学生編
目が覚めたとき、カーテンの隙間から差し込む朝の光が、部屋の床を細い帯のように照らしていた。
枕元に置いたスマホへ手を伸ばく。
七時三分。
待ち合わせは十時。
「……眠れなかったなぁ。」
昨夜は楽しみで何度も目が覚めた。
時計を見るたびにため息をついて、ようやく眠れたと思ったら、また目が覚める。その繰り返し。
うり先輩と恋人になって初めてデートすることがきまって、
デートという言葉だけで、こんなにも落ち着かなくなるなんて思わなかった。
ベッドから降りると、窓を開ける。
秋の朝の空気が頬を優しく撫でた。
夏の終わりより少しだけ冷たくて、それでもどこか心地いい風だった。
庭先の金木犀が風に揺れ、甘い香りがふわりと流れ込んでくる。
「……いい天気。」
思わず笑みがこぼれる。
今日という一日を、お天気まで応援してくれているような気がした。
クローゼットを開ける。
「どれがいいんだろう……。」
白いブラウスを合わせてみる。
いや、少し大人っぽすぎるかな。
薄い水色のワンピースも可愛いけれど、今日は少し肌寒そう。
ベージュのカーディガンを羽織ってみる。
鏡の前で何度も首を傾げる。
「……これかな。」
そう決めたはずなのに、十分後にはまた別の服を手に取っていた。数日前から同じことで悩み繰り返し、当日になっても
結局三回も着替えて、最後には最初に選んだ服へ戻ってくる。
「結局これなんだ……。」
苦笑いしながら髪を梳かす。
引き出しから、小さな瓶を取り出す。
数日前、ドラッグストアでこれまでの自分では手を出すことはなかったヘアオイル。
まだ数えるほどしか使っていない。
手のひらへ少しだけ伸ばして、毛先になじませる。
ふわりと柑橘系の香りが広がった。
鏡に映る自分を見つめる。
劇的に変わったわけじゃない。
髪が少しまとまって見える、それくらい。
そして塗ればうっすらとピンク色に色づくリップクリームを塗る。
普段は無色の唇に少し色が入るだけでお化粧をしたみたいな、変な感じがする。
それでも。
「……少しだけ、大人っぽく見えるかな。」
そう呟くと、不思議と少しだけ自信が湧いた。
誰かになるためじゃない。
うり先輩の隣で笑っていたいから。
そのために、少しだけ頑張ってみたかった。
⸻
「えと、今日は出かけるの?」
リビングへ行くと、お母さんが朝食を並べながら振り返った。
「う、うん。」
「友達?」
「……うん。」
嘘ではない。
恋人でもあるけれど。
「そう……楽しんできなさい。」
「うん!」
それだけ言われただけなのに、なんだか照れくさくなってしまう。
朝食を急いで食べ終え、時計を見る。
まだ早い。
でも家にいても落ち着かない。
「行ってきます!」
「いってらっしゃい。」
玄関を出ると、秋風がスカートを揺らした。
胸の奥で、小さな期待が弾む。
⸻
待ち合わせの駅は、休日らしい賑わいに包まれていた。
買い物へ向かう家族連れ。
楽しそうに話す学生たち。
改札からは次々と人が流れてくる。
私は約束の十分前に着いてしまった。
落ち着かなくて、時計を見てはスマホを見て、また時計を見る。
髪、大丈夫かな。
リップ浮いてないかな。
服、変じゃないかな。
そんなことばかり考えていると。
「えとさん。」
聞き馴染みのある声で名前を呼ばれた。
振り向くと、人混みの向こうから歩いてくる栗色の髪が見えた。
制服じゃない。
黒いパーカーに白いTシャツに細身のデニム。
飾らない格好なのに、自然体で格好いい。
思わず見惚れてしまう。
「お待たせ。」
柔らかな笑顔。
その笑顔を見るだけで、さっきまでの緊張が少しだけほどける。
「い、いえ……私も今来たところです。」
「ほんと?」
「……十分前です。」
正直に答えると、うり先輩は吹き出した。
「はは。えとさんらしい。」
「だって、遅れたくなかったんです。」
「俺も。」
「え?」
「三十分前には着いてた。」
「えぇ?」
「時間潰してた。」
思わず笑ってしまう。
「それじゃ、お互い様ですね。」
