学生編

文化祭二日目の朝は昨日と同じ校舎なのに、少しだけ空気が違って見えた。

正門には色とりどりの飾りが揺れ、校舎の窓には各クラスの看板が並んでいる。
中庭からは朝一番の音合わせが聞こえ、焼き菓子の甘い匂いと、模擬店の呼び込みの声が入り混じっていた。
昨日一日で慣れたはずなのに、校門をくぐると胸が少し高鳴る。
私は髪を耳にかけながら、昨日のことを思い出していた。

ステージの上のうり先輩。

大勢の歓声を浴びながらギターを弾き、歌っていた姿。
その後、女子生徒たちに囲まれていたこと。

そして――

『俺が好きなのは、えとさんだから』

誰もいなくなったゲーム同好会の部屋で、そう言ってくれたこと。
思い出すだけで、まだ頬が熱くなる。
不安が消えたわけじゃない。
それでも。
――私も、この人の隣に前を向いて立っていたい。

そう思う気持ちのほうが、強くなっていた。

「えとさん、おはようございます」

振り返ると、ピンク色の髪を肩のあたりで揺らしながら、のあさんが手を振っていた。

「おはよう、のあさん」

「今日は昨日より元気そうですね」

「そう?」

「はい。昨日の夕方はちょっと難しい顔してましたから」

ドキッとする。

「そ、そうだったかな」

「ふふ。そういうことにしておきます」

のあさんは深く追及せず、いつもの優しい笑顔を見せた。
その距離感がありがたい。

「今日は午後からゲーム同好会でしたよね?」

「うん。午前中はクラスの当番」

「じゃあ、そのあと少し一緒に回りましょう」

「もちろん」

そんな話をしながら、私たちは校舎へ入った。
文化祭二日目が始まる。





午前中のクラス当番を終え、私は一人で廊下を歩いていた。
のあさんとの待ち合わせまでは、まだ少し時間がある。
二日目ということもあって、生徒たちは昨日より動きに慣れていた。
呼び込みの声はさらに賑やかで、廊下には他校の制服を着た高校生や、中学生らしい見学者の姿も多い。
階段の踊り場まで来たところで、一人の男子生徒が目に入った。

窓際。

人の流れから少し離れた場所に立ち、学校案内の冊子を眺めている。

制服が違う。中学生かな。
背が高い。
赤いメッシュが入った黒髪に、大人びた顔立ち。
声をかける前からどこか落ち着いた雰囲気がある。

ただ手に持っている学校案内は、ほとんど開かれていなかった。
楽しそうに文化祭を見ているというより、何かを考え込んでいるように見える。
少し迷ってから、私は声をかけた。

「何か探してる?」

男子生徒がこちらを見る。
一瞬、警戒するような表情を浮かべた。

「……別に。迷ってない」

低い声。

「あ、ごめん。学校案内持ってたから、何か分からないことあるのかなって」

「……」

「受験生?」

少し間があってから、彼は頷いた。

「中三です」

「やっぱり」

「ここ、受けるか迷ってて」

その言葉に、私は足を止めた。
窓の向こうでは、校庭の模擬店を回る人たちが楽しそうに笑っている。
けれど彼の横顔は、その景色とは対照的に少し曇っていた。

「何か気になることあるの?」

「気になるっていうか……」

彼は手に持っていた冊子へ視線を落とす。

「本当にここでいいのかなって」

思わず、去年の自分を思い出す。
志望校を決める時期。
パンフレットを見ても、説明会へ行っても、本当に自分に合う学校なのかなんて分からなかった。

「分かるかも」

そう言うと、彼がこちらを見る。

「先輩も迷ったんですか?」

「うん。私、人が多いところ苦手だったし」

「そんな風に見えないけど」

「今でもそんな得意じゃないよ」

思わず笑う。

「でも、この学校に入ってから好きなものが同じ人たちに会えたから、前より楽しくなったかな」

ゲーム同好会の部屋の前で、帰ろうとしていた入学直後の自分。
その扉を開けてくれた栗色の髪。
うり先輩がいなかったら、私は今もこんなふうに誰かへ声をかけられなかったかもしれない。

