有痛
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ピシリ。
妙な音を響かせながら、赤く濡れた剣先が男の、ヒロヤの背中から顔を出す。
耳障りな音を立てて、ヒロヤの剣が地面に落ちる。
まるで時間が止まったかのようだった。数秒の沈黙が場を支配する。
その沈黙は、レイが後ずさる微かな音で終わりを告げる。
レイは男の体に刺さった短剣を見つめたまま抜くこともせず、ずるずるとその場にへたり込んだ。
少し先を走っていたツナは、その速度を極端に緩め、それでも歩みを止められずに、よたよたと覚束ない足で2人の近くまで歩いていく。
獄寺は足が止まってしまい、少しずつ前に進むツナの背中を見守ることしかできなかった。山本も同じだった。
ツナの足音と、隣の事業所の機械音と、自分達の呼吸の音しかしない空間に、一つ、聞きなれない声が響く。
「レイ」
この場で獄寺が声を知らない相手は瀬切ヒロヤだけだ。ならばこれが彼の声なのだろう。
初めて聞いたその声は、今しがたレイによって体を貫かれたというのに、苦しさもなく、ただ優しく穏やかな声だった。
「長い間、嫌な思いさせて本当にごめん」
その目は、顔は、先ほどまでと打って変わって柔和なものになっている。ゆっくりと膝を折り、妹と高さを合わせて、ヒロヤは右手をレイの頭に乗せた。レイは何も言わない。黙ったまま、されるがままになっている。
近付いているツナに気付き、やはり彼は笑いかける。空いている左手をツナに伸ばし、その体も引き寄せて、ヒロヤは両腕で自身の妹と従弟を優しく抱き締めた。
「綱吉も、また会いに来るって約束したのに、こんな形になってごめんな」
掛けられた声でとうとう限界を超えたのか、ツナの嗚咽が聞こえ始めた。ツナの背を、小さな傷のたくさんついた手がゆっくりと撫でる。
間違いなく深い傷を負っているというのに、ヒロヤの様子は大した傷もないかのようにあっさりとしていた。
髪色より少し明るい目が、ふと獄寺達の足元に向けられて、細められた。
「リボーン……」
「久しぶりだな」
獄寺達の足元を抜けて、リボーンがヒロヤに近付いた。
ディーノがボスになる前からの付き合いであれば、当然ヒロヤはこの殺し屋とも面識があるということになる。旧知の間に流れる独特の空気は、険悪ではなく、むしろ穏やかで親密なものだった。
「ボクがこうなった後、みんなに色々と迷惑かけたよな」
「なかったとは言えねぇな」
「うん……。あのさ、ディーノに謝っておいてもらっていいかな?」
「自分でやれ……、と言いたいところだが、そうもいかねぇか。最期だろうし聞いてやる」
「ありがとう」
聞き覚えのあるパリパリという音と共に、ぼふりと硬くない何かが倒れる音がした。その音の発生源を見やれば、ヒロヤの履いていた靴が横に倒れ、そしてふくらはぎの先端を覆うズボンが平たく落ちていた。先ほどまで靴を支えていた足が、ない。
倒れた靴の履き口から、ズボンの裾から、さらさらと灰のようなものが零れ、風に舞うように何かに流されてその量を減らしていた。大した風もないというのに。
ヒロヤの手と顔には、いつか見たのと同じようなひびが走っている。体の端の方、指先のひびの方が細かく、そして時間と共に灰のような粒子を飛ばしながらその体が削れて行く。
『灰の手』が落とした腕は、跡形もなく消えていく。原理は分からないが、こういうことなのか、と回らない頭で受け入れざるを得なかった。
リボーンを見ていたヒロヤの目が、呆然と立ち尽くす獄寺達を捉えた。敵意も害意もない視線に、どうしようもなくやるせなくなった。
「キミたちは、レイと綱吉の友達……かな?ありがとう。ボクが言えたことじゃあないけど、どうか2人のことよろしく頼むね」
向けられた笑顔は妹のものと似ていた。少し眉が下がるところなんて同じだ。しかしレイ以上のマイペースさを感じて、兄妹と言えどすべてが同じわけではないのだなと、場違いに当たり前のことを考えてしまう。
体に走るひびは次第に大きくなってきて、五指はすでに消え去った。最初は頬に走っていただけのひびも、今は顔全体を覆っていて、耳の端から削れていく。
