学生編

最近、えとさんの周りに人が増えた。

最初は、ただの偶然だと思っていた。

昼休みに教室の前を通れば、窓際の席で白い髪の男子とゲームの話をしているのをよく見かけた。名前はたしか、ヒロ。
クラスの女子が騒いでいた。学年が違うけどサッカー部のエースで整った顔立ちから王子様なんて呼ばれている、えとさんと同じクラスの男子だ。

以前から仲が良かったらしい。
えとさんが俺の彼女になる前にクラスに自分と同じくらいのゲームが好きな男子がいると聞いたことがあったけど、それを知ったところで、俺が口を挟めることではない。

学校にいる間、俺たちはあくまでゲーム同好会の先輩と後輩だ。
付き合っていることを隠したいと言ったのはえとさんで、俺はそれを受け入れた。
後悔はしていない。
えとさんが安心して学校生活を送れるなら、それでいいと思っている。



 
――思っていた、はずなのに。


 
「うり、聞いてる?」

隣から声をかけられ、俺は窓の外へ向けていた視線を慌てて戻した。

昼休みの二年生の教室。
机の上には、文化祭のステージ企画について書かれた資料が広がっている。軽音同好会で演奏する曲を決めるために集まっていたのだが、話し合いはほとんど頭に入っていなかった。

「ごめん。どこまで話した?」

「サビの前にギターソロ入れるかって話。というか、さっきから一年の教室の方ばっか見てない?」

「……別に見てないけど」

そう答えながら、俺は無意識に閉じられた窓へ目を向ける。
ここから一年生の教室の中が見えるわけでもない。
それなのに、つい意識して目で追ってしまう。

「ふうん?」

からかうような軽音仲間の視線を無視し、資料へ目を落とした。

最近のえとさんは、少し変わった。

長いオレンジ色の髪は以前よりも艶やかに見えるし、前髪も丁寧に整えられている。制服の着こなしが大きく変わったわけではないのに、廊下を歩く姿が不思議と目を引くようになった。

けれど、一番変わったのは外見ではない。

誰かに話しかけられたとき、以前ほど慌てなくなった。
目を合わせて、柔らかく笑うようになった。
好きなことを話しているときだけでなく、普段から表情が明るくなった気がする。

えとさん自身が少しずつ顔を上げるようになったことで、今まで彼女の魅力に気づいていなかった周囲も、ようやくその存在を見つけ始めた……気がする。

もちろん、それは嬉しい。

えとさんが自信を持ち始めたことも、友達が増えたことも。

俺の言葉だけでは届かなかったものを、自分の力で少しずつ手に入れようとしている。
本当なら、誰より近くで応援したい。
けれど……。

 
「一年のえとちゃん、今日も囲まれてたな」

 
不意に聞こえた言葉に、俺の手が止まった。
教室の後ろで、一年生の女子をネタにした話をしている男子たちがいる。

「オレンジ色のロングの髪の子だろ? 最近ちょっと目を引くよな」
「前から可愛かったけど、あんまり目立たなかっただけじゃね?」
「オレ文化祭、一緒に回れないか聞いてみようかな——」
「お前じゃ無理だよ!」

ワハハと笑い合うクラスメイトの話題が嫌でも耳に入る。
握っていたシャープペンシルに、無意識に力が入る。

カチ、と芯が折れた。

「……うり?」

「あ、ごめん」

手元へ目を落とし、折れた芯を払い落とす。
何を苛立っているんだ。

えとさんが褒められただけだ。

別に誰がどう思おうと、えとさんが俺の彼女であることは変わらない。
文化祭に誘おうが、告白しようが。
えとさんはきっと断る——。

……たぶん。

そこまで考えて、自分で嫌になる。
疑っているわけじゃない。

それでも、俺たちが付き合っていることを誰も知らないという事実が、急に重く感じられた。

彼氏なのに、彼氏だと言えない。
隣に立ちたいのに、みんなの前では特別扱いできない。
誰かがえとさんに近づいても、ただの先輩である俺には止める理由がない。

秘密にすると決めたとき、そこまで考えていなかったわけではない。
ただ実際に目の前でその想像が現実で起こりそうになると、想像していたよりずっと苦しかった。

 



 

