学生編

6月の終わり。

日中は、歩いていると額に薄く汗がにじむほど暖かい。けれど、日が傾き始めると、昼間に残った熱をさらうように、涼しい風が街を通り抜けていく。

放課後。

私は駅前の小さな本屋の前に立ち、何度目か分からないほどスマホの画面を確認していた。

18時12分。

待ち合わせは18時15分。

まだ3分もある。
それなのに、落ち着かなかった。

本屋の軒先から漏れる明かりが、足元のタイルを淡く照らしている。自動ドアが開くたび、紙とインクの匂いに混じって、店内の冷房の冷たい空気が流れてきた。駅へ向かう人々の足音や、遠くで鳴る信号機の音が、夕方の街に重なっている。

今日は学校が終わってから一度家へ帰り、制服を着替えてきた。

うりも同じ。

理由は簡単だった。

学校の近くで制服のまま二人で歩けば、知っている人に見つかるかもしれないから。

付き合い始めて半年以上。

恋人であることを秘密にする生活にも、ずいぶん慣れた。

学校では先輩と後輩。

廊下ですれ違っても、必要以上に目を合わせない。誰かが近くにいれば、名前を呼ぶことさえ控える。

けれど、校門を出て、知っている人の姿が見えなくなれば、隣に並んで歩く。手も繋ぐ。

声を潜めなくても、好きな人の名前を呼べる。
最初の頃は、それだけでも十分だった。
むしろ、それ以上を望むことが怖かった。

でも最近。
ふと、考えることがある。

――いつまで、こうして隠すんだろう。

嫌になったわけではない。

むしろ、秘密にしたいと言ったのは私だ。

うりは何も悪くない。

私が自信を持てなくて、誰かに知られるのが怖くて、ずっと隠していた。

だけど。

文化祭で女子たちに囲まれるうりを見たとき。

笑顔で話しかけられ、自然にその輪の中心にいるうりを、少し離れた場所から見ていたとき。

そして最近、ゆあんくんのことを気にするうりを見ていると。

秘密であることで、不安になるのは私だけじゃないのだと分かってきた。

「えとさん」

突然、頭上から声がした。

「わっ」

肩が跳ねる。

顔を上げると、うりが楽しそうに笑っていた。

栗色の髪が夕方の風に揺れている。黒い薄手のパーカーの袖から覗く手には、いつもの学校で見る制服姿とは違う、少し大人びた雰囲気があった。

「そんなびっくりする?」

「急に来るから」

「普通に前から歩いてきたけど」

「スマホ見てたから」

「また早く来た?」

「……三分だけ」

そう答えたけれど、本当は十分以上前からここにいた。

駅前の時計を何度も見上げて、通り過ぎる人の中にうりの姿を探していた。

うりはたぶん気づいている。

でも、何も言わずに私の隣へ並んだ。

肩と肩の距離が、わずかに近い。

「行こっか」

「うん」

歩き出す。

駅前の通りには、仕事帰りの人や学生が行き交っていた。店先の明かりが次々に灯り始め、ガラス窓には夕暮れの青と、店内の暖かな色が重なっている。

今日は特別な目的があるわけではない。

一緒に夕飯を食べて。

少し歩いて。

時間になったら帰る。

ただの放課後デート。

それなのに。

最近は、こういう何でもない時間の方が好きになっていた。



♦︎

 

