・チーホン
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チービル♀のビルダーが寂しくて夜眠れない話
夜眠る時、私はすこし、孤独を感じる。
目を閉じた後の闇の中で、外の気配を敏感に感じ取るからかもしれない。
たくさんの生き物の気配と、機械の稼働音、聞こえるはずもない誰かの寝息、吹きさすぶ風の音は本物だろうか。
どうしてこんなにも音に溢れているのに孤独なのだろう。きっと、これらがどれひとつとして私のものじゃないからかもしれない。
少なくとも機械は私のものだけど、自分の手足のように体の一部というわけじゃない。
この世界に一人きりになったような心地を孤独というのなら、この瞬間の私は紛れもなく孤独だった。
「寂しさは人間の生存本能から生まれているという説がある。もともと人間は哺乳類であり、群───つまり社会的集団を形成して個人の弱さを補強し、多様な脅威に対処して生き抜いてきた生き物だ。
そのために孤立を恐れるようになった。集団から弾き出されれば餌にありつけず死ぬ、または捕食者の餌になるからな。だから人間は集まれば安らぎ、一人になれば不安になるように遺伝子に組み込まれている───ここまでは理解できたか?」
研究所の上にあるチーホンの生活スペースで、出されたお茶から立ち上る湯気の暖かさを感じながら、たった今聞かされた話を頭の中で反芻する。
寂しさは人間の本能的なものだというのは理解できた。そもそもちょっとした雑談の流れで、最近眠りが浅いという話になって、そこから孤独感につながったわけだが、それがどうして人間という壮大なテーマに繋がってしまったんだろう。
「じゃあ、誰かと一緒に眠ったら解決だね」
思いついたことを口にしたら、なぜかチーホンがカップを落とした。まだ熱いお茶がカップの破片と共に床に散らばる。
その光景があまりにも目に焼き付いて私はしばらく動けなかった。
時間としてはものの数秒だが、あまりにも長い間だった。チーホンはしばらくその機能を停止させ、再起動が終わると黙って床を片付け始めた。
「君はたまに突拍子もないことを言うな」
「ごめん。火傷しなかった?」
「問題ない。君のほうには飛ばなかったか?」
「私は平気。次に来るときに新しいカップを持ってくるよ」
「その必要性はない。あらゆるものはいつか壊れるのは自然の摂理だ。それにきみが割ったわけではないものを弁償するのは非合理的だ」
「じゃあプレゼントするよ。私がチーホンに贈り物がしたいだけ。それなら合理的でしょ」
チーホンは私の言葉にそれ以上なにも言わなかった。私はそれを合意ととった。
慎重な手つきで集められた破片は、透明な袋にいれられて「リサイクラーに入れたらどうだ。何かの足しにはなるだろう」と手渡された。
「先ほどの話だが───」
「ん?」
「君と眠る相手に、私が立候補しても構わないだろうか」
「……んん?」
「考えたのだが、私なら科学者として君に最適な睡眠環境を提供できる。そしてそのためにはデータが必要だ。データの正確性を考えれば同じ環境下であることの重要性は説明するまでもない。
つまり、実際に私が君のベッドで眠ることでより詳細なデータの収集ができ、かつ君の不眠の一要因である孤独感の解消にもつながる。完璧だと思わないか?」
「う、うん……そう、かも?」
チーホンの勢いに押されて思わず同意してしまった。
とくに添い寝相手を求めての発言ではなかったのだが、今更訂正するのも気が咎めたので、彼の気を引けそうな話題でこの話をうやむやにすることにした。
「ねえ、チーホンは知ってる? 最近グレースが新しいドリンクメニューを開発したんだけど、それに私の名前をつけてくれたんだよ」
少し気恥ずかしさはあるが、この話題は最近のニュースの中でも、個人的にはかなり衝撃的だ。あんなに綺麗なものに自分の名前が使われるのはなんだか誇らしく、少し自慢したい思いもそこにはあった。
チーホンはというと、口を開けてはすぐに閉じて、また開けて、また閉じるという行為を何度か繰り返して、最後に渋い顔をしたかと思ったら、やっと口を開けて話し出した。
