水平線の向こう側
水平線の向こう側
「なお兄、遅い」
海沿いの遊歩道に着くなり、私は頬を膨らませた。
「いや、三分だから。三分は遅刻に入らなくない?」
「入りますー」
「厳しいなあ」
なお兄は苦笑しながら、コンビニの袋を持ち上げた。
「はい。遅刻のお詫び」
「何これ」
「アイス」
「許す」
「早っ」
さっきまでの不満な気持ちはどこへやら。
私は当然のように袋を覗き込み、二本入っているアイスのうち、自分の好きな味を迷いなく取り出した。
「……それ僕のなんだけど」
「じゃあ何で私の好きなの買ったの?」
「えとさんが取ると思ったから」
「じゃあ、いいじゃん」
「よくないよ」
言いながらも、なお兄は口元を緩めていた。
本当は、私がどの味を選ぶかなんて、袋を開ける前から分かっていたのだろう。
私が迷わず手を伸ばすのを見て、なお兄は小さく息を吐いた。
「何?」
「いや、やっぱりそれ選ぶんだなって」
「何それ。私のこと分かってるみたいな言い方」
「長い付き合いだからね」
「じゃあ次は外してみてよ」
「無理」
「即答?」
「えとさんのことなら、だいたい分かるから」
冗談めかした言い方だったけれど、なお兄は一瞬だけ私から目を逸らした。
ーー私たちはいつもこんな調子だ。
どちらが先にふっかけたのか分からない、小さな言い合い。
ゲームをすれば勝った負けたで騒ぎ、動画撮影ではわざと邪魔をし合い、移動中に隣になれば、どうでもいいことで笑い合う。
周りから見れば、仲のいい二人。
今だって、兄妹に見られているかもしれない
でも友達以上でも、それ以下でもない。
なんとも形容し難い関係だ。
なお兄は私が寒そうにしていれば先に気づくし、疲れていれば何も言わずに歩く速度を合わせてくれる。
それを特別だと思ったことはなかった。
なお兄は誰にでも優しい人だと、そう思っていたから。
「海、久しぶりだね」
アイスを食べながら、私は呟いた。
夕方の海は穏やかだった。
傾きかけた太陽が水面を照らし、遠くまで続く光の帯をつくっている。
「綺麗」
私は目を細めた。
隣にいたなお兄は、ほんの一瞬、返事を忘れたようだった。
「……ね」
「何その間」
「いや、海見てた」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
「怪しい」
私はなお兄の顔を覗き込んだ。
すると、なお兄は反射的に半歩下がった。
「なんで逃げるの」
「逃げてないし」
「逃げた」
「距離感の調整だよ」
「何それ」
私は吹き出し、再び海へ視線を戻した。
なお兄が小さく息を吐く。
距離感の調整。
冗談みたいに聞こえたけれど、実際、その通りなのかもしれない。
近づきすぎないように。
離れすぎないように。
私たちは長いあいだ、その加減を探ってきた。
なお兄は、私が無邪気に距離を詰めるたび、ほんの少しだけ身を引く。
けれど、私が離れようとすると、いつの間にか隣へ戻ってくる。
その理由を、私は知らなかった。
「ねえ、なお兄」
「ん?」
「遠くに見えるものってさ」
「うん」
「近づけば、ちゃんと触れられると思う?」
なお兄は口元をわずかに上げた。
「急に哲学?」
「違うし」
「えと先生の哲学講座かと思った」
「受講料取るよ」
「高そう」
「一万円」
「高っ」
「今なら特別に九千八百円」
「二百円しか安くなってない」
二人で笑う。
笑い声は海風にさらわれ、すぐに消えていった。
やがて、私は再び口を開いた。
「でも、不思議だなって」
「何が?」
「ずっとそこにあるように見えるのに、近づくとまた先にあるの」
私は海の向こうを指さした。
「見えてるのに、手が届かない」
「まあ、地球丸いからね」
「なお兄」
「うん」
「そういう話じゃない」
「だよね」
