学生編

初めてのデートを終えた次の朝。

目を覚ました私は、枕元に置いていた白い猫のぬいぐるみと目が合った。
昨日、ゲームセンターでうりが取ってくれたものだ。

丸い瞳でこちらを見つめるその顔を眺めていると、夕暮れの公園で触れた手の温もりが鮮明によみがえってくる。

『今日、一番嬉しかったこと分かる?
 「うり」って呼んでくれたこと』

思い出した瞬間、顔に熱が集まった。

「……朝から何思い出してるんだろ。」

私は布団を鼻のあたりまで引き上げる。
恥ずかしい。
でも、昨日の私は、いつもの私より少しだけ素直になれた気がする。

敬語はなかなか抜けなかったし、名前を呼ぶだけで心臓が止まりそうになった。それでも最後には、恋人として隣を歩くことができた気がする。

ほんの少しだけ。
本当に、ほんの少しだけだけど。
うりの彼女である自分を、好きになれたような気がした。

しばらくぬいぐるみを見つめてから、私は勢いをつけてベッドを降りた。
カーテンを開けると、淡い朝の光が部屋いっぱいに差し込む。
鏡の前に立ち、オレンジ色の長い髪を丁寧に梳かした。
以前なら、寝癖さえ直せればそれでよかった。

毛先に少しだけヘアオイルをなじませる。指の間を通る髪がするりとまとまり、柔らかな香りがふわりと広がる。
前髪も、いつもより少し丁寧に整える。
ドラッグストアで買ったリップクリームを塗り、鏡の中の自分を見つめた。

見違えるほど変わったわけではない。
それでも、昨日までより少しだけ明るい顔をしているように見えた。

「……よし。」

小さく頷く。
可愛くならなければ、うりの隣にはいられない。
そんな焦りが消えたわけではない。
けれど、ただ自分を否定するだけでは何も変わらないことも、少しずつ分かってきた。

まずは、自分にできることから始めよう。
髪を丁寧に整える。
姿勢を少し伸ばす。
誰かに話しかけられたら、下を向かずに笑って答える。
小さなことばかりだけれど、昨日のデートで一歩を踏み出した私なら、もう少し頑張れる気がした。

 

※ ※ ※

 

教室の扉を開けると、いつもの朝のざわめきが迎えてくれた。
窓際では男子たちがゲームの話で盛り上がり、教室の後ろでは女子たちがスマホの画面を囲んで笑っている。

自分の席へ向かおうとしたところで、ピンク色の髪が視界に入った。

「えとさん、おはようございます」

肩までの髪を揺らしながら、のあさんがこちらへ歩いてくる。

「おはよう、のあさん」

挨拶を返すと、のあさんは一度瞬きをしたあと、私の顔をじっと見つめた。

「……なに?」

「えとさん、今日なんだか雰囲気が違いますね」

その言葉に、ドキッとする。

「えっ。変かな?」

思わず髪に触れる。
ヘアオイルをつけすぎただろうか。それとも前髪がおかしくなっているのか。
急に不安になっていると、のあさんが柔らかく笑った。

「変じゃありませんよ。すごく可愛いです」

「か、可愛い?」

「髪もきれいですし、表情もいつもより明るい気がします」

まっすぐ褒められ、頬が熱くなる。
こういう言葉には、いつまでたっても慣れない。

「最近、ちょっとだけ頑張ってて……」

「自分磨きですか?」

「うん。そんな感じ」

のあさんは親友だけどまだ恋人ができたことは話せていない。
けれど、自分を変えたいと思っていることまで隠す必要はない気がした。
のあさんは嬉しそうに目を細める。

「素敵ですね。でも、無理はしないでくださいね」

「うん」

そう答えると、のあさんは少し驚いたように目を丸くした。

「えとさん、なんだか本当に変わりましたね」

「そうかな?」

「はい。前より自信がついたように見えます」

その言葉は、まだ私には少し大きい。
けれど、以前のようにすぐ否定することはしなかった。

「……そうだったら、いいな」

自然と笑みがこぼれる。
そのとき、近くを通った同じクラスの男子と目が合った。
普段はほとんど話したことのない相手だったけれど、彼は一瞬驚いたような顔をしたあと、慌てて視線を逸らした。

何だったんだろう。

不思議に思ったものの、すぐに朝のホームルームが始まり、そのことは頭から消えていった。

 

※ ※ ※

 