「知らなかった……今度注文するとしよう。だが、もし訂正が間に合うのなら今すぐ他の名前を推奨したい。ベガ5やスペースコロニーとかはどうだ?」
チーホンの提案に私はしょんぼりとする。
「私の名前は気に入らない?」
悲しさから問い掛ければ、チーホンはすぐに否定した。
「違う。君の名前に問題はない。問題は不特定多数の人間が君の名前を軽々しく口にできる状況だ。ウェイトレスの行為はロマンチックではあるが、あまりにも軽率だ」
「……チーホンにもロマンスを理解する心があったんだね」
突っ込むべきところはそこじゃない気がしたが、他は全部どこをつついても藪蛇な気がした。リスク管理は大切なのだ。
「それで、いつにする」
「なにを?」
「君の都合が良ければ今日にでも同衾するとしよう」
「どうきん……」
「そうだ、同衾だ。言葉の意味は合ってると思うが、なぜ君はそんなに大袈裟な反応をする」
逸らしたはずの隕石が、軌道を修正して落っこちてきたような衝撃だった。逃げ遅れた私はその直撃にしばらく打ちのめされる。
このままだと私までカップを割りそうなのでそっと机に戻すことにした。
「ほんとに、一緒に寝るつもり?」
「理解してなかったのか? 先ほど説明した通りだ。君の不眠解消に最適な人材は私以外にいない」
「でも、その、私たち、恋人、じゃないし」
「……君に恋人はいないと認識している。もしその認識に誤りがあったのなら改めよう」
「いない、けど、でも……」
チーホンにその気は無いのかもしれないけど、私は考えただけでも恥ずかしくなる。男性であるチーホンと一緒に寝るなんて、どうしたって意識してしまうのは避けられないだろう。
だが、そんな理由で断って、万が一でもいやらしいやつだと思われたらそれこそ嫌だ。
「条件の一つである恋人が満たせない限り君の孤独感は解消されないのだとしたら、私が───」
「わかった、一緒に寝てくれる、チーホン?」
慌てていたせいで、チーホンの言葉を遮ってしまったことに遅れて気付く。
「ごめん。何か言おうとしてたよね」
「問題ない。少なくともこんなときに言うことではなかった」
「そっか、じゃあ、今日の夜……うちで、待ってる、ね?」
湧き上がる気恥ずかしさに言葉がつっかえる。
「待て、夜とは正確に何時のことを指す」
「みんなが寝静まった後かな」
「それを具体的にいうと何時だ」
「24時ならどう?」
みんなが起きてるときにチーホンが私に家に向かえば絶対噂になる。それはまだ避けたかった。
「それでは遅すぎないか? ……いや、そういえば君は午前3時までの活動が常態化していたな」
「うっ、熱中するとついね。でも、確かにあんまり遅くなってチーホンの仕事に差し支えたら申し訳ないね。もうちょっと早くしようか」
オーウェンあたりならたとえ気づいてもそっとしてくれるだろう。あとでこっそり尋ねられはするかもしれないが、クーパーに比べれば無害だ。
「問題ない。私も研究に没頭して睡眠を疎かにする時がある」
「ふふ、お互い様だね」
「そうだな。私たちの生活リズムは似通っている。一緒に暮らしたとしてもお互いの妨げにはならないだろう」
「そうだね?」
チーホンの言葉をよく理解しないまま同意する。よくない気がしたが、否定するようなことではなかった。
私はそれ以上話がおかしな方向に逸れる前に「じゃあ夜の12時にね」と告げて、自身の心の内を悟られないよう足早に研究所を出ることにした。
❇︎ ❇︎ ❇︎
チーホンが家にくるというので、私は急いで家の中をあらためることにした。
奮闘の末───髪の毛一本も残らず掃除し終えた部屋で、私はなんとなく床に横たわった。
顔を横にして、耳を床にくっつけると、心地よい冷たさと共に、床下から音が響いてくるようだった。
そうしてしばらく気分を落ち着けていると、あっという間に夜がやってきた。
チーホンは時間通りに訪ねてきた。
眠るための準備はしてきたらしく、チーホンは寝巻きだった。私もいつものパジャマ姿でチーホンを出迎えた。