「この学校って、自由なんですか?」

彼が尋ねる。

「自由?」

「同好会とか、行事とか。やりたいことをちゃんとやれるのかなって」

少し考える。

「何でも好き勝手できるって意味なら、違うと思う」

「……そうなんだ」

「でも、やりたいことが見つかったときに、一緒にやってくれる人はいると思うよ」

彼は黙ったまま聞いていた。

「今日一日で決めなくてもいいと思うけど」

「もう時間ないし……」

「そうだけど」

私は窓の外を指さした。

「せっかく文化祭に来たなら、校舎を見るだけじゃなくて、生徒の顔を見てみたら?」

「顔?」

「楽しそうかどうか」

彼は少し目を細める。

「自分もこの中にいたいって思えるかどうか。そういうのも、学校選びの理由になるんじゃないかな」

しばらく沈黙が続いた。
やがて彼は校庭を見下ろしながら、小さく言った。

「……先輩は楽しそうですね」

「私?」

予想していなかった言葉に、思わず目を丸くする。

「はい」

「じゃあ、少なくとも一人は楽しんでるね」

そう答えると、彼が初めて少し笑った。
さっきまで大人びて見えていた表情が、その瞬間だけ年相応に見える。

「ゲーム好き?」

ふと聞いてみる。

「好きです」

返事が少し早くなった。

「じゃあ、午後にゲーム同好会の企画あるよ」

「ゲーム同好会?」

「うん。協力プレイの体験企画やってるの。よかったら来てみて」

「……行ってみます」

「ぜひ」

そのとき。

「えとさーん!」

廊下の向こうから、のあさんの声が聞こえた。

「あ、ごめん。友達と待ち合わせしてたんだ」

「はい」

「文化祭、楽しんでね」

軽く手を振り、のあさんのところへ向かう。
少し歩いたところで、何か忘れているような気がした。
でも人混みに押され、そのまま歩き続ける。
階段の踊り場に残された男子生徒は、遠ざかっていくオレンジ色の髪を目で追っていた。

————名前を聞けばよかった。

そう思った頃には、もう姿は見えなくなっていた。



午後。
ゲーム同好会の部屋は、昨日以上の賑わいだった。
文化祭用に用意したのは、数人ずつでチームを組み、制限時間内にダンジョンを攻略する協力ゲーム。
暗幕を下ろした部屋にはモニターの光が浮かび、参加者の歓声が何度も響いている。

