学生編
文化祭二日目が終わる頃には、校舎を包んでいた熱気も少しずつ薄れ始めていた。
廊下に飾られていた色紙の花はところどころ剥がれはじめ、教室からは机を元の位置へ戻す音が聞こえてくる。
つい数時間前まで人でいっぱいだった中庭も、今は片づけをする生徒がまばらに歩いているだけだった。
窓の向こうには、秋の夕暮れ。
空の高いところから群青色が滲み始め、その下にまだ淡い橙色が残っている。
ゲーム同好会の片づけを終えた私は、最後のパソコンの電源が落ちるのを確認してから、小さく息を吐いた。
「終わったぁ……」
二日間。
長かったような、あっという間だったような……
昨日は、ステージで大勢の女子生徒から歓声を浴びるうり先輩を見て、自分でも驚くほど嫉妬した。
今日は、進路に悩んでいた中学生――ゆあんくんと知り合い、ゲーム同好会では思いがけず助けてもらった。
いろいろなことがありすぎて、頭の中がまだ落ち着いていない。
けれど。
その中でも、一番強く残っていることがある。
昨日、誰もいなくなった部室で、うり先輩と繋いだ手。
『俺が好きなのは、えとさんだから』
思い出しただけで、胸の奥が温かくなった。
「……えとさん?」
突然名前を呼ばれ、肩が跳ねる。
振り返ると、扉のところにうりが立っていた。
「びっくりした……」
「そんな驚く?」
栗色の髪が少し乱れたうり先輩が笑っている。
今日は午前中に軽音同好会のステージがあり、そのあとゲーム同好会の手伝いにも顔を出していた。
文化祭中ずっと動き回っていたはずなのに、疲れを感じさせない。
「片づけ終わった?」
「うん。今ちょうど」
「じゃあ帰ろ」
「一緒に?」
思わず聞き返す。
うり先輩は少し呆れたような顔をした。
「付き合ってるんだから、たまには一緒に帰ってもいいでしょ」
「学校では秘密なのに」
「校門出るまでは先輩後輩」
そして、少しだけ悪戯っぽく笑う。
「出たら彼氏彼女」
うり先輩の言葉で頬が熱くなる。
こういうことをさらっと言われるのにはまだ慣れない。
「……分かった」
小さく返すと、先輩が嬉しそうに笑った。
*
校門を出るまでは、少し距離を空けて歩いた。
前を歩く生徒たちから見れば、同じ同好会の先輩と後輩が偶然一緒に帰っているだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
うり先輩も学校の中では必要以上に近づいてこなかった。
その距離がありがたい反面、今日は少しだけ寂しく感じる。
昨日までなら、こんなこと思わなかったのに。
坂道を下り、学校の正門が見えなくなる。
住宅街へ続く角を曲がり人通りが少なくなったところで、先輩が突然足を止めた。
「えとさん」
「ん?」
「もういい?」
「何が?」
答える代わりに、うり先輩が手を差し出した。
意味が分かった瞬間、思わず周囲を見回す。
学校の生徒はいない。
夕暮れの住宅街。
遠くを自転車が一台通り過ぎるだけだった。
私は少しためらってから、その手へ自分の手を重ねる。
指先が触れた瞬間。
うり先輩が自然に指を絡めてきた。
「……」
やっぱり、慣れない。
初めてのデートでも繋いだのに。
学校の放課後、隠れて重ねたのに。
手を繋ぐだけで、どうしてこんなに緊張するんだろう。
先輩の手は大きくて男の人らしく骨ばっていて少し温かかった。
文化祭の片づけで冷えた指先が、その温度にゆっくりと包まれていく。
「やっと、えとさんの彼氏に戻れたー」
隣から、満足そうな声がする。
「そんな大げさな」
「大げさじゃないよ。二日間ずっと我慢してたんだから」
「我慢?」
「イチャイチャするの」
思わず顔を上げる。
「そんなこと考えてたの?」