「だな。」
笑い合うと一気に緊張がほぐれた気がした。
⸻
駅を出て、並んで歩き始める。
休日の街は、平日とはまるで違う表情を見せていた。
カフェのテラス席。
手をつないで歩くカップル。
小さな子どもを連れた家族。
どこを見ても穏やかな時間が流れている。
「映画館まで歩こうか。」
「はい。」
二歩ほど歩いたところで。
頭上から小さく笑う声が聞こえた。
「やっぱり。」
「え?」
「敬語。」
私はきょとんとする。
うり先輩は少し照れたように頭をかきながら言った。
「学校じゃないんだからさ。」
「……?」
「今日は恋人同士だろ?」
その言葉だけで顔が熱くなる。
恋人。
改めて口にされると、まだ実感が湧かない。
「だから。」
うり先輩は少しだけ私の顔を覗き込んだ。
「あの時もお願いしたけど、
今日くらい、タメ口で話してみない?」
私は足を止めた。
頭の中が真っ白になる。
「え……。」
「無理?」
「む、無理です……!」
勢いよく答えてしまう。
うり先輩は笑った。
「ほら。」
「え?」
「また敬語。」
「あ……。」
しまった。
顔が一気に熱くなる。
「だって急にそんな変えるなんて……!」
言いかけて、私は口を押さえた。
咄嗟にでた言葉がタメ口だった。
うり先輩は目を丸くしたあと、嬉しそうに笑う。
「今の。」
「……。」
「すごく自然だった。」
「忘れてください……。」
恥ずかしくて俯くと、うり先輩はくすっと笑った。
「無理に変えんでもいいよ。」
その声は、どこまでも優しかった。
「でも。」
少しだけ照れくさそうに笑う。
「二人きりの時だけは、学校の『先輩』じゃなくて、『恋人』でいたい。」
恋人。
その響きが、こんなにも温かいものだなんて知らなかった。
私は隣を歩くうり先輩をそっと見上げる。
秋の風が栗色の髪を優しく揺らしていた。
その横顔を見つめながら、小さく息を吸う。
(……少しずつでいい。)
(今日だけは、頑張ってみよう。)
そんな決意を胸にしまいながら、私たちは映画館へ向かって歩き始めた。
⸻
映画館を出ると、秋の陽射しは少しだけ傾き始めていた。
駅前よりも人通りの少ない商店街を、えとさんと並んで歩く。
空は高く澄み渡り、金色に色づき始めた街路樹が風に揺れていた。
隣を見る。
さっき映画を観終わったばかりだというのに、えとさんはまだ余韻に浸っているみたいだった。
「……よかった。」
ぽつりと呟く声が聞こえる。
「うん。」
「最後のシーン、ずるくない?」
「泣いてたもんな」
そう聞くと、えとさんは慌てて首を横に振る。
「な、泣いてない。」
「ほんと?」
「……ちょっとだけ。」
照れくさそうに笑う。
その笑顔を見ているだけで、自然と頬が緩んでしまう。
あんなに頑なだった喋り方も砕けていて嬉しかった。
こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
そんなことを思ってしまう。
⸻
本屋へ入ると、えとさんの歩く速さが少しだけ変わった。
ゲームコーナーを見つけた瞬間だった。
「あっ。」
小さく声を上げて、目を輝かせる。
その姿がおかしくて、思わず笑ってしまう。
学校ではどちらかというと控えめで、大人しい。
でも好きなことになると、子どもみたいに表情が変わる。
そんなところも好きだった。
「これ、新しい設定資料集!」
棚から一冊の本を取り出し、嬉しそうにページをめくる。
「このイラスト、ゲームには出てこなかったの。」
「へぇ。」
「あと、このキャラクターね――」
気付けば五分以上話している。
楽しそうに話すえとさんを見ている時間が好きだった。
(こんな顔、学校じゃあんまり見ないな。)
いや。
ゲームの話をしている時だけは、たまに見せてくれる。
だから俺も、つい話しかけたくなる。
「……好きなんだな。」
そう言うと、えとさんは少し照れながら笑った。
「うん。」
その返事に迷いはなかった。
「好き。」
