学生編

文化祭初日の朝。

校門へ続く坂道は、普段とは違う華やかな空気に包まれていた。
色紙で作られた花やリボンが正門のアーチを飾り、風が吹くたびに細かな影を地面へ落としている。校舎の窓には色とりどりの看板が並び、開場前だというのに、準備を急ぐ生徒たちの声があちこちから響いていた。

私は昇降口の前で一度立ち止まり、大きく息を吸った。

今日のために、髪はいつもより高い位置で一つにまとめている。文化祭だから毛先もいつもより丁寧に整えてきた。

のあさんから借りた小さな髪飾りが、耳の後ろでかすかに揺れる。

鏡を見たときは悪くないと思えたのに、大勢の生徒の中へ入ると急に自信がなくなってしまう。

「やっぱり、私にしては少し頑張りすぎたかな……」

髪へ触れながらつぶやいたとき、背後から柔らかな声がした。

「そんなことありませんよ」

振り返ると、肩までのピンク色の髪を揺らしながら、のあさんが歩いてきた。

今日はクラスの出し物に合わせたエプロン姿で、胸元には手作りの名札がついている。いつも以上に優しいお姉さんのように見えた。

「えとさん、その髪型とても似合っています」

「本当?」

「はい。とっても可愛いです」

まっすぐ言われ、頬が熱くなる。
けれど、以前のようにすぐ否定することはしなかった。
自分磨きを始めてから、褒められた言葉を素直に受け取ることも練習している。

「……ありがとう」

そう答えると、のあさんは満足そうに笑った。

「今日はうり先輩のステージもありますしね」

「えっ」

突然名前を出され、声が裏返る。
のあさんは私とうり先輩が付き合っていることを知らない。だから今の言葉にも深い意味はないはずだ。

「軽音同好会のステージ、学校中で話題になっていますよ。えとさんも見に行くんでしょう?」

「う、うん。ゲーム同好会の当番が終わったら」

なるべく平静を装って答える。
本当は何日も前から楽しみにしていた。
うり先輩が歌っているところは、以前にも音楽室の外から見たことがある。

けれど、恋人になってから大勢の人の前で演奏するのを見るのは初めてだった。

学校では、私たちはただの先輩と後輩。
それを願ったのは私自信。
ステージに立つうり先輩をどんな顔で見ればいいのか、今から分からなくなりそうだった。

 



 

文化祭が始まると、校舎はあっという間に人で溢れた。

私のクラスは手作りの迷路を出していた。

教室の窓を暗幕で覆い、段ボールで作った壁を組み立て、その中にクイズや仕掛けを置いている。

午前中は受付を担当し、次々と訪れる人たちへ説明をした。

「二名様ですね。中で道が分かれるので、同じチームなら離れないように気をつけてください」

以前なら、大勢の知らない人を前にするだけで声が小さくなっていた。
けれど今日は、相手の顔を見て笑える。
案内を終えるたびに少しずつ緊張がほどけ、気がつけば同じクラスの男子からも「受付向いてるじゃん」と笑われていた。

「えとさん、午後も受付やってくれない?」

「午後は同好会の当番があるから、ごめん」

「そっか。じゃあ終わったら一緒に回らない?」

「のあさんと約束してるの」

「二人で?」

「うん」

男子は少し残念そうに笑い、自分の持ち場へ戻っていった。
その背中を見送りながら首をかしげる。
先ほどから似たようなやりとりを何度かしている。
文化祭を誰かと回るのは、そんなに大切なことなのだろうか。

「えとさん」

隣で受付表を整理していたのあさんが、意味ありげにこちらを見ている。

「何?」

「いえ。相変わらずだなと思いまして」

「何が?」

「なんでもありません」

のあさんは小さく笑うだけで、理由を教えてくれなかった。

 



 