「君は普段通り眠る姿勢をとってくれ。今回の目的は主にデータ収集だ。問題解決に一歩でも近付けるようにしよう」
チーホンの言葉に私は頷くことしかできなかった。他になんと言えばいいのか分からないまま、寝室にチーホンを案内する。
清潔にしたシーツに二人、身を横たえて天井を見上げる。眩しさに、電気を消さなければいけないと思ったが、まだそうするには早いような気もした。
外の喧騒よりも、自分の心臓の音がやけにうるさかった。
「静かな部屋だな。まるで宇宙空間のような静寂さだ」
「そう。私には静かすぎるのかも。いつも、たくさんの音が聞こえるの」
自分の体のすぐ横に、自分のものではない体温がある。まるで火のように、触れなくても存在を感じた。どちらも熱エネルギーなのだから当然なのかもしれない。
それにしても、私の手とチーホンの手がいつでも触れ合える距離にあることに、彼は気付いてるのだろうか。
「もしかしたら君は常人よりも聴力に優れてるのかもしれないな。一度検査してみれば分かるはずだ」
「その検査で人並みだって結果が出たら、全部私の幻聴ってことになっちゃうかな。そうだとしたらなんだかやだな」
しばらく会話が止む。
しんとした空間の中で、私はチーホンの息遣いだけを聞いていた。それがなぜかとても私を安らげることに気づいた。
「もし君が幻覚や幻聴を体験していたとしても、それは異常なことではない。君の脳や体が起こす正常な反応だ」
チーホンの声を聞いてると、なんだかとても眠れそうな気がした。
「ねえ、チーホン。手を繋いでもいい?」
私の言葉に、チーホンがわずかに体を強張らせるのがわかった。
私は了承を得ないまま、二人の間にあった隙間を埋めるように身を寄せる。
探るようにチーホンの手に、自分の手を重ねた。
大きな手だった。少なくとも私よりは。
ちゃんと男の人の手だった。柔らかさはなく、節くれだってて、爪は几帳面に整えられていた。
「チーホン、何か話して……このまま、眠りたいの」
今は、彼の声だけを聞いていたかった。
チーホンはしばらく体を硬くしていたが、その内に緊張が解けていくのが、つないだ手から伝わってきた。
「……私たちの脳が脅威を察知すると、瞬時に、かつ無意識のうちにいくつもの活動が連鎖的に引き起こされる。まず、脳の扁桃体から脳内の海馬へただちにシグナルが送られる。このシグナルにより、危険を伴う可能性がある状況への反応を担うメカニズムが───
目を閉じて、全ての意識を耳に集中させた。
意識が、水に落ちるように沈んでいく。
音が、遠ざかる。
あらゆる感覚が麻痺していくなかで、
彼の手だけが、私をつなぎ止めていた。
❇︎ ❇︎ ❇︎
よく朝。
久しぶりのちゃんと寝た感覚を味わって覚醒した私は、好奇心から横で眠るチーホンの寝顔を覗き込んだ。
規則正しい寝息をたてて、静寂を守るように彼はそこにいた。
私はその光景を見て、チーホンと二人、こうしているのがとても自然で、ずっと前から続けていたことのような気さえした。
私は、あの時のチーホンの言葉を、ようやく理解できたのかもしれない。
「私、チーホンと暮らしたい」
言葉にすると、存外すんなり馴染んだ。
この砂の街で、たった一人で生きていく孤独を嫌というほど味わった。特にこの家は、郊外から離れているから余計に寂しさを増幅させている。
だからか、私は自分の家よりも、チーホンの研究所にいる時間の方が多かった。
チーホンは初めて会った時から不思議な人だった。
私が初めて研究所に行った日、彼の助手が逃げ出す現場に偶然居合わせたのだ。こんなにも真面目で熱意のある人だから、並の人では耐えられないのかもしれない。
私がビルダーも彼の助手も兼任できたらよかったのに。そうすれば彼を独り占めできる───そんな浅ましい思いが自分の中にあったことを、私は今まで見ないふりをしていた。
チーホンに向ける思いは全て、純粋なものだと思っていたかった。
しばらくそうして眺めていると、チーホンの閉じられていた瞼がゆっくりと開かれる。レンズに阻まれていない彼の瞳を見るのはこれが初めてだった。