最近。

えとさんが変わった。

もちろん、前から変わり始めていた。

髪や服に気を遣うようになった。

以前は寝癖がついていても気にしていなかったのに、最近は出かける前に鏡を見る時間が長いらしい。

人と話すときも、以前より顔を上げるようになった。

声が小さくなってしまうことはまだあるけれど、途中で俯いてしまうことは減った。

それだけじゃない。

もっと大きな変化がある。

えとさんから手を繋いでくれるようになった。

えとさんから「好き」と言ってくれることも増えた。

少し前なら。

俺が「好き」と言っただけで、えとさんは顔を真っ赤にして、慌てたように別の話を始めていた。

けれど最近は。

恥ずかしがりながらも、逃げなくなった。

その変化が嬉しい。

たぶん俺が思っている以上に。

「何食べたい?」

駅前の通りを歩きながら聞く。

夕方の風が、建物の間を抜けていく。どこかの店から焼いたパンの香りが漂い、少し先のラーメン屋からは、出汁の匂いが濃く流れてきた。

えとさんは左右の店を眺めながら、考え込む。

「うーん」

「パスタ?」

「昨日食べた」

「じゃあラーメン」

「デートで?」

「ダメなの?」

「別にいいけど」

「じゃあラーメン」

「うりが食べたかったんじゃん」

えとさんが笑う。

その笑顔を見ていると、自然と表情が緩んだ。

本当に何でもない会話。

でも。

こういうのが好きだった。

学校ではできない。

隣を歩いて。

くだらない話をして。

時々、肩が触れる。

人の流れが途切れた瞬間に、繋いだ手を強く握る。

ただそれだけ。

少し前。

ゲーム同好会の後輩ゆあんくんとゲームセンターへ行ったことには、正直かなり嫉妬した。
あいつがえとさんを見る目が、もう完全に分かってしまったから。

でも。

今日こうして隣を歩いていると。

焦っていた自分が、少し馬鹿みたいに思えてくる。

えとさんが俺を見る顔。

俺にだけ向けてくれる声。

それを知っているから。

「うり」

「ん?」

「何笑ってるの?」

「別に」

「絶対何か考えてた」

「えとさん可愛いなって」

「……聞かなきゃよかった」

えとさんは顔を背けた。

けれど、街灯の下に見えた耳は赤くなっている。

「最近ちょっと慣れてきたと思ったのに」

「何に?」

「そういうこと言われるの……でも、慣れなくていいよ」

「なんで?」

「ずっと照れててほしい」

「ひどい」

そう言いながら。

えとさんも笑っていた。

その横顔を、夕暮れの光が柔らかく縁取っている。




♦︎

 

夕飯を食べたあと。

私たちは、駅から少し離れた川沿いを歩いていた。

駅前の喧騒は、少しずつ遠ざかっている。

建物の数が減るにつれて、聞こえてくる音も変わった。車の走る音はまだ途切れないけれど、人の話し声や店内から漏れる音楽は薄れていく。

川沿いの遊歩道には、一定の間隔で街灯が立っていた。

水面にはその光が細長く映り、風が吹くたびに、金色の線がゆっくりと崩れていく。川の流れは穏やかで、岸辺の草が水音に合わせるようにかすかに揺れていた。

遊歩道を歩く人は少ない。

時々、犬の散歩をしている人や、自転車が静かに通り過ぎるくらいだった。

うりと手を繋ぐ。

以前なら。

手を差し出してもらうのを待っていた。

うりが迷うように手を近づけてくるまで、自分から触れる勇気がなかった。

でも今日は、私から。

指先を伸ばし、うりの手に触れる。

そのまま指を絡めた。

うりが驚いたようにこちらを見る。

けれど、すぐに握り返してくれた。

掌から伝わる温度が、夜風の冷たさを忘れさせてくれる。

「えとさん」

「なに?」

「ほんと変わったね」

「何が?」

「最初のデート覚えてる?」

「覚えてるよ」

忘れるわけがない。

敬語をやめるだけで何十分もかかった。

名前を呼んでと言われて。

「うり」と口にするだけで、心臓が壊れそうだった。

あのときは、たった二文字を声にすることさえ、ひどく難しかった。

手を繋ぐときだって。

差し出された手を見つめたまま、なかなか触れられなかった。

繋いだあとも緊張して、まともに顔を見られなかった。

「前は俺から手出さないと繋いでくれなかったじゃん」

「……そうだったね」

「それが今、えとさんから来た」

「嫌なら離すけど」

「絶対離さない」

うりの指が、私の指を包む。

握る力が強くなる。

その温かさに、くすぐったい気持ちになった。

私は笑った。

歩いていると。

少し先に、川を見下ろせる小さな広場が見えた。

遊歩道の脇に、古い木製のベンチが一つ置かれている。背もたれには長い年月でできた細かな傷があり、街灯の光がその表面を淡く照らしていた。

私たちはそこへ座った。

ベンチはひんやりしていた。

隣に座ったうりの肩が、私の肩に触れそうで触れない距離にある。

夜風が髪を揺らす。

頬を撫でた風が、昼間の名残を少しずつさらっていく。

遠くで電車が走る音が聞こえた。

線路を渡る音が川面に反響し、やがて小さく消えていく。

しばらく。

何も話さなかった。

でも。

その沈黙が好きだった。

気を遣って何かを話さなくてもいい。

隣にいるだけでいい人。

うりの隣にいると、沈黙は空白ではなかった。

川の流れる音や、風が草を揺らす音まで、二人の間にある時間の一部になっているように感じる。

いつから。

うりがそんな存在になったんだろう。

「ねえ」

私から声を出す。

「ん?」

「うりって、卒業したらどうするの?」

聞いてから緊張が走った。
進級してからずっと考えていたこと。

うりは三年生。

高校卒業まであと一年もない。

春になれば、この学校からいなくなる。

今まで当たり前のように見ていた背中や横顔が、校舎の廊下から消える。

ゲーム同好会の部屋へ行っても、そこにうりはいない。

そう考えると、心が静かに冷えていくようだった。


 

「まだ決めきってない」

うりは川を見ながら答えた。

街灯の光が横顔に落ちている。水面の揺れる光が、頬や髪に淡く反射していた。

「進学も考えてるし。音楽も続けたいし」

「そっか」

「なんで?」

「……別に」

本当は。

聞きたかった。

卒業したら。

私たちはどうなるの。

学校という共通の場所がなくなっても。

会ってくれるの?

