学生編


自分の気持ちに名前がついてしまうと、厄介だった。

昨日までなら何とも思わなかったことまで、いちいち意識するようになる。

朝、二年生の廊下を通れば、無意識にえとさんの姿を探してしまう。

昼休み、階段ですれ違えないかと思って少し遠回りしたり

放課後になれば、ゲーム同好会の扉を開ける前から、今日はえとさんが来ているだろうかと考えている。

そして。

見つけると嬉しい。

たったそれだけのことで、一日の気分が変わってしまう。

「……単純すぎだろ、俺」



昼休み。

購買で買ったパンを片手に、中庭のベンチへ腰を下ろしながら小さく呟いた。

春の陽射しは暖かく、植え込みの若葉が風に揺れている。

少し前まで枝いっぱいに咲いていた桜はほとんど散り、地面の隅に淡い花びらだけが残っていた。

あの日。

公園の向こうに見えた二人の姿が、まだ頭から離れない。

えとさんとうり先輩。

離れていたから、はっきり見えたわけじゃない。

それでも。

あの距離。

あの表情。

それに――重なっていた手。

たぶん。

いや。

きっと。

二人は付き合っている。

それなのに学校では、誰もそんな話をしていない。

うり先輩は目立つ。

軽音同好会でも人気があって、特に女子から騒がれている。

あれだけの人なら、恋人がいればすぐ噂になりそうなものなのに。

えとさんだって、学校ではただの後輩のように接している。

つまり。

秘密にしている。

そこまで考えたところで、胸の奥に鈍い痛みが走った。

「……知りたくなかったな」

知らなければ。

もう少し気楽に好きでいられたのかもしれない。

でも。

知ったからといって、昨日まで好きだった人を今日から好きじゃなくなることなんてできなかった。

むしろ。

えとさんが誰かの特別な人だと分かったことで、余計に自分の気持ちがはっきりしてしまった気さえする。

「ゆあんくん?」

不意に頭上から声が降ってきた。

ばっと顔を上げる。

「……えとさん」

本人が立っていた。

長い髪を風に揺らし、片手には紙パックの飲み物。

「一人?」

「はい」

「ここ座っていい?」

「どうぞ」

慌てて隣に置いていた鞄をどかす。

えとさんが腰を下ろした。

ふわりと、ほのかな甘い香りがした。

最近。一段と綺麗になったと思う。

文化祭のときから十分目を引く人だった。

でも今は、外見だけじゃない。

誰かと目が合えば自然に微笑むし、知らない人にも自分から声をかけられる。

たぶん本人は気づいていないけれど、廊下を歩いているだけで男子が振り返っていることも珍しくない。

……それでいて本人は、驚くほど鈍い。

「何?」

見すぎたらしい。

えとさんが首を傾げる。

「いや」

視線を逸らす。

「髪、変えました?」

「え?」

ぱっと髪へ手を伸ばす。

「分かる?」

少し嬉しそうな顔。

胸が跳ねる。

「いつもより巻いてる」

「すごい。のあさんにもまだ何も言われてないのに」

朝、少しだけ毛先を巻いてみたのだと教えてくれる。

「似合ってます」

自然に口から出た。

えとさんの動きが止まる。

「……ありがとう」

少しだけ頬が赤くなった。

それを見た瞬間。

嬉しくなった。

そして同時に思う。

もっと言いたい。

可愛いとか。

綺麗だとか。

会えると嬉しいとか。

この人を見ていると、いくらでも言葉が浮かんでくる。

以前なら恥ずかしくて言えなかった。

でも。
好きだと気づいてしまったのなら。
少しくらい伝えてもいいんじゃないか。

そんな気持ちが、少しずつ大きくなり始めていた。





♦︎




最近。

ゆあんくんが、よく私のところへ来る。

朝、廊下ですれ違えば、

「おはようございます」

と声をかけてくれる。

昼休みに会えば、今日ゲーム同好会へ行くか聞かれる。

放課後はかなりの確率で隣の席。

中学から高校へ上がったばかりで、知っている先輩が私くらいだからだろう。

そう思っていた。