「次の方、こちらどうぞー!」

受付をしながら列の先頭へ声をかける。
そして。

「あ」

思わず声が出た。
列の先頭に立っていたのは、午前中に話した男子だった。
向こうも私へ気づく。

「あ。先輩」

「来てくれたんだ」

「ゲーム好きならって言ったから」

「嬉しい」

私は空いているパソコンへ案内する。

「操作分かる?」

「たぶん大丈夫です」

説明を終えると、彼はすぐにゲームを始めた。
その瞬間。

「あ、この子上手い」

思わず呟いてしまう。
操作に迷いがない。
マウスの動かし方も、アイテムの選び方も速い。
周囲の状況までちゃんと見ている。

「結構やってる?」

「こういうゲーム好きなんで」

少しだけ得意そうに答える。
そのときだった。

「あれ?」

隣の席から困った声が上がった。
モニターの画面が止まっている。

「動かない」

参加していた小学生が不安そうにマウスを動かす。
さらに別のパソコンでも、画面が途切れ始めた。

「ちょっと待ってね」

私は慌てて管理画面を開いた。
文化祭のために設定したサーバー。
でも細かい部分は、詳しい先輩たちにほとんど任せていた。
どこを確認すればいいのか分からない。

「なんでだろ……」

「たぶん、メモリじゃないですか」

すぐ隣から声がした。
見ると、午前中の男子がこちらのモニターを見ている。

「分かるの?」

「ログ見せてもらっていいですか?」

「う、うん」

椅子を少し横へずらす。
彼は画面を覗き込み、数秒確認した。

「やっぱり……。人数増えて負荷かかってます」

「どうすればいい?」

「ここちょっと変えて、一回再起動すればいけると思います」

指示された箇所を操作する。
止まっていたゲーム画面が動き始めた。

「あ! 直った!」

小学生が嬉しそうな声を上げる。

「すごい!」

私も思わず笑った。

「本当に助かった。ありがとう!」

「これくらい普通です」

そう言いながら、少しだけ視線を逸らした。
耳がわずかに赤くなっている。

「普通じゃないよ。私だったら絶対分からなかった」

「先輩、ゲーム好きなのにこういうの苦手なんですか」

「ゲームをやるのは好きだけど、こういう設定はちょっと……」

「想像通り」

「何それ!」

二人で笑う。
そこでようやく、午前中の続きを思い出した。

「そういえば、名前聞いてなかった」

「あ」

相手も同じことを考えていたらしい。

「私はえと」

「えと先輩」

初めて呼ばれたその響きに、少しくすぐったい気持ちになる。

「えとでいいよ。君は?」

「えとさん……。俺はゆあんです」

「ゆあんくん」

口にすると、彼は小さく頷いた。

「今日は進路の話も聞いたし、ゲームも助けてもらったし。ゆあんくんに助けてもらってばっかりだね」

「逆です」

「え?」

「俺の方が先に助けてもらったんで」

午前中より、少し表情が柔らかい。

「学校、ちゃんと見てみようって思えた」

「そっか」

その言葉が嬉しくて、自然と笑顔になる。

「じゃあ、お互いさまだね」

「だね」

ゆあんくんも笑った。



その頃。
軽音同好会の午前ステージを終えたうりは、ギターケースを肩にかけたまま廊下を歩いていた。
昨日ほど長いステージではなかったが、それでも終演後には何人もの女子に呼び止められた。

写真を頼まれたり、声をかけられたり。
以前なら、それほど気にしなかった。

けれど昨日、えとさんが嫉妬していたことを知った。

それ以来、女子との距離にはいつも以上に気をつけている。
今日は午後にゲーム同好会へ行く予定だった。
その後は、えとさんと少しだけ文化祭を回る。

昨日の帰り際に交わした約束。
朝から楽しみにしていた。

「そろそろかな」

時計を確認し、ゲーム同好会の部屋へ向かう。
廊下を進むにつれ、ゲーム音と人の声が聞こえてくる。
扉の前まで来たところで。

えとさんの笑い声が聞こえて自然と口元が緩む。

扉を開ける。

「お疲れ――」

言い切る前に声が止まった。

えとさんがいる。
その隣に。
知らない奴がいた。
見慣れない制服。
高校生ではない?
でも中学生にしては背が高く、顔つきもずいぶん大人びている。

赤みのある黒髪。
低い声。

二人は一つの画面を覗き込みながら、楽しそうに話していた。

「ここ、設定変えた方がいいよ」

「本当だ。全然知らなかった」

「えとさん、ゲームやる割に本当に苦手なんだね」

「ゲーム好きと機械に強いは別なの」

「じゃあまた不具合出たら呼んでよ」

「でも、ゆあんくん今日しかいないじゃん」

「俺がこの学校入ればいいでしょ」


俺の足が止まった。
えとさんは冗談だと思ったのだろう。
楽しそうに笑う。

「じゃあ、ちゃんと合格しないとね」

「するよ。待ってて。」

即答。
迷いがない。
何でもない会話。
まだ中学生だ。
受験するかどうかさえ決まっていない。
それなのに。

胸の奥に、妙な違和感が走った。

ヒロを見たときとは違う。
文化祭にえとさんを誘おうとしていた男子たちとも違う。
うまく違いが説明できない。

ただ。

目の前の男が、えとさんを見る目。
それが妙に引っかかった。
まだ恋と呼べるほどの感情ではないのかもしれない。
本人だって気づいていないだろう。

けれど。

――こいつ、なんか嫌だな。

うりは初めて、そんな直感を覚えた。

「あ、うり先輩!」

ようやくえとさんが気づく。
その瞬間、表情がぱっと明るくなったので少し安心する。

「お疲れさまです。ステージ終わったんですね」

「ああ」

いつも通りに笑う。
学校では、先輩と後輩。
昨日、二人きりでどんな話をしたのかなんて、誰も知らない。

「そちらは?」

なるべく自然に尋ねる。

「あ、ゆあんくんです」

えとさんが嬉しそうに紹介する。

「中学三年生で、この学校を受けるか悩んでるんだって。午前中に偶然会って」

午前中?

