・オーウェン
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オービルのオーウェンの方も……。
砂の中を泳ぐ魚を見たのはサンドロックが初めてだった。まるで水中を泳ぐように砂の中を移動する魚を専用の道具で釣り上げるのだが、餌を投げれば軽やかに飛び上がり、スイスイ泳ぐ姿を見ていると変に愛着が湧いてしまう。
早速水槽を作ってみた。魚たちが窮屈にならないサイズをと思ったらずいぶん大きなものになった。敷地の三分の一程を占める割合だ。もう少し土地を広げれば余裕ができるだろうが、残金を考えると一月はかかるだろう。
でも、もうこれで大丈夫だ。
私は愛着が湧くと、それを自分のものにするまで落ち着かなくなる。それで今までずいぶん苦労した。
今回は魚だったけど、これが人間になったときが本当に大変なのだ。恋人になる。四六時中一緒にいる。一緒にいられない時は相手のスケジュールを全て共有する。そこまでやっても満足できない。もっと明確に自分のものにしたい欲求に駆られる。それに耐えきれなくなった相手から別れを告げられるまでが、いつもの流れだった。
お別れしたところでこちらの愛着が突然なくなるわけでもなく。しばらくは禁断症状のようなものが私を苦しめる。それに耐えれば、つまりある一定のラインを超えてしまえば解放されるのだが、毎回そんなことになるのはごめんだ。
だから私は、人間とあまり関わらないように注意深く生きるようになった。サンドロックを赴任先に選んだのも、田舎で寂れた場所ならあまり人と関わらずに済むと思ったからだ。今思うとそれは大きな間違いだったのだが、あの時の私はそう思っていた。
サンドカープはサンドロックで最も親しまれている魚だ。この街で唯一の飲食店でも定番メニューの一つで、そのためよく依頼される。釣りはもともと得意でも不得意でもなかったが、この街に来てすっかり馴染んだ。……釣りがビルダーの仕事なのかはさておき、あまり人と関わらずに済むのはありがたかった。
それでも社会生活を営む上で全く人と関わらないでいられるかと言うと、そんなことは不可能だと言わざるを得ない。仕事の依頼はボードに貼り付けてある依頼書から選べばいいのだが、たまに個人的に依頼を持ってくる住民もいた。大抵は断っても構わないのだが(上司もうるさいし)断りきれずに受けてしまうときがあった。
ブルームーン───青い月の名前を持つその店は、サンドロック唯一の飲食店かつ、街の人たちの憩いの場でもあった。土曜日は店主であるオーウェン自ら、ストーリーナイトという朗読会を開いている。他にも住民のバンド演奏など、私が当初思い描いていたよりも、ずっとこの街は明るく陽気だった。前任者のメイソンがゲンナリしていた気持ちが少しわかってしまう。
なにせ、今は私がオーウェンの善行の対象者だ。赴任したばかりの新人ビルダーの懐の寒さを知っているオーウェンが、何かと気を利かせてくれるのだ。食事も驚くほど低価格で提供される。ハイウィンドならこの倍はするはずだ。これでちゃんと経営できているのだから、おそらく他に財源があるのだろう。身なりのいいオーウェンの姿を思い出して納得する。余裕があるから人に優しくなれる。オーウェンはまさにそれを体現している存在だった。
理由がある善意は受け取りやすい。オーウェンからはなんの下心も感じなかった。彼は誰にでも優しい。私以外のビルダーが赴任してもまったく同じことをしただろう。それが分かるから、拒みにくかった。全くの善意を拒絶するほど、私は冷酷になれない。
それに懐が寂しいのも本当だった。おそらくヤンが中抜きしているのだろう。分かってはいたが、それを咎めるほどの熱意はない。物欲自体はさほどあるわけじゃないので、必要最低限の暮らしができれば問題なかった。そう。必要最低限の金さえあればの話だ。