私はなお兄の肩を軽く叩いた。
「ロマンがない」
「いやいや、僕けっこうロマンチストだよ」
「嘘」
「なんで即答なの」
「なお兄だから」
「ひどくない?」
また声を立てる。
けれど、そのあと私は口を閉ざした。
なお兄は気づいているだろうか。
何か言おうとしている私の顔に。
普段なら、思ったことを割とそのまま口にする。
なのに今日は、言葉を選んでいた。
なお兄は、私が黙るとすぐに話題を探してくれることが多い。
けれど今日は、急かさずに待っていた。
私が話し始めるまで、海を見たまま隣にいてくれる。
その沈黙が嫌ではないことを、なお兄は知っているのかもしれない。
「……なお兄ってさ」
「うん」
「好きな人とかいないの?」
「何、急に」
「いや、なんとなく」
「えとさんは?」
「質問に質問で返すな」
「じゃあ答えてよ」
「なお兄が先」
「えー」
なお兄は、わざと悩むふりをした。
けれど、その視線は海ではなく、足元に落ちていた。
目の前には海。
隣には私。
「……いないかな」
なお兄はそう言った。
私は一瞬だけ呼吸が止まった。
けれどすぐに、
「ふーん」
と、平静を装って海を見た。
「何その反応」
「別に」
「聞いといて?」
「興味本位だよ」
「はいはい」
なお兄も口元を緩めた。
――嘘だ。
自分でも分かっていた。
でも、「いる」と言われたら。
「誰?」と聞いてしまう。
そのあと、どうする?
なにも言えない。
なにかを口にした瞬間、今までのようには振る舞えなくなるかもしれない。
くだらないことで言い合ったり、急に電話したり、夜中までゲームしたり。
そういうもの全部が、変わってしまうかもしれない。
それが不安だった。
「じゃあ、えとさんは?」
「私?」
「好きな人」
「……いない」
今度は私がそう答えた。
なお兄は、
「ふーん」
と言った。
その声は平静に聞こえたけれど、口元が緩むまでにわずかな間があった。
「何その反応」
「別に」
「真似するな」
「興味本位だよ」
「それも真似!」
私は吹き出し、なお兄の腕を軽く叩いた。
なお兄もつられて口元を緩める。
けれど、叩かれた腕を見下ろしたなお兄は、どこか寂しそうにみえた。
さっきまでなら、もっと近くにいても平気だった。
「好きな人はいない」と聞いた瞬間から、隣にいることさえ、心細く感じる。
変わらないふりをしている。
だからこそ、胸の奥がわずかに痛んだ。
本当は。
私は、いた。
好きな人。
というより、「好きなのかもしれない人」と言うべきなのかもしれない。
自分でも、まだ輪郭をつかめていない。
なお兄とは、一緒にいると楽しい。
すごく楽しい。
ちょっと腹が立つときもある。
ゲームで負けたら本気で悔しいし、くだらないことで煽ってくるし、たまに妙に冷静なことを言ってくる。
それでも、気づけば隣にいる。
何かあれば最初に話したくなる。
なお兄が口元を緩めると嬉しい。
なお兄が知らない女の子と楽しそうに話していると、なぜか気になる。
けれど。
それを認めてしまうのは、ためらわれた。
もし自分だけだったら。
もしなお兄にとって、私はただの「仲のいい仲間」だったら。
今の関係さえなくなるかもしれない。
だから。
「好きな人はいない」
そう答えた。
たった数秒前。
なお兄も同じ答えを返したから。
胸の奥がわずかに痛んだ。
ああ。
やっぱり違うんだ。
私が勝手に期待していただけ。
そう思った矢先。
「寒くない?」
隣から声がした。
「ちょっと」
「やっぱり」
なお兄は自分の上着を脱いだ。
「はい」
「え、いいよ」
「風強くなってきたし」
「なお兄寒いじゃん」
「僕は平気だよ」
「いや絶対寒いでしょ」
「じゃあ二人で着る?」
「無理でしょ!」
「ノリ悪いなあ」
「サイズ的に無理って話!」