「考えてた。昨日も今日も、えとさんすぐそこにいるのに何もできないし」
少しだけ不満そうな横顔。
なんだか可愛く見えて、思わず笑ってしまう。
「何笑ってんの」
「うりでも、そういうこと思うんだなって」
「俺を何だと思ってるの」
「人気者」
「そこ?」
「あと、余裕ある人」
そう言うと、うり先輩が少しだけ黙った。
「……全然ないけど」
「え?」
「えとさんのことになると余裕ないよ……」
その声が思った以上に真剣で、胸が鳴る。
文化祭でゆあんくんと話していたときの、少しだけ様子のおかしいうりを思い出した。
あれも、もしかしたら。
「今日のゆあんくんのこと?」
何気なく尋ねると、握られている手に一瞬だけ力が入った。
「……その名前、今出す?」
「え?」
「せっかく二人なんだけど」
明らかに不満そうだった。
そこでようやく気づく。
「あ……」
「あ、じゃない」
「もしかしてまだ気にしてる?」
「気にしてない」
即答。でも目を合わせてくれない。
「絶対気にしてる」
「……そりゃまぁ」
思わず笑ってしまった。
昨日は私が嫉妬して。
今日はうり先輩が嫉妬して。
何だかおかしくなってきた。
「大丈夫だよ」
「何が?」
「私は、うりの彼女だから」
言ってから自分が口にした言葉に、自分で固まった。
うり先輩も足を止める。
夕暮れの道。
繋いだ手だけが、二人の間に残っている。
「……今の、もう一回言って」
「やだ」
「なんで?」
「恥ずかしい」
「えとさんから言ったんじゃん」
「今のなし」
「なしにはできません」
学校では敬語を使うくせに、こういう時だけわざと丁寧な言葉を使う。
「もう……」
顔を逸らす。でも胸の奥には、少しだけ嬉しい気持ちもあった。
前の私は。
先輩の彼女だなんて、胸を張って言えなかった。
いつか似合わないと言われるのではないか。
もっと素敵な人が現れるのではないか。
そんなことばかり考えていた。
今だって、自信満々になれたわけではない。
でも。
少なくとも。
自分から「私はうりの彼女だから」と言えた。
それは、自分にとって思っている以上に大きな一歩なのかもしれない。
*
そのまま駅へ向かうつもりだったけれど、途中でうりが小さな公園を指さした。
「ちょっと寄ってかない?」
「いいけど」
日中は子どもたちが走り回っていたであろう公園も、今は静かだった。
ベンチに並んで座る。
うり先輩が自動販売機で買ってくれた温かいミルクティーを両手で包むと、冷えていた指先に熱が戻ってくる。
頭上では木々の葉が風に揺れていた。
薄暗くなった空には、一番星が見える。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
経験したことのないむず痒さ、でも気まずくはない。
同じ景色を見ているだけで、何となく満たされる。
「文化祭、楽しかった?」
うり先輩が尋ねる。
「うん」
「一番何がよかった?」
「ゲーム同好会」
「無難」
「のあさんと回ったのも楽しかった」
「それから?」
何を期待しているのか分かってしまう。
わざと知らないふりをした。
「クラスの迷路」
「えとさん」
「何?」
「俺のステージは?」
我慢できなくなったらしい。
思わず吹き出す。
「すごくよかったよ」
「ほんと?」
「うん」
昨日は嫉妬の方が強くて、素直に言えなかった。
だから今日はちゃんと伝えたい。
「すごく格好よかった」
うりが少し驚いた顔をする。
「歌ってるときも、ギター弾いてるときも」
思い出す。
ステージの中央に立つ姿。
大勢の人の視線を集めていた、眩しい人。
「私、入学した頃にも一度うりの歌を聞いたことあったけど」
「そうなの?」
「音楽室の前で」
「知らなかった」