端的に言えば、私はオーウェンに借りを作ってしまったのだ。大きくはない。ほんの500ゴルだ。それでも借りは借りだ。それはもう返し終わったのだが、あれからどうも彼に強く出れなくなってしまった。もしそれを見越してのことだとしたら、私はとんでもない人間から金を借りたことになる。オーウェンが裏の顔などない生粋の善人であることを祈るしかない。
「やあ! ナナシ、調子はどうだい?」
「普通だよ。はい、これ、頼まれてたサンドカープ」
「いつもありがとう! 君には助けられてばかりだな」
「なら、もう依頼は受けなくてもいい?」
「おっと、それを言われると困っちゃうな。君のような優秀なビルダーの助けがどうしても必要だからね」
「気が向いたら受けるとするよ」
手早く簡潔に応答する。あまり長話をしていると、あの青い目に吸い込まれそうで怖かった。オーウェンからは、愛されて当然の雰囲気が感じ取れた。彼を苦手に思う人間はいても、嫉妬以外で嫌う人間はそうはいないだろう。
依頼のついでにオーウェンの店で買い物を済ませる。最近は料理ステーションを新しく制作したおかげで、わざわざ住民に混じって食事をするリスクを冒さずに済むようになった。機械はいい。どれだけ愛着を持っても、自分で管理しきれる。
それでも調味料や、限られた食材は自前で用意するのは難しいため、中心地のアルビオの店ではなく、街の入り口にあるオーウェンの店を極力利用するようにしている。だがもし店にまで愛着を持ってしまったら大変困る。たまにはアルビオの店にも顔を出すべきかもしれない。
「買い忘れはないかな?」
「問題ないよ。それじゃあ」
商品を受け取って店を出ようとする。今日の予定は一通り終わったので、あとは自由時間だ。たまにはのんびりペットと戯れよう。
「あ、ちょっと待ってくれ」
もう帰るというところで、オーウェンに唐突に引き止められる。今しがた依頼は終えたばかりなのに、まだ用があるのだろうか。
あまり感情を表に出さないように気をつけながら振り返る。オーウェンはカウンターの向こうで、なにやらもごもごとしていた。だがすぐに意を決したような表情を浮かべる。よくない予感がした。
「その、以前は断られてしまったけど、よかったら一緒に食事でもどうかな? もちろん僕の奢りだ。なんでも好きなものを用意するよ」
うわ。私は自身の感情が制御しきれなかったようだ。目の前のオーウェンが悲しそうに眉を下げている。それでも、どうしようもなかった。
いっそ正直に打ち明けてしまおうか。私に優しくして惚れられると、あなたの人権が守られなくなりますよ。あなたのせいでこの世に悪質なストーカーが生まれてもいいんですか。……うーん。よくない。絶対良くない。
正直、すでにブルームーンの看板に愛着を持ってしまっていた。私のワークショップの看板の横には青い月が輝いている。だから、正直もうほとんど手遅れなのだ。それでも最後の一線は越えないでいる。ここが臨界点なのだ。
「オーウェン、申し訳ないけど───」
「お願いだ。僕は君ともっと親しくなりたいんだ。僕を哀れに思って、どうか一度だけチャンスをくれないか?」
「うっ……」
ああ。いっそオーウェンが彫刻だったらよかったのに。そうすれば、透明なケースにしまって、大事に飾るだけで済んだんだ。でも彼は人間だ。魚や犬のようにペットにするわけにもいかない。ましてや彼はサンドロックに欠かせない人間だ。私の家の一室に監禁なんてしたら大ごとになる。だめだ。絶対だめだ。
これは君のためでもあるんだ。お願いだから聞き分けてくれ。私を犯罪者にしないよう、お互い適切な距離をとっていこう。頼む! プリーズ!
「一度……だけなら、オーケー、食事してもいいよ」
「本当かい! ああ、とても嬉しいよナナシ!」
だめだった。私はオーウェンに弱い。出会った頃のような強気な態度はもう無理だ。だってあの顔を見てくれ。大の大人がする顔か?