今みたいに、放課後に待ち合わせてくれるの?休みの日に会える?

でも。

怖くて聞けない。

「えとさん」

「ん?」

「俺が卒業するの、嫌?」

図星だった。見透かされたようで、繋いだ手に力が入る。

「……少し」

「少し?」

「結構」

正直に言うと。

うりが笑った。

その笑顔はからかうようなものではなく、どこか安心したような、嬉しそうな笑顔だった。

「笑わないで」

「ごめん。嬉しくて」

「私は不安なのに」

うりの表情が変わる。

さっきまでの柔らかい笑みが消え、真剣な目がこちらを向いた。

「何が不安?」

静かに聞かれた。

逃げるのをやめる。

私は膝の上で重ねた手を見つめた。

街灯の光が、指先とスカートの布地を淡く照らしている。

「学校で会えなくなるし」

「うん」

「今はゲーム同好会に行けば会える日もあるけど」

「うん」

「卒業したら、生活も変わるでしょ」

言葉にするほど。

怖かったのだと気づく。

今まで押し込めていた不安が、ひとつずつ形になっていく。

「それで……」

喉が詰まる。

川の音が、やけに近く聞こえた。

「自然に会わなくなったりしたら、嫌だなって」

うりは黙っていた。

すぐに返事が返ってこない。

その沈黙が怖くて、私は視線を落とした。

言わなきゃよかったかな。

重いと思われたかな。

そう思い始めたとき。

「えとさん」

名前を呼ばれた。

顔を上げる。

うりは困ったように笑っていた。

けれど、その目には迷いがなかった。

「俺、卒業しても別れるつもりないんだけど」

「……え?」

「むしろ何でそうなると思った?」

「だって」

「学校で会えないなら、外で会えばいいじゃん」

あまりにも簡単に言う。

まるで、答えは最初から決まっていることのように。

「連絡もできるし」

「でも忙しくなるかも」

「忙しくても会う」

「環境変わるよ?」

「環境が変わってもえとさんのことは変わらず好きだよ」

迷わない。

その言葉が。

冷えていた場所に、温かさが戻ってくるようだった。

「……なにそれ」

「何が?」

「そんな簡単に言うから」

「簡単じゃないよ」

うりは真面目な顔になる。

川面に揺れる光ではなく、まっすぐ私を見つめていた。

「ずっと考えてるから言ってる」

そして。

繋いでいた手を持ち上げるようにして、優しく握った。

指の間から伝わる温度が、言葉よりも強く感じられる。

「俺は卒業しても、えとさんと一緒にいたい」

風の音。

川の流れる音。

遠くを走る車の音。

その全部が。

一瞬だけ遠くなった気がした。

聞こえるのは、隣にいるうりの声と、自分の心臓の音だけだった。

「えとさんは?」

聞かれる。

今までなら。

恥ずかしくて。

誤魔化していたかもしれない。

でも。

今日は。

「……私も」

ちゃんと顔を上げる。

うりの瞳に、街灯の光が小さく映っていた。

「一緒にいたい」

言えた。

声は震えていたけれど、今度は俯かなかった。

うりの目が優しく細くなる。

「よかった」

その一言で驚くほど安心した。



♦︎

 