「その時も格好いいなって思った」
「……それ、初耳なんだけど」
うりが少し嬉しそうにこちらを見る。
「あの頃から俺のこと好きだった?」
「それは……」
答えに困る。
当時はまだ、自分の気持ちに名前をつけるのが怖かった。
「分かんなかった」
正直に答える。
「でも、気になってたと思う」
「へぇ」
「何その顔」
「いや」
うり先輩は口元を隠すようにコーヒーを飲む。
「めちゃくちゃ嬉しい」
その表情を見ていると、私まで嬉しくなった。
「うり」
「ん?」
小さく呼ぶ。
学校の外だから。うりの恋人だから。
前よりも、その名前を口にすることへの抵抗は減ってきた。
「私ね」
言葉を探す。
「前よりちょっとだけ、自信持てるようになったと思う」
うり先輩は何も言わず、続きを待ってくれた。
「まだ、うりの彼女でいいのか不安になることもあるけど
前みたいにすぐ『私なんか』って思わなくなった」
自分磨きを始めようと思ったこと
髪を整えるようになったこと。
少しだけ人と話せるようになったこと。
褒められても、全部否定しなくなったこと。
全部。
きっかけは、うり先輩の隣に立ちたかったから。
でも今は。
「自分のことも、前より少し好きになれたかも」
そう言うと。
うり先輩は、とても優しい顔で笑った。
「そっか」
たった一言。
でも、その声が嬉しそうで。
伝えてよかったと思った。
「じゃあ、俺も一個言っていい?」
「何?」
「最近のえとさん、すごく好き」
「最近?」
思わず眉を寄せる。
「前は?」
「違う違う」
慌てたように手を振る。
「前から好き。ずっと好き」
「ほんと?」
「ほんと」
少し前なら。
こんな言葉を向けられたら、どう返していいか分からず俯いていた。
けれど今日は。
ほんの少しだけ勇気を出してみる。
「……私も……き。」
声は小さかった。
それでも、うり先輩には届いた。
「何?」
「聞こえたでしょ」
「聞こえなかった」
絶対嘘だ。
顔を見れば分かる。
嬉しそうに笑っている。
「もう言わない」
「えー」
「一回言ったからいいの」
「もう一回」
「やだ」
「じゃあお願い」
「やだって」
言い合いながら、二人で笑う。
すると。うり先輩が少しだけこちらへ身体を寄せた。
肩と肩が触れる。
私は一瞬だけ固まった。
けれど離れなかった。
そのまま、うり先輩の肩へほんの少しだけ頭を預ける。
自分からは初めてだった。
うり先輩の身体が一瞬硬くなったのが分かった。
「……えとさん?」
「何?」
「今日どうしたの」
「なにが?……嫌?」
「嫌なわけない」
声が少し慌てている。
いつも私ばかり緊張させられているから、なんだか少し嬉しい。
「文化祭、疲れたから」
言い訳しながら、そのままでいる。
肩越しに伝わる体温が温かい。
少しすると、うり先輩の腕が私の肩に回されさっきよりも密着するように引き寄せられた。
反対の手で私の手を握ろうとして触れる直前で止まる。
でも私は自分から、その指先へ手を重ねた。
うり先輩が小さく息を呑む。
「……今日のえとさん、積極的やな」
「うりに言われたくない」
「俺、何かした?」
「いつもさらっと恥ずかしいこと言う」
「好きだから」
「ほら、それ」
また胸が熱くなる。嬉しくて締め付けられる。
それでも逃げないと決めた。
「……私も好き」
今度は。
ちゃんと聞こえるように言った。
隣で、うり先輩が黙る。
不安になって顔を上げると、珍しく彼の方が少し照れていた。
初めて見る……
「何その顔」
「いや……」
目を逸らす。
「破壊力すごいなと思って」
そう言って笑う横顔を見て。
私は、胸の奥がいっぱいになるのを感じた。
好きな人に好きだと伝えて。
同じ言葉が返ってくる。
こんなに単純なことが。