「……おはよう。私を観察していたようだが、何か発見はあったろうか。私の方は実に興味深いデータを得ることができた」
「おはよう。私もすごい発見をしたよ」
メガネを外した起き抜けのチーホンは、凶悪な顔つきをしていた。そのまま更に目を細めて、ベッド横のサイドテーブルに置いた自身のメガネを探しだす。
私はチーホンの背に身を乗り出して、テーブルの上のメガネをさっと掴む。私の下になったチーホンが驚くのがわかった。
「……ナナシ、君は私を驚かせる天才だな」
「ふふ、ごめん。なんだか今朝はとっても明るい気分なの」
「それはなによりだ。だが、あまり無防備に体を押し付けるのは、私たちの関係では不適切かもしれない」
「恋人じゃないから?」
「……その通りだ。だがもしこの関係をアップグレードさせる方法があるのなら教えて欲しい」
私はチーホンの言葉に目を見開く。
「ずっと自分でも探し続けていたが、君に聞いた方が早いことに気づいた」
こちらに背を向けているチーホンがもどかしかった。きっと私の顔を見れば、すぐにでも伝わったはずだ。
だから、言葉で表すよりもずっとシンプルな方法を取ることにした。
ちゅ、と軽いリップ音を立てて、チーホンの頬にキスをする。
「っ! 今のは、君が……私に、キスを?」
「あのね、アップグレードは昨日の夜に終わったみたい。私たちが眠る間にね」
「まさか……少し、時間をもらいたい。昨日の出来事を一から分析しなければならなくなった」
「うん、いいよ。私はその間に朝食を用意するね」
名残惜しくチーホンの体を解放して立ち上がる。
部屋に満ちた、朝特有の空気の中を、この特別な朝を、欠片一つだって取りこぼさないように、慎重に私は歩いた。
きっともう少ししたら、分析を終えたチーホンのアップデートが完了するだろう。
初めてのデートはブルームーンがいいな。
グレースの作ってくれるカクテルを、二人で飲みたい。もしかしたら名前は変わるかもしれないけど、味はそのままだ。
私たちの関係も、名前は変わっても本質的なところは変わらないだろう。
でもその名前が案外、重要だったりするのだ。
少なくともこれで、私はやっと、眠りにつける。
終わり
夜眠る時、私はすこし、孤独を感じる。
目を閉じた後の闇の中で、外の気配を敏感に感じ取るからかもしれない。
たくさんの生き物の気配と、機械の稼働音、聞こえるはずもない誰かの寝息、吹きさすぶ風の音は本物だろうか。
どうしてこんなにも音に溢れているのに孤独なのだろう。きっと、これらがどれひとつとして私のものじゃないからかもしれない。
少なくとも機械は私のものだけど、自分の手足のように体の一部というわけじゃない。
この世界に一人きりになったような心地を孤独というのなら、この瞬間の私は紛れもなく孤独だった。
「寂しさは人間の生存本能から生まれているという説がある。もともと人間は哺乳類であり、群───つまり社会的集団を形成して個人の弱さを補強し、多様な脅威に対処して生き抜いてきた生き物だ。
そのために孤立を恐れるようになった。集団から弾き出されれば餌にありつけず死ぬ、または捕食者の餌になるからな。だから人間は集まれば安らぎ、一人になれば不安になるように遺伝子に組み込まれている───ここまでは理解できたか?」
研究所の上にあるチーホンの生活スペースで、出されたお茶から立ち上る湯気の暖かさを感じながら、たった今聞かされた話を頭の中で反芻する。
寂しさは人間の本能的なものだというのは理解できた。そもそもちょっとした雑談の流れで、最近眠りが浅いという話になって、そこから孤独感につながったわけだが、それがどうして人間という壮大なテーマに繋がってしまったんだろう。
「じゃあ、誰かと一緒に眠ったら解決だね」
思いついたことを口にしたら、なぜかチーホンがカップを落とした。まだ熱いお茶がカップの破片と共に床に散らばる。
その光景があまりにも目に焼き付いて私はしばらく動けなかった。
時間としてはものの数秒だが、あまりにも長い間だった。チーホンはしばらくその機能を停止させ、再起動が終わると黙って床を片付け始めた。
「君はたまに突拍子もないことを言うな」