カウンターから身を乗り出して喜ぶオーウェンは、私の気が変わらないうちにと、さっさと予定を決めてしまう。
「それじゃあ明日の昼12時に、楽しみに待ってるよ」
「一度だけだよ。いい? 一度だけだからね」
「もちろんだよ! 本当にありがとう!」
何度も念押しして、私はやっとブルームーンを出ることができた。ものすごい疲労感に、その場にうずくまってしまいたくなる。だが、帰らなければ。
オーウェンはいったいなぜそこまで自分にこだわるのだろう。ビルダーならミアンだっている。彼女はいつも忙しそうに荒野を駆け回っているから、比較的暇そうな私を構いたくなるのだろうか。ミアンを捕まえるのは確かに骨が折れる。一度用事があった時に彼女を追いかけたことがあるが、全然追いつかなかった。ミアンが私に気づいてくれるまで、不毛な鬼ごっこは続けられた。もう二度とごめんだ。
次の日の午後、私は約束通りブルームーンにいた。
はりきったのだろう。オーウェンの料理がテーブルいっぱいに並べられている。どうやって知ったのか、全て私の好きな料理だった。
「今日はきてくれて本当にありがとう」
「もうお礼は十分だよ。でも、一緒に食事をするなら私よりもっと相応しい人はいるとは思うけどね」
テーブル席の向かい側に腰掛けたオーウェンが、困ったような笑みを浮かべる。聞き分けのない子供に向けるような表情だった。
少し癪なので、私はそれには触れずに、目の前の料理に手を伸ばす。せっかくだからお腹いっぱい食べてやろう。なんだったら残った料理はお持ち帰りしたい。絶対この量は二人分じゃない。
「ところで、その、ナナシもサンドロックにきてずいぶん経つだろう。でも特定の誰かと仲良くしてる様子もないし、もしかして故郷に恋人でもいるのかい?」
オーウェンからの突然の質問に困惑する。いくらなんでもこれは、あれだろう。
「いないけど、でも今は誰とも付き合う気はないよ」
今は、どころか死ぬまで人と付き合う気はない。相手にも迷惑だし、私もこれ以上自分の性癖に振り回されたくない。
だが、オーウェンは私の言葉を受けて、何を思ったのか「つまりフリーなんだね」と嬉しそうに言う。前半部分だけ都合よく耳に入れたらしい。私の中のオーウェンの評価を書き換える必要がありそうだ。この男、意外と強かである。
「じゃあ、今は好きな人もいないんだね?」
どうやら彼は遠回りするのをやめたらしい。
オーウェンの青い瞳に、よくない色が混じって見える。私は言葉を選ぶのをやめることにした。そっちがその気なら、どこまで着いて来れるか試してやろうではないか。
「気になる人はいるよ」
「っ! そ、そうなんだ。知らなかったよ。この街の人なのかな」
「そうだね。オーウェンもよく知ってる人だよ」
「ははっ、この町で僕が知らない人の方が珍しいよ」
「そうかもね。でもオーウェンなら分かるんじゃないかな。だって君はサンドロックの住民のことはなんでも知ってるじゃないか。当ててごらんよ」
挑発的に笑って見せると、オーウェンの表情が変わる。普段の優しい店主の顔じゃない。もっと本能的な、まるで獲物を狙う獣のような顔だ。
暖かい雰囲気の店内から、私はどうやらハイエナたちがのさばる荒野に放り出されたようだ。背筋にぞくりとしたものが走る。
机の上に置かれたオーウェンの男らしい筋張った手が、彼の思考に合わせて力が入る度、血管が強調されてセクシーだった。認めよう。私はこの人に愛着だけじゃない、もっと根源的な興味を抱き始めていた。
オーウェンは答えに至ったのか、目を細めて恥ずかしげに笑う。彼の手が、力を逃すようにぐっぱっと開いたり閉じたりする。
「その、こんなことを言うと自惚れてると思うかもしれないけど……いいかい?」
「どうぞ、はずれても笑ったりしないよ」
私の言葉に、オーウェンが笑う。その笑顔はなんだかとても子供っぽくて、だけど一番彼に似合っていた。
「ナナシが気になってる相手は僕───だと嬉しい。どう、イエス?」
「残念なことにイエスだよ。おめでとう」
私はオーウェンの瞳をじっと覗き込む。せめてあの目だけでも自分のものにできないだろうか。そうすれば、残りの彼が少しばかり自由にしていても心穏やかでいられるかもしれない。そんな凶暴な考えに、自分のことながらゾッとする。