午後一時。

中庭の特設ステージの前には、開始前から大勢の生徒が集まっていた。
簡易的に組まれたステージの両側には大きなスピーカーが置かれ、その前を実行委員たちが慌ただしく行き来している。
校舎の壁や木々に囲まれた中庭には、秋のやわらかな日差しが降り注いでいた。
私はのあさんと一緒に、人の列の後ろへ並んだ。

「すごい人ですね」

のあさんが辺りを見回す。

「うん……」

ステージの周りに集まっているのは、軽音同好会の演奏を楽しみにしている人だけではないようだった。
前列には女子生徒が多い。
二年生や三年生だけでなく、一年生や他校の制服を着た女子までいる。友達同士で顔を寄せ合い、楽しそうに話していた。

「うり先輩、今日ボーカルもやるんだよね?」

「昨日のリハーサル見た子が、めちゃくちゃ格好よかったって言ってた」

「写真撮ってもいいのかな」

「演奏終わったら一緒に撮ってもらおうよ」

あちこちから聞こえる名前に、胸の奥がざわついた。
うり先輩が人気者であることは知っていた。
廊下ですれ違えば女子が振り返っているのは今でも同じ。
告白されることも多いという噂だって、何度も耳にしている。

それでも、付き合い始めてからは、その事実をどこか遠くへ追いやっていたのかもしれない。
二人きりのときのうり先輩は、私の言葉一つで笑い、名前を呼んだだけで嬉しそうにしてくれる。
初めてのデートでは、私の歩幅に合わせて歩き、手を繋いでくれた。

けれど今からステージに立つのは、私だけが知っている恋人ではない。
学校中の人が憧れる、華やかなうり先輩だ。

「えとさん、大丈夫ですか?」

「え?」

「少し顔色が悪いような」

「人が多いから、ちょっと緊張してるだけ」

嘘ではなかった。
ただ、緊張の理由が人混みだけではないことは言えなかった。
やがて、スピーカーから文化祭実行委員の声が流れる。

歓声が大きくなり、中庭の空気が一気に熱を帯びた。

トップバッターの軽音同好会のメンバーが一人ずつステージへ上がってくる。
最後に姿を現したのは、栗色の髪を揺らすうり先輩だった。
その瞬間、周囲からひときわ大きな歓声が上がった。

私は思わず息を呑む。
いつもの制服姿ではない。

黒いシャツの袖を肘までまくり、細身のパンツに、肩からギターを下げている。首元には細いアクセサリーが光り、秋風が栗色の前髪を揺らしていた。

ステージの中央へ立っただけで、そこにある空気が変わる。

「今日は来てくれてありがとう!」

マイクを通した声が中庭に響く。
うり先輩が笑うと、客席からまた歓声が上がった。

「うり先輩ー!」

「格好いい!」

あちこちから名前を呼ばれる。
うり先輩は照れたように笑い、軽く手を振った。
その姿があまりにも遠く感じられ、胸の奥が縮む。

私が初めて好きになった人。
私のことを好きだと言ってくれた人。
それなのに、まるであそこにいるのは初めて見る人のようだった。

ドラムのカウントが鳴り、演奏が始まる。
うり先輩の指が、迷いなくギターの弦を滑った。
鋭く澄んだ音が鳴り響き、ベースとドラムが重なる。前奏だけで客席の熱が一段と高まった。

そして、うり先輩が歌い始める。

高すぎず、低すぎない声。
強さがありながらも、耳に触れる響きはやわらかい。

以前、音楽室の前で聴いたときにも思った。

誰か一人へ語りかけているようでありながら、その場にいる人を包み込む声だ。

目を離すことができなかった。
ギターを弾く指。
リズムに合わせて小さく揺れる身体。
演奏の合間、メンバーと視線を交わして笑う表情。
どれもうり先輩への気持ちを上書きしていく。

