夏の終わり


「えとさん、こっち」

人混みの向こうから伸びてきた手に、私は一瞬だけ目を丸くした。
夜の境内は、昼間とはまるで別の場所みたい。
屋台から香る甘い匂い、遠くの太鼓の音、頭上で揺れる提灯の光。人の波が絶え間なく流れていて、少しでも気を抜いたらすぐに飲まれてしまいそうになる。

その中で、ゆあんくんの手だけがやけに目立って見えた。

「……なに?」

「はぐれそうだから」

当たり前みたいに言われて、私は差し出された手と彼の顔を交互に見る。

「別に、手つながなくても大丈夫じゃない?」

「じゃあ袖でもいいけど」

「なんで絶対つかむ前提なの?」

「えとさん、さっきから三回くらい人に流されてるじゃん」

「三回も?」

「見てたから」

さらっと言われて、言葉に詰まる。
見てたって、何をそんなに。

結局、ゆあんくんの手を取るのは恥ずかしくて、私は浴衣の袖を軽くつまんだ。

それを見下ろした彼が、少しだけ笑う。

「……まあ、今日はそれでいいや」

「今日は?」

聞き返したのに、ゆあんくんは何も答えなかった。
今日のゆあんくんは、なんか変だ。

紺色の浴衣は普段よりずっと大人っぽく見えるし、声もいつもより落ち着いて聞こえる。
そのせいか、距離感まで少し違う気がして落ち着かない。

「えとさん、りんご飴食べる?」

「食べたい」

「絶対そう言うと思った」

「何それ」

「顔に書いてあった」

そう言って、もう買ってきている。

「いつの間に……」

「見てたから」

またそれ。

「……だから何でそんなに見てるの?」

今度こそ答えを言わせる意気込みでいうと、ゆあんくんは一瞬だけ黙った。

提灯の光が横顔に落ちて、少しだけ影が濃くなる。

「好きな人のことって、見るでしょ」

「…………え?」

足が止まった。
けれど彼はそのまま二、三歩進んでから振り返る。

「何してんの。置いてくよ」

「いや、ちょっと待って」

慌てて追いつく。

「今、何て言った?」

「何が?」

「好きな人って……」

「ああ」

ゆあんくんは平然としている。

「えとさんのことだよ」

「……!」

「友達として、とか言ったほうがよかった?」

「それを私に聞く!?」

思わず声が大きくなって、周りの視線が刺さる。慌てて口を押さえた。
ゆあんくんだけが、楽しそうに笑っている。

「ゆあんくん今日変だよ」

「そう?」

「絶対変」

「祭りだからじゃない?」

「祭りってそんな効果ある?」

「あるんじゃない。知らないけど」

なんだそれ。
心臓がずっと落ち着かない。
少し広い場所に出た瞬間、ゆあんくんが何も言わずに私の肩を抱き引き寄せた。
その瞬間彼の胸にポスッと私の頭がおさまる。

「え?」

次の瞬間、走り抜けた子どもとすれ違う。

「危ない」

低い声がすぐ近くで聞こえた。

「……ありがと」

離れようとしたのに、腕にゆあんくんの手が残る。
たったそれだけなのに、変に意識してしまう。

「……花火、そろそろじゃない?」

「うん」

「場所取らないと」

「じゃあ行こ」

今度はゆあんくんが先に歩き出す。
けれど数歩で、また手が差し出された。

「今度は何」

「混んでるから」

「袖じゃダメなの?」

「ダメ」

「さっきいいって言ったじゃん」

「気が変わった」

「勝手だなぁ」

「嫌ならいいけど」

そう言われると、困る。
嫌じゃない。むしろ——
たぶん、取ったらもっと意識する。

迷っていると、ゆあんくんが少しだけ目を細めた。

「……他のやつでも、そんなに悩む?」

「え?」

「俺だから悩んでんの?」

胸の奥を見透かされたみたいで、言葉が出ない。

「知らない」

「ふーん」

「何その顔」

「別に」

絶対別にじゃない。

私は小さく息を吐いて、差し出されたゆあんくんの手に自分の手を重ねた。

すぐに握り返される。

思っていたより、大きい手だった。
女の子と違って薄くて骨ばった……

「ねぇ……強くない?」

「離れないようにしてる」

「そこまでしなくても」

「はぐれたら困るし」

少し間があって、続きそうな言葉は飲み込まれた気がした。

「今日ほんと何なの……」

「さあ」

隣を見ると、やっぱり楽しそうな顔をしている。
やがて花火が始まった。
夜空に光が咲いて、遅れて音が胸に響く。

「わ、きれい」

思わず顔を上げる。
赤、金、青。次々に広がっては消えていく。
夢中で見ていると、隣から声がした。

「うん、きれいだ」

振り向くと。
ゆあんくんは空を見ていなかった。
私を見ていた。

「……花火、あっちだけど」

「見てるよ」

「何を」

聞いてから、しまったと思う。
ゆあんくんの口元が少し上がる。

「言っていいの?」

「……いい、やっぱり言わなくていい」

「えー」

「絶対ろくなこと言わないでしょ」

「じゃあ想像しといて」

花火の音に紛れて、彼が笑う。
手は、まだ繋がれたまま。
恋人じゃない。

ちゃんと告白されたわけでもない。

なのに今日だけで、曖昧だった距離がどんどん形を持っていく。




最後の大きな花火が夜空に広がったとき。

ゆあんくんがぽつりと言った。

「来年も来ようね」

「……みんなで?」

「二人で」

「……またそういうこと言う」

「嫌?」

すぐに聞かれて、答えられない。
嫌じゃない。
それが一番困る。
そんな私を見て、ゆあんくんは少しだけ笑った。
そして、繋いだ手をほんの少し強くする。

「じゃ、予約ね」

「勝手に決めないでよ」

「一年あるから考えといて」

「長すぎ」

「俺はもう決めてるから」

「何を?」


ゆあんくんは私を見て、今度は答えなかった。
ただ。

「秘密」

そう言って笑った。

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