終わりが近いことだけは理解はできた。
「レイ、綱吉。顔を上げて」
今の獄寺の立ち位置からは、2人の表情はあまり見えない。ただ、ずっとツナの肩が震えており、一方でレイは微動だにしていないことだけは分かっている。
俯いたままの2人の頬を、手のひらの付け根でヒロヤがそっとさする。そのわずかな衝撃だけで、手のひらの半分がボロボロと崩れ落ちていった。
ローブのせいで全身の状態はよく分からないが、この様子であれば恐らくすでに下半身のほとんどはなくなっているのだろう。それでも上半身が元の位置を保っている。だから俯いている2人の顔が見えない。
「頼むよ」
静かな懇願に、最初に応えたのはツナの方だった。しゃくり上げるような息を漏らしながら、その頭が上がっていく。斜め後ろから見えたその顎から、涙の雫がぽたぽたと滴るのが見えた。
ツナは何かを話そうと口を開いては、嗚咽ばかりが出てまた口を閉じるのを繰り返している。それすら愛しそうに、嬉しそうに眺めてから、ヒロヤはその視線をレイの旋毛に向けた。
「レイ。最期だから。顔を見せてよ」
肩をピクリと揺らし、レイの顔が緩慢に上がる。そして目が合ったのだろう。ひびが入っていないところはほとんどない顔が、今までで一番嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「兄さん」
掠れ切ったレイの声が耳を打つ。
「ごめんなさい」
無機質で平坦で、感情が読めない謝罪の言葉に、怒るでも悲しむでもなく、ヒロヤはただ苦笑した。
「なんで謝るんだ。レイ、終わらせてくれて、本当にありがとう」
手首から先がなくなった腕に、そっとレイとツナの体が抱き寄せられる。ヒロヤの頭の左右にツナとレイ、それぞれの片方のこめかみが当たる。またどこかが大きく欠けたのか、光を反射させながら、粒子が風に消える。腕も消え果たのか、ついさっきまでツナとレイに触れていたはずの腕がない。
「レイ、綱吉、元気で。愛してる」
その声が響いた直後、ヒロヤの服が風をはらんだように大きく膨らみ、残りの部位が一息の風に流れて消えた。
カラン、と高い音を立てて、ヒロヤの体に刺さっていたはずの短剣が地面に落ちた。それを覆い隠すように衣服が地面に広がる。
「どうして」
瀬切ヒロヤの存在が消えて、何十秒もたってから、ツナが絞り出すように言った。泣いていることを欠片も隠せない濡れそぼった声に、胸が痛む。
どうして、の後に続く言葉は「どうして何も言わなかった」なのか「どうしてあんなことをしたのか」なのか、あるいはそれ以外の何かなのか、獄寺には分からない。
ツナの手がレイの腕を掴む。それは糾弾のためではなく、その存在を繋ぎとめたいという願いのように見えた。
対して腕を掴まれているレイは何も言わず、涙を流すでもなく、呆然と虚空を見つめている。
不思議とすでに出血は止まっているようだが、肩と腹のあたりは前も後ろも血で汚れている。そうでなくても切れていたり穴が開いたりと散々なので、もうこの服は捨てざるを得ないだろう。
色のせいで目立たないだけで、髪も血で汚れていそうだ、と働かない頭の隅でぼんやりと考える。
隣に立つ山本をちらりと見やれば、運悪く向こうもこちらを見て目が合う。
山本の力ない作り笑いは珍しい。
恐らく自分の顔は仏頂面になっているだろうが、きっと同じように覇気のない顔になっていることだろう。
「ツナ、レイ。とりあえず帰るぞ」
いつもよりいくらか優しい声でリボーンが語り掛ける。
「リボーン……、オレ」
「言いたいことや訊きたいことはあるだろうが、今日はやめとけ。お前もレイも、今はまともに話せる状況じゃねぇだろ。それに雨も降ってきた」
リボーンが言う通り、穴が開いた建屋の屋根から細雨が落ちて、地面を湿らせている。空の暗さを見るに、このまま本降りになるのも時間の問題だろう。
未だに喉の震えが止まらないツナは、ひくひくと息を漏らしたまま頷く。そしてゆっくりと立ち上がると、ツナに握られたままのレイの右腕が一緒に持ち上がった。