けれど同時に、周りから聞こえる黄色い歓声が、細い棘のように心へ刺さった。

「みんなが言うように、本当に格好いいですね」

隣でのあさんが感心したようにつぶやく。

「……うん」

「えとさん?」

「ううん。何でもない」

笑おうとしたけれど、うまくできた自信はなかった。
二曲目が終わる。
額にうっすら汗を浮かべたうり先輩が、飲み物を口にする。
その何気ない仕草にまで歓声が上がった。
前列の女子たちは、名前を書いたうちわのようなものまで持っている。
 
——そこまで人気だったんだ。
 
わかっていたはずなのに。
私は何も知らなかったのかもしれない。

ステージ上のうり先輩がふと客席を見渡した。
その視線がこちらへ向いた気がした。
うり先輩の表情が、ほんの少しやわらかくなる。
それはきっと、周囲には分からないほど小さな変化だった。

私を見つけてくれたきがして、そのことが嬉しくて、胸の奥に広がっていた黒い感情が少しだけ薄れる。

それでもすぐに、前の方にいた女子が大きく手を振った。
うり先輩はそちらへも同じように笑って手を振り返す。
分かっている。

ステージに立っているのだから当然だ。

私だけを特別扱いできるはずがない。
まして、付き合っていることは秘密なのだから。
私が望んだことなのに。それなのに。

胸の中に生まれた小さな痛みは、どうしても消えてくれなかった。

 



 

演奏が終わると、会場は大きな拍手に包まれた。
うり先輩たちが頭を下げ、ステージを降りる。
私ものあさんと一緒に拍手を送りながら、どこか落ち着かない気持ちでその姿を見つめていた。

「見に来られて良かったですね」

「うん。すごかった」

「うり先輩、やっぱり人気者ですね」

悪気のない言葉が、胸の奥へ重く落ちる。

「そうだね」

ようやくそれだけ答えた。
演奏後のうり先輩へ駆け寄り声をかけたかった。

お疲れさま。
格好よかった。
歌もギターも、すごく良かった。

伝えたい言葉はいくつもあった。

けれど、ステージの裏手へ向かったうり先輩の周りには、すぐに大勢の女子生徒が集まった。

「うり先輩、写真撮ってください!」

「今日の演奏、すごく良かったです」

「差し入れ持ってきました」

「午後、一緒に文化祭回りませんか?」

色とりどりの制服やクラスTシャツに囲まれ、栗色の髪が見え隠れする。
うり先輩は困ったように笑いながらも、一人ひとりへ丁寧に応えていた。
写真を頼まれれば並び、差し入れを渡されれば礼を言う。
誰に対しても気さくで、優しい。
それが、うり先輩の良いところだと知っている。

知っているのに。

一人の女子生徒が、写真を撮るためにうり先輩のすぐ隣へ立った。
肩が触れそうなくらい近い。
さらに別の女子が、髪型を直すふりをしてうり先輩の前髪へ手を伸ばした。

「汗でちょっと崩れてますよ」

「ああ、大丈夫。ありがと」

うり先輩は軽く身体を引いて避けた。
その仕草に少し安心したものの、女子は気にした様子もなく笑っている。

「えとさん」

のあさんに呼ばれ、我に返る。
知らないうちに、手の中の文化祭パンフレットを強く握りしめていた。
紙の端が、指の形に合わせて歪んでいる。

「どうしました?」

「……何でもないよ」

また同じ言葉で誤魔化す。
けれど、喉の奥が苦しかった。
あの人は私の恋人なのに。
そんな言葉が浮かび、自分で驚く。

学校では秘密にしたいとお願いしたのは私だ。
うり先輩は、その気持ちを尊重してくれた。
誰かに知られるのが怖い。
釣り合わないと思われるのが怖い。
だから隠したいと言った。

