エルデナ王国物語
朝と夜の境目、空はまだ紫がかっていた。
地平線の向こうから、太陽が姿を現そうとしている。
「私……戻るよ」
ぽつりと零れた声は、風に消えそうだった。
「あぁ。戻ろう」
即座に返ってきたのは、隣に立つうりの声だった。
うりは、いつものように黒いフード付きのローブを身に纏い防具も最低限だった。
私は視線を伏せる。
胸の奥が、痛いほど締めつけられた。
うりは、先ほど、すべてを話してくれた。そして自分の背中を押してくれた。
「……ごめんね」
その言葉しか、言えなかった。
うりは苦笑した。そして腰につけていたバックパックを私へと差し出す。
回復ポーション、食料、地図。あと――
最後に、エンダーパールを一つ。
「城までの道のりは、オレが手伝う
それ(エンダーパール)はえとさん、ドジだからお守り。
ピンチの時に安全だと思う方向めがけて思いっきり投げろ。オレが絶対、助けるから」
私は、それを素直に受け取った。
もう、逃げない。
魔法がなくても。
現実に向き合えずに何も言わずに逃げてしまった私のことを皆怒っているかもしれないけど。
怖くても。逃げないと決心がついた。
「うん。ありがとね…うり。」
こうして、私とうりのエルデナ王国へ帰還する旅がはじまった。
道中、何度も転び、何度も立ち上がった。
モンスターに遭遇すれば、うりが前に立ち、私はいつものように攻撃魔法を出す癖がでるが
思いとは裏腹に何も発動されない手を握りしめるだけだった。
2日かけて歩いてやがて見えてきたのは、宝石岩で築かれた巨大な城――
エルデナ城。
夜明けの光を受けて、その白い壁が輝いていた。
数か月前、涙しながら背を向けて出て行ったここへまた戻ってくることになるとは思ってもいなかった。
「着いたな」
うりは、足を止めた。
「オレは、ここまで……な」
「……ありがとう」
うりは、ただ頷く。
「ゆあんくんのところへ行ってやれ。」
私は、うりに深く一礼してから、城門へと駆け出した。
挨拶もなく飛び出してしまったにもかかわらず、
じゃぱぱ王は私が、ゆあんくんのお見舞いに来たことを知ると、快く城内へと向かい入れてくれた。
ゆあんくんは倒れたあと、場内に薬学と医療の知識がある
なおきりさんがいることから城の一室で休ませているとのことだった。
けれど、倒れからずっと目を覚ましていないことも告げられた。
エルデナ城の奥、来客用でも玉座の間でもない、静かな一室。
分厚い石の壁に囲まれたその部屋は、外の世界から切り離されたように、音がなかった。
扉を押し開けた瞬間、私は足を止めた。
――いる。
ベッドの上に、ゆあんくんが眠っている。
白いシーツの上で、胸がわずかに上下している。
それだけで、生きているのだと分かるのに、怖くて近づけなかった。
会えないと思っていた。
もう二度と、その顔を見ることはないのだと。
エンダードラゴンとの戦いのあと、消息を絶ったのは自分だった。
討伐へ向かう前、連日連夜、悪夢にうなされてゆあんくんとうりが戦いの中で命を落とす夢を見て
何としても阻止しようと寝る間も惜しんで生み出した生命の再生魔法「リスポーン」
あの激戦の最中にちゃんと発動して、結果として私の魔力をすべて使い果たし
2人を失うことにならなかったことに対して悔いはない。
けれど、いざ魔力を失い、役に立たなくなった自分が、空しくて…
レッドアイの…みんなの傍にいる資格はない――そう思い込んで、逃げた。
エンドラ討伐が成功すれば、ゆあんくんは次期エルデナ国の王様になることは間違いなかった
幼いころにのあさんに読み聞かせてもらった冒険物語にも出てくるような
ドラゴンを倒した勇者と、お姫様の結婚する未来がすぐそこにあるのだと......。
私はいつもどこかで、ゆあんくんへの恋心に気づかないように蓋をして
同じ冒険をする仲間としてこの感情は友情なのだと思い込もうとしていた。
でも、いざ「魔法が使えなくなった私」がその光景を目の当たりにするのは
とてもじゃないけど無理だと思って、逃げた。
唯一、側にいられる理由を失った私には無理だと.......。
「……忘れようって、思ったのに」
誰に聞かせるでもなく、私は小さく呟いた。
一歩、また一歩。
代理石の床を踏む音が、やけに大きく響く。
ベッドの傍まで来て、ようやくはっきりと見えた。