レイを立たせようと、何度かツナがその腕を引くが、足に力が入らないのか、そもそも立つ気がないのか、俯いて地面にへたり込んだまま動こうとしなかった。
「レイ」
「……帰りたくない」
小さな拒絶の声に胸が詰まる。
わがままを言うな、10代目を困らせるな。いつもであればすぐに飛び出てくる言葉も、今は喉につっかえて出てこない。
山本が小さな声で「瀬切」と呼び掛けても、レイは首を横に振るばかりだった。
そんなレイの腕を、ツナがぐいぐいと引っ張って立たせようとする。
「帰るぞ」
「いやだ」
「なんで」
「兄さんを殺した」
「知ってるよ」
「おばさんに会いたくない」
「うるさい、帰るんだ!」
「いやだ!」
まるで子どもの喧嘩のような言い争いだった。
支離滅裂で、恐らく当の本人達ですら何を言っているか分からなくなっている。
2人の声が大きくなるのに合わせて、雨脚が強くなっていく。トタンの屋根に響く雨粒の音がうるさい。
「おい、お前らうるせーぞ」
しびれを切らしたように、リボーンが声を上げてレイに近寄る。
「そんな血みどろの格好でうろつくわけにいかねぇし、何よりお前はディーノに報告する義務がある。駄々こねてねぇでさっさと帰るぞ」
リボーンを見やるレイの顔がほんのわずかに歪んで、俯いて、そしてほとんど吐息のような声で「わかったよ」とだけ言った。ツナに引き上げられるようにヨロリと立ち上がる。
改めて、全身の汚れが酷い。血と、埃と、少しの泥と錆だ。
雨が降っているとはいえ、まだ外は明るい。平和な日本の往来ではさぞ悪目立ちすることだろう。
同じことを思ったのか、山本が自身のジャージを脱いで半袖一枚になる。そしてレイに近寄り、上着を渡す。
「その恰好、目立つからさ」
「……汚れる」
「わかった」
そう言うと山本は小走りで建屋の裏口に置いていたエナメルバッグを持ってきた。そして中から白いタオルを取り出す。
「これ、使ってないタオル。血も止まってるみたいだし、これ肩にかけときゃジャージはほとんど汚れねぇよ。タオルは消耗品だし、本当に気にしなくていいぜ」
視線を差し出されたタオルとジャージとで往復させ、レイは小さく頷く。
右腕はツナに掴まれたままで、左腕は傷で動かせない。ジャージは結果的に肩に羽織るだけになった。
それでもレイの体格に合わないジャージは、すっぽりと上半身から膝上まで覆ってしまう。
前を締めれないのは少々痛いが、そこまで人目を気にする必要はなくなっただろう。
リボーンが先導し、その後ろをツナと、腕のひかれたレイの腕を引いて、工場の裏口に歩いていく。
ふと足音が足りないことに気付いて振り向けば、山本がヒロヤの服が落ちているところにしゃがみこんでいた。
「何してんだ」
声をかけて近寄れば、山本の手にはレイの短剣が握られていた。何故かその刃は血の一滴もついていない。
かざせば、乳白色の剣身がうっすらと光を通した。先ほどの炎のような輝きはもうない。
柄も滑らかに光を弾いている。鞘はレイの腰に収まったままかなのか、この場には見当たらない。
「これさ、大事なものだって言ってたんだよ」
いつもの快活な山本からは考えられないほど、沈んだ声だった。
「大事なもので大事な人を……ってさ、多分、すごくキツいよな」
「……だろうな」
なんとなく気が向いて相槌を打つ。山本は「だよな」と言いながら自身のエナメルバッグに再度手を突っ込む。中から青いタオルを引っ張り出して、丁寧に短剣を包んで鞄にしまった。
屋根の穴から落ちてくる雨粒は、先ほどよりもだいぶ大きくなっている。
急いで裏口を出れば、ツナとレイが立っていた。ツナの左手は、まだレイの右腕をつかんでいる。
「遅ぇぞ」
「すみません!」
リボーンの叱責に慌てて謝罪をして、歩き始めた。
雨が本降りになる中で傘もない。家までの距離はまあまあある。
うち1名は、足取りこそしっかりしているが、怪我をしているので走ることもできない。
整理のつかない気持ちを抱えているのもあるだろう、歩みが遅い。走れと言えば走るのだろうが、そんなことを言うような人間はここにはいなかった。
