ー奇談ー學校へ行こう6

ー教室ー

毎夜行われる、浮き世離れした夜の授業。
今日も取り壊されないまま、時代から取り残された廃校で授業が始まろうとしていた。

悠「どうも肌寒いのか暑いのか区別しにくい気温だな」

摩耶「ところにより夏日だしね」

悠「長袖にすべきか半袖にすべきかなやむ」

神姫「半袖に上着を着れば良いだけでしょ」

悠「それはちょっと……」

亘理『なんで拒否?』

千世子「はーい、じゅぎょーしますのだ。呂布は三国志最強の武将とされるが、呂布が乗っていたという馬「赤兎馬」も名馬として名高いのだ。当時の人々は「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と語りあったのだ。これは「人なら呂布が一番強く、馬なら赤兎馬が一番早い」という意味なのだ。」

悠「人中は痛い」

摩耶「そっちの人中じゃないよね」

悠「馬もいいけど熊に乗りたいよな」

雨「金太郎か」

悠「くーまにまたがりお馬の稽古」

千世子「赤兎馬は『正史』では、呂布の乗馬だったという記述しかないのだ。『演義』での赤兎馬は「身体は火のように赤く、一日で千里を駆けることが出来た」と、大幅な脚色が加えられているのだ。さらに『演義』では、赤兎馬はもともと董卓が所有しており、董卓が呂布を自分の配下に加えるため呂布に与えた、という設定になっているのだ。」

亘理『千里ってどのくらいなの?』

悠「役3940キロメートル」

神姫「直線距離で北海道の 宗谷岬から台湾の南端くらいまでよ」

亘理『想像できない』

悠「母を訪ねて三千里だと11,700キロメートルだな」

摩耶「普通に歩いて行こうとする距離じゃないよね」

千世子「『演義』では、赤兎馬は呂布の死後、関羽の乗馬となっているのだ。関羽が呉によって打ち取られると、赤兎馬は関羽を討ち取った人物が所有するが、赤兎馬は食事を一切取らなくなり、数日で死んだのだ。中国では関羽の人気が非常に高いこともあってか、赤兎馬は呂布よりも関羽と一緒に描かれることが多いのだ。愛する赤兎馬が弟呼ばわりしていた者(劉備)の部下の愛馬として知られているというのは、呂布にとってはなんとも口惜しいところだろうなのだ。」

亘理『赤い馬かぁ』

悠「赤い馬は見たことないが白馬ならちょくちょく見てる」

亘理『動物園が近いとか?』

悠「いいや、自転車がわりに馬に乗ってる奴が知り合いに要るだけだ」

摩耶「銀シャリ号のことだね」

亘理『女がらみ?』

悠「……」

神姫「そうよ」

亘理『やっぱりかこの野郎!!』

悠「いやいや、別に女がらみって事でもないし」

千世子「話しは変わって、一般に「赤兎馬」といえば、呂布や関羽が騎乗した馬のことをあらわすのだ。しかし、『演義』では、異民族の指導者「猛獲」やその妻祝融が乗ってい馬の名前も「赤兎馬」と呼ばれているのだ。このことから、元から赤兎馬とは馬の種類をあらわす言葉ではないか、ていう意見があるのだ。」

摩耶「それでも女がらみだよね」

悠「新が乗ってるからそうなんだろうけどそのいい方やめれって」

亘理『本当に女がらみばっかりか!』

悠「違うってのたまたまだっーの」

神姫「呆れるわよね」

悠「おかしいぞ、糾弾されだした理由がわけわかめだ」

千世子「『演義』によれば、赤兎馬とは「汗血馬」という種類の馬だというのだ。汗血馬は「血を流すまで走る」あるいは「血のような汗を流す」大型の馬で、中国の西、中国の西、中悠アジア地域が原産だというのだ。現代科学に考えて「汗血馬」とは何かを考えると、皮膚に皮膚に寄生虫がついた馬は、激しく運動すると皮膚から血を流すことが知られているのだ。この寄生虫は馬の体力をほとんど低下させないため、古代中国人はこのように虫に寄生された馬を「汗血馬」と呼んで珍重した可能性もありうるのだ。以上、呂布のじゅぎょーだったのだ。」
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