ、レイと遊ぶんだ、とレイの部屋の前で盛大に駄々をこねた。
「僕とイーピンで止めようとしたんだけど、途中からイーピンも釣られて泣き出しちゃったからどうしようもなくって」
「そっか」
「そしたらレイ姉が部屋から出てきてくれたんだ」
公園、行く?
レイのその言葉に、子ども達はすかさず手や服を引っ張った。そうしてレイは数日ぶりに外に出ることになったという。
「ランボさまさまだな」と小さく呟けば、「珍しくランボのわがままが役に立ったよね」とフゥ太が笑う。
なお、現在のランボは、水飲み場で顔を洗うレイの足元で下の蛇口に手を伸ばそうとしていた。
いつもの光景が戻ってきたことを噛み締める。
「レイ姉、元気になってよかった」
「そうだな」
「きっと武兄が来たからだよ」
10歳の子どもの言葉に、ほんの少しだけ喉が詰まる。
山本が何かを答える前に、水飲み場からイーピンの悲鳴が聞こえた。
ランボが蛇口を抑えたことで水が跳ね、イーピンとレイの足元にかかってしまったようだった。
喧嘩になりそうな最年少達を止めるべく、沢田家の真ん中っ子がすっ飛んでいった。
「そっか」
足元の喧騒に気付いて、慌て始めたレイを見て呟く。
「だったらいいな」
山本は小さく笑いながら、タオルを渡すべくベンチから立ち上がった。
唐突ではあるが、山本がレイに恋をしている。
自覚のきっかけは些細なものだった。
梅雨入りする少し前のこと、いつも通りに手合わせを行い、その後に縁側で涼んでいた時のことだった。
レイが日本の体育祭について知りたがったため、1年生時の出来事について掻い摘んで話していた。
ずっと山本の邪魔をしないように笑いを堪えていた彼女だったが、雲雀の乱入でとうとう我慢できなくなったのか、声を上げて笑い始めた。
それを見て。
かわいいな。
ぽん、と脈絡なく頭に浮かんだ言葉に、山本は困惑をした。
レイに可愛げがないわけではないが、見た目も性格も中性的であり、いわゆる「可愛らしい子」と言われるタイプではない。
本人だって唐突に「かわいい」と言われれば、顔を赤らめるよりも眉を顰めることだろう。
だからその場では、その違和感は押し込めた。
しかし、ツボにはまってずっと笑っているレイのことは「かわいい」と思い続けていた。
その夜、布団に転がりながら昼間のことを思い返した。
よくよく考えれば、レイと一緒にいる時に感じる、わずかな気恥ずかしさを伴った幸せについての呼称を考えたことがなかった。
例えば隣を歩くとき、苦手な国語を頑張って解こうとしているのを見たとき、最初はツナにしか見せなかった気の抜けた表情を見せるようになったとき、手合わせの後に次郎や小次郎を撫でている姿を見たとき。
日常の様々な場面でずっと、山本の中で揺れる感情がある。
一番それを強く感じるのは、笑っている顔を見るときと、まっすぐに視線が合うときだった。
それを総合する言葉が「かわいい」だというのなら。
ツナ達に向けるものとはほんの少しだけ違う、ずっと友情の一部だと思っていたこの感情がただの友情でないとしたら。
鈍いだの野球バカだの言われる自分であっても、さすがにここまで来れば嫌でも自覚せざるを得なかった。
そうか、好きなのか。それも恋愛的な意味で。
特に理由もなく、レイに触れたいと思うのはそのせいか。
随分あっさりとした自覚だった。
心臓がやたらとドキドキしたりだとか、顔が熱くなって仕方ないだとか。恋の自覚とはそういった衝撃を伴うものだと思っていた。
でもこの緩やかな自覚に不満はない。むしろ好ましいと思っていた。
こんな風に穏やかな感情で、これから先もレイが笑顔で近くにいてくれたら、それはきっととても喜ばしいことだ。
「いいって言ったのに」
「気にすんなよ。瀬切も本調子じゃねぇし、なんかあったらチビ達が困るぜ?」
いつの間にか西日が強くなった上に、子ども達の腹が鳴ったとなれば帰るしかない。
送らなくていいと言い張るレイを丸め込み、沢田家への道を歩く。
負傷していたとしても、レイとイーピンであればそこらの不審者程度は返り討ちにできるだろう。
ランボの潜在能力を考えれば、彼も戦力とできなくもない。
だが万が一がある。日没までまだ余裕もあるが、まだ本調子ではないレイと子ども達だけで帰すのは気が引けた。
だとかなんとか言い訳を考えているが、本当はもう少し一緒にいたい、というのが山本の本心だ。
「帰ったらツナと話すのか?」
「うん」
「そっか」
「オーナーになってほしいっていうのも、伝える」
「やっぱそうなるよな」
ドールとオーナーの関係性について聞いてから、レイのオーナーになるならツナかディーノくらいだろうとは思っていた。
恐らく、獄寺とクロームも同じように考えただろう。
「てことは、瀬切もボンゴレファミリーになるのか?」
「そう、だな。でもその前にクロームにも謝らないといけない」
京子や山本と異なり、クロームに直接的な被害を与えたのはヒロヤではなくレイであった。
特に仲の良かった相手の意識を説明もなしに奪ったという事実は、当人達の間にわだかまりを残すには十分な出来事だ。
しかしここ数日のクロームは、レイの心配こそすれ、怒りを抱いている様子は全く見受けられない。
強いて言えば、説明もなく、助力の1つも求めてくれなかったことに対して、怒りに近い寂しさを抱いているくらいだろう。
「アイツなら大丈夫だって」
眉を自信なさげに下げたまま頷くレイの肩を軽く叩いた。
ここ数日の学校の出来事を話していると、急にレイが「今更だけど」と首を傾げた。
「どうして公園に?通学路、違うだろ?」
「あー、それは……」
レイのことを少しでも知ろうと資料を読むのに集中しすぎて、何も考えず薫について行って気付けばスーパーに、そこから自宅に向かったので普段とルートが違ったのだ、と馬鹿正直に伝えるのは少々気恥しい。
「薫が今日買い物当番らしくてさ、部活終わりになんとなくスーパーまでついてった。店には入らずにそのまま別れたけどな」
嘘は言っていない。
レイも特に疑う様子はなく、7人分の買い物って大変そうだな、と呟いて立ち止まった。
山本も顔を上げれば、すでに沢田家は目の前だった。家の玄関の前で子ども達が待っている。
「その、今日は本当にありがとう。ジャージも今度返すよ。じゃあ、また」
レイははにかむような笑みを浮かべて、玄関に向かって足を向けた。その背中に1つ、小さな約束をしたくて呼び止める。
「瀬切」
ほんの一歩の距離、レイは体ごと山本の方を向いた。
どこにも変な力が入っていない、とても自然な表情と立ち姿だ。
その姿に自然と口角がり、喉から飛び出た声は弾んでいた。
「また手合わせしような!」
レイは目をきょとんと丸くしてから、じわじわと顔を喜色で染め上げた。
そして山本の思いに応えるように、満面の笑みを浮かべて、少しだけ声を裏返して言った。
「する!」
→おまけ2(ヒロヤの話)