薄暗くなった町の中、なるべく人通りの少ない道を選んで歩く。誰も、口を開かなかった。
妙な音を響かせながら、赤く濡れた剣先が男の、ヒロヤの背中から顔を出す。
耳障りな音を立てて、ヒロヤの剣が地面に落ちる。
まるで時間が止まったかのようだった。数秒の沈黙が場を支配する。
その沈黙は、レイが後ずさる微かな音で終わりを告げる。
レイは男の体に刺さった短剣を見つめたまま抜くこともせず、ずるずるとその場にへたり込んだ。
少し先を走っていたツナは、その速度を極端に緩め、それでも歩みを止められずに、よたよたと覚束ない足で2人の近くまで歩いていく。
獄寺は足が止まってしまい、少しずつ前に進むツナの背中を見守ることしかできなかった。山本も同じだった。
ツナの足音と、隣の事業所の機械音と、自分達の呼吸の音しかしない空間に、一つ、聞きなれない声が響く。
「レイ」
この場で獄寺が声を知らない相手は瀬切ヒロヤだけだ。ならばこれが彼の声なのだろう。
初めて聞いたその声は、今しがたレイによって体を貫かれたというのに、苦しさもなく、ただ優しく穏やかな声だった。
「長い間、嫌な思いさせて本当にごめん」
その目は、顔は、先ほどまでと打って変わって柔和なものになっている。ゆっくりと膝を折り、妹と高さを合わせて、ヒロヤは右手をレイの頭に乗せた。レイは何も言わない。黙ったまま、されるがままになっている。
近付いているツナに気付き、やはり彼は笑いかける。空いている左手をツナに伸ばし、その体も引き寄せて、ヒロヤは両腕で自身の妹と従弟を優しく抱き締めた。
「綱吉も、また会いに来るって約束したのに、こんな形になってごめんな」
掛けられた声でとうとう限界を超えたのか、ツナの嗚咽が聞こえ始めた。ツナの背を、小さな傷のたくさんついた手がゆっくりと撫でる。
間違いなく深い傷を負っているというのに、ヒロヤの様子は大した傷もないかのようにあっさりとしていた。
髪色より少し明るい目が、ふと獄寺達の足元に向けられて、細められた。
「リボーン……」
「久しぶりだな」
獄寺達の足元を抜けて、リボーンがヒロヤに近付いた。
ディーノがボスになる前からの付き合いであれば、当然ヒロヤはこの殺し屋とも面識があるということになる。旧知の間に流れる独特の空気は、険悪ではなく、むしろ穏やかで親密なものだった。
「ボクがこうなった後、みんなに色々と迷惑かけたよな」
「なかったとは言えねぇな」
「うん……。あのさ、ディーノに謝っておいてもらっていいかな?」
「自分でやれ……、と言いたいところだが、そうもいかねぇか。最期だろうし聞いてやる」
「ありがとう」
聞き覚えのあるパリパリという音と共に、ぼふりと硬くない何かが倒れる音がした。その音の発生源を見やれば、ヒロヤの履いていた靴が横に倒れ、そしてふくらはぎの先端を覆うズボンが平たく落ちていた。先ほどまで靴を支えていた足が、ない。
倒れた靴の履き口から、ズボンの裾から、さらさらと灰のようなものが零れ、風に舞うように何かに流されてその量を減らしていた。大した風もないというのに。
ヒロヤの手と顔には、いつか見たのと同じようなひびが走っている。体の端の方、指先のひびの方が細かく、そして時間と共に灰のような粒子を飛ばしながらその体が削れて行く。
『灰の手』が落とした腕は、跡形もなく消えていく。原理は分からないが、こういうことなのか、と回らない頭で受け入れざるを得なかった。
リボーンを見ていたヒロヤの目が、呆然と立ち尽くす獄寺達を捉えた。敵意も害意もない視線に、どうしようもなくやるせなくなった。
「キミたちは、レイと綱吉の友達……かな?ありがとう。ボクが言えたことじゃあないけど、どうか2人のことよろしく頼むね」
向けられた笑顔は妹のものと似ていた。少し眉が下がるところなんて同じだ。しかしレイ以上のマイペースさを感じて、兄妹と言えどすべてが同じわけではないのだなと、場違いに当たり前のことを考えてしまう。
体に走るひびは次第に大きくなってきて、五指はすでに消え去った。最初は頬に走っていただけのひびも、今は顔全体を覆っていて、耳の端から削れていく。