それなのに、こうしてほかの女子に囲まれる姿を見ていると、今すぐ駆け寄って、その隣に立ちたくなる。

私の恋人です。

そう言えたら、どれだけ楽だろう。
けれど実際には、足が動かなかった。

「のあさん。そろそろ戻ろうか」

「うり先輩に挨拶しなくていいんですか?」

「人がたくさんいるし。あとで同好会でも会えるから」

声が少しだけ震えた。
のあさんは私の顔をじっと見たあと、それ以上何も聞かなかった。

「分かりました」

二人でステージから離れる。
歩き出してからも、背後の笑い声が耳について離れなかった。
振り返りたくない。
でも、気になる。

結局、校舎へ入る直前に一度だけ振り返った。

うり先輩は、まだ女子生徒たちに囲まれていた。
その中の一人が何かを言い、うり先輩が声を上げて笑う。
私の知らないところでも、あんなふうに笑うんだ。

当然のことなのに、胸が痛んだ。

うり先輩が教室でヒロくんと話している私を見たときも、同じような気持ちだったのだろうか。

少し前、放課後のゲーム同好会で、嫉妬したと正直に話してくれたうり先輩。
あのときの私は、うり先輩がなぜそこまで不安になるのか、完全には理解できていなかった。

自分は何もしていない。

ただ友達と話していただけ。

そう思っていた。

けれど今なら、少し分かる。
相手を信じていることと、嫉妬しないことは違う。
好きだからこそ、自分の知らない笑顔が気になる。
自分以外の人が近づくと、胸がざわつく。
誰にも渡したくないと思ってしまう。

「……私も、勝手だな」

小さなつぶやきは、文化祭の喧騒へ紛れて消えた。

 



 

ゲーム同好会の当番を終えた頃には、窓の外が淡い夕暮れ色に染まり始めていた。
一日目の一般公開は終了し、来場者たちが校門へ向かっている。
廊下には片づけをする生徒たちの声が響き、午前中の浮き足立った空気も少しずつ落ち着きを取り戻していた。

私はパソコンの電源を落とし、机の上を片づける。

うり先輩はまだ来ていない。
軽音同好会の撤収に時間がかかっているのだろう。
今日は一緒に帰れるかもしれないといっていた。

けれど今は、会いたいのか、会いたくないのか、自分でも分からなかった。

格好よかったと伝えたい。

でも、女子生徒たちに囲まれていたことを思い出すと、素直に笑える気がしない。

「えとさん、もう帰る?」

部員に声をかけられる。

「ううん。ちょっと待ってる」

「誰かと約束?」

「……そんな感じ」

曖昧に答えると、相手は後ろ髪を引かれるように部屋を出ていった。
最後の部員が帰り、室内が静かになる。
窓の外から、文化祭の片づけを促す放送が流れていた。
私は一人で椅子に座り、膝の上へ手を重ねる。

やがて、廊下から足音が近づいてきた。

「お疲れ」

栗色の髪が見えると胸が大きく鳴る。
うり先輩はステージ衣装から制服へ着替えていた。
それでも髪には演奏後の名残が少し残り、いつもよりしっかりと固められていたヘアセットが乱れている。