「ごめん。火傷しなかった?」
「問題ない。君のほうには飛ばなかったか?」
「私は平気。次に来るときに新しいカップを持ってくるよ」
「その必要性はない。あらゆるものはいつか壊れるのは自然の摂理だ。それにきみが割ったわけではないものを弁償するのは非合理的だ」
「じゃあプレゼントするよ。私がチーホンに贈り物がしたいだけ。それなら合理的でしょ」
チーホンは私の言葉にそれ以上なにも言わなかった。私はそれを合意ととった。
慎重な手つきで集められた破片は、透明な袋にいれられて「リサイクラーに入れたらどうだ。何かの足しにはなるだろう」と手渡された。
「先ほどの話だが───」
「ん?」
「君と眠る相手に、私が立候補しても構わないだろうか」
「……んん?」
「考えたのだが、私なら科学者として君に最適な睡眠環境を提供できる。そしてそのためにはデータが必要だ。データの正確性を考えれば同じ環境下であることの重要性は説明するまでもない。
つまり、実際に私が君のベッドで眠ることでより詳細なデータの収集ができ、かつ君の不眠の一要因である孤独感の解消にもつながる。完璧だと思わないか?」
「う、うん……そう、かも?」
チーホンの勢いに押されて思わず同意してしまった。
とくに添い寝相手を求めての発言ではなかったのだが、今更訂正するのも気が咎めたので、彼の気を引けそうな話題でこの話をうやむやにすることにした。
「ねえ、チーホンは知ってる? 最近グレースが新しいドリンクメニューを開発したんだけど、それに私の名前をつけてくれたんだよ」
少し気恥ずかしさはあるが、この話題は最近のニュースの中でも、個人的にはかなり衝撃的だ。あんなに綺麗なものに自分の名前が使われるのはなんだか誇らしく、少し自慢したい思いもそこにはあった。
チーホンはというと、口を開けてはすぐに閉じて、また開けて、また閉じるという行為を何度か繰り返して、最後に渋い顔をしたかと思ったら、やっと口を開けて話し出した。
「知らなかった……今度注文するとしよう。だが、もし訂正が間に合うのなら今すぐ他の名前を推奨したい。ベガ5やスペースコロニーとかはどうだ?」
チーホンの提案に私はしょんぼりとする。
「私の名前は気に入らない?」
悲しさから問い掛ければ、チーホンはすぐに否定した。
「違う。君の名前に問題はない。問題は不特定多数の人間が君の名前を軽々しく口にできる状況だ。ウェイトレスの行為はロマンチックではあるが、あまりにも軽率だ」
「……チーホンにもロマンスを理解する心があったんだね」
突っ込むべきところはそこじゃない気がしたが、他は全部どこをつついても藪蛇な気がした。リスク管理は大切なのだ。
「それで、いつにする」
「なにを?」
「君の都合が良ければ今日にでも同衾するとしよう」
「どうきん……」
「そうだ、同衾だ。言葉の意味は合ってると思うが、なぜ君はそんなに大袈裟な反応をする」
逸らしたはずの隕石が、軌道を修正して落っこちてきたような衝撃だった。逃げ遅れた私はその直撃にしばらく打ちのめされる。
このままだと私までカップを割りそうなのでそっと机に戻すことにした。
「ほんとに、一緒に寝るつもり?」
「理解してなかったのか? 先ほど説明した通りだ。君の不眠解消に最適な人材は私以外にいない」
「でも、その、私たち、恋人、じゃないし」
「……君に恋人はいないと認識している。もしその認識に誤りがあったのなら改めよう」
「いない、けど、でも……」
チーホンにその気は無いのかもしれないけど、私は考えただけでも恥ずかしくなる。男性であるチーホンと一緒に寝るなんて、どうしたって意識してしまうのは避けられないだろう。
だが、そんな理由で断って、万が一でもいやらしいやつだと思われたらそれこそ嫌だ。
「条件の一つである恋人が満たせない限り君の孤独感は解消されないのだとしたら、私が───」
「わかった、一緒に寝てくれる、チーホン?」
慌てていたせいで、チーホンの言葉を遮ってしまったことに遅れて気付く。
「ごめん。何か言おうとしてたよね」