ゆあんくんの顔は、青白く、最後に見たときよりも少し痩せていて、いつもより幼く見えた。
辛い戦いの中でいつも彼は、笑っていた。
大丈夫だ、と言っていた。
自分が前に出るから、えとさんは援護してほしい、と。
いざという時は守るから、と。
その笑顔に安堵して、レッドアイの皆、思う存分に力を発揮してきたのだ。
「……嘘つき」
声が震える。
守ると言った人が、こうして動かないままでいるなんて。
私は、ゆあんくんが眠るベッドの脇に膝をついた。
指先が、勝手に動く。
触れていいのか分からないまま、宙をさまよって――
そっと、ゆあんくんの手に触れた。
温かい。
そのぬくもりに、堪えていたものが一気に溢れて頬を伝う。
喉が詰まって、言葉にならない。
もう会えないと思っていた人が、確かにここにいる。
魔法を失った自分には、もう何もできないと思っていた。
回復も、守りも、支えることさえできないと。
それでも。
「ゆあ……ん……くん」
諦めようとしていた恋心は、名前を呼ぶだけで息を吹き返してしまう。
ゆあんくんの手を両手で包み込んだ。
「一緒にいられなくてもいいって、思おうとした。
あなたの世界に、私がいなくても――あなたが笑顔で、幸せでいられるなら」
声が、涙に溶けていくようだった。
すると、ゆあんくんの指が、手の中でかすかに動いた。
私は、息を止める。
「……えと……さん?」
微かな声。
夢の中から、呼び戻されるような。
ゆあんくんの手を両手で握りしめているから頬を伝う涙がぬぐえない。
けれど私は、何度も頷きながら、彼の手を握りしめた。
重い瞼がゆっくりと、動いた。
暗闇の底から、音だけが浮かび上がってくる。
城の静けさ。たいまつの微かな燃える音。
そして――誰かの、泣きそうな息遣い。
視界はぼやけていて、天井の模様がブロックの影みたいに滲む。
夢の続きなのか、現実なのかも分からない。
指先にぬくもりを感じる。
誰かが、必死に繋ぎ止めるように手を握っている。
俺は、また簡単に閉じそうな瞼を開けて視線を動かす。
輪郭の曖昧なその顔が、次第にはっきりしていく。
――ああ、ずっと会いたかった人だ。
「……えと……さん?」
部屋の照明に照らされたオレンジ色の髪の毛はきらきらと輝き
涙で濡らした頬も光が反射して光っていた。
――これは夢の続きなのか?
夢だとしても、えとさんには笑顔でいてもらいたい。
手を伸ばしてえとさんの頬を伝う涙を指でぬぐっていた。
「ゆあんくんは……この世界を救った人だから
この先のエルデナ王国にとって……とても、大切な人だから
もう……何も力を持たない私は、いらないって思った」
えとさんから発せられる言葉が胸に、重く落ちる。
その重みがこれが夢ではないと
現実なのだと教えてくれた。
いま、目の前にいるのはあの日、失ってしまったかと思っていたえとさんだ。
のあさんから話を聞いて、俺も一人で頑張りたいというえとさんを応援しようと思っていたけれど
がむしゃらに働いていないとおかしくなりそうだった。
やるべきことはやる。
完璧にやってやる。
でもやっぱりえとさんがいない世界は俺にとって色褪せた世界で絶望感しかなかった。
腹は減らないし、体を休めようと思っても眠れなくなった。
それでもやる。
やってやると。
がむしゃらに働いていて....。倒れたことを思い出した。
ぼんやりとしていた思考がはっきりすると
俺は勢いよく、ベッドから起き上がり、えとさんに握られていた手に
自分のを重ねて包み込むように握り返した。本能的に逃がしたくない思いが先に行動に現れていた。
「……えとさん……?えっ?これ、現実?」
声が掠れる。
えとさんは、突然俺が起き上がったものだから驚いた様子で目を大きく見開いていたが
何かを覚悟したように言葉をつづけた。
「私の気持ちは……邪魔になるって。傍にいちゃ、いけないって思って……なのに」
えとさんは、唇を噛んだ。そしてまた一粒大きな涙がこぼれた。
「ゆあんくんが倒れたって聞いたとき、すごく……怖かった
また……大切な人が、いなくなるんじゃないかって……」
えとさんの言葉をただただ聞いていた。
俺は握っていた手に、力がこもる。
本当はまだ、寝起きでまだ意識がぼんやりとしているかもしれないけれど
胸の奥に浮かぶ伝えたい想いは、はっきりしていた。
「……俺はさ」
ゆっくり、言葉を紡ぐ。
えとさんと視線が合う。