「ゆあんくん、友達できた?」

昼休みの中庭。

隣でパンを食べているゆあんくんへ尋ねる。

「できましたよ」

「本当? よかった」

「なんでえとさんが安心してるんですか」

「だって心配だったから」

文化祭の日。

一人で階段の踊り場に立っていた姿が、どうしても印象に残っている。

大人びているように見えても、当時はまだ中学生だった。

「クラス、楽しい?」

「普通」

「普通かぁ」

「でも、ここに来て良かったと思ってます」

ゆあんくんが言った。

「ゲーム同好会もあるし」

「うん」

「えとさんもいるし」

あまりにも自然な言い方だったから。

私も普通に頷きそうになった。

「……私?」

「はい」

「なんで?」

本気で尋ねると。

ゆあんくんは何とも言えない顔をした。

「えとさんって」

「うん」

「自分がどう思われてるか、本当に気づかないんですね」

「またそれ?」

うりにもよく似たことを言われる。

「私、そんな鈍い?」

「かなり」

即答。

「失礼だなぁ」

頬を膨らませると、ゆあんくんが笑う。

「そういうところも好きですけど」

「……ん?」

今。

何か聞き捨てならない言葉があったような。

「何?」

「何でもないです」

「今、好きって言わなかった?」

「言いましたよ」

あっさり返される。

今度こそ、思考が止まった。

「……え?」

「先輩として」

ゆあんくんは何でもない顔でパンをかじった。

「あ……そっち」

胸を撫で下ろす。

びっくりした。

「何だと思ったんですか?」

「別に!」

「顔赤いですけど」

「暑いから」

「今日、結構涼しいですよ」

「うるさい」

肩を軽く叩くと、ゆあんくんが笑った。

やっぱり。

弟みたいだ。

少し生意気で。

でも一緒にいると楽しい後輩。

そう思っていた。

だから。

ゆあんくんが一瞬だけ見せた、寂しそうな目には気づかなかった。





♦︎





「先輩として」

咄嗟に付け加えた言葉が、自分でも情けなかった。

でも。

まだ言えない。

えとさんには、たぶん恋人がいる。

それも、自分が入学するずっと前から好きだった相手。

ここで俺が告白したところで、困らせるだけだ。

分かっている。

それなのに。




「弟みたいだね」

放課後。

ゲームをしながらえとさんが何気なく言った。

その一言には、さすがに傷ついた。

「……誰が?」

「ゆあんくん」

「嫌です」

「何で?」

聞き返すと、えとさんがきょとんとする。

「年下じゃん」

「一歳だけでしょ」

「一歳は一歳です」

「じゃあ来年、えとさんが三年になったら?」

「私は先輩」

「卒業したら?」

「……先に高校卒業した人?」

「何それ」

思わず笑った。

それでも少し悔しい。

俺は文化祭の頃より背も伸びた。

声だって中学生にしては低いと言われていた。

同級生からは大人っぽいと言われることも多い。

なのに。

えとさんから見れば。

いつまでも、文化祭で進路に迷っていた中学生なのかもしれない。

「じゃあ」

コントローラーを操作しながら言う。

「そのうち弟に見えなくします」

「何それ」

えとさんが笑う。

「どうやって?」

「俺がもっと大人になったら」

「そんな急に変わらないでしょ」

「変わるよ」

少なくとも。

変わりたいと思った。

この人の隣に立ったとき。

年下だからと最初から恋愛対象にすら入れてもらえないのは嫌だった。

「見てて」

「何を?」

「俺が追いつくところ」

えとさんはまた意味が分からないという顔をした。

「勉強?」

「……もうそれでいいです」

ため息をつく。

本当に。

この人相手だと、先が思いやられる。

けれど。

それさえも嫌ではなかった。





♦︎





放課後。

同好会の活動を終えて廊下へ出ると、窓の外は淡い夕焼けに染まっていた。

「えとさん」

後ろからゆあんくんに呼び止められる。