それから、変化は本当に小さなところから始まった。

体育の授業で髪を高い位置で結んでいると、クラスの女子から「その髪型似合うね」と声をかけられた。

廊下でプリントを落とした男子に手渡すと、ひどく緊張した様子でお礼を言われた。

以前なら話しかけることをためらっていた相手とも、少しずつ言葉を交わせるようになった。

顔を上げて歩くようになったことで、今まで見えなかった人の表情が見えるようになった。

誰かと目が合えば、軽く笑ってみる。
困っている人がいれば、自分から声をかけてみる。

初めは意識してやっていたことも、いつの間にか自然にできるようになっていった。
そうすると、不思議なくらい周りから声をかけられることが増えた。

「えとさん、次の授業の課題ってどこだっけ?」

「今度の文化祭、何か係やらない?」

「そのゲーム、俺もやってる。よかったら今度話さない?」

休み時間になると、私の席の近くに誰かが立っていることが増えた。
特にゲームの話題になると、これまで話したことのなかった人まで会話に加わってくる。
私はただ、好きなものを好きだと言っているだけだった。
けれど、夢中になって話していると、周りの人たちも楽しそうに笑ってくれる。
その中心に自分がいることが、なんだか不思議だった。

「最近、えとさんの周り、賑やかだね」

昼休み。
白い髪を窓からの光に透かしながら、ヒロくんが穏やかに笑った。
今日も、以前おすすめしたゲームの進行状況を報告しに来てくれたらしい。

「そうかな?」

「うん。前より話しかけられてる」

ヒロくんに言われて教室を見回す。
すると、少し離れた席にいた男子たちが、こちらを見ていたことに気づいた。目が合った瞬間、何事もなかったようにそろって顔を背ける。

「……なんだろう?」

「えとさんは気づいてないんだね」

「何が?」

尋ねても、ヒロくんは小さく笑うだけだった。

「別に。えとさんらしいなって思っただけ」

「なにそれ」

むっとして返すと、ヒロくんは声を立てずに笑った。
そのやりとりを見ていたのあさんも、どこか意味ありげな表情を浮かべている。
二人とも、何かを知っているみたいだ。
けれど私が問い詰めても、のあさんは「そのうち分かりますよ」と笑うだけで、結局何も教えてくれなかった。

 

※ ※ ※

 

放課後、ゲーム同好会の部屋へ向かう途中。
階段の踊り場で、二年生の女子生徒たちとすれ違った。

「ねえ、今の子じゃない?」

「うりとよくゲームしてる一年生?」

聞こえてきた言葉に、思わず足が止まりそうになる。
けれど、振り返る勇気はなかった。
付き合っていることが知られたのだろうか。
胸が急にざわつき始める。
秘密にしようとお願いしたのは私だ。
もし知られてしまったら。
もし、釣り合わないと言われたら。

せっかく少しずつ持てるようになった自信が、一瞬で崩れてしまいそうだった。

不安を抱えたまま、同好会の扉を開ける。
部屋の中には、いつもの笑い声とゲームの音が広がっていた。
その中心に、栗色の髪が見える。

「えとさん、お疲れ」

うりがこちらに気づき、いつもと変わらない笑顔を向けてくる。
学校では、ただの先輩と後輩。
それでも、その目がほんの少しだけ優しく細められたことを、私は知っていた。

「お疲れさまです」

いつものように敬語で返す。
うりの隣の席は空いていた。
そこへ座ると、彼が周りには聞こえないほどの声で囁いた。

「髪、綺麗だね」

心臓が大きく跳ねた。

「……分かるんですか?」

「分かっているよ」

うりは当たり前のように答えた。
それから画面に視線を戻しながら、ほんの少し口元を緩める。

「似合ってる」

その一言だけで、最近重ねてきた小さな努力が、すべて報われたような気がした。
私は照れ隠しにゲーム機を起動する。

「ありがとうございます」

まだ学校では敬語。
まだみんなには秘密。

それでも、昨日までとは少し違う。

私は今、うりの隣に座っていることを、以前ほど怖いとは思わなかった。

顔を上げれば、私に笑いかけてくれる人がいる。
話しかけてくれる友達がいる。
好きなものを、好きだと言える。
そんな毎日の積み重ねが、少しずつ私を変えている。

ただ、その変化が自分の想像以上に多くの人の目を引き始めていることを、このときの私はまだ知らなかった。

けれど、隣に座るうりは、教室の前を通るたびにえとさんの周りへ集まる人影が増えていることへ、密かに気づき始めていた。
5/12ページ
スキ