「世界を救った英雄でも、なんでもないよ。えとさんがいないと……眠れないし、ご飯も食べられない
情けないくらい、弱い男だ」
自嘲気味に、少し笑う。
「……ばか」
えとさんの声は、泣き笑いだった。
その一言が、胸にじんわりと染みる。
俺は、包み込んでいた手を放しえとさんの腕を掴み、自分のほうへと引き寄せた。
えとさんの身体が、前に倒れ込む。
「……勝手に、自分を否定して俺から、離れないでよ」
倒れこんできたえとさんにそっと腕を回し抱きしめた。
胸の中にすっぽりと納まってしまう彼女が逃げないように。
心臓の音が、すぐ近くで聞こえる。
弱くて、不安定で――でも、確かに生きている音。
「……好きだよ」
耳元で、囁く。
「欲しいのは……えとさんだけだ」
あの日、告げたかった想いを伝える。
だいぶ遠回りしたけどやっと。
「………………ゆあんくん、私ね……」
えとさんの声が、少しだけ震えていた。
「……怖かった。魔法を失って、あなたの隣に立てなくなった自分が。
何もできない私は、もう必要とされないんじゃないかって、だから、離れようとした。
この想いも、なかったことにしようとした。 でも……無理だった
……私も、ゆあんくんが好き」
その言葉は、はっきりと、揺るがずに俺の胸の中に落ちた。
背中に回す腕に力を込める。
「……もう、俺の前からいなくならないで」
「……うん」
「……嫌だって言ってももう、離さないよ」
「……うん、離さないで」
掠れた笑い声が漏れる。
えとさんの額に自分の額をそっと重ねた。
視界が……にじみそうだ。
「……キス、してもいい?人工呼吸じゃないやつ……」
えとさんは、少し照れたように目を伏せてから、静かに答えた。
「……うん」
ゆっくりと、唇が近づく。
触れたのは、ほんの一瞬だった。
離れたあと、二人は微笑み合う。
「……現実だよな」
「……うん」
「もう一回……いい?」
えとさんは返事の代わりに、俺の背中に腕を回してきた。
短く、何度も。
触れては離れ、また触れる。
唇が重なるたび、心の不安が少しずつほどけていく。
静かな部屋で、時間だけがゆっくり流れる。
数える意味のないほど、何度も。
Fin
地平線の向こうから、太陽が姿を現そうとしている。
「私……戻るよ」
ぽつりと零れた声は、風に消えそうだった。
「あぁ。戻ろう」
即座に返ってきたのは、隣に立つうりの声だった。
うりは、いつものように黒いフード付きのローブを身に纏い防具も最低限だった。
私は視線を伏せる。
胸の奥が、痛いほど締めつけられた。
うりは、先ほど、すべてを話してくれた。そして自分の背中を押してくれた。
「……ごめんね」
その言葉しか、言えなかった。
うりは苦笑した。そして腰につけていたバックパックを私へと差し出す。
回復ポーション、食料、地図。あと――
最後に、エンダーパールを一つ。
「城までの道のりは、オレが手伝う
それ(エンダーパール)はえとさん、ドジだからお守り。
ピンチの時に安全だと思う方向めがけて思いっきり投げろ。オレが絶対、助けるから」
私は、それを素直に受け取った。
もう、逃げない。
魔法がなくても。
現実に向き合えずに何も言わずに逃げてしまった私のことを皆怒っているかもしれないけど。
怖くても。逃げないと決心がついた。
「うん。ありがとね…うり。」
こうして、私とうりのエルデナ王国へ帰還する旅がはじまった。
道中、何度も転び、何度も立ち上がった。
モンスターに遭遇すれば、うりが前に立ち、私はいつものように攻撃魔法を出す癖がでるが
思いとは裏腹に何も発動されない手を握りしめるだけだった。
2日かけて歩いてやがて見えてきたのは、宝石岩で築かれた巨大な城――
エルデナ城。
夜明けの光を受けて、その白い壁が輝いていた。
数か月前、涙しながら背を向けて出て行ったここへまた戻ってくることになるとは思ってもいなかった。
「着いたな」
うりは、足を止めた。
「オレは、ここまで……な」
「……ありがとう」
うりは、ただ頷く。
「ゆあんくんのところへ行ってやれ。」
私は、うりに深く一礼してから、城門へと駆け出した。
挨拶もなく飛び出してしまったにもかかわらず、
じゃぱぱ王は私が、ゆあんくんのお見舞いに来たことを知ると、快く城内へと向かい入れてくれた。
ゆあんくんは倒れたあと、場内に薬学と医療の知識がある
なおきりさんがいることから城の一室で休ませているとのことだった。