嬉しかった。

たぶん。

告白した日と同じくらい。

川沿いの夜風は冷たかったのに、心だけが熱かった。

えとさんは。

最初の頃、いつもどこかで「自分なんか」と思っていた。

俺の彼女でいることさえ、不安そうだった。

誰かに見られることを怖がって、俺の隣にいるときでさえ、周囲を気にしていた。

そんな人が。

今。

自分から。

卒業したあとも一緒にいたい、と言ってくれた。

その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。

「じゃあ」

少しだけ冗談っぽく言う。

「俺が卒業したらもう隠さなくていい?」

えとさんが目を丸くした。

街灯の下で、その表情がはっきり見える。

「え?」

「学校じゃないし」

「……そうだけど」

「俺、普通に彼氏面したい」

「今もしてるじゃん」

「外だけじゃん」

「十分じゃない?」

「足りない」

即答すると。

えとさんが笑った。

その笑い声が、静かな川沿いに小さく響く。

「フフ……あんなにモテるのに変なの」

「彼氏だから」

「関係ある?」

「ある」

また二人で笑う。

笑い声が途切れたあとも、空気は柔らかかった。

でも本当は期待していた。

いつかえとさんが誰かに見られても俺の隣にいることを怖がらなくなる日をその日が来ればいいと思っていた。

「卒業したら」

えとさんが小さく言った。

風に消えそうな声だった。

「隠さない。胸を張って私がうりの彼女だって言う。」

聞き間違いかと思った。

「……ほんと?」

「うん」

「学校の友達に会っても?」

「たぶん」

「たぶん?」

「本当はちょっと怖いけど……いう!」

正直な答えに、思わず笑ってしまう。

その横顔を見ながら。

ああ。

えとさんと来年もその先も一緒にいるんだ。

自然にそう思った。



♦︎

夜が深くなっていた。

空はすっかり暗くなり、川の向こうに並ぶ建物の窓には、ぽつぽつと明かりが灯っている。
遊歩道を通る人の数も減っていた。

帰らなきゃいけない時間。

スマホを確認すると、家に連絡した時間が近づいている。

でも今日はあと少しだけここにいたかった。

「そろそろ行く?」

うりが言う。

「……うん」

そう答えたのに立ち上がれなかった。

ベンチに置いた手も、繋いだ手も、そのまま動かない。

うりも動かない。

二人とも。

同じことを思っているような気がした。

「えとさん」

「なに?」

呼ばれて隣を見るうりの顔がいつもより近かった。

街灯の光が、栗色の髪の輪郭を柔らかく照らしている。さっきまで笑っていた口元は静かに閉じられ、瞳だけがまっすぐこちらを見ていた。

心臓が鳴る。

自分の鼓動が、耳のすぐ近くで響いているようだった。

何となく分かった。

今までもこうなりそうな瞬間は何度かあった。

帰り道、誰もいない道で立ち止まったとき。
別れ際、手を離せなくなったとき。

でもどちらかが照れて笑ったり。

人が通ったり。

駅のアナウンスが聞こえてきたり。

何となくタイミングを逃していた。

でも今日は違う。
川の音と、遠くの車の音だけが聞こえている。

うりも緊張している。
繋いだ手の指先が、わずかに震えているのが分かった。

「……今キスしたいっていったら困る?」

うりの言葉を認識した瞬間から心臓がうるさい。

逃げたいような。

でも逃げたくないような。

不思議な気持ち。

私は小さく首を横に振った。

「……………………困らない」

自分の声が震えている。
緊張が極限まで高まり顔が、頬の熱が高い。

でも、目の前のうりが笑うその表情を見たら。

緊張が和らいだ。

うりの顔が、ゆっくり近づいてくる。
近づくほど、呼吸が浅くなった。
うりの髪が視界の端で揺れる。

繋いだ手のうりの指がもう一度力がこもる。まるで、最後まで本当に嫌ではないか確かめるように、そっと力が込められる。

私は息を止めた。

うりの吐息が頬に触れる。

温かい、心臓が大きく跳ねる。

目を閉じる直前、うりの瞳が一瞬だけ揺れたのが見えた。

緊張しているのは、私だけじゃないだ……。

そして唇が触れた。

ほんの一瞬けれど、触れた瞬間、頭の中が真っ白になった。

柔らかい。

温かい。

触れているのか、触れていないのか分からないほど淡い感触なのに、その場所だけがはっきりと意識に残る。

うりの唇が離れていく。

数秒にも満たない時間だったはずなのに、ひどく長く感じた。

離れたあとも、唇に温度が残っている。

呼吸の仕方が分からない。

目を開ける。

目の前のうりもさっきまでの余裕が嘘みたいに、照れていた。

頬が赤くなっている。

視線が一度、私の目から唇へ落ちて、すぐに逸らされた。

「……」

「……」

二人とも何も言えない。

川の流れる音だけが、妙に鮮明に聞こえた。

自分の呼吸と、うりのすこし乱れた呼吸まで聞こえる気がする。