本当は、目の前の男の全部を私のものにしたい。
機械なら、毎日砂をはらって、メンテナンスをしよう。そして音楽のように流れる稼働音に聞き惚れる。
動物なら、毎日ブラッシングをして、餌は好みのものを用意する。小さければ一緒に眠ってもいいし、大きくても部屋の中まで招き入れて同じ空間で眠りたい。
植物でも、岩でも、なんでもいい。君が人間以外だったらな。私は想像だけで悲しくなってしまう。
私は確かめるように、自身の手を、オーウェンの手に重ねた。触れ合うそこから、オーウェンの熱を感じた。これが、ずっと私のものになったら、いっそ死んだっていい。
「ああっナナシ! 卑怯なやり方でごめん。君に好かれている自信がなかったんだ。
僕も君を愛してる。僕の恋人になってくれるかい?」
「……」
オーウェンの晴れやかな笑みを目の前にして、私はどうしようもない気持ちでいっぱいになる。
「……ナナシ? どうしたんだい。大丈夫?」
「オーウェン、君と付き合う前に言わなくちゃいけないことがあるんだ」
オーウェンは虚をつかれたような表情を一瞬浮かべるが、すぐに覚悟を決めたようだ。
「……オーケー。なんでも話していいよ」
「私は、君を、独り占めしたい……」
張り詰めた空気が緩むのがわかった。オーウェンの顔に、なんだそんなこと、と書いてある。でもこっちは死活問題なのだ。
「それだけじゃない。君を閉じ込めたいんだ。誰の目にも触れないよう。だって私がビルダーとして遺跡に潜る間、君がなにをしているのか気が気じゃなくなるんだ。いっそ仕事を放棄できたらいいのかもしれないけど……」
もうオーウェンの顔は見れなかった。右下に視線を固定して早口で捲し立てる。私のものじゃない。彼は一人の人間で、その自由は尊重されるべきだ。若い頃の私はそれがわからずに、人を傷つけてしまった。同じ過ちは繰り返したくない。
「本当は四六時中、どこにだって君と一緒にいたい。君の全てを私が管理したい。でもそんなの許されるわけがない。私は異常だ。分かってる。ごめん、ごめんよ」
「待って。ダーリン、落ち着いて。僕は怒ってないよ。大丈夫。ちょっと意外で驚いただけさ」
オーウェンの優しい声色に、恐る恐る顔を上げる。私の目から見たオーウェンは、彼の言葉通り怒りも嫌悪も感じさせなかった。
私を落ち着かせるために、オーウェンが隣に移動してくる。そのまま私を全身で包み込むように抱きしめてくる。その体からはわずかな香水と、スパイスのような香り、それらの奥に隠れるようにオーウェンの匂いがあった。
「ナナシにそんなに愛されてるなんて知らなかったよ。でもこれで、どうして君が人を避けていたのか理解したよ。今までとても辛い思いをしてきたんだね」
「……オーウェンは甘いよ。今はそうやって優しくできても、そのうちに絶対うんざりするから」
「君の今までの恋人がそうだったように?」
「……そうだ。みんな私を愛してるって言ったのに、誰も私の愛を理解しなかった。君も同じだ。だから嫌だったんだ」
すっかり私の恋人気取りのオーウェンが、宥めるように優しい手つきで頭を撫でてくる。側から見たら子供があやされてるようにしか見えないだろう。
「確かに僕は店を開けっぱなしにはできない。この仕事が好きだから辞めるつもりもない。でも、大丈夫さ。なんとかなるよ」
「えええ……」
ものすごい強引な締めくくりをされてしまった。何を持って大丈夫だと言ったこいつ。今まで猫でも被ってたのか? 脱ぐな、乗せとけ。
オーウェンはいつ人目につくかもわからない店内で、満足そうに私の体を撫で回している。
「そんなことよりも、これからの話をしよう。ナナシの食べるものは今後すべて僕が用意するよ。
代わりにといったら変な話だけど、僕が食べるものは君に作って欲しいんだ。実は恋人の手料理に憧れがあってね。君さえ良ければ、仲良くキッチンに並んで料理がしたいんだけど、欲張りかな。そうだったら言って欲しい。
ああナナシ、君を離したくないよ。お互い仕事がない日はずっとベッドの中にいよう。誰にも会わずに二人きりで過ごすんだ。そうじゃない時も、僕の全ては君のものだ。
ナナシが望むなら首輪をつけたっていいよ。僕に似合うのを作ってもらえたら最高だな。