終わりが近いことだけは理解はできた。
「レイ、綱吉。顔を上げて」
今の獄寺の立ち位置からは、2人の表情はあまり見えない。ただ、ずっとツナの肩が震えており、一方でレイは微動だにしていないことだけは分かっている。
俯いたままの2人の頬を、手のひらの付け根でヒロヤがそっとさする。そのわずかな衝撃だけで、手のひらの半分がボロボロと崩れ落ちていった。
ローブのせいで全身の状態はよく分からないが、この様子であれば恐らくすでに下半身のほとんどはなくなっているのだろう。それでも上半身が元の位置を保っている。だから俯いている2人の顔が見えない。
「頼むよ」
静かな懇願に、最初に応えたのはツナの方だった。しゃくり上げるような息を漏らしながら、その頭が上がっていく。斜め後ろから見えたその顎から、涙の雫がぽたぽたと滴るのが見えた。
ツナは何かを話そうと口を開いては、嗚咽ばかりが出てまた口を閉じるのを繰り返している。それすら愛しそうに、嬉しそうに眺めてから、ヒロヤはその視線をレイの旋毛に向けた。
「レイ。最期だから。顔を見せてよ」
肩をピクリと揺らし、レイの顔が緩慢に上がる。そして目が合ったのだろう。ひびが入っていないところはほとんどない顔が、今までで一番嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「兄さん」
掠れ切ったレイの声が耳を打つ。
「ごめんなさい」
無機質で平坦で、感情が読めない謝罪の言葉に、怒るでも悲しむでもなく、ヒロヤはただ苦笑した。
「なんで謝るんだ。レイ、終わらせてくれて、本当にありがとう」
手首から先がなくなった腕に、そっとレイとツナの体が抱き寄せられる。ヒロヤの頭の左右にツナとレイ、それぞれの片方のこめかみが当たる。またどこかが大きく欠けたのか、光を反射させながら、粒子が風に消える。腕も消え果たのか、ついさっきまでツナとレイに触れていたはずの腕がない。
「レイ、綱吉、元気で。愛してる」
その声が響いた直後、ヒロヤの服が風をはらんだように大きく膨らみ、残りの部位が一息の風に流れて消えた。
カラン、と高い音を立てて、ヒロヤの体に刺さっていたはずの短剣が地面に落ちた。それを覆い隠すように衣服が地面に広がる。
「どうして」
瀬切ヒロヤの存在が消えて、何十秒もたってから、ツナが絞り出すように言った。泣いていることを欠片も隠せない濡れそぼった声に、胸が痛む。
どうして、の後に続く言葉は「どうして何も言わなかった」なのか「どうしてあんなことをしたのか」なのか、あるいはそれ以外の何かなのか、獄寺には分からない。
ツナの手がレイの腕を掴む。それは糾弾のためではなく、その存在を繋ぎとめたいという願いのように見えた。
対して腕を掴まれているレイは何も言わず、涙を流すでもなく、呆然と虚空を見つめている。
不思議とすでに出血は止まっているようだが、肩と腹のあたりは前も後ろも血で汚れている。そうでなくても切れていたり穴が開いたりと散々なので、もうこの服は捨てざるを得ないだろう。
色のせいで目立たないだけで、髪も血で汚れていそうだ、と働かない頭の隅でぼんやりと考える。
隣に立つ山本をちらりと見やれば、運悪く向こうもこちらを見て目が合う。
山本の力ない作り笑いは珍しい。
恐らく自分の顔は仏頂面になっているだろうが、きっと同じように覇気のない顔になっていることだろう。
「ツナ、レイ。とりあえず帰るぞ」
いつもよりいくらか優しい声でリボーンが語り掛ける。
「リボーン……、オレ」
「言いたいことや訊きたいことはあるだろうが、今日はやめとけ。お前もレイも、今はまともに話せる状況じゃねぇだろ。それに雨も降ってきた」
リボーンが言う通り、穴が開いた建屋の屋根から細雨が落ちて、地面を湿らせている。空の暗さを見るに、このまま本降りになるのも時間の問題だろう。
未だに喉の震えが止まらないツナは、ひくひくと息を漏らしたまま頷く。そしてゆっくりと立ち上がると、ツナに握られたままのレイの右腕が一緒に持ち上がった。