「そこ?」
「そこ!」
私は笑いながら押しつけられた上着を、結局受け取った。
「でも、なお兄は?」
「僕は平気だよ」
「さっきからそればっかり」
「えとさんが寒そうにしてるほうが気になるから」
「……え?」
「いや、風邪ひかれたら困るし」
「困るんだ」
「そりゃ困るよ」
なお兄は何でもないことのように言った。
けれど、その言葉だけが妙に胸に残った。
上着を羽織ると、かすかになお兄の匂いがした気がした。森にいるような森林の香り。
私は慌てて前を向く。
「……くやしい」
「何が?」
「なんでもない」
こういうところだ。
私がどの味のアイスを選ぶか知っていることも。
黙ったときに急かさず待ってくれることも。
寒そうにしている私へ、迷いなく上着を差し出すことも。
それが私だけに向けられたものなのか、確かめられないまま。
諦めようとしても、また期待が膨らんでしまう。
太陽はほとんど沈みかけていた。
海は、オレンジと青の境目で静かに揺れている。
「なお兄」
「ん」
「さっきの話だけど」
「まだする?」
「うん」
私は口元をわずかに緩めた。
「どれだけ近づいても、届かないものってあるのかな」
なお兄は海を見た。
「あるかもね」
「なんか嫌だね」
なお兄が私を見る。
私は笑顔を浮かべていた。
けれど、その表情の奥にある寂しさを、なお兄は見逃さなかった。
私が明るく振る舞うときほど、無理をしていることがある。
だから、軽口で流す代わりに、なお兄は言葉を選んだ。
「でもさ」
なお兄は言った。
「届かなくても、同じものを見てる人がいれば、まあいいんじゃない?」
「……何それ」
「なお兄先生の哲学講座」
「受講料は?」
「二万円」
「高っ」
「人気講師だからね」
「誰が受けるの」
「えとさん」
「受けない」
「即答やめて」
また声を立てる。
けれど、なお兄はそのあいだも、私の表情を何度も確かめているようだった。
本当に楽しんでいるのか。
寂しさを隠していないか。
それが、嬉しくて、辛かった。
二人並んで、夕暮れの海を見る。
肩と肩の距離は、わずか数センチ。
手を伸ばせば触れられる。
たった、それだけなのに。
なお兄は手を伸ばさなかった。
私も伸ばさなかった。
届きそうな距離にいるのに、越えられないものがある。
それでもなお兄は、私が歩き出すまで動かなかった。
私が帰ろうと言うまで、隣にいるつもりだったのだろう。
「帰ろっか」
私は言った。
「そうだね」
二人で歩き出す。
「そういえばアイス代」
「え?」
「半分払って」
「遅刻のお詫びじゃなかったの!?」
「気が変わったんだよ」
「最低!」
「冗談だよ!」
「もう絶対払わない!」
「最初から払わせる気ないって」
「じゃあ言うな!」
私は声を上げながら、なお兄を追いかける。
なお兄も笑い声をこぼしながら逃げる。
けれど、私が足元の段差に気づかずつまずきかけた瞬間、なお兄は振り返るより先に手を伸ばしていた。
「危ない」
掴まれた手首が、すぐに離れる。
「……ありがと」
「ちゃんと前見て歩いて」
「子どもじゃないんだから」
「知ってるよ」
なお兄はそう言って、口元を緩めた。
子ども扱いしているわけではない。
私が私だから、気づいてしまう。
私が私だから、放っておけない。
そんなふうに聞こえたのは、きっと私の都合のいい解釈だった。
結局。
今日も何も変わらなかった。
お互い好きとも言わない。
手も繋がない。
二人の関係には名前はつかない。
けれど。
少し前を走るなお兄の背中を見ながら、私は思った。
いつか。
あの遠くに見える場所まで、たどり着ける日が来るのだろうか。
もし、その日が来るなら。
たぶん。
隣にいてほしいのは。
きっと……..。
「なお兄、遅い」