そうだ! 僕からはピアスを用意するよ。君の耳にピアスホールは開いてないけど、大丈夫、僕が開けてあげるよ。ナナシの体に他人が触れて欲しくないからね」
「ワア……」
これはこっちこそ予想外だ。
オーウェンは出会った頃と変わらない親しさで私を見つめている。つまり、そういうことなのだ。私はしてやられた気になって、悔しさにオーウェンの脇腹に肘を入れる。
「うぐっ……もしかしてこういうのも君の好みなのかい?」
「違う! ああもう、騙された!!!」
私は怒りをぶつけるように、オーウェンの唇に噛み付いた。誰に見られても構わない。この世界には私とオーウェンだけだ。他はどうでもいい。
「んっ、はぁっ……ああ、やっと───君を僕のものにできた」
「それは、はっ、こっちのセリフだよ」
舌を絡めて、唾液を移し合う。涙が自然と溢れるが、それも舐め取られる。お互いがお互いを奪い合うようにキスをした。
私が彼の魚で、月で、恋人になった、そんな実感を与えてくるキスだった。
終わり
砂の中を泳ぐ魚を見たのはサンドロックが初めてだった。まるで水中を泳ぐように砂の中を移動する魚を専用の道具で釣り上げるのだが、餌を投げれば軽やかに飛び上がり、スイスイ泳ぐ姿を見ていると変に愛着が湧いてしまう。
早速水槽を作ってみた。魚たちが窮屈にならないサイズをと思ったらずいぶん大きなものになった。敷地の三分の一程を占める割合だ。もう少し土地を広げれば余裕ができるだろうが、残金を考えると一月はかかるだろう。
でも、もうこれで大丈夫だ。
私は愛着が湧くと、それを自分のものにするまで落ち着かなくなる。それで今までずいぶん苦労した。
今回は魚だったけど、これが人間になったときが本当に大変なのだ。恋人になる。四六時中一緒にいる。一緒にいられない時は相手のスケジュールを全て共有する。そこまでやっても満足できない。もっと明確に自分のものにしたい欲求に駆られる。それに耐えきれなくなった相手から別れを告げられるまでが、いつもの流れだった。
お別れしたところでこちらの愛着が突然なくなるわけでもなく。しばらくは禁断症状のようなものが私を苦しめる。それに耐えれば、つまりある一定のラインを超えてしまえば解放されるのだが、毎回そんなことになるのはごめんだ。
だから私は、人間とあまり関わらないように注意深く生きるようになった。サンドロックを赴任先に選んだのも、田舎で寂れた場所ならあまり人と関わらずに済むと思ったからだ。今思うとそれは大きな間違いだったのだが、あの時の私はそう思っていた。
サンドカープはサンドロックで最も親しまれている魚だ。この街で唯一の飲食店でも定番メニューの一つで、そのためよく依頼される。釣りはもともと得意でも不得意でもなかったが、この街に来てすっかり馴染んだ。……釣りがビルダーの仕事なのかはさておき、あまり人と関わらずに済むのはありがたかった。
それでも社会生活を営む上で全く人と関わらないでいられるかと言うと、そんなことは不可能だと言わざるを得ない。仕事の依頼はボードに貼り付けてある依頼書から選べばいいのだが、たまに個人的に依頼を持ってくる住民もいた。大抵は断っても構わないのだが(上司もうるさいし)断りきれずに受けてしまうときがあった。
ブルームーン───青い月の名前を持つその店は、サンドロック唯一の飲食店かつ、街の人たちの憩いの場でもあった。土曜日は店主であるオーウェン自ら、ストーリーナイトという朗読会を開いている。他にも住民のバンド演奏など、私が当初思い描いていたよりも、ずっとこの街は明るく陽気だった。前任者のメイソンがゲンナリしていた気持ちが少しわかってしまう。
なにせ、今は私がオーウェンの善行の対象者だ。赴任したばかりの新人ビルダーの懐の寒さを知っているオーウェンが、何かと気を利かせてくれるのだ。食事も驚くほど低価格で提供される。ハイウィンドならこの倍はするはずだ。これでちゃんと経営できているのだから、おそらく他に財源があるのだろう。身なりのいいオーウェンの姿を思い出して納得する。余裕があるから人に優しくなれる。オーウェンはまさにそれを体現している存在だった。
理由がある善意は受け取りやすい。オーウェンからはなんの下心も感じなかった。彼は誰にでも優しい。私以外のビルダーが赴任してもまったく同じことをしただろう。それが分かるから、拒みにくかった。全くの善意を拒絶するほど、私は冷酷になれない。