こんなにも幸せなのだと、初めて知った。
廊下に飾られていた色紙の花はところどころ剥がれはじめ、教室からは机を元の位置へ戻す音が聞こえてくる。
つい数時間前まで人でいっぱいだった中庭も、今は片づけをする生徒がまばらに歩いているだけだった。
窓の向こうには、秋の夕暮れ。
空の高いところから群青色が滲み始め、その下にまだ淡い橙色が残っている。
ゲーム同好会の片づけを終えた私は、最後のパソコンの電源が落ちるのを確認してから、小さく息を吐いた。
「終わったぁ……」
二日間。
長かったような、あっという間だったような……
昨日は、ステージで大勢の女子生徒から歓声を浴びるうり先輩を見て、自分でも驚くほど嫉妬した。
今日は、進路に悩んでいた中学生――ゆあんくんと知り合い、ゲーム同好会では思いがけず助けてもらった。
いろいろなことがありすぎて、頭の中がまだ落ち着いていない。
けれど。
その中でも、一番強く残っていることがある。
昨日、誰もいなくなった部室で、うり先輩と繋いだ手。
『俺が好きなのは、えとさんだから』
思い出しただけで、胸の奥が温かくなった。
「……えとさん?」
突然名前を呼ばれ、肩が跳ねる。
振り返ると、扉のところにうりが立っていた。
「びっくりした……」
「そんな驚く?」
栗色の髪が少し乱れたうり先輩が笑っている。
今日は午前中に軽音同好会のステージがあり、そのあとゲーム同好会の手伝いにも顔を出していた。
文化祭中ずっと動き回っていたはずなのに、疲れを感じさせない。
「片づけ終わった?」
「うん。今ちょうど」
「じゃあ帰ろ」
「一緒に?」
思わず聞き返す。
うり先輩は少し呆れたような顔をした。
「付き合ってるんだから、たまには一緒に帰ってもいいでしょ」
「学校では秘密なのに」
「校門出るまでは先輩後輩」
そして、少しだけ悪戯っぽく笑う。
「出たら彼氏彼女」
うり先輩の言葉で頬が熱くなる。
こういうことをさらっと言われるのにはまだ慣れない。
「……分かった」
小さく返すと、先輩が嬉しそうに笑った。
*
校門を出るまでは、少し距離を空けて歩いた。
前を歩く生徒たちから見れば、同じ同好会の先輩と後輩が偶然一緒に帰っているだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
うり先輩も学校の中では必要以上に近づいてこなかった。
その距離がありがたい反面、今日は少しだけ寂しく感じる。
昨日までなら、こんなこと思わなかったのに。
坂道を下り、学校の正門が見えなくなる。
住宅街へ続く角を曲がり人通りが少なくなったところで、先輩が突然足を止めた。
「えとさん」
「ん?」
「もういい?」
「何が?」
答える代わりに、うり先輩が手を差し出した。
意味が分かった瞬間、思わず周囲を見回す。
学校の生徒はいない。
夕暮れの住宅街。
遠くを自転車が一台通り過ぎるだけだった。
私は少しためらってから、その手へ自分の手を重ねる。
指先が触れた瞬間。
うり先輩が自然に指を絡めてきた。
「……」
やっぱり、慣れない。
初めてのデートでも繋いだのに。
学校の放課後、隠れて重ねたのに。
手を繋ぐだけで、どうしてこんなに緊張するんだろう。
先輩の手は大きくて男の人らしく骨ばっていて少し温かかった。
文化祭の片づけで冷えた指先が、その温度にゆっくりと包まれていく。
「やっと、えとさんの彼氏に戻れたー」
隣から、満足そうな声がする。
「そんな大げさな」
「大げさじゃないよ。二日間ずっと我慢してたんだから」
「我慢?」
「イチャイチャするの」
思わず顔を上げる。
「そんなこと考えてたの?」
「考えてた。昨日も今日も、えとさんすぐそこにいるのに何もできないし」