肩にはギターケース。

もう片方の手には、女子生徒たちから受け取ったらしい袋や小さな包みをいくつも持っていた。
それを見て胸の奥がまたちくりと痛んだ。

「お疲れさまです」

なるべく普通の声で言ったつもりだった。
うり先輩は私を見て、少しだけ眉を寄せた。

「どうした?」

「何がですか?」

「なんか元気なくない?」

「そんなことないですよ」

否定して、視線を机へ落とす。
うり先輩はギターケースを壁へ立てかけ、荷物を机の上に置いた。

「ステージ、見に来てくれてたよね」

「はい」

「どうだった?」

「すごく格好よかったです」

それは本心だった。
けれど、自分の声が思っていたよりも強張っている。
うり先輩はすぐに気づいたらしい。

「……ほんとに?」

「本当です」

「じゃあ、なんでこっち見ないの?」

答えられない。
黙っていると、うり先輩が私の隣の椅子へ腰を下ろした。
ふわりと、いつもの香りにステージの熱が少し混ざったような匂いがした。

「えとさん」

優しく名前を呼ばれ、胸の奥がますます苦しくなる。
責める権利なんてない。
うり先輩は何も悪くない。
分かっているのに、顔を上げられなかった。

「……人気者なんですね」

ようやくこぼれたのは、そんな言葉だった。

「え?」

「ステージのあと、たくさんの女の子に囲まれてたから」

口にしてしまった瞬間、恥ずかしくなる。
こんな言い方では、まるで責めているみたいだ。

「ごめんなさい。別に、何でも――」

「もしかして」

うり先輩の声が少しだけ弾んだ。
恐る恐る顔を上げると彼は驚いたような、でもどこか嬉しそうな顔で私を見ていた。

「嫉妬した?「……してません」

反射的に被せるように否定した。
けれど、うり先輩は納得していない。

「ほんと?」

「本当です」

「じゃあ、なんでそんな顔してるの」

「どんな顔?」

「俺がこの前してたみたいな顔」

その言葉に何も返せなくなる。
やっぱり気づかれている。
うり先輩はふざけて笑わなかった。
ただ、少し安心したように息を吐く。

「そっか」

「何が?」

「俺ばっかりじゃなかったんだなって」

その声は、嬉しそうだった。

「嬉しいんですか?」

「ちょっとだけ」

「私は嫌だったのに」

口から出た言葉に、自分自身が一番驚いた。
敬語が消えている。
うり先輩も気づいたらしく、目をわずかに見開いた。

「何が嫌だった?」

優しく続きを促されると、私は途端にこの場から逃げたくなった。
けれど、うり先輩は以前、恥ずかしい気持ちを隠さず私に伝えてくれた。
今度は私が話さなければいけない気がした。

「女の子たちが、うりに近づくの」

学校の中で初めて、先輩をつけずに呼んだ。
誰もいない部屋だからできたことだったのかもしれない。
するとうり先輩の表情が、彼氏の顔になりやわらかくほどける。

「うりが格好いいのは知ってた。人気があることも。でも、あんなにたくさんの人が見てて、名前を呼んでて……」

言葉にするほど、胸に押し込めていた感情が蘇る。

「演奏が終わったあとも、みんなすごく近くて。写真を撮ったり、髪に触ろうとしたりして」

「触らせてないよ」

「分かってる」

「一緒に回ろうって誘われたけど、全部断った」

「……それも分かってる」

本当は、離れたところからすべて見ていた。
うり先輩が必要以上に近づこうとする女子から、さりげなく距離を取っていたことも。
誘いを笑って断っていたことも。
それでも嫌だった。

「分かってるけど、嫌だったの」

素直に言うと、うり先輩は少しだけ困ったように笑った。

「ごめん」

「うりは悪くない」

「でも、嫌な思いさせた」

うり先輩は机の上の包みへ目を向ける。

「これも全部、部員みんな宛ての差し入れか、演奏のお礼。個人的にもらったものは受け取ってない」

「そうなの?」

「うん。変に期待させるのも嫌だから」

知らなかった。
袋がいくつもあるのを見ただけで、勝手に全部女子からの贈り物だと思ってしまった。

「……私、嫌な彼女だね」

「なんで?」

「うりを信じてないみたい」

「信じてても嫉妬はするよ」

少し前、うり先輩自身が口にした言葉と同じだった。

「俺だって、えとさんがほかの男と話してるだけで嫌になるし」

「そうだったね」

「むしろ、不謹慎かもしれないけど嬉しかった」

うり先輩は照れたように頬をかく。

「えとさんは俺が誰と話してても気にしないのかと思ってたから」

「そんなわけない」

思わず強く言う。
うり先輩の目が丸くなった。

「ステージを見て、改めて格好いいと思った。みんなが好きになるのも分かったし……だから、怖くなったの」

「怖い?」

「私より可愛い人も、きれいな人もたくさんいるから」

胸の奥に隠していた不安が、静かな部屋へこぼれ落ちる。
自分磨きを始めて、少しずつ変わってきたつもりだった。
それでも、うり先輩の周りにいる華やかな女子たちを見た瞬間、元の自信のない自分へ戻ってしまった。

