ー奇談ー學校へ行こう3
ー教室ー
毎夜行われる、浮き世離れした夜の授業。
今日も取り壊されないまま、時代から取り残された廃校で授業が始まろうとしていた。
千世子「あれ、摩耶君がいないのだ。」
要「珍しいな。遅刻と欠席は無いのに」
悠「あー、なんか、暫く休むってさ。」
千世子「そうなのだ?」
悠「あぁ、なんか用事が出来たらしい。目処がつくまでは休むってさ。」
千世子「残念なのだ。」
悠「摩耶だって色々あるさ。すぐ戻ってくるって……ほら、授業始めろよ」
千世子「はーいなのだ。じゃ昨日の続きからなのだ。本来ありがたい物であるはずの衣やお経等の仏具が妖怪化されたのはなぜだろうか?なのだ。」
神姫「摩耶はなにかあったの?」
悠「さぁ「野暮な用事、野暮用が出来たから~」っていわれた。」
亘理『野暮用ってなに?』
悠「いや、だから、聞いてないって」
雨「友達って言ってるわりに聞いてないの?」
悠「友達じゃねぇよ。親友だ」
千世子「答えは「払子守」の解説文にあるのだ。石燕はここで、日本が平安時代だった九世紀、中国の唐で活躍した僧侶「趙州和尚」の言葉を引用しているのだ。それは「犬にも仏性がある」という言葉なのだ。さらに石燕は、「犬に仏性があるなら、お寺で使われ続けた払子にも仏法があるだろう」と続けているのだ。」
神姫「大々的にそういう事いって恥ずかしくない?」
悠「親友を親友といって恥ずかしいものなどない」
神姫「あっそ」
亘理『分かりやすいくらいに冷めてる』
悠「神姫はアレでノーマル運行だよ」
神姫「ふん」
千世子「石燕は、妖怪という概念そのものには善悪は無いと考えていたらしいのだ。ありがたい妖怪が居ても構わないのだ。」
揺光【それはそうじゃな。妾ら狐も神に仕える者もいれば他人を呪う者もおる。多種多様じゃ】
後楽「働くものも居たら、働かない者もいる」
義鷹「後者は居たらダメな部類だろ」
後楽「働きまくって呪いだらけにしても鎮伏されちゃうだろ。」
千世子「話しは戻るけど、鳥山石燕は勘違いしている可能性があるのだ。実は石燕が引用した話しの原典では、趙州和尚は「犬に仏性はあるか」という質問に対して「ある」「ない」という、まったく相反する答えを返してくるのだ。これはひじょーに哲学的な話で「禅問答」と呼ぶにふさわしいのだ。趙州和尚の真意は各自で判断するしかないけど、「趙州和尚があるといった」と断言する表現は、公平なものとはいえないのだ」
フェイト「禅問答?」
悠「東海にうおあり、頭なく、尾も無く、中の四骨も無い……の答えが何みたいなものだ。」
フェイト「うお?」
悠「さかなのことだ。」
なのは「頭も、尻尾も、骨もないお魚?」
悠「答えは口だ。」
フェイト「え、どうして?」
悠「魚って漢字から、頭と尻尾を取ると田、それから十の四骨を抜けば口」
要「でも、それって禅問答じゃないよな」
悠「にゃーん」
千世子「石燕がこのような妖怪を生み出した背景には、室町時代に盛んになった「付喪神」という概念があるのだ。これは長く使われた道具が変身し、妖怪になるという考えなのだ。室町時代や江戸時代は、今と違って物の少ない時代。道具は道具は大切に使わねばならず、道具に籠る想いのたけは強かったのだろうなのだ。古い物が妖怪に化ける、と考えるのも無理は無いのかもしれないのだ。以上、払子守と木魚ダルマのじゅぎょーだったのだ。」
悠「そういえば木魚を叩く行為は、読経のリズムを整え、修行者の眠気を覚ます目的があるらしいけど決まった調子でポクポク叩かれたら余計眠くなるよな」