「問題ない。少なくともこんなときに言うことではなかった」
「そっか、じゃあ、今日の夜……うちで、待ってる、ね?」
湧き上がる気恥ずかしさに言葉がつっかえる。
「待て、夜とは正確に何時のことを指す」
「みんなが寝静まった後かな」
「それを具体的にいうと何時だ」
「24時ならどう?」
みんなが起きてるときにチーホンが私に家に向かえば絶対噂になる。それはまだ避けたかった。
「それでは遅すぎないか? ……いや、そういえば君は午前3時までの活動が常態化していたな」
「うっ、熱中するとついね。でも、確かにあんまり遅くなってチーホンの仕事に差し支えたら申し訳ないね。もうちょっと早くしようか」
オーウェンあたりならたとえ気づいてもそっとしてくれるだろう。あとでこっそり尋ねられはするかもしれないが、クーパーに比べれば無害だ。
「問題ない。私も研究に没頭して睡眠を疎かにする時がある」
「ふふ、お互い様だね」
「そうだな。私たちの生活リズムは似通っている。一緒に暮らしたとしてもお互いの妨げにはならないだろう」
「そうだね?」
チーホンの言葉をよく理解しないまま同意する。よくない気がしたが、否定するようなことではなかった。
私はそれ以上話がおかしな方向に逸れる前に「じゃあ夜の12時にね」と告げて、自身の心の内を悟られないよう足早に研究所を出ることにした。
❇︎ ❇︎ ❇︎
チーホンが家にくるというので、私は急いで家の中をあらためることにした。
奮闘の末───髪の毛一本も残らず掃除し終えた部屋で、私はなんとなく床に横たわった。
顔を横にして、耳を床にくっつけると、心地よい冷たさと共に、床下から音が響いてくるようだった。
そうしてしばらく気分を落ち着けていると、あっという間に夜がやってきた。
チーホンは時間通りに訪ねてきた。
眠るための準備はしてきたらしく、チーホンは寝巻きだった。私もいつものパジャマ姿でチーホンを出迎えた。
「君は普段通り眠る姿勢をとってくれ。今回の目的は主にデータ収集だ。問題解決に一歩でも近付けるようにしよう」
チーホンの言葉に私は頷くことしかできなかった。他になんと言えばいいのか分からないまま、寝室にチーホンを案内する。
清潔にしたシーツに二人、身を横たえて天井を見上げる。眩しさに、電気を消さなければいけないと思ったが、まだそうするには早いような気もした。
外の喧騒よりも、自分の心臓の音がやけにうるさかった。
「静かな部屋だな。まるで宇宙空間のような静寂さだ」
「そう。私には静かすぎるのかも。いつも、たくさんの音が聞こえるの」
自分の体のすぐ横に、自分のものではない体温がある。まるで火のように、触れなくても存在を感じた。どちらも熱エネルギーなのだから当然なのかもしれない。
それにしても、私の手とチーホンの手がいつでも触れ合える距離にあることに、彼は気付いてるのだろうか。
「もしかしたら君は常人よりも聴力に優れてるのかもしれないな。一度検査してみれば分かるはずだ」
「その検査で人並みだって結果が出たら、全部私の幻聴ってことになっちゃうかな。そうだとしたらなんだかやだな」
しばらく会話が止む。
しんとした空間の中で、私はチーホンの息遣いだけを聞いていた。それがなぜかとても私を安らげることに気づいた。
「もし君が幻覚や幻聴を体験していたとしても、それは異常なことではない。君の脳や体が起こす正常な反応だ」
チーホンの声を聞いてると、なんだかとても眠れそうな気がした。
「ねえ、チーホン。手を繋いでもいい?」
私の言葉に、チーホンがわずかに体を強張らせるのがわかった。
私は了承を得ないまま、二人の間にあった隙間を埋めるように身を寄せる。
探るようにチーホンの手に、自分の手を重ねた。
大きな手だった。少なくとも私よりは。
ちゃんと男の人の手だった。柔らかさはなく、節くれだってて、爪は几帳面に整えられていた。
「チーホン、何か話して……このまま、眠りたいの」
今は、彼の声だけを聞いていたかった。
チーホンはしばらく体を硬くしていたが、その内に緊張が解けていくのが、つないだ手から伝わってきた。