「いつか、私より素敵な人を好きになるんじゃないかって」

「ならない」

間を置かず返ってきた。
顔を上げると、うり先輩はまっすぐ私を見ていた。

「可愛い人が何人いようと関係ない」

「でも――」

「俺が好きなのは、えとさんだから」

迷いのない声だった。

「ゲームの話をするとすぐ夢中になるところも、自分のことになると急に鈍くなるところも、最近ちょっとずつ自信を持とうと頑張ってるところも。全部含めて好きになった」

胸が熱くなる。

「ステージの上でも、えとさんがいるのすぐ分かったよ」

「本当に?」

「うん。髪型もいつもと違ったし」

うり先輩は私の小さな変化に気づいていた。
大勢の人が見ている中で、ちゃんと見つけてくれた。

「目が合ったとき、笑ったでしょ」

「あれ、私にだったの?」

「ほかに誰がいるの」

うり先輩は呆れたように笑う。

「でも、そのあと別の女の子にも手を振ってた」

「パフォーマンスだから……それは許して」

「……分かってる」

自分でも子どもっぽいと思いながら言うと、うり先輩が声を立てて笑った。

「笑わないで」

「ごめん。えとさんが可愛くて」

「もう」

顔が熱くなる。
けれど、さっきまで胸を覆っていた重苦しさは、少しずつ消えていた。
うり先輩は閉じた扉を確認し、それから机の下でそっと手を差し出した。
学校では、人前で繋ぐことのできない手。
私は少しだけためらったあと、その上に自分の手を重ねる。
指が絡み、優しく握られた。

「本当はさ」

うり先輩が小さくつぶやく。

「演奏が終わったら、最初にえとさんの感想聞きたかった」

「でも、女の子たちに囲まれてた」

「俺も早く抜けたかったんだよ」

「楽しそうに笑ってたけど」

「引きつってなかった?」

「全然。すごく楽しそうだった」

困ったように笑ううり先輩を見て、ようやく私も笑えた。

「格好よかったよ」

今度は、きちんと目を見て伝える。

「歌も、ギターも。本当にすごかった」

「ありがとう」

うり先輩の指に少しだけ力がこもる。

「でも、少し格好よすぎた」

「それ褒めてる?」

「褒めてるけど、複雑」

「じゃあ次から、ちょっと格好悪く演奏する?」

「それは嫌」

「難しいなぁ」

二人で小さく笑う。
窓の外では、夕暮れの光が校舎を淡い橙色に染めていた。
文化祭初日の賑わいは、少しずつ遠ざかっている。

「明日もステージあるんですよね」

「明日は午前中だけ。午後はゲーム同好会にも行くよ」

「私も午後は同好会の当番」

「じゃあ、そのあと一緒に回ろう」

「うん」

明日もまた、学校の中では先輩と後輩を演じる。
人前で手を繋ぐことも、恋人だと名乗ることもできない。
きっと今日のように、うり先輩へ近づく女子を見て、胸がざわつくこともあるだろう。

それでも。

今、重ねた手の温もりは、私だけが知っている。
大勢の歓声を浴びるうり先輩が、誰にも見えないところで私の名前を呼び、私の言葉を待ってくれている。
そのことが、少しだけ自信をくれた。

文化祭初日。
私は改めて、うり先輩がどれほど魅力的な人なのかを知った。
そして同時に。

誰かを好きになることは、温かい気持ちだけではないのだと知った。
胸の奥が狭くなるような嫉妬も。
誰にも渡したくないという、自分勝手な願いも。
その人を大切に思う気持ちから生まれる。

初めて覚えたその感情を、私はまだうまく扱えない。

けれど、繋いだ手を握り返すと、うり先輩も同じ強さで応えてくれた。
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