それに懐が寂しいのも本当だった。おそらくヤンが中抜きしているのだろう。分かってはいたが、それを咎めるほどの熱意はない。物欲自体はさほどあるわけじゃないので、必要最低限の暮らしができれば問題なかった。そう。必要最低限の金さえあればの話だ。
端的に言えば、私はオーウェンに借りを作ってしまったのだ。大きくはない。ほんの500ゴルだ。それでも借りは借りだ。それはもう返し終わったのだが、あれからどうも彼に強く出れなくなってしまった。もしそれを見越してのことだとしたら、私はとんでもない人間から金を借りたことになる。オーウェンが裏の顔などない生粋の善人であることを祈るしかない。
「やあ! ナナシ、調子はどうだい?」
「普通だよ。はい、これ、頼まれてたサンドカープ」
「いつもありがとう! 君には助けられてばかりだな」
「なら、もう依頼は受けなくてもいい?」
「おっと、それを言われると困っちゃうな。君のような優秀なビルダーの助けがどうしても必要だからね」
「気が向いたら受けるとするよ」
手早く簡潔に応答する。あまり長話をしていると、あの青い目に吸い込まれそうで怖かった。オーウェンからは、愛されて当然の雰囲気が感じ取れた。彼を苦手に思う人間はいても、嫉妬以外で嫌う人間はそうはいないだろう。
依頼のついでにオーウェンの店で買い物を済ませる。最近は料理ステーションを新しく制作したおかげで、わざわざ住民に混じって食事をするリスクを冒さずに済むようになった。機械はいい。どれだけ愛着を持っても、自分で管理しきれる。
それでも調味料や、限られた食材は自前で用意するのは難しいため、中心地のアルビオの店ではなく、街の入り口にあるオーウェンの店を極力利用するようにしている。だがもし店にまで愛着を持ってしまったら大変困る。たまにはアルビオの店にも顔を出すべきかもしれない。
「買い忘れはないかな?」
「問題ないよ。それじゃあ」
商品を受け取って店を出ようとする。今日の予定は一通り終わったので、あとは自由時間だ。たまにはのんびりペットと戯れよう。
「あ、ちょっと待ってくれ」
もう帰るというところで、オーウェンに唐突に引き止められる。今しがた依頼は終えたばかりなのに、まだ用があるのだろうか。
あまり感情を表に出さないように気をつけながら振り返る。オーウェンはカウンターの向こうで、なにやらもごもごとしていた。だがすぐに意を決したような表情を浮かべる。よくない予感がした。
「その、以前は断られてしまったけど、よかったら一緒に食事でもどうかな? もちろん僕の奢りだ。なんでも好きなものを用意するよ」
うわ。私は自身の感情が制御しきれなかったようだ。目の前のオーウェンが悲しそうに眉を下げている。それでも、どうしようもなかった。
いっそ正直に打ち明けてしまおうか。私に優しくして惚れられると、あなたの人権が守られなくなりますよ。あなたのせいでこの世に悪質なストーカーが生まれてもいいんですか。……うーん。よくない。絶対良くない。
正直、すでにブルームーンの看板に愛着を持ってしまっていた。私のワークショップの看板の横には青い月が輝いている。だから、正直もうほとんど手遅れなのだ。それでも最後の一線は越えないでいる。ここが臨界点なのだ。
「オーウェン、申し訳ないけど───」
「お願いだ。僕は君ともっと親しくなりたいんだ。僕を哀れに思って、どうか一度だけチャンスをくれないか?」
「うっ……」
ああ。いっそオーウェンが彫刻だったらよかったのに。そうすれば、透明なケースにしまって、大事に飾るだけで済んだんだ。でも彼は人間だ。魚や犬のようにペットにするわけにもいかない。ましてや彼はサンドロックに欠かせない人間だ。私の家の一室に監禁なんてしたら大ごとになる。だめだ。絶対だめだ。
これは君のためでもあるんだ。お願いだから聞き分けてくれ。私を犯罪者にしないよう、お互い適切な距離をとっていこう。頼む! プリーズ!
「一度……だけなら、オーケー、食事してもいいよ」
「本当かい! ああ、とても嬉しいよナナシ!」
だめだった。私はオーウェンに弱い。出会った頃のような強気な態度はもう無理だ。だってあの顔を見てくれ。大の大人がする顔か?