「……私たちの脳が脅威を察知すると、瞬時に、かつ無意識のうちにいくつもの活動が連鎖的に引き起こされる。まず、脳の扁桃体から脳内の海馬へただちにシグナルが送られる。このシグナルにより、危険を伴う可能性がある状況への反応を担うメカニズムが───
目を閉じて、全ての意識を耳に集中させた。
意識が、水に落ちるように沈んでいく。
音が、遠ざかる。
あらゆる感覚が麻痺していくなかで、
彼の手だけが、私をつなぎ止めていた。
❇︎ ❇︎ ❇︎
よく朝。
久しぶりのちゃんと寝た感覚を味わって覚醒した私は、好奇心から横で眠るチーホンの寝顔を覗き込んだ。
規則正しい寝息をたてて、静寂を守るように彼はそこにいた。
私はその光景を見て、チーホンと二人、こうしているのがとても自然で、ずっと前から続けていたことのような気さえした。
私は、あの時のチーホンの言葉を、ようやく理解できたのかもしれない。
「私、チーホンと暮らしたい」
言葉にすると、存外すんなり馴染んだ。
この砂の街で、たった一人で生きていく孤独を嫌というほど味わった。特にこの家は、郊外から離れているから余計に寂しさを増幅させている。
だからか、私は自分の家よりも、チーホンの研究所にいる時間の方が多かった。
チーホンは初めて会った時から不思議な人だった。
私が初めて研究所に行った日、彼の助手が逃げ出す現場に偶然居合わせたのだ。こんなにも真面目で熱意のある人だから、並の人では耐えられないのかもしれない。
私がビルダーも彼の助手も兼任できたらよかったのに。そうすれば彼を独り占めできる───そんな浅ましい思いが自分の中にあったことを、私は今まで見ないふりをしていた。
チーホンに向ける思いは全て、純粋なものだと思っていたかった。
しばらくそうして眺めていると、チーホンの閉じられていた瞼がゆっくりと開かれる。レンズに阻まれていない彼の瞳を見るのはこれが初めてだった。
「……おはよう。私を観察していたようだが、何か発見はあったろうか。私の方は実に興味深いデータを得ることができた」
「おはよう。私もすごい発見をしたよ」
メガネを外した起き抜けのチーホンは、凶悪な顔つきをしていた。そのまま更に目を細めて、ベッド横のサイドテーブルに置いた自身のメガネを探しだす。
私はチーホンの背に身を乗り出して、テーブルの上のメガネをさっと掴む。私の下になったチーホンが驚くのがわかった。
「……ナナシ、君は私を驚かせる天才だな」
「ふふ、ごめん。なんだか今朝はとっても明るい気分なの」
「それはなによりだ。だが、あまり無防備に体を押し付けるのは、私たちの関係では不適切かもしれない」
「恋人じゃないから?」
「……その通りだ。だがもしこの関係をアップグレードさせる方法があるのなら教えて欲しい」
私はチーホンの言葉に目を見開く。
「ずっと自分でも探し続けていたが、君に聞いた方が早いことに気づいた」
こちらに背を向けているチーホンがもどかしかった。きっと私の顔を見れば、すぐにでも伝わったはずだ。
だから、言葉で表すよりもずっとシンプルな方法を取ることにした。
ちゅ、と軽いリップ音を立てて、チーホンの頬にキスをする。
「っ! 今のは、君が……私に、キスを?」
「あのね、アップグレードは昨日の夜に終わったみたい。私たちが眠る間にね」
「まさか……少し、時間をもらいたい。昨日の出来事を一から分析しなければならなくなった」
「うん、いいよ。私はその間に朝食を用意するね」
名残惜しくチーホンの体を解放して立ち上がる。
部屋に満ちた、朝特有の空気の中を、この特別な朝を、欠片一つだって取りこぼさないように、慎重に私は歩いた。
きっともう少ししたら、分析を終えたチーホンのアップデートが完了するだろう。
初めてのデートはブルームーンがいいな。
グレースの作ってくれるカクテルを、二人で飲みたい。もしかしたら名前は変わるかもしれないけど、味はそのままだ。
私たちの関係も、名前は変わっても本質的なところは変わらないだろう。
でもその名前が案外、重要だったりするのだ。
少なくともこれで、私はやっと、眠りにつける。
終わり