海沿いの遊歩道に着くなり、私は頬を膨らませた。
「いや、三分だから。三分は遅刻に入らなくない?」
「入りますー」
「厳しいなあ」
なお兄は苦笑しながら、コンビニの袋を持ち上げた。
「はい。遅刻のお詫び」
「何これ」
「アイス」
「許す」
「早っ」
さっきまでの不満な気持ちはどこへやら。
私は当然のように袋を覗き込み、二本入っているアイスのうち、自分の好きな味を迷いなく取り出した。
「……それ僕のなんだけど」
「じゃあ何で私の好きなの買ったの?」
「えとさんが取ると思ったから」
「じゃあ、いいじゃん」
「よくないよ」
言いながらも、なお兄は口元を緩めていた。
本当は、私がどの味を選ぶかなんて、袋を開ける前から分かっていたのだろう。
私が迷わず手を伸ばすのを見て、なお兄は小さく息を吐いた。
「何?」
「いや、やっぱりそれ選ぶんだなって」
「何それ。私のこと分かってるみたいな言い方」
「長い付き合いだからね」
「じゃあ次は外してみてよ」
「無理」
「即答?」
「えとさんのことなら、だいたい分かるから」
冗談めかした言い方だったけれど、なお兄は一瞬だけ私から目を逸らした。
ーー私たちはいつもこんな調子だ。
どちらが先にふっかけたのか分からない、小さな言い合い。
ゲームをすれば勝った負けたで騒ぎ、動画撮影ではわざと邪魔をし合い、移動中に隣になれば、どうでもいいことで笑い合う。
周りから見れば、仲のいい二人。
今だって、兄妹に見られているかもしれない
でも友達以上でも、それ以下でもない。
なんとも形容し難い関係だ。
なお兄は私が寒そうにしていれば先に気づくし、疲れていれば何も言わずに歩く速度を合わせてくれる。
それを特別だと思ったことはなかった。
なお兄は誰にでも優しい人だと、そう思っていたから。
「海、久しぶりだね」
アイスを食べながら、私は呟いた。
夕方の海は穏やかだった。
傾きかけた太陽が水面を照らし、遠くまで続く光の帯をつくっている。
「綺麗」
私は目を細めた。
隣にいたなお兄は、ほんの一瞬、返事を忘れたようだった。
「……ね」
「何その間」
「いや、海見てた」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
「怪しい」
私はなお兄の顔を覗き込んだ。
すると、なお兄は反射的に半歩下がった。
「なんで逃げるの」
「逃げてないし」
「逃げた」
「距離感の調整だよ」
「何それ」
私は吹き出し、再び海へ視線を戻した。
なお兄が小さく息を吐く。
距離感の調整。
冗談みたいに聞こえたけれど、実際、その通りなのかもしれない。
近づきすぎないように。
離れすぎないように。
私たちは長いあいだ、その加減を探ってきた。
なお兄は、私が無邪気に距離を詰めるたび、ほんの少しだけ身を引く。
けれど、私が離れようとすると、いつの間にか隣へ戻ってくる。
その理由を、私は知らなかった。
「ねえ、なお兄」
「ん?」
「遠くに見えるものってさ」
「うん」
「近づけば、ちゃんと触れられると思う?」
なお兄は口元をわずかに上げた。
「急に哲学?」
「違うし」
「えと先生の哲学講座かと思った」
「受講料取るよ」
「高そう」
「一万円」
「高っ」
「今なら特別に九千八百円」
「二百円しか安くなってない」
二人で笑う。
笑い声は海風にさらわれ、すぐに消えていった。
やがて、私は再び口を開いた。
「でも、不思議だなって」
「何が?」
「ずっとそこにあるように見えるのに、近づくとまた先にあるの」
私は海の向こうを指さした。
「見えてるのに、手が届かない」
「まあ、地球丸いからね」
「なお兄」
「うん」
「そういう話じゃない」
「だよね」
私はなお兄の肩を軽く叩いた。
「ロマンがない」
「いやいや、僕けっこうロマンチストだよ」