けれど、倒れからずっと目を覚ましていないことも告げられた。
エルデナ城の奥、来客用でも玉座の間でもない、静かな一室。
分厚い石の壁に囲まれたその部屋は、外の世界から切り離されたように、音がなかった。
扉を押し開けた瞬間、私は足を止めた。
――いる。
ベッドの上に、ゆあんくんが眠っている。
白いシーツの上で、胸がわずかに上下している。
それだけで、生きているのだと分かるのに、怖くて近づけなかった。
会えないと思っていた。
もう二度と、その顔を見ることはないのだと。
エンダードラゴンとの戦いのあと、消息を絶ったのは自分だった。
討伐へ向かう前、連日連夜、悪夢にうなされてゆあんくんとうりが戦いの中で命を落とす夢を見て
何としても阻止しようと寝る間も惜しんで生み出した生命の再生魔法「リスポーン」
あの激戦の最中にちゃんと発動して、結果として私の魔力をすべて使い果たし
2人を失うことにならなかったことに対して悔いはない。
けれど、いざ魔力を失い、役に立たなくなった自分が、空しくて…
レッドアイの…みんなの傍にいる資格はない――そう思い込んで、逃げた。
エンドラ討伐が成功すれば、ゆあんくんは次期エルデナ国の王様になることは間違いなかった
幼いころにのあさんに読み聞かせてもらった冒険物語にも出てくるような
ドラゴンを倒した勇者と、お姫様の結婚する未来がすぐそこにあるのだと......。
私はいつもどこかで、ゆあんくんへの恋心に気づかないように蓋をして
同じ冒険をする仲間としてこの感情は友情なのだと思い込もうとしていた。
でも、いざ「魔法が使えなくなった私」がその光景を目の当たりにするのは
とてもじゃないけど無理だと思って、逃げた。
唯一、側にいられる理由を失った私には無理だと.......。
「……忘れようって、思ったのに」
誰に聞かせるでもなく、私は小さく呟いた。
一歩、また一歩。
代理石の床を踏む音が、やけに大きく響く。
ベッドの傍まで来て、ようやくはっきりと見えた。
ゆあんくんの顔は、青白く、最後に見たときよりも少し痩せていて、いつもより幼く見えた。
辛い戦いの中でいつも彼は、笑っていた。
大丈夫だ、と言っていた。
自分が前に出るから、えとさんは援護してほしい、と。
いざという時は守るから、と。
その笑顔に安堵して、レッドアイの皆、思う存分に力を発揮してきたのだ。
「……嘘つき」
声が震える。
守ると言った人が、こうして動かないままでいるなんて。
私は、ゆあんくんが眠るベッドの脇に膝をついた。
指先が、勝手に動く。
触れていいのか分からないまま、宙をさまよって――
そっと、ゆあんくんの手に触れた。
温かい。
そのぬくもりに、堪えていたものが一気に溢れて頬を伝う。
喉が詰まって、言葉にならない。
もう会えないと思っていた人が、確かにここにいる。
魔法を失った自分には、もう何もできないと思っていた。
回復も、守りも、支えることさえできないと。
それでも。
「ゆあ……ん……くん」
諦めようとしていた恋心は、名前を呼ぶだけで息を吹き返してしまう。
ゆあんくんの手を両手で包み込んだ。
「一緒にいられなくてもいいって、思おうとした。
あなたの世界に、私がいなくても――あなたが笑顔で、幸せでいられるなら」
声が、涙に溶けていくようだった。
すると、ゆあんくんの指が、手の中でかすかに動いた。
私は、息を止める。
「……えと……さん?」
微かな声。
夢の中から、呼び戻されるような。
ゆあんくんの手を両手で握りしめているから頬を伝う涙がぬぐえない。
けれど私は、何度も頷きながら、彼の手を握りしめた。
重い瞼がゆっくりと、動いた。
暗闇の底から、音だけが浮かび上がってくる。
城の静けさ。たいまつの微かな燃える音。
そして――誰かの、泣きそうな息遣い。
視界はぼやけていて、天井の模様がブロックの影みたいに滲む。
夢の続きなのか、現実なのかも分からない。
指先にぬくもりを感じる。
誰かが、必死に繋ぎ止めるように手を握っている。
俺は、また簡単に閉じそうな瞼を開けて視線を動かす。
輪郭の曖昧なその顔が、次第にはっきりしていく。
――ああ、ずっと会いたかった人だ。
「……えと……さん?」
部屋の照明に照らされたオレンジ色の髪の毛はきらきらと輝き
涙で濡らした頬も光が反射して光っていた。
――これは夢の続きなのか?