カウンターから身を乗り出して喜ぶオーウェンは、私の気が変わらないうちにと、さっさと予定を決めてしまう。
「それじゃあ明日の昼12時に、楽しみに待ってるよ」
「一度だけだよ。いい? 一度だけだからね」
「もちろんだよ! 本当にありがとう!」
何度も念押しして、私はやっとブルームーンを出ることができた。ものすごい疲労感に、その場にうずくまってしまいたくなる。だが、帰らなければ。
オーウェンはいったいなぜそこまで自分にこだわるのだろう。ビルダーならミアンだっている。彼女はいつも忙しそうに荒野を駆け回っているから、比較的暇そうな私を構いたくなるのだろうか。ミアンを捕まえるのは確かに骨が折れる。一度用事があった時に彼女を追いかけたことがあるが、全然追いつかなかった。ミアンが私に気づいてくれるまで、不毛な鬼ごっこは続けられた。もう二度とごめんだ。
次の日の午後、私は約束通りブルームーンにいた。
はりきったのだろう。オーウェンの料理がテーブルいっぱいに並べられている。どうやって知ったのか、全て私の好きな料理だった。
「今日はきてくれて本当にありがとう」
「もうお礼は十分だよ。でも、一緒に食事をするなら私よりもっと相応しい人はいるとは思うけどね」
テーブル席の向かい側に腰掛けたオーウェンが、困ったような笑みを浮かべる。聞き分けのない子供に向けるような表情だった。
少し癪なので、私はそれには触れずに、目の前の料理に手を伸ばす。せっかくだからお腹いっぱい食べてやろう。なんだったら残った料理はお持ち帰りしたい。絶対この量は二人分じゃない。
「ところで、その、ナナシもサンドロックにきてずいぶん経つだろう。でも特定の誰かと仲良くしてる様子もないし、もしかして故郷に恋人でもいるのかい?」
オーウェンからの突然の質問に困惑する。いくらなんでもこれは、あれだろう。
「いないけど、でも今は誰とも付き合う気はないよ」
今は、どころか死ぬまで人と付き合う気はない。相手にも迷惑だし、私もこれ以上自分の性癖に振り回されたくない。
だが、オーウェンは私の言葉を受けて、何を思ったのか「つまりフリーなんだね」と嬉しそうに言う。前半部分だけ都合よく耳に入れたらしい。私の中のオーウェンの評価を書き換える必要がありそうだ。この男、意外と強かである。
「じゃあ、今は好きな人もいないんだね?」
どうやら彼は遠回りするのをやめたらしい。
オーウェンの青い瞳に、よくない色が混じって見える。私は言葉を選ぶのをやめることにした。そっちがその気なら、どこまで着いて来れるか試してやろうではないか。
「気になる人はいるよ」
「っ! そ、そうなんだ。知らなかったよ。この街の人なのかな」
「そうだね。オーウェンもよく知ってる人だよ」
「ははっ、この町で僕が知らない人の方が珍しいよ」
「そうかもね。でもオーウェンなら分かるんじゃないかな。だって君はサンドロックの住民のことはなんでも知ってるじゃないか。当ててごらんよ」
挑発的に笑って見せると、オーウェンの表情が変わる。普段の優しい店主の顔じゃない。もっと本能的な、まるで獲物を狙う獣のような顔だ。
暖かい雰囲気の店内から、私はどうやらハイエナたちがのさばる荒野に放り出されたようだ。背筋にぞくりとしたものが走る。
机の上に置かれたオーウェンの男らしい筋張った手が、彼の思考に合わせて力が入る度、血管が強調されてセクシーだった。認めよう。私はこの人に愛着だけじゃない、もっと根源的な興味を抱き始めていた。
オーウェンは答えに至ったのか、目を細めて恥ずかしげに笑う。彼の手が、力を逃すようにぐっぱっと開いたり閉じたりする。
「その、こんなことを言うと自惚れてると思うかもしれないけど……いいかい?」
「どうぞ、はずれても笑ったりしないよ」
私の言葉に、オーウェンが笑う。その笑顔はなんだかとても子供っぽくて、だけど一番彼に似合っていた。
「ナナシが気になってる相手は僕───だと嬉しい。どう、イエス?」
「残念なことにイエスだよ。おめでとう」
私はオーウェンの瞳をじっと覗き込む。せめてあの目だけでも自分のものにできないだろうか。そうすれば、残りの彼が少しばかり自由にしていても心穏やかでいられるかもしれない。そんな凶暴な考えに、自分のことながらゾッとする。
本当は、目の前の男の全部を私のものにしたい。
機械なら、毎日砂をはらって、メンテナンスをしよう。そして音楽のように流れる稼働音に聞き惚れる。
動物なら、毎日ブラッシングをして、餌は好みのものを用意する。小さければ一緒に眠ってもいいし、大きくても部屋の中まで招き入れて同じ空間で眠りたい。
植物でも、岩でも、なんでもいい。君が人間以外だったらな。私は想像だけで悲しくなってしまう。