少しだけ不満そうな横顔。
なんだか可愛く見えて、思わず笑ってしまう。
「何笑ってんの」
「うりでも、そういうこと思うんだなって」
「俺を何だと思ってるの」
「人気者」
「そこ?」
「あと、余裕ある人」
そう言うと、うり先輩が少しだけ黙った。
「……全然ないけど」
「え?」
「えとさんのことになると余裕ないよ……」
その声が思った以上に真剣で、胸が鳴る。
文化祭でゆあんくんと話していたときの、少しだけ様子のおかしいうりを思い出した。
あれも、もしかしたら。
「今日のゆあんくんのこと?」
何気なく尋ねると、握られている手に一瞬だけ力が入った。
「……その名前、今出す?」
「え?」
「せっかく二人なんだけど」
明らかに不満そうだった。
そこでようやく気づく。
「あ……」
「あ、じゃない」
「もしかしてまだ気にしてる?」
「気にしてない」
即答。でも目を合わせてくれない。
「絶対気にしてる」
「……そりゃまぁ」
思わず笑ってしまった。
昨日は私が嫉妬して。
今日はうり先輩が嫉妬して。
何だかおかしくなってきた。
「大丈夫だよ」
「何が?」
「私は、うりの彼女だから」
言ってから自分が口にした言葉に、自分で固まった。
うり先輩も足を止める。
夕暮れの道。
繋いだ手だけが、二人の間に残っている。
「……今の、もう一回言って」
「やだ」
「なんで?」
「恥ずかしい」
「えとさんから言ったんじゃん」
「今のなし」
「なしにはできません」
学校では敬語を使うくせに、こういう時だけわざと丁寧な言葉を使う。
「もう……」
顔を逸らす。でも胸の奥には、少しだけ嬉しい気持ちもあった。
前の私は。
先輩の彼女だなんて、胸を張って言えなかった。
いつか似合わないと言われるのではないか。
もっと素敵な人が現れるのではないか。
そんなことばかり考えていた。
今だって、自信満々になれたわけではない。
でも。
少なくとも。
自分から「私はうりの彼女だから」と言えた。
それは、自分にとって思っている以上に大きな一歩なのかもしれない。
*
そのまま駅へ向かうつもりだったけれど、途中でうりが小さな公園を指さした。
「ちょっと寄ってかない?」
「いいけど」
日中は子どもたちが走り回っていたであろう公園も、今は静かだった。
ベンチに並んで座る。
うり先輩が自動販売機で買ってくれた温かいミルクティーを両手で包むと、冷えていた指先に熱が戻ってくる。
頭上では木々の葉が風に揺れていた。
薄暗くなった空には、一番星が見える。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
経験したことのないむず痒さ、でも気まずくはない。
同じ景色を見ているだけで、何となく満たされる。
「文化祭、楽しかった?」
うり先輩が尋ねる。
「うん」
「一番何がよかった?」
「ゲーム同好会」
「無難」
「のあさんと回ったのも楽しかった」
「それから?」
何を期待しているのか分かってしまう。
わざと知らないふりをした。
「クラスの迷路」
「えとさん」
「何?」
「俺のステージは?」
我慢できなくなったらしい。
思わず吹き出す。
「すごくよかったよ」
「ほんと?」
「うん」
昨日は嫉妬の方が強くて、素直に言えなかった。
だから今日はちゃんと伝えたい。
「すごく格好よかった」
うりが少し驚いた顔をする。
「歌ってるときも、ギター弾いてるときも」
思い出す。
ステージの中央に立つ姿。
大勢の人の視線を集めていた、眩しい人。
「私、入学した頃にも一度うりの歌を聞いたことあったけど」
「そうなの?」
「音楽室の前で」
「知らなかった」
「その時も格好いいなって思った」
「……それ、初耳なんだけど」