夢だとしても、えとさんには笑顔でいてもらいたい。
手を伸ばしてえとさんの頬を伝う涙を指でぬぐっていた。
「ゆあんくんは……この世界を救った人だから
この先のエルデナ王国にとって……とても、大切な人だから
もう……何も力を持たない私は、いらないって思った」
えとさんから発せられる言葉が胸に、重く落ちる。
その重みがこれが夢ではないと
現実なのだと教えてくれた。
いま、目の前にいるのはあの日、失ってしまったかと思っていたえとさんだ。
のあさんから話を聞いて、俺も一人で頑張りたいというえとさんを応援しようと思っていたけれど
がむしゃらに働いていないとおかしくなりそうだった。
やるべきことはやる。
完璧にやってやる。
でもやっぱりえとさんがいない世界は俺にとって色褪せた世界で絶望感しかなかった。
腹は減らないし、体を休めようと思っても眠れなくなった。
それでもやる。
やってやると。
がむしゃらに働いていて....。倒れたことを思い出した。
ぼんやりとしていた思考がはっきりすると
俺は勢いよく、ベッドから起き上がり、えとさんに握られていた手に
自分のを重ねて包み込むように握り返した。本能的に逃がしたくない思いが先に行動に現れていた。
「……えとさん……?えっ?これ、現実?」
声が掠れる。
えとさんは、突然俺が起き上がったものだから驚いた様子で目を大きく見開いていたが
何かを覚悟したように言葉をつづけた。
「私の気持ちは……邪魔になるって。傍にいちゃ、いけないって思って……なのに」
えとさんは、唇を噛んだ。そしてまた一粒大きな涙がこぼれた。
「ゆあんくんが倒れたって聞いたとき、すごく……怖かった
また……大切な人が、いなくなるんじゃないかって……」
えとさんの言葉をただただ聞いていた。
俺は握っていた手に、力がこもる。
本当はまだ、寝起きでまだ意識がぼんやりとしているかもしれないけれど
胸の奥に浮かぶ伝えたい想いは、はっきりしていた。
「……俺はさ」
ゆっくり、言葉を紡ぐ。
えとさんと視線が合う。
「世界を救った英雄でも、なんでもないよ。えとさんがいないと……眠れないし、ご飯も食べられない
情けないくらい、弱い男だ」
自嘲気味に、少し笑う。
「……ばか」
えとさんの声は、泣き笑いだった。
その一言が、胸にじんわりと染みる。
俺は、包み込んでいた手を放しえとさんの腕を掴み、自分のほうへと引き寄せた。
えとさんの身体が、前に倒れ込む。
「……勝手に、自分を否定して俺から、離れないでよ」
倒れこんできたえとさんにそっと腕を回し抱きしめた。
胸の中にすっぽりと納まってしまう彼女が逃げないように。
心臓の音が、すぐ近くで聞こえる。
弱くて、不安定で――でも、確かに生きている音。
「……好きだよ」
耳元で、囁く。
「欲しいのは……えとさんだけだ」
あの日、告げたかった想いを伝える。
だいぶ遠回りしたけどやっと。
「………………ゆあんくん、私ね……」
えとさんの声が、少しだけ震えていた。
「……怖かった。魔法を失って、あなたの隣に立てなくなった自分が。
何もできない私は、もう必要とされないんじゃないかって、だから、離れようとした。
この想いも、なかったことにしようとした。 でも……無理だった
……私も、ゆあんくんが好き」
その言葉は、はっきりと、揺るがずに俺の胸の中に落ちた。
背中に回す腕に力を込める。
「……もう、俺の前からいなくならないで」
「……うん」
「……嫌だって言ってももう、離さないよ」
「……うん、離さないで」
掠れた笑い声が漏れる。
えとさんの額に自分の額をそっと重ねた。
視界が……にじみそうだ。
「……キス、してもいい?人工呼吸じゃないやつ……」
えとさんは、少し照れたように目を伏せてから、静かに答えた。
「……うん」
ゆっくりと、唇が近づく。
触れたのは、ほんの一瞬だった。
離れたあと、二人は微笑み合う。
「……現実だよな」
「……うん」
「もう一回……いい?」
えとさんは返事の代わりに、俺の背中に腕を回してきた。
短く、何度も。
触れては離れ、また触れる。
唇が重なるたび、心の不安が少しずつほどけていく。
静かな部屋で、時間だけがゆっくり流れる。
数える意味のないほど、何度も。
Fin