レイを立たせようと、何度かツナがその腕を引くが、足に力が入らないのか、そもそも立つ気がないのか、俯いて地面にへたり込んだまま動こうとしなかった。
「レイ」
「……帰りたくない」
小さな拒絶の声に胸が詰まる。
わがままを言うな、10代目を困らせるな。いつもであればすぐに飛び出てくる言葉も、今は喉につっかえて出てこない。
山本が小さな声で「瀬切」と呼び掛けても、レイは首を横に振るばかりだった。
そんなレイの腕を、ツナがぐいぐいと引っ張って立たせようとする。
「帰るぞ」
「いやだ」
「なんで」
「兄さんを殺した」
「知ってるよ」
「おばさんに会いたくない」
「うるさい、帰るんだ!」
「いやだ!」
まるで子どもの喧嘩のような言い争いだった。
支離滅裂で、恐らく当の本人達ですら何を言っているか分からなくなっている。
2人の声が大きくなるのに合わせて、雨脚が強くなっていく。トタンの屋根に響く雨粒の音がうるさい。
「おい、お前らうるせーぞ」
しびれを切らしたように、リボーンが声を上げてレイに近寄る。
「そんな血みどろの格好でうろつくわけにいかねぇし、何よりお前はディーノに報告する義務がある。駄々こねてねぇでさっさと帰るぞ」
リボーンを見やるレイの顔がほんのわずかに歪んで、俯いて、そしてほとんど吐息のような声で「わかったよ」とだけ言った。ツナに引き上げられるようにヨロリと立ち上がる。
改めて、全身の汚れが酷い。血と、埃と、少しの泥と錆だ。
雨が降っているとはいえ、まだ外は明るい。平和な日本の往来ではさぞ悪目立ちすることだろう。
同じことを思ったのか、山本が自身のジャージを脱いで半袖一枚になる。そしてレイに近寄り、上着を渡す。
「その恰好、目立つからさ」
「……汚れる」
「わかった」
そう言うと山本は小走りで建屋の裏口に置いていたエナメルバッグを持ってきた。そして中から白いタオルを取り出す。
「これ、使ってないタオル。血も止まってるみたいだし、これ肩にかけときゃジャージはほとんど汚れねぇよ。タオルは消耗品だし、本当に気にしなくていいぜ」
視線を差し出されたタオルとジャージとで往復させ、レイは小さく頷く。
右腕はツナに掴まれたままで、左腕は傷で動かせない。ジャージは結果的に肩に羽織るだけになった。
それでもレイの体格に合わないジャージは、すっぽりと上半身から膝上まで覆ってしまう。
前を締めれないのは少々痛いが、そこまで人目を気にする必要はなくなっただろう。
リボーンが先導し、その後ろをツナと、腕のひかれたレイの腕を引いて、工場の裏口に歩いていく。
ふと足音が足りないことに気付いて振り向けば、山本がヒロヤの服が落ちているところにしゃがみこんでいた。
「何してんだ」
声をかけて近寄れば、山本の手にはレイの短剣が握られていた。何故かその刃は血の一滴もついていない。
かざせば、乳白色の剣身がうっすらと光を通した。先ほどの炎のような輝きはもうない。
柄も滑らかに光を弾いている。鞘はレイの腰に収まったままかなのか、この場には見当たらない。
「これさ、大事なものだって言ってたんだよ」
いつもの快活な山本からは考えられないほど、沈んだ声だった。
「大事なもので大事な人を……ってさ、多分、すごくキツいよな」
「……だろうな」
なんとなく気が向いて相槌を打つ。山本は「だよな」と言いながら自身のエナメルバッグに再度手を突っ込む。中から青いタオルを引っ張り出して、丁寧に短剣を包んで鞄にしまった。
屋根の穴から落ちてくる雨粒は、先ほどよりもだいぶ大きくなっている。
急いで裏口を出れば、ツナとレイが立っていた。ツナの左手は、まだレイの右腕をつかんでいる。
「遅ぇぞ」
「すみません!」
リボーンの叱責に慌てて謝罪をして、歩き始めた。
雨が本降りになる中で傘もない。家までの距離はまあまあある。
うち1名は、足取りこそしっかりしているが、怪我をしているので走ることもできない。
整理のつかない気持ちを抱えているのもあるだろう、歩みが遅い。走れと言えば走るのだろうが、そんなことを言うような人間はここにはいなかった。
薄暗くなった町の中、なるべく人通りの少ない道を選んで歩く。誰も、口を開かなかった。