放課後、ゲーム同好会の部屋はいつもより賑わっていた。
文化祭で行う企画の準備が始まったからなのか普段は活動に来ない部員まで顔を出している。

俺は壁際の椅子に座り、ゲーム同好会メンバーで作成しているゲーム実況動画をパソコンの画面で作業用のデータを確認していた。

扉が開く。

「お疲れさまです」

聞き慣れた声とともに、長いオレンジ色の髪が視界に入った。

えとさんだ。

視線が自然とそちらへ向かう。
えとさんは俺と一瞬だけ目を合わせ、小さく微笑んだ。
学校の中で交わせる、二人だけの合図。
その笑顔を見て、最近、胸の中に溜まっていたものが少しだけほどける。

「えとさん、お疲れ」

なるべくいつも通りに返す。
俺の隣の椅子は空いている。
いつものように、そこへ来ると思っていた。

けれど、えとさんがこちらへ歩き出すより先に、一年生の男子が彼女へ声をかけた。

「えとさん、ちょっといい?」

「あ、うん。どうしたの?」

見覚えはある。
最近、企画の準備で同好会へ出入りするようになった一年生だ。これまでの活動にはあまり参加してこなかった部員だが文化祭の準備が始まったから活動に参加しているらしい。
男は大きな画用紙を広げ、えとさんに見せた。

「ここのタイトル、字がうまく書けなくて。えとさん、お願いできない?」

「私でいいの?」

「えとさんの字、きれいだから」

「そんなことないよ」

そう言いながらも、えとさんは素直に画用紙を受け取った。
男が机を片づけ、隣の席を引く。
えとさんはそこへ腰を下ろし、ペンを手に取った。

俺の隣ではなく。

別に、席くらいどうでもいいけど
用事があるのだから仕方ないけど

そう思って画面へ視線を戻したが、何を編集しようとしているのかがまったく頭に入ってこない。

「えとさん、髪長いから書きにくくない?」

「平気だよ。いつも結んでないし」

「今日、なんかいつもよりきれいだね」

男子の何気ない一言に、指が止まる。
えとさんはペンを持ったまま首をかしげた。

「字が?」

「字もだけど……全体的に」

「??」

「最近、雰囲気変わったよね。オレの周りも噂してるよ」

えとさんは困ったように笑った。

「のあさんにも言われたけど、自分ではあんまり分からないんよね」


2人の会話が耳に入ってくる。
えとさんはまったく分かっていない。
自分がどれだけ周囲から見られるようになったかも。
目の前の男が、必要以上に話を引き延ばしていることも。

「ねぇ、文化祭の日って、誰かと回る予定ある?」

ついに出た。
俺は画面を見つめたまま、耳だけをそちらへ向ける。

「のあさんとは一緒に回ろうって話してるけど、時間までは決めてないかな」

「じゃあ、空いてる時間があったら――」

「……えとさん!」

気づけば、声を出していた。
部屋の中の視線が、一斉にこちらへ集まる。
えとさんも驚いたように顔を上げた。

「はい?」

しまった……。
呼んではみたものの続く言葉が見つからない。
だって彼女を呼ぶ理由が"ただの先輩"の俺にはなかった。

隣に来てほしい。
その男と話すのをやめてほしい。
文化祭に誘われる前に、俺のところへ来てほしい。

どれも、ただの先輩が口にできる言葉ではない。

「……このデータ、確認してもらっていい?」

どうにか理由を作る。
えとさんは不思議そうな顔をしたものの、すぐに頷いた。

「分かりました。これを書き終わったら行きますね」

「……今、お願いできる?」

自分でも驚くほど低い声が出た。
部屋の空気が、わずかに止まった気がした。

えとさんが目を丸くする。
近くにいる男も戸惑ったように俺を見る。

やりすぎた。

分かっている。
けれど、一度こぼれた感情をすぐには引っ込められなかった。

「ごめん……急ぎなんよ」

少しだけ声を和らげて付け加える。

「えっと……じゃあ、これ、あとで続き書くね」

えとさんはペンを置き、俺の隣へやってきた。

画面を覗き込むため、髪が肩からさらりと流れる。ふわりと甘い香りがして、胸のざわつきが一瞬だけ静まった。

「どこを確認すればいいですか?」

周囲に聞こえない声で尋ねられる。

「……ごめん」

俺も小声で答えた。

「え?」

「あとで話す」

えとさんはますます分からないという顔をした。

当然だ。
確認してほしいデータなど、最初からなかったのだから。

 



 

活動が終わる頃には、窓の外は薄暗くなっていた。
文化祭前ということもあり、ほとんどの部員が最後まで残っていた。
えとさんと二人きりで話せる機会はなく、俺はもやもやした気持ちを抱えたまま片づけを続けた。

