学生編

それから季節が巡り春。
校門の脇に並ぶ桜は、満開を少し過ぎたころだった。
淡い花びらが風にさらわれ、朝の校庭をくるくると舞っている。

去年の今頃。

私はまだ、この学校のどこにも自分の居場所がないような気がしていた。
教室へ入るだけでも緊張して。
知らない人に囲まれているだけで疲れて。
ゲーム同好会の扉の前でも、入るかどうか散々迷っていた。

それが今は。

「えとさん、おはようございます」

「おはよう!のあさん」

肩までのピンク色の髪を揺らしながら歩いてくるのあさんに、自然と笑い返している。

一年という時間は、不思議だ。
クラスで友達ができた。
ゲーム同好会にも、放課後を楽しみにできる仲間がいる。

それから――。

校舎へ向かう人混みの向こう。
栗色の髪を見つける。

うり。

今日から三年生。
私は二年生になった。

少し離れた場所で友人たちと話しているだけなのに、
その姿を見つけると自然と胸が温かくなる。

目が合った。
ほんの一瞬。
うりの目元が少しだけ緩む。
私も小さく笑った。

それだけ。

学校では変わらず、先輩と後輩。

それなのに、その短い視線だけで昨日交わしたショートメッセージまで思い出せる。

『二年生おめでとう』

『うりも三年生おめでとう』

以前なら、「先輩」と書いていたメッセージも
最近は二人きりなら、少しずつ「うり」と自然に呼べるようになってきた。

そんな小さな変化が、嬉しかった。

「えとさん?」

「え?」

のあさんが私の顔を覗き込んでいる。

「何か嬉しいことありました?」

「な、なんで?」

「すごく楽しそうな顔してたので」

「春だからじゃない?」

「ふふ……そういうことにしておきますね」

のあさんは意味ありげに笑った。
私は慌てて前を向く。

危ない。

最近、少し気が緩んできている気がする。
付き合っていることは、まだ誰にも言っていない。
親友ののあさんにも……。

――いつか。

うりが卒業する頃には。
そんな未来をぼんやり考えながら、私は校舎へ入った。

 
その日の体育館では、入学式が行われていた。
新一年生たちが新しい制服に身を包み、少し緊張した表情で座っている。
私たち二年生は直接参加しないけれど、廊下を歩けば新入生の姿があちこちに見えた。

「どんな子が入ってくるんだろうね」

放課後。

ゲーム同好会の部屋で、私は机の上へ新入生勧誘用のチラシを広げながらつぶやいた。
ゲーム画面やキャラクターを描いた、手作りのチラシ。
文化祭のときと同じように、新入生向けの体験会をすることになっている。

「ゲーム好きな子、来てくれるといいな」

部員とそんな話をしていると。
コンコン。
扉が二度ノックされた。

「どうぞー」

顔を上げる、開いた扉の向こう。
一人の男子生徒が立っていた。

黒に赤いメッシュが入った髪。
少し大人びた顔立ち。
私たちと同じだけど真新しい制服。

一瞬。

誰だったか思い出せなかった。
けれど、相手がこちらを見て目をわずかに大きくした瞬間。
あの日の景色が蘇った。

文化祭。

階段の踊り場。
学校案内を握っていた中学生。
そして、ゲームの不具合を直してくれた――。

「……ゆあんくん?」

声に出すと、相手の表情がぱっと明るくなった。

「えとさん!」

思わず椅子から立ち上がる。

「本当に入学したの!?」

「はい」

「すごい!」

 声が弾んだ。

「合格したんだね。おめでとう!」

「ありがとうございます」

ゆあんくんは少し照れたように笑った。
文化祭で会ったときより、またほんの少し背が伸びたような気がする。
制服が変わったせいだろうか。
以前よりさらに大人びて見えた。

「この学校に決めたんだ!そっかぁ」

なんだか、自分のことのように嬉しい。

あの日。

進路に迷っていたゆあんくんへ、私はほんの少し話をしただけだ。
それでも、あのあとちゃんと考えて、この学校を選んだのだと思うと、胸が温かくなった。

「また会えたね」

何気なく言う。
すると、ゆあんくんが一瞬だけ黙った。

「……はい」

その返事は、なぜか少しだけ噛みしめるように聞こえた。



 
 