「それでさっき、ゲームの不具合まで直してくれたんですよ」

「へえ」

俺はゆあんを見る。
ゆあんもこちらを見る。
数秒。
視線がぶつかる。

「助かった。ありがとう」

「別に」

短い返事。
ゆあんくんと紹介された彼は俺を見てから、えとさんへ視線を戻す。

「えとさんの先輩?」

その問いに、ほんの少し胸が痛む。
先輩。
それだけ。
本当は違う。
でも学校では、それ以上のことを言えない。

「ゲーム同好会の先輩だよ」

えとさんが答える。

「いつもすごくお世話になってるの」

間違ってはいない。
だけど、物足りない。
昨日、自分の周りに集まる女子を見て、えとさんも同じような気持ちを味わったのだろうか。

「そうなんだ」

ゆあんくんが小さく頷く。
その視線が、一瞬だけ自分とえとさんの間を行き来した。
何かを探るような目だった。
胸の中にあった違和感が、少しだけ輪郭を持つ。

この男は、鈍くない。
周囲をよく見ている。
そして。

一度興味を持ったものから、簡単には目を逸らさない。

「ゆあんくん、学校のことで何か分からないことあったら聞いてね」

えとさんが言う。

「私で分かることなら――」

「えとさん」

気づけば声を挟んでいた。
二人がこちらを見る。

「そろそろ時間」

「あっ」

えとさんが時計を見る。

「本当だ。ごめんなさい」

「時間?」

ゆあんくんが尋ねる。

「文化祭、回る約束してたの」

誰と。
それは言わない。
言えない。

「じゃあ、行こうか」

「はい」

えとさんが荷物をまとめる。
ゆあんくんへ向き直り、笑った。

「今日は本当にありがとう」

「はい」

「受験、頑張ってね」

「頑張ります」

一度言葉を切る。
そしてゆあんくんは、えとさんをまっすぐ見た。

「春に来るから」

「うん。待ってる」

胸がざわつく。
ただの挨拶だ。
文化祭で知り合った中学生へ、先輩がかける普通の言葉。

でも。

――また来る。

もし、この学校へ合格したら。

来年。
ゆあんくんは一年生。
えとさんは二年生。
同じゲーム好き。

今日だけですでに、進路の相談までして、ゲームを一緒に触って、名前で呼び合っている。

早すぎる。

そんなことを思った自分に、内心で苦笑した。
まだ何も始まっていない。
相手は中学生。
なのに。
廊下へ出てから、もう一度だけ振り返った。

ゲーム同好会の扉の奥。

ゆあんくんがこちらを見ていた。

目が合う。

逸らさない。

敵意があるわけではない。
挑発しているわけでもない。
ただ静かに、こちらを見ている。
その目を見た瞬間確信した。

――こいつは、本気でまずい。

ヒロに感じたのは嫉妬だった。
知らないところで、えとさんと仲良くしている男子への警戒。
他の男子に感じたのは独占欲だった。
彼女に近づくな、と思う単純な感情。

でも。

ゆあんくんへ向けたものは違う。
もっと長い時間の先を見せられたような、嫌な予感。
今はまだ年下で。
今はまだ名前を知っただけで。
今はまだ、えとさんへの気持ちが何なのか本人も分かっていない。

けれど。

来年。

その先。

この少年は、きっとえとさんのすぐ近くまで来る。

なぜかそう思った。

「うり先輩?」

先を歩いていたえとさんが振り返る。
窓から差し込む午後の光が、オレンジ色の長い髪を照らしていた。

「どうしたんですか?」

「……いや」

何でもない。そう言おうとして、やめる。
昨日。
嫉妬を隠したえとさんへ、自分は言った。
信じていても嫉妬する、と。
だから今、自分の胸に生まれた感情も否定するつもりはない。

ただ。

この場で言うわけにはいかなかった。

「人多いから、はぐれんなよ」

「子どもじゃないですよ」

「知ってる」

「それに、うり先輩の方が目立つから見失わないです」

昨日のステージを思い出したのか、えとさんが少しだけ頬を膨らませる。
その顔を見て、俺はようやく笑った。

「まだそれ気にしてんの?」

「……少しだけ」

小さな声。
可愛い。
そう思うと同時に、胸が締めつけられる。
学校では手を繋げない。
肩を抱くこともできない。
恋人だと誰かへ示すこともできない。

だけど。

数歩後ろでこちらを見ていたゆあんくんの視線を思い出す。

「じゃあ、人少ないとこから回ろう」

「何で?」

「いいから」

「変なの」

笑いながら歩き出すえとさん。
俺はその隣へ並ぶ。
肩が触れそうな距離。
それ以上は近づけない。

文化祭二日目。

えとさんは、ただ進路に迷っている中学生へ声をかけただけだった。
ゆあんくんは、偶然出会った一人の先輩に優しくしてもらっただけだった。

まだ、誰も何も知らない。始まってもいない。

それでも。
その日。
 
ゆあんくんは、この学校へ来たいと思う理由を一つ増やした。

そしてうりだけが。
二人の間に生まれた小さな糸を、本能のように感じ取っていた。

――あいつは、きっと来る。ここへ。

根拠なんてない。
それでも、その予感だけはなぜか消えてくれなかった。
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