「お疲れさまでした」

最後の一人が部屋を出ていく。
廊下へ続く扉が閉まり、急に静かになった。
残ったのは、俺とえとさんだけ。

パソコンの電源が落ちる小さな音が、やけに大きく響いた。
えとさんは机の上のコードをまとめながら、ちらちらとこちらを見ている。

「うり先輩」

学校でのいつもの呼び方。

「さっきのデータって、結局どれだったんですか?」

責めるような口調ではない。
ただ本当に、分かっていないのだ。
俺は椅子の背にもたれ、深く息を吐いた。

「見てほしいデータなんてない」

「……え?」

えとさんの手が止まる。

「じゃあ、どうして呼んだんですか?」

まっすぐ尋ねられ、返事に詰まる。
ここで誤魔化すこともできた。
間違えたとか、別の資料と勘違いしたとか。

けれど、ここ最近つもりに積もった俺の中のドス黒い嫉妬心のせいで平気なふりをするのは無理だった。

「話してほしくなかったから」

「誰と?」

「さっきの男」

えとさんは何度か瞬きをした。
それからようやく意味を考え始めたように、少し眉を寄せる。

「文化祭のことを話してただけですよ?」

「分かってる」

「字を書いてほしいって頼まれて――」

「それも分かってる」

えとさんが驚いたように口を閉じる。

「ごめん」

すぐに謝り、俺は目を伏せた。
怒りたいわけではない。

悪いのはえとさんではない。
誰にでも優しく接しているだけだ。
ワザと気を引こうとしているわけじゃない。
これまでは俺しか知らなかった彼女の良さが認知され始めているだけだ。

それなのに、胸の中はちっとも落ち着かなかった。

「最近、えとさんの周りに男、多いから」

「そう……ですか?」

本気で聞き返され、思わず顔を上げた。

「気づいてないの?」

「何にですか?」

「……話しかけてくるやつ、増えただろ」

えとさんは少し考え込む。

「文化祭が近いからじゃないですか?」

「違う」

即答すると、彼女はますます困った顔になった。
本当に分かっていない。
ヒロっていう王子様みたいな奴とと教室で笑っているときも。
廊下で男子に声をかけられているときも。
さっきの男が文化祭へ誘おうとしていたときも。

全部、ただの友達との会話だと思っている。

「えとさん、最近すごく目立つようになった」

「私が?」

「きれいになったし、前よりよく笑うようになったし。話しかけやすくなったっていうか……」

言いながら、自分の言葉で改めて気づかされる。
俺が好きになったえとさんの魅力を、ほかの人たちも見つけ始めた。
それが嬉しくないわけじゃない。
けれど、同じくらい怖かったんだと…………。

「可愛くなったって、みんな言ってる」

「そんなことないです」

「ある」

「でも――」

「俺だけが知ってたのに……」

言葉がこぼれた。
えとさんが息を止める。

自分でも、何を言っているのか分からなくなっていた。

「前から可愛かった。ゲームの話になると止まらなくなるところも、驚いたときすぐ目を丸くするところも、褒められると困って下向くところも」

胸の奥に押し込めていた気持ちが、一つずつあふれていく。

「俺はずっと知ってたのに、最近になって周りも気づき始めて」

「うり先輩……?」

「誰かに取られるとは思ってない。でも、何も言えないのが嫌という気持ちが出てきて……」

静かな部屋に、自分の声だけが響く。

「俺は彼氏なのに、えとさんは俺の彼女だからって言えない。誰かがえとさんを誘っても、触ろうとしても、俺には止める理由がない」

「触られてはいませんけど……」

「たとえばの話だよ」

こんなときまで真面目に訂正するえとさんに、少しだけ力が抜けた。
それでも胸の痛みは消えない。

「学校では、ただの先輩だから」

言葉にすると、思っていた以上に寂しかった。
秘密にすることを受け入れたのは自分だ。
それを今さら責めるつもりはない。
それでも、ときどき苦いと思う気持ちは知って欲しかったし、許してほしかった。

