ー特別編ーブラックアウトの夜
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あたしもふざけてやつに向かって両手をあわせた。
こんなことをしていたらあたしまで敬虔な小乗仏教徒になっちゃいそうね。
「あたしんちもお金はあまりないよ。アナタ、五十円ももってないの?」
男の子は慌てて首を横にふった。
「あるけど、つかえないお金だから。じゃあ、今日はいいです。」
会釈して帰ろうとした少年にあたしは声をかけた。
「待ちなよ。アナタ、どこの国からきたの。名前は?」
小柄な少年はあわてて振り向いた。
表情がパッと明るくなっている。
「ビルマから来ました。名前はサヤー・ソーセンナイン」
あたしは白いポリ袋にバナナの山を落として、男の子に差し出した。
「はい。どうぞ、サヤー。持っていっていいよ。」
そこであたしは信じられないものを見た。
ビルマ人の少年は汚れた西一番街の歩道に膝をつき、あたしに両手をあわせ頭を深々と下げたのだ。
夏の厳しい日ざしのなか、サヤーのまわりの空気だけ、ちりやほこりを綺麗にぬぐい去られてきれいに澄んだように見えた。
通行人まで驚いて道を避けていく。
少年はポリ袋を受けとると、西口五差路のほうへ歩いていった。
店の奥にもどったあたしに母がいった。
「リッカ、いったいなにをやったんだい。商売もののメロンでもただでくれてやったわけじゃないだろうね」
あたしは慈悲の心を知らない女にむかって合掌した。
「ひと山五十円の腐りかけのバナナだよ。お賽銭をあげたと思えばやすいもんでしょ。あたしたちの分も神様に祈ってくれるってさー」
母は冷酷な殺人者の目であたしをジッと見てから、階段をあがって二階の部屋に消えた。
信仰はいつだって命がけなのよね。
次の日から商売ものを捨てるまえに、まだ食べられるか調べるのが癖になってしまった。
傷んだパイナップルやバナナだけでなく、売れ残りのリンゴやしぼんでやわになったオレンジにライム。
どうせ生ゴミになるだけなんだから、サヤーの家族がかたづけてくれたほうが果物にとっても嬉しいというものよね。
あたしは甘いにおいを放つポリ袋を用意して、あの少年が来るのを待っていた。
店先のCDラジカセでかけるのは、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ五番。題名は『スプリング』夏なのに春とはこれいかに。
後年の複雑で深遠で偉大な聖歌だって嫌いじゃないけど、あたしはベートーヴェンは初期や中期のほうが積極的に好き。
交響曲なら三、四、五番。
ヴァイオリン・ソナタの全十曲はほとんど三十代までにつくられたもので、心優しいメロディや一丁かましてやろうという幼い覇気に満ちている。
そんな若々しい音楽を薄汚れた池袋の街並みを眺めながらきいているのが、なんだかあたしにはひどく楽しいのよね。
人間も芸術も立派なばかりではやっていられないもの。
こんなことをしていたらあたしまで敬虔な小乗仏教徒になっちゃいそうね。
「あたしんちもお金はあまりないよ。アナタ、五十円ももってないの?」
男の子は慌てて首を横にふった。
「あるけど、つかえないお金だから。じゃあ、今日はいいです。」
会釈して帰ろうとした少年にあたしは声をかけた。
「待ちなよ。アナタ、どこの国からきたの。名前は?」
小柄な少年はあわてて振り向いた。
表情がパッと明るくなっている。
「ビルマから来ました。名前はサヤー・ソーセンナイン」
あたしは白いポリ袋にバナナの山を落として、男の子に差し出した。
「はい。どうぞ、サヤー。持っていっていいよ。」
そこであたしは信じられないものを見た。
ビルマ人の少年は汚れた西一番街の歩道に膝をつき、あたしに両手をあわせ頭を深々と下げたのだ。
夏の厳しい日ざしのなか、サヤーのまわりの空気だけ、ちりやほこりを綺麗にぬぐい去られてきれいに澄んだように見えた。
通行人まで驚いて道を避けていく。
少年はポリ袋を受けとると、西口五差路のほうへ歩いていった。
店の奥にもどったあたしに母がいった。
「リッカ、いったいなにをやったんだい。商売もののメロンでもただでくれてやったわけじゃないだろうね」
あたしは慈悲の心を知らない女にむかって合掌した。
「ひと山五十円の腐りかけのバナナだよ。お賽銭をあげたと思えばやすいもんでしょ。あたしたちの分も神様に祈ってくれるってさー」
母は冷酷な殺人者の目であたしをジッと見てから、階段をあがって二階の部屋に消えた。
信仰はいつだって命がけなのよね。
次の日から商売ものを捨てるまえに、まだ食べられるか調べるのが癖になってしまった。
傷んだパイナップルやバナナだけでなく、売れ残りのリンゴやしぼんでやわになったオレンジにライム。
どうせ生ゴミになるだけなんだから、サヤーの家族がかたづけてくれたほうが果物にとっても嬉しいというものよね。
あたしは甘いにおいを放つポリ袋を用意して、あの少年が来るのを待っていた。
店先のCDラジカセでかけるのは、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ五番。題名は『スプリング』夏なのに春とはこれいかに。
後年の複雑で深遠で偉大な聖歌だって嫌いじゃないけど、あたしはベートーヴェンは初期や中期のほうが積極的に好き。
交響曲なら三、四、五番。
ヴァイオリン・ソナタの全十曲はほとんど三十代までにつくられたもので、心優しいメロディや一丁かましてやろうという幼い覇気に満ちている。
そんな若々しい音楽を薄汚れた池袋の街並みを眺めながらきいているのが、なんだかあたしにはひどく楽しいのよね。
人間も芸術も立派なばかりではやっていられないもの。