うりが少し嬉しそうにこちらを見る。
「あの頃から俺のこと好きだった?」
「それは……」
答えに困る。
当時はまだ、自分の気持ちに名前をつけるのが怖かった。
「分かんなかった」
正直に答える。
「でも、気になってたと思う」
「へぇ」
「何その顔」
「いや」
うり先輩は口元を隠すようにコーヒーを飲む。
「めちゃくちゃ嬉しい」
その表情を見ていると、私まで嬉しくなった。
「うり」
「ん?」
小さく呼ぶ。
学校の外だから。うりの恋人だから。
前よりも、その名前を口にすることへの抵抗は減ってきた。
「私ね」
言葉を探す。
「前よりちょっとだけ、自信持てるようになったと思う」
うり先輩は何も言わず、続きを待ってくれた。
「まだ、うりの彼女でいいのか不安になることもあるけど
前みたいにすぐ『私なんか』って思わなくなった」
自分磨きを始めようと思ったこと
髪を整えるようになったこと。
少しだけ人と話せるようになったこと。
褒められても、全部否定しなくなったこと。
全部。
きっかけは、うり先輩の隣に立ちたかったから。
でも今は。
「自分のことも、前より少し好きになれたかも」
そう言うと。
うり先輩は、とても優しい顔で笑った。
「そっか」
たった一言。
でも、その声が嬉しそうで。
伝えてよかったと思った。
「じゃあ、俺も一個言っていい?」
「何?」
「最近のえとさん、すごく好き」
「最近?」
思わず眉を寄せる。
「前は?」
「違う違う」
慌てたように手を振る。
「前から好き。ずっと好き」
「ほんと?」
「ほんと」
少し前なら。
こんな言葉を向けられたら、どう返していいか分からず俯いていた。
けれど今日は。
ほんの少しだけ勇気を出してみる。
「……私も……き。」
声は小さかった。
それでも、うり先輩には届いた。
「何?」
「聞こえたでしょ」
「聞こえなかった」
絶対嘘だ。
顔を見れば分かる。
嬉しそうに笑っている。
「もう言わない」
「えー」
「一回言ったからいいの」
「もう一回」
「やだ」
「じゃあお願い」
「やだって」
言い合いながら、二人で笑う。
すると。うり先輩が少しだけこちらへ身体を寄せた。
肩と肩が触れる。
私は一瞬だけ固まった。
けれど離れなかった。
そのまま、うり先輩の肩へほんの少しだけ頭を預ける。
自分からは初めてだった。
うり先輩の身体が一瞬硬くなったのが分かった。
「……えとさん?」
「何?」
「今日どうしたの」
「なにが?……嫌?」
「嫌なわけない」
声が少し慌てている。
いつも私ばかり緊張させられているから、なんだか少し嬉しい。
「文化祭、疲れたから」
言い訳しながら、そのままでいる。
肩越しに伝わる体温が温かい。
少しすると、うり先輩の腕が私の肩に回されさっきよりも密着するように引き寄せられた。
反対の手で私の手を握ろうとして触れる直前で止まる。
でも私は自分から、その指先へ手を重ねた。
うり先輩が小さく息を呑む。
「……今日のえとさん、積極的やな」
「うりに言われたくない」
「俺、何かした?」
「いつもさらっと恥ずかしいこと言う」
「好きだから」
「ほら、それ」
また胸が熱くなる。嬉しくて締め付けられる。
それでも逃げないと決めた。
「……私も好き」
今度は。
ちゃんと聞こえるように言った。
隣で、うり先輩が黙る。
不安になって顔を上げると、珍しく彼の方が少し照れていた。
初めて見る……
「何その顔」
「いや……」
目を逸らす。
「破壊力すごいなと思って」
そう言って笑う横顔を見て。
私は、胸の奥がいっぱいになるのを感じた。
好きな人に好きだと伝えて。
同じ言葉が返ってくる。
こんなに単純なことが。
こんなにも幸せなのだと、初めて知った。