「嘘」
「なんで即答なの」
「なお兄だから」
「ひどくない?」
また声を立てる。
けれど、そのあと私は口を閉ざした。
なお兄は気づいているだろうか。
何か言おうとしている私の顔に。
普段なら、思ったことを割とそのまま口にする。
なのに今日は、言葉を選んでいた。
なお兄は、私が黙るとすぐに話題を探してくれることが多い。
けれど今日は、急かさずに待っていた。
私が話し始めるまで、海を見たまま隣にいてくれる。
その沈黙が嫌ではないことを、なお兄は知っているのかもしれない。
「……なお兄ってさ」
「うん」
「好きな人とかいないの?」
「何、急に」
「いや、なんとなく」
「えとさんは?」
「質問に質問で返すな」
「じゃあ答えてよ」
「なお兄が先」
「えー」
なお兄は、わざと悩むふりをした。
けれど、その視線は海ではなく、足元に落ちていた。
目の前には海。
隣には私。
「……いないかな」
なお兄はそう言った。
私は一瞬だけ呼吸が止まった。
けれどすぐに、
「ふーん」
と、平静を装って海を見た。
「何その反応」
「別に」
「聞いといて?」
「興味本位だよ」
「はいはい」
なお兄も口元を緩めた。
――嘘だ。
自分でも分かっていた。
でも、「いる」と言われたら。
「誰?」と聞いてしまう。
そのあと、どうする?
なにも言えない。
なにかを口にした瞬間、今までのようには振る舞えなくなるかもしれない。
くだらないことで言い合ったり、急に電話したり、夜中までゲームしたり。
そういうもの全部が、変わってしまうかもしれない。
それが不安だった。
「じゃあ、えとさんは?」
「私?」
「好きな人」
「……いない」
今度は私がそう答えた。
なお兄は、
「ふーん」
と言った。
その声は平静に聞こえたけれど、口元が緩むまでにわずかな間があった。
「何その反応」
「別に」
「真似するな」
「興味本位だよ」
「それも真似!」
私は吹き出し、なお兄の腕を軽く叩いた。
なお兄もつられて口元を緩める。
けれど、叩かれた腕を見下ろしたなお兄は、どこか寂しそうにみえた。
さっきまでなら、もっと近くにいても平気だった。
「好きな人はいない」と聞いた瞬間から、隣にいることさえ、心細く感じる。
変わらないふりをしている。
だからこそ、胸の奥がわずかに痛んだ。
本当は。
私は、いた。
好きな人。
というより、「好きなのかもしれない人」と言うべきなのかもしれない。
自分でも、まだ輪郭をつかめていない。
なお兄とは、一緒にいると楽しい。
すごく楽しい。
ちょっと腹が立つときもある。
ゲームで負けたら本気で悔しいし、くだらないことで煽ってくるし、たまに妙に冷静なことを言ってくる。
それでも、気づけば隣にいる。
何かあれば最初に話したくなる。
なお兄が口元を緩めると嬉しい。
なお兄が知らない女の子と楽しそうに話していると、なぜか気になる。
けれど。
それを認めてしまうのは、ためらわれた。
もし自分だけだったら。
もしなお兄にとって、私はただの「仲のいい仲間」だったら。
今の関係さえなくなるかもしれない。
だから。
「好きな人はいない」
そう答えた。
たった数秒前。
なお兄も同じ答えを返したから。
胸の奥がわずかに痛んだ。
ああ。
やっぱり違うんだ。
私が勝手に期待していただけ。
そう思った矢先。
「寒くない?」
隣から声がした。
「ちょっと」
「やっぱり」
なお兄は自分の上着を脱いだ。
「はい」
「え、いいよ」
「風強くなってきたし」
「なお兄寒いじゃん」
「僕は平気だよ」
「いや絶対寒いでしょ」
「じゃあ二人で着る?」
「無理でしょ!」
「ノリ悪いなあ」
「サイズ的に無理って話!」
「そこ?」
「そこ!」
私は笑いながら押しつけられた上着を、結局受け取った。