「……嫉妬、したんですか?」

ためらいがちな声が聞こえた。
顔を上げると、えとさんは驚きと戸惑いが入り混じった表情で俺を見ていた。

「してるよ……」

隠す気力もなく、正直に答える。

「めちゃくちゃしたし、してる。」

「でも、本当に何も――」

「分かってるって」

「ヒロくんともゲームの話をしてるだけで」

「ヒロって、えとさんと同じクラスのあの白い髪の?」

つい声が低くなる。
えとさんは慌てて口を押さえた。
どうやら、余計な名前を出したと気づいたらしい。

「……ヒロくんにも嫉妬してるんですか?」

「今、追加された」

「えぇ……」

困り果てたような顔をされる。
その表情を見ていたら、張りつめていたものが少しずつ馬鹿らしくなってきた。
えとさんは何も悪くない。

誰かの好意に気づかず、好きなゲームの話をして、頼まれたことを手伝っているだけだ。

「ごめん」

もう一度謝る。

「えとさんが悪いわけじゃない。ただ俺が、思ってたより余裕なかっただけなんや」

「……私、そんなに変わりましたか?」

えとさんは自分の髪の先をつまみ、不安そうに見つめた。

「変になった?」

「逆」

俺は椅子から立ち上がり、彼女の前まで歩く。

「どんどん魅力的になってる」

えとさんの頬が、みるみる赤くなっていく。

「自信を持ってほしいって思ってた。今でも思ってる」

少し言葉を選ぶ。

「でも、本当にみんなに見つかると、それはそれで嫌だなって思った」

「勝手ですね」

「うん。勝手」

苦笑すると、えとさんもわずかに口元を緩めた。

「私が……自分を変えたいと思い始めたのは」

彼女は迷うように目を伏せる。

「うり先輩の彼女として、自信を持ちたかったからです」

胸が強く鳴った。

「だから、ほかの人にどう思われているかは、あまり気にしてなくて」

「気にしてなさすぎ」

「えぇ——そうなんですか?」

「そう」

まるで分かっていない表情に、思わず笑ってしまう。
えとさんもつられるように笑った。
部屋に残っていた緊張が、ようやく少しだけ薄れていく。

「でも、うり先輩が嫌な思いをしてるなら、少し気をつけます」

「それは違う」

俺は首を横に振る。

「えとさんが友達と話すのをやめる必要はない。俺のせいで、人を避けるようになったら意味ないから」

自信を持ち始めたえとさんを、俺の独占欲で閉じ込めたくはない。
それでも。

「ただ、ときどきは安心させて」

「どうやって?」

「二人きりのときだけでいいから」

周囲を確かめるように、閉じた扉へ目を向ける。

誰もいない。

もう学校の中とはいえ、今だけは先輩と後輩ではなくてもいいだろう。

「先輩扱い、やめて」

「……ここで?」

「誰もいないから」

えとさんは恥ずかしそうに視線を泳がせる。
初めてのデートの日、ようやく一度だけ呼んでくれた名前。

「……うり」

風に消えそうなほど小さな声だった。
それでも、胸に溜まっていた黒い感情が、不思議なくらい静かになっていく。

「もう一回」

「言わない」

「え、なんで」

「恥ずかしいから」

敬語が消えている。
それに気づいて笑うと、えとさんは頬を膨らませた。

「笑わないで」

「ごめん。でも安心した」

俺は彼女の手元へ、そっと指を伸ばした。
すぐに触れず、尋ねるように手のひらを差し出す。
えとさんは少しためらったあと、自分の手を重ねた。

学校では決してできないこと。

誰かが来れば、すぐに離さなければならない距離。
それでも今だけは、その温もりを確かめるように優しく握る。

「えとさん」

「なに?」

「文化祭、一緒に回る時間つくって」

「のあさんとも約束してるけど……」

「知ってる。空いてる時間でいい」

「うん。いいよ」

「二人で」

「分かった」

小さく笑う顔を見て、ようやく息ができたような気がした。
秘密にしている限り、きっとこれからも同じようなことはある。
えとさんの魅力に気づく人は、これからもっと増えていく。
そのたびに、俺は平気な顔をして、ただの先輩を演じなければならないのかもしれない。

たぶん、上手にはできない。

今日みたいに、余裕をなくしてしまう日もある。

それでも。

重なった手を、えとさんが小さく握り返してくれる。
その感触だけで、今は十分だった。

「そろそろ帰ろうか」

「うん」

手を離し、先に扉へ向かう。
廊下へ出れば、また先輩と後輩に戻る。
俺が扉を開けると、えとさんは一歩後ろを歩いた。

傍から見れば、ただ一緒に部屋を出ただけ。

けれど階段へ向かう途中、誰にも見えない位置で、えとさんの指先が一瞬だけ俺の指に触れた。
すぐに離れてしまうほどの、ささやかな合図。

振り返ることはできなかった。

それでも、口元が緩むのを止められない。
独占欲を表に出すことはできなくても。
彼女の心の中に、自分だけの場所がある。
今は、それを信じようと思った。
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