「なに?」

「これ」

差し出されたのは、小さな紙袋だった。

「何?」

「コンビニで見つけたんで」

中を覗く。

入っていたのは、私が好きなゲームとコラボした小さなお菓子だった。

「えっ、これ!」

思わず声が上がる。

SNSで見て、気になっていたもの。

でも近所では売り切れていて諦めていた。

「どうしたの?」

「えとさん、この前欲しいって言ってたでしょ」

「覚えてたの?」

「覚えてますよ、それくらい」

さらっと言う。

「ありがとう!」

素直に嬉しかった。

「お金払うよ」

「いらないです」

「でも――」

「えとさんには文化祭で世話になったし」

「それ、いつまで言うの」

半年以上前のことなのに。

「じゃあ」

ゆあんくんは少し考える。

「お礼してもらおうかな」

「何?」

「今度、一緒にゲームセンター行ってください」

「あ」

前に約束したまま、まだ行けていなかった。

「そうだった!」

「忘れてたでしょ」

「……ちょっと」

「ひど」

「ごめんって」

思わず笑う。

「じゃあ今度行こう」

「二人で?」

「うん」


一拍、うりのことを考える
でも、この前断ってしまったし、行く約束をした。
ゆあんくんは後輩…
ゲームセンターなら二人でも問題ない。と結論づけた

「いいよ」

そう答えると。

ゆあんくんは、一瞬だけ驚いたあと。

嬉しそうに笑った。

「約束ですよ」

「うん」

指切りでもするような勢いで念押しされて、また笑ってしまう。

そこへ。

「えとさん」

廊下の向こうから声がした。

振り返る。

栗色の髪。

うり先輩。

一瞬。

ゆあんくんの表情が変わった気がした。

でも、本当に一瞬だった。

「お疲れさまです」

学校だから、いつもの敬語。

「お疲れ」

うり先輩は私へ返し、それから手元の紙袋を見る。

「それ何?」

「ゆあんくんにもらったんです」

言った瞬間。

うり先輩の眉がほんの少し動いた。

あ。

これは。

最近、少し分かるようになってきた。

たぶん。

嫉妬。




♦︎



うり先輩は、やっぱり分かりやすい。

本人は完璧に隠しているつもりなんだろう。

口調も。

表情も。

学校の中では、ただの先輩だ。

でも。

えとさんが俺にもらったものだと言った瞬間。

視線が揺れて一度、俺へ向いた。

ほんの一秒。

それだけで十分だった。

「そうなんだ」

うり先輩が笑う。

「よかったね」

「はい!」

えとさんは何も知らず、嬉しそうに紙袋を抱えている。

その姿を見て。

少しだけ。

悪いことをしたような気もした。

でも。

引くつもりはなかった。

俺だって。

別に二人の邪魔をしたいわけじゃない。

秘密を暴こうとも思っていない。

えとさんを困らせたいわけでもない。

ただ。

好きな人に。

好きなものを渡したかった。

喜んでほしかった。

「じゃあ、えとさん」

俺はわざといつも通りの声で言った。

「ゲームセンター、忘れないでくださいね」

「分かってるって」

「今度こそですよ」

「はいはい」

楽しそうに笑う。

その向こう。

うり先輩と目が合った。

文化祭の日と同じ。

言葉はない。

でも。

あの頃とは違う。

あのときの俺は、自分の気持ちさえ知らなかった。

今は違う。

好きだと分かっている。

そして。

うり先輩も、それに気づいたと思う。

数秒。

視線がぶつかる。

先に逸らしたのは俺だった。

勝てるなんて思っていない。

今は。

えとさんの中にあるうり先輩の場所は、きっと大きい。

俺にはまだ、そこへ入る隙間なんてない。

それでも。

文化祭の日。

この人にもう一度会いたいと思って、この学校を選んだ。

追いつきたいと思った。

なら。

最初から諦めるなんて、できなかった。
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