先に耐えられなくなったのは私だった。

「何か言ってよ」

「いや」

うりが口元を隠すように手を当てる。

「結構いっぱいいっぱい」

「うりでも?」

「俺でも」

その声が少し掠れていて。

それがおかしくて。

私は笑った。

うりも笑う。

張り詰めていた空気が、ようやくほどけていく。

「……嫌じゃなかった?」

改めて聞かれる。

私は首を振る。

「うん」

それから。

少し迷って。

唇に残った感触を思い出しながら、言葉を選ぶ。

「触れてもらえて嬉しかった」

言った瞬間うりが固まった。

「……えとさん」

「なに?」

「それ今言う?」

「何で?」

「またしたくなるんだけど」

「……!」

意味を理解した瞬間。

顔がさらに熱くなる。

「じゃあ言わなきゃよかった」

「遅い」

「もう帰る」

立ち上がろうとする。

けれど繋いだ手を離してくれない。

うりの指が、私の手をしっかりと包んでいる。

「待って」

「何」

「怒った?」

「怒ってない」

「じゃあ」

うりが、繋いだ手を引いた。

離れかけた距離が、また近づく。

さっきよりも、互いの呼吸が分かる距離だった。

「もう一回、したい。いい?」

今度はさっきより怖くなかった。
それでも、鼓動はまた大きく鳴った。

私は恥ずかしくて顔を逸らしながら。

小さく頷いた。

うりがゆっくり近づく。

今度は、目を閉じるまでの時間も分かった。

頬に触れる風。

繋いだ手の温度。

近づいてくる気配。

そして、唇が重なる。

二度目は、最初より長かった。

触れたまま、すぐには離れない。

うりの唇が優しく重なり、離れそうになって、またわずかに触れる。

そのたびに、胸が震えた。

息が苦しくなるほどではない。

けれど、どう呼吸すればいいのか分からなくて、私はうりのパーカーの袖を指先でつまんだ。
その小さな動きに気づいたのか、うりの指が私の手をさらに強く握る。

やがて、うりがゆっくりと離れた。

唇が離れたあとも、すぐには目を開けられなかった。

目を開けると、うりが近くにいる。

吐息が触れそうな距離で、うりもこちらを見つめていた。

その距離が嬉しくて、また体が熱くなった。



♦︎

帰り道。

駅へ向かう遊歩道を歩きながら、えとさんはずっと顔が赤かった。

街灯が一つ、また一つと頭上を通り過ぎるたび、その横顔が明るくなったり、影に沈んだりする。

さっき触れた唇の感触が、まだ自分の中に残っていた。

一度目は、触れた瞬間に離れてしまった。

緊張していた。

嫌がられたらどうしようと思った。

でも、えとさんは逃げなかった。

二度目に触れたときは、袖をつままれた。

その小さな反応が嬉しくて、離れるのが惜しくなった。

「さっきから静かだね」

「誰のせい」

「俺?」

「うり以外いない」

「ごめん」

「謝るならしなきゃよかったじゃん」

「それは嫌」

「……もう」

怒っているように見えて繋いだ手は離さない。

むしろさっきよりしっかり握っている。

指の間から伝わる温度が、たまらなく嬉しかった。

駅が近づく。

遠くから、電車の到着を知らせる音が聞こえてくる。

人の姿も少しずつ増えてきた。

もう別れる時間。

名残惜しい。

でも今日だけじゃない。

また会える。

来週も。

来月も。

来年も。



改札の前、駅構内から漏れる白い光が、夜の歩道を照らしている。
人の流れが行き交う中で、俺たちは端へ寄った。

「じゃあ、また明日」

学校ではまた先輩と後輩に戻る。

「うん」

えとさんが頷く。

そして周囲を見回し、知っている人がいないことを確かめてから。

「うり」

「ん?」

「今日、楽しかった」

「俺も」

「あと」

えとさんが言葉を探すように、視線を落とした。

「卒業したあとの話も嬉しかった」

その声は小さかったけれど、駅の雑音の中でもはっきり聞こえた。

心が熱くなる。

「当たり前」

即答する。

「約束」

「うん」

「絶対」

「絶対」

指切りなんてしなかった。

人の行き交う改札前で、そんなことをするのは少し恥ずかしかったし。

それにしなくても守るに決まっていると思っていたから。

えとさんが改札の向こうへ消える。

何度か振り返りそうになって、けれど振り返らずに歩いていく背中を、俺は人の流れの中で見送った。

その姿が見えなくなってからも、しばらくその場を動けなかった。

俺は今日という日をたぶん一生忘れないと思った。

初めて二人の未来を話した日。

初めて卒業後も一緒にいたいと言ってもらえた日。

そして初めてキスをした日。

川面に揺れていた街灯の光。
繋いだ手の温度。
えとさんの震えた声。
触れた唇の柔らかさ。
離れたあとも残っていた、かすかな熱。

その全部を、きっと忘れない。

俺たちはこの先もずっと続いていく。

何の疑いもなくそう信じていた。

――このときまでは。
14/14ページ
スキ