毎夜行われる、浮き世離れした夜の授業。
今日も取り壊されないまま、時代から取り残された廃校で授業が始まろうとしていた。
千世子「あれ、摩耶君がいないのだ。」
要「珍しいな。遅刻と欠席は無いのに」
悠「あー、なんか、暫く休むってさ。」
千世子「そうなのだ?」
悠「あぁ、なんか用事が出来たらしい。目処がつくまでは休むってさ。」
千世子「残念なのだ。」
悠「摩耶だって色々あるさ。すぐ戻ってくるって……ほら、授業始めろよ」
千世子「はーいなのだ。じゃ昨日の続きからなのだ。本来ありがたい物であるはずの衣やお経等の仏具が妖怪化されたのはなぜだろうか?なのだ。」
神姫「摩耶はなにかあったの?」
悠「さぁ「野暮な用事、野暮用が出来たから~」っていわれた。」
亘理『野暮用ってなに?』
悠「いや、だから、聞いてないって」
雨「友達って言ってるわりに聞いてないの?」
悠「友達じゃねぇよ。親友だ」
千世子「答えは「払子守」の解説文にあるのだ。石燕はここで、日本が平安時代だった九世紀、中国の唐で活躍した僧侶「趙州和尚」の言葉を引用しているのだ。それは「犬にも仏性がある」という言葉なのだ。さらに石燕は、「犬に仏性があるなら、お寺で使われ続けた払子にも仏法があるだろう」と続けているのだ。」
神姫「大々的にそういう事いって恥ずかしくない?」
悠「親友を親友といって恥ずかしいものなどない」
神姫「あっそ」
亘理『分かりやすいくらいに冷めてる』
悠「神姫はアレでノーマル運行だよ」
神姫「ふん」
千世子「石燕は、妖怪という概念そのものには善悪は無いと考えていたらしいのだ。ありがたい妖怪が居ても構わないのだ。」
揺光【それはそうじゃな。妾ら狐も神に仕える者もいれば他人を呪う者もおる。多種多様じゃ】
後楽「働くものも居たら、働かない者もいる」
義鷹「後者は居たらダメな部類だろ」
後楽「働きまくって呪いだらけにしても鎮伏されちゃうだろ。」
千世子「話しは戻るけど、鳥山石燕は勘違いしている可能性があるのだ。実は石燕が引用した話しの原典では、趙州和尚は「犬に仏性はあるか」という質問に対して「ある」「ない」という、まったく相反する答えを返してくるのだ。これはひじょーに哲学的な話で「禅問答」と呼ぶにふさわしいのだ。趙州和尚の真意は各自で判断するしかないけど、「趙州和尚があるといった」と断言する表現は、公平なものとはいえないのだ」
フェイト「禅問答?」
悠「東海にうおあり、頭なく、尾も無く、中の四骨も無い……の答えが何みたいなものだ。」
フェイト「うお?」
悠「さかなのことだ。」
なのは「頭も、尻尾も、骨もないお魚?」
悠「答えは口だ。」
フェイト「え、どうして?」
悠「魚って漢字から、頭と尻尾を取ると田、それから十の四骨を抜けば口」
要「でも、それって禅問答じゃないよな」
悠「にゃーん」
千世子「石燕がこのような妖怪を生み出した背景には、室町時代に盛んになった「付喪神」という概念があるのだ。これは長く使われた道具が変身し、妖怪になるという考えなのだ。室町時代や江戸時代は、今と違って物の少ない時代。道具は道具は大切に使わねばならず、道具に籠る想いのたけは強かったのだろうなのだ。古い物が妖怪に化ける、と考えるのも無理は無いのかもしれないのだ。以上、払子守と木魚ダルマのじゅぎょーだったのだ。」
悠「そういえば木魚を叩く行為は、読経のリズムを整え、修行者の眠気を覚ます目的があるらしいけど決まった調子でポクポク叩かれたら余計眠くなるよな」