私は確かめるように、自身の手を、オーウェンの手に重ねた。触れ合うそこから、オーウェンの熱を感じた。これが、ずっと私のものになったら、いっそ死んだっていい。
「ああっナナシ! 卑怯なやり方でごめん。君に好かれている自信がなかったんだ。
僕も君を愛してる。僕の恋人になってくれるかい?」
「……」
オーウェンの晴れやかな笑みを目の前にして、私はどうしようもない気持ちでいっぱいになる。
「……ナナシ? どうしたんだい。大丈夫?」
「オーウェン、君と付き合う前に言わなくちゃいけないことがあるんだ」
オーウェンは虚をつかれたような表情を一瞬浮かべるが、すぐに覚悟を決めたようだ。
「……オーケー。なんでも話していいよ」
「私は、君を、独り占めしたい……」
張り詰めた空気が緩むのがわかった。オーウェンの顔に、なんだそんなこと、と書いてある。でもこっちは死活問題なのだ。
「それだけじゃない。君を閉じ込めたいんだ。誰の目にも触れないよう。だって私がビルダーとして遺跡に潜る間、君がなにをしているのか気が気じゃなくなるんだ。いっそ仕事を放棄できたらいいのかもしれないけど……」
もうオーウェンの顔は見れなかった。右下に視線を固定して早口で捲し立てる。私のものじゃない。彼は一人の人間で、その自由は尊重されるべきだ。若い頃の私はそれがわからずに、人を傷つけてしまった。同じ過ちは繰り返したくない。
「本当は四六時中、どこにだって君と一緒にいたい。君の全てを私が管理したい。でもそんなの許されるわけがない。私は異常だ。分かってる。ごめん、ごめんよ」
「待って。ダーリン、落ち着いて。僕は怒ってないよ。大丈夫。ちょっと意外で驚いただけさ」
オーウェンの優しい声色に、恐る恐る顔を上げる。私の目から見たオーウェンは、彼の言葉通り怒りも嫌悪も感じさせなかった。
私を落ち着かせるために、オーウェンが隣に移動してくる。そのまま私を全身で包み込むように抱きしめてくる。その体からはわずかな香水と、スパイスのような香り、それらの奥に隠れるようにオーウェンの匂いがあった。
「ナナシにそんなに愛されてるなんて知らなかったよ。でもこれで、どうして君が人を避けていたのか理解したよ。今までとても辛い思いをしてきたんだね」
「……オーウェンは甘いよ。今はそうやって優しくできても、そのうちに絶対うんざりするから」
「君の今までの恋人がそうだったように?」
「……そうだ。みんな私を愛してるって言ったのに、誰も私の愛を理解しなかった。君も同じだ。だから嫌だったんだ」
すっかり私の恋人気取りのオーウェンが、宥めるように優しい手つきで頭を撫でてくる。側から見たら子供があやされてるようにしか見えないだろう。
「確かに僕は店を開けっぱなしにはできない。この仕事が好きだから辞めるつもりもない。でも、大丈夫さ。なんとかなるよ」
「えええ……」
ものすごい強引な締めくくりをされてしまった。何を持って大丈夫だと言ったこいつ。今まで猫でも被ってたのか? 脱ぐな、乗せとけ。
オーウェンはいつ人目につくかもわからない店内で、満足そうに私の体を撫で回している。
「そんなことよりも、これからの話をしよう。ナナシの食べるものは今後すべて僕が用意するよ。
代わりにといったら変な話だけど、僕が食べるものは君に作って欲しいんだ。実は恋人の手料理に憧れがあってね。君さえ良ければ、仲良くキッチンに並んで料理がしたいんだけど、欲張りかな。そうだったら言って欲しい。
ああナナシ、君を離したくないよ。お互い仕事がない日はずっとベッドの中にいよう。誰にも会わずに二人きりで過ごすんだ。そうじゃない時も、僕の全ては君のものだ。
ナナシが望むなら首輪をつけたっていいよ。僕に似合うのを作ってもらえたら最高だな。
そうだ! 僕からはピアスを用意するよ。君の耳にピアスホールは開いてないけど、大丈夫、僕が開けてあげるよ。ナナシの体に他人が触れて欲しくないからね」
「ワア……」
これはこっちこそ予想外だ。
オーウェンは出会った頃と変わらない親しさで私を見つめている。つまり、そういうことなのだ。私はしてやられた気になって、悔しさにオーウェンの脇腹に肘を入れる。
「うぐっ……もしかしてこういうのも君の好みなのかい?」
「違う! ああもう、騙された!!!」
私は怒りをぶつけるように、オーウェンの唇に噛み付いた。誰に見られても構わない。この世界には私とオーウェンだけだ。他はどうでもいい。
「んっ、はぁっ……ああ、やっと───君を僕のものにできた」
「それは、はっ、こっちのセリフだよ」
舌を絡めて、唾液を移し合う。涙が自然と溢れるが、それも舐め取られる。お互いがお互いを奪い合うようにキスをした。
私が彼の魚で、月で、恋人になった、そんな実感を与えてくるキスだった。
終わり