♦︎



 

入学式なんて、正直ほとんど頭に入っていなかった。
校長が何を話していたのかも。
担任がどんな自己紹介をしたのかも。

覚えているのは。

体育館を出たあと、校舎の窓から見えた桜の花びらくらいだ。

半年前。

文化祭で初めてこの学校へ来た。
あの頃の俺は、ここを受けるかどうか本気で迷っていた。
学校なんて、どこへ行っても似たようなものだと思っていた。

勉強して。
部活して。
卒業する。

それだけ。

自分が三年間過ごしている姿なんて、どの学校を見ても想像できなかった。
そんなとき。
階段の踊り場で声をかけてきた人がいた。

長いオレンジ色の髪。

第一印象は笑顔が向日葵みたいな人。
知らない中学生だった俺の進路の話を、適当に流さず聞いてくれた。

『生徒がどんな顔してるか見てみたら?』

『自分もその中にいたいって思えるかどうか』

あの言葉が、ずっと残っていた。
ゲーム同好会で再会したことも。
不具合を直したとき、嬉しそうに笑ってくれたことも。

『じゃあ、合格しないとね』

冗談みたいに言われた言葉に。
俺は、

『しますよ』

と答えた。

あの時にはたぶんもう、自分の中では決まっていたんだと思う。
絶対にここへ来よう、と。
だから、合格通知を見たとき。
家族が喜んでいる横で、一番最初に浮かんだのはあの人だった。

――えとさん。

ただ。
入学するまでの数か月。
一つだけ不安だった。

覚えていてくれるだろうか。
文化祭で一度会っただけの中学生。
そんな相手のことなんて、忘れていてもおかしくない。

だからゲーム同好会の扉を開けた瞬間。

えとさんと目が合って。

「……ゆあんくん?」

名前を呼ばれたとき。
胸の奥が一気に軽くなった。

覚えてた。覚えていてくれた。
それだけで、ここまで来てよかったと思えた。
受験勉強を頑張ってよかったと思えた。

「本当に入学したの!?」

驚いた顔。

「はい」

「すごい!」

なんでこの人は。
人のことでこんなに嬉しそうにできるんだろう。

「合格したんだね。おめでとう!」

「ありがとうございます」

笑って答える。
本当は。

――えとさんに会いたかったから頑張りました。

くらい言ってみたかった。
でも、さすがに言えない。
文化祭で二回話しただけの人。
連絡先も知らない。

それなのに、受験勉強をしていると、ときどき顔が浮かんだ。

模試の判定が下がったとき。
もう少し安全な学校に変えたら、と言われたとき。

『じゃあ、合格しないとね』

その声を思い出していた。
それが本当にまた会えた。
今度は、文化祭の一日だけじゃない。

同じ学校で。
これから毎日。
そう思っただけで、嬉しかった。

「ゆあんくん、ゲーム同好会見学?」

「そのつもりです」

「入る?」

「えとさんがいるなら」

口から自然に出た。
えとさんがきょとんとする。
部室の中にいた先輩と思わしに男性陣が一瞬ざわつく。

「私?」

「文化祭のとき楽しかったし」

少しだけ言い直す。
さすがに今の言い方は変だったかもしれない。
でも、えとさんは特に気にした様子もなく笑った。





♦︎



 


ゆあんくんは、その日の体験会に最後まで残った。
というよりすぐに馴染んだ。
ゲームが上手いのは文化祭のときから知っていたけれど、やっぱり飲み込みが早い。
初めて触るタイトルでも、少し操作しただけでコツを掴んでしまう。