『ゲームが』ということはわかっているけど短いその一言が、自分に言われているみたいで妙に嬉しかった。
⸻
ゲームショップを出る頃には、西日が街を優しく照らしていた。
商店街の一角にあるゲームセンターの前で、えとさんの足が止まる。
「どうした?」
「……あれ。」
視線の先を見る。
クレーンゲームの中に、小さな白い猫のぬいぐるみが並んでいた。
えとさんは何も言わないけどすぐに欲しいんだって分かる。
「ちょっと待ってて。」
財布から百円玉を数枚取り出す。
「え?」
「一回だけ。」
アームがゆっくり降りる。
掴んだ。
……と思った瞬間、ぽとりと落ちた。
「あー。」
思わず声が漏れる。
後ろから、くすっと笑う声。
「うり先輩でも出来ないことあるんだ。」
振り返ると、えとさんが楽しそうに笑っていた。
「あるよ。」
「意外。」
「意外って。」
その笑顔を見たら、負けたくなくなった。
「もう一回。」
二回目。
三回目。
惜しい。
あと少し。
「ご、ごめんね。」
「なんでえとさんが謝るの。」
「お金……。」
「気にすんなって……それより。」
俺はもう一枚百円玉を入れた。
「笑って。」
「え?」
「えとさんがそばで笑ってる方が、俺は嬉しい。」
一瞬きょとんとしていたえとさんが、ふっと笑う。
その瞬間だった。
アームがぬいぐるみをしっかり掴み、そのまま取り出し口へ落とした。
「やった。」
思わずガッツポーズをする。
えとさんの方を見ると目を丸くしていた。
まさか取れるとは思っていなかったのか驚いている表情だった。
「はい。」
「ぇ……いいの?」
「はじめてのデート記念。」
そういうとポッと頬を赤らめ、視線を落とし
えとさんは両手で白い猫を受け取る。
壊れ物を扱うみたいに、大切そうに抱きしめた。
「ありがとう……。」
その小さな声だけで、何度も挑戦したことなんてどうでもよくなった。
駅までの道を少し遠回りする。
小さな公園。
夕日が木々の隙間から差し込み、足元へ長い影を落としていた。
風が吹く。
えとさんのオレンジ色の髪が、夕焼け色に染まる。
綺麗だな。
そう思った。
本人に言ったら、きっと真っ赤になるんだろうけど。
並んで歩く。
沈黙が続く。
歩幅を合わせて歩く時間が心地いい。
「そういえば。」
俺が口を開く。
「途中から自然だったじゃん。」
「?」
「タメ口。」
えとさんは耳まで真っ赤にして顔を隠す。
本人は言われるまで自覚していなかったらしい
「もう……。」
その仕草が可愛くて仕方ない。
「もう一つお願いがあるんやけど。」
「?」
少しだけ立ち止まる。
夕日が二人を包む。
心臓が少しだけ速くなる。
「“うり”って呼んで。」
えとさんは固まった。
無理を言っているのは分かっている。
だから断られてもいい。
そう思っていた。
長い沈黙。
風だけが木の葉を揺らしている。
やがて。
本当に小さな声で。
「……うり。」
その一言が耳に届いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
名前を呼ばれただけ。先輩が外れただけ。
たったそれだけなのに。
今日一日で、えとさんとの距離が一気に縮まったみたいで一番嬉しかった。
「ありがとう。」
自然と笑みがこぼれる。
えとさんは照れくさそうに俯いていた。
その顔を見ながら思う。
(やっぱり。好きだな。)
少し歩いてから、そっと右手を差し出した。
「……手、繋いでもいい?」
えとさんは驚いたように顔を上げる。
それから、小さく、小さく頷いた。
重なった手は少し冷たくて、少し震えていた。
でも、その震えさえ愛おしかった。
指先に少しだけ力を込めると、えとさんもおずおずと握り返してくれる。胸の奥にあった幸せが、静かに満ちていくのを感じた。
この先も、焦らなくていい。
今日みたいに、一歩ずつ。
えとさんの歩幅に合わせながら、一緒に歩いていこう。
夕暮れの帰り道。
繋いだ手の温もりは、秋風の冷たさを忘れさせるくらい、優しかった。