「でも、なお兄は?」
「僕は平気だよ」
「さっきからそればっかり」
「えとさんが寒そうにしてるほうが気になるから」
「……え?」
「いや、風邪ひかれたら困るし」
「困るんだ」
「そりゃ困るよ」
なお兄は何でもないことのように言った。
けれど、その言葉だけが妙に胸に残った。
上着を羽織ると、かすかになお兄の匂いがした気がした。森にいるような森林の香り。
私は慌てて前を向く。
「……くやしい」
「何が?」
「なんでもない」
こういうところだ。
私がどの味のアイスを選ぶか知っていることも。
黙ったときに急かさず待ってくれることも。
寒そうにしている私へ、迷いなく上着を差し出すことも。
それが私だけに向けられたものなのか、確かめられないまま。
諦めようとしても、また期待が膨らんでしまう。
太陽はほとんど沈みかけていた。
海は、オレンジと青の境目で静かに揺れている。
「なお兄」
「ん」
「さっきの話だけど」
「まだする?」
「うん」
私は口元をわずかに緩めた。
「どれだけ近づいても、届かないものってあるのかな」
なお兄は海を見た。
「あるかもね」
「なんか嫌だね」
なお兄が私を見る。
私は笑顔を浮かべていた。
けれど、その表情の奥にある寂しさを、なお兄は見逃さなかった。
私が明るく振る舞うときほど、無理をしていることがある。
だから、軽口で流す代わりに、なお兄は言葉を選んだ。
「でもさ」
なお兄は言った。
「届かなくても、同じものを見てる人がいれば、まあいいんじゃない?」
「……何それ」
「なお兄先生の哲学講座」
「受講料は?」
「二万円」
「高っ」
「人気講師だからね」
「誰が受けるの」
「えとさん」
「受けない」
「即答やめて」
また声を立てる。
けれど、なお兄はそのあいだも、私の表情を何度も確かめているようだった。
本当に楽しんでいるのか。
寂しさを隠していないか。
それが、嬉しくて、辛かった。
二人並んで、夕暮れの海を見る。
肩と肩の距離は、わずか数センチ。
手を伸ばせば触れられる。
たった、それだけなのに。
なお兄は手を伸ばさなかった。
私も伸ばさなかった。
届きそうな距離にいるのに、越えられないものがある。
それでもなお兄は、私が歩き出すまで動かなかった。
私が帰ろうと言うまで、隣にいるつもりだったのだろう。
「帰ろっか」
私は言った。
「そうだね」
二人で歩き出す。
「そういえばアイス代」
「え?」
「半分払って」
「遅刻のお詫びじゃなかったの!?」
「気が変わったんだよ」
「最低!」
「冗談だよ!」
「もう絶対払わない!」
「最初から払わせる気ないって」
「じゃあ言うな!」
私は声を上げながら、なお兄を追いかける。
なお兄も笑い声をこぼしながら逃げる。
けれど、私が足元の段差に気づかずつまずきかけた瞬間、なお兄は振り返るより先に手を伸ばしていた。
「危ない」
掴まれた手首が、すぐに離れる。
「……ありがと」
「ちゃんと前見て歩いて」
「子どもじゃないんだから」
「知ってるよ」
なお兄はそう言って、口元を緩めた。
子ども扱いしているわけではない。
私が私だから、気づいてしまう。
私が私だから、放っておけない。
そんなふうに聞こえたのは、きっと私の都合のいい解釈だった。
結局。
今日も何も変わらなかった。
お互い好きとも言わない。
手も繋がない。
二人の関係には名前はつかない。
けれど。
少し前を走るなお兄の背中を見ながら、私は思った。
いつか。
あの遠くに見える場所まで、たどり着ける日が来るのだろうか。
もし、その日が来るなら。
たぶん。
隣にいてほしいのは。
きっと……..。
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