「ゆあんくん、そこ右!」

「分かってます」

「後ろ後ろ!」

「えとさんの方が危ないですよ」

「えっ、嘘――わぁ!」

画面の中で自分のキャラクターが敵に囲まれる。

「だから言ったのに」

ゆあんくんが笑いながら助けに入る。

「あ、ありがとう……」

「えとさん、前より下手になってません?」

「なってない!」

「なってます」

「先輩に向かって失礼!」

言い返しながら、私も笑う。
なんだか不思議だった。
半年前には、進路に悩んで一人で立っていた中学生が。
今はこうして隣に座り、同じ制服を着てゲームをしている。

「良かったね、えとさん」

後ろから聞こえた声に振り返る。
うりが立っていた。

「うり先輩」

「文化祭の時の子だろ?」

「あ、覚えてたんですね」

「まぁ」

うりがゆあんくんを見る。
ゆあんくんも椅子から少しだけ身体をひねり、うりを見上げた。

文化祭以来の二人。

「合格したんだな」

「はい」

「おめでとう」

「ありがとうございます」

普通の会話。
なのに、なぜだろう。
二人の間に、ほんの少しだけ変な間がある気がした。

「ゆあんくん、ゲーム同好会入ってくれそうですよ」

私が言うと。
うりの視線が、ゆあんくんから私へ移った。

「へぇ」

「ゲームすごく上手なんです」

「それは文化祭の時に聞いたよ」

「サーバーのことも詳しいし、助かりますよね」

「……えとさん、ずいぶん詳しいね」

「さっき一緒にゲームしてたから」

何でもないことを答えただけなのに。
うりが少しだけ複雑そうな顔をしたけど
私にはその理由は分からなかった。

「うり先輩もやります?」

「いや。今日は軽音の方あるから」

「そっか」

残念。
少しだけそう思った。
けれど学校では仕方ない。

「じゃあまたあとで」

そう言いかけて、慌てて止める。
学校では先輩と後輩。

「……また今度ゲームしましょうね」

言い直すと、うりは一瞬だけこちらを見つめてから笑った。

「うん。またな」

それだけ言って、部屋を出ていく。
その後ろ姿を見送り。

「えとさん」

「ん?」

「仲いいですね」

ゆあんくんが言った。
心臓が跳ねる。

「だ、誰と?」

「今の先輩」

「あぁ、うり先輩?」

できるだけ普通に答える。

「ゲーム同好会で一年一緒だったからね」

「それだけ?」

「え?」

思わずゆあんくんを見る。
ゆあんくんは、こちらをじっと見ていた。
文化祭のときにも感じた。
この子は、人の表情をよく見ている。

「……どういう意味?」

聞くと、ゆあんくんは少し考えてから首を振った。

「別に」

「何それ」

「何でもないです」

「気になるんだけど」

「ゲーム続きやりましょう」

「ごまかした!」

笑いながら、また画面を見る。
けれど、胸の奥には、ほんの小さな焦りが残った。

まさか。

バレた?

いや。

そんなはずはない。

学校では気をつけている。
うりだって、誰かがいる場所では特別な態度を取らない。
約一年それで通してきたし、誰にも不審がられたことはなかった。
それが今日久しぶりに数分やりとりをしたゆあんくんにバレるわけがない。
きっと、ただ仲がいいと思っただけ。

そう自分に言い聞かせた。





♦︎



 

やっぱり。
文化祭のときから思っていた。
あの栗色の髪の先輩。
名前は、うり。

えとさんがあの人を見るときだけ、少し表情が違う。

ほんの少し。
本人も気づいていないくらい。
声が柔らかくなる。
目が嬉しそうになる。

そして。

それは、うり先輩の方も同じだった。
えとさんが俺とゲームをしている間。
何でもない顔をしていたけど。
視線は何度もこっちへ向いていた。

あれは。

ただお気に入りの後輩を見ている目じゃない。

「ゲーム同好会で一年一緒だったから」

えとさんはそう言った。
それだけ。なら、それ以上聞く理由もない。
それに、もし二人が本当に何かあるならそのうち分かる。

急ぐ必要はない。
これから時間はあるんだから。
そう考えたところで、自分の思考に引っかかった。

どうして俺はえと先輩と関わる前提で考えているんだろう。

文化祭で会ったとき。
この人にまた会いたいと思った。
今日再会して。
もっと話したいと思った。

ゲームを一緒にすると楽しい。

笑ってもらえると嬉しい。

それだけ。

――それだけ、だよな??

「ゆあんくん?」

画面を見つめたまま止まっていたらしい。
えと先輩が顔を覗き込んでいる。

「大丈夫?」

距離が近い。
オレンジ色の髪が肩からさらりと落ちる。
ヘアオイルの香だろうか、わずかに金木犀の香りが鼻腔をくすぐった。

「……近いです」

「え?」

「いや、何でもない」

少し椅子を引く。
胸が妙にうるさい。
えとさんは不思議そうに首を傾げてから、すぐゲームへ視線を戻した。

きっとえとさんは何も分かっていない。
俺自身だって、まだよく分かっていない。

ただ。

「えとさん」

「なに?」

「俺、ここ入ります」

「ゲーム同好会?」

「はい」

「本当?」

ぱっと顔が明るくなる。

「やった。これから一緒にできるね」

その笑顔を見た瞬間。
さっきまで考えていたことなんて、どうでもよくなった。

「……はい」

この学校を選んでよかった。
ゲーム同好会に来てよかった。
もっと、この人のことを知りたい。

その気持ちは。

まだ名前をつけるには、少し早かった。





♦︎




 

その日の帰り。
校門を出て少し歩いたところで、スマホが震えた。

画面を見る。

うりからだった。

『今どこ?』

周囲を確認してから返信する。

『校門出たところ』

数秒後。

『待ってて』

思わず笑ってしまう。
少しして。
栗色の髪が坂道を下りてきた。
学校が見えなくなる場所まで、二人とも何も言わずに歩く。

角を曲がったところで。
うりが隣へ並んだ。

「お疲れ」

「お疲れ」

学校の外。
今日は、もう敬語じゃなくていい。
うりが自然に私の手を取る。
その温かさに、ほっとする。

「ゆあんくん、本当に入ってきたね」

私が言うと。
うりの顔がわずかに曇った。

「……嬉しそうだな」

「嬉しいよ。文化祭のとき進路で悩んでたの聞いていたから」

「ふーん」

「何その反応」

「別に」

明らかに別にではない。

「もしかして」

少し笑いながら顔を覗き込む。

「また嫉妬してる?」

「してない」

即答。

「嘘」

「……まだしてない」

「まだ?」

思わず笑う。
うりは少し不満そうに私を見る。

「あいつ、文化祭のときから妙にえとさんに懐いてるじゃん」

「後輩でしょ」

「えとさんって、本当にそういうところ鈍いよね」

「何が?」

「ほら」

ため息をつかれる。

「ゆあんくんは、文化祭でたまたま知り合った子だよ」

「それが今日から同じ学校」

「うん」

「同じ同好会」

「うん」

「で、ゲーム好き」

「そう」

「……最悪だ」

「なんで!?」

思わず声を上げると、うりが笑った。

「冗談」

「うそ、絶対ちょっと本気だったでしょ」

「ちょっとだけ」

手を繋いだまま歩く。
春の風が、二人の間を通り抜けていった。

「でも」

うりがふと真面目な声になる。

「えとさんが嬉しいなら、いいよ」

「?」

「あいつが入学したこと」

少し驚いて見上げる。

「文化祭のとき、進路の相談乗ってたんだろ」

「うん」

「その子がちゃんと合格して、また会えたんだから。そりゃ嬉しいよな」

そう言って、少しだけ笑う。
やっぱり。
この人は優しい。
嫉妬しているくせに。
自分の気持ちだけで、私の人間関係を狭めようとはしない。

「ありがとう」

「何が?」

「なんとなく」

私は繋いだ手を、離してうりの腕に抱きついた。
うりが驚いたようにこちらを見る。

「どうした?」

「別に」

今度は私がそう返す。
少しだけ仕返し。
うりは困ったように笑ったあと、反対の手でポリポリと鼻の頭をかいた。

その日。

私は、文化祭で出会った後輩との再会を純粋に喜んでいた。
ゆあんくんは、この学校で新しい生活を始めた。
うりは、そんな状況に警戒した。

まだ何も始まっていない。

ゆあんくん自身でさえ。
自分の中に芽生え始めた気持ちの名前を知らなかった。

ただ。

春の陽射しの中。

少しずつ。

それぞれの距離が、変わり始めていた。
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