ー特別編ードラゴン・オーシャン
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「そういう豊かな国は、世界でもわずかです。改革開放後、中国では医療制度は崩壊しました。それまでは無料だったのに、毎回治療費は現金で前払いしなければいけません。貧しい農村では、誰も病院に行きません。みな、ぎりぎりまで我慢して、手遅れになるほど悪くなるまでは病院に行かないのです。」
昇竜の国の意外な一面だった。それでは医療保険に入っていなければ、病人も外に放り出されるアメリカの医療現場と変わらない。
「腎臓移植に現金で五百万円必要です。わたしはあの工場で、ミシンを踏んでいるわけにはいかなかった。同胞のみんなにはもうし訳ありません。ですが、逃げたのはなにもわたしがもっと豊かに暮らしたいとか、東京で遊びたいとかいう理由ではありません。ここの仕事も若い女性が決して望むようなものではないのです。」
ただ酒の相手をするだけで、短期に五百万も稼ぎだすのは困難なことだろう。客に声をかけられれば、そのあとホテルにも付き合う。ここは高級な連れ出しクラブなのだ。
「そうだったのか」
どうしたらいいのか、まるでわからなくなった。クーを工場に戻せば、クーの母親は腎臓病で死ぬ。クーを戻せなければ、二百四十九人が強制送還される。それぞれの研修生の家庭にはクーと同じような事情があるかもしれない。そのときおれはカウンターに置いてあった募金箱を思い出した。
「もしかして、入口にあった募金って、クーの親父さんの移植費用のためなのか」
クーは恥ずかしげにうなずいた。
「そこまでしてくれなくてもいいといったのですが、スタッフも店の女の子もわたしがかわいそうだといって、募金を始めてくれたんです。このクラブだけでなく、池袋の中華街で募金活動が広がっていると聞きました」
なるほど、不法就労の斡旋を事業の柱にする東龍が、クーを手放したがらないわけだった。圧力に負けてこの女を追い払えば、楊の面子が潰れるだけでなく、収益部門の評判に傷がつく。とことん困っている逃亡者を見殺しにするんだからな。
おれがリンに嘘をついて稼いだ猶予はたった一日。明日中に何とかできるような問題ではなかった。中国の中原・河南省からきた女と同じように、おれも進退きわまってしまった。こんなときには、どんななぐさめの言葉もきかないだろう。おれは単純に事実だけを伝えた。
「茨城の工場に五日後に査察が入る。アンタが消えたことが判明したら、全員が中国へ送還されるだろうし、アンタの捜索が始まるだろう。おれはアンタに母親を見殺しにしろとは言えない。だが、同時に不法就労を続けるのが、いい方法だとも思えない。あと一日だけゆとりがあるんだ。ゆっくりは無理だが、自分で考えて結論を出してくれないか。この店のことは、組合にもリンにもしらせてないんだ。」
おれはそれだけ伝えて、連絡先を書いたメモを残し、クラブを離れた。
おれはその夜、不安を誘う「中国の不思議な役人」を、繰り返し聞いた。きっと三度腹を刺されても死なないのは、人間ではないのだと思った。貧しさ、それも絶対的な貧困というやつこそ不死身なのだろう。クーのような若い女が世界の果てまで逃げても、貧しさはきっと追いかけてくる。
現金収入が月に千円しかない農村で、子供や老人が病気にかかったところを想像した。ちょっとした病気で入院すれば、年収の二、三倍分の借金を背負うことだろう。人生は楽じゃないし、そこではほんのわずかな免疫の差が一生を左右する。
おれは窓を開け、春の夜の風を部屋に招いた。気分は最悪だが、それでも夜風は甘く柔らかだ。この時間も工場で夜勤をしている研修生や北口のラブホテルで身体を売っているかもしれないクーのことを思った。おれはラクチンな布団の中に寝そべり、世間の問題に頭を悩ましている。だが、夜明けが近付くにつれて、おれの思考はスローになり、いつの間にか眠りこけてしまった。結局のところおれ達は目のまえにある事しか見えない。苦悩でも、安楽でもね。それがおれたちの救いで、同時に呪いなのかもしれない。
つぎの日の昼前だった。
茶屋の店番をしているおれの携帯には、またも見慣れぬ番号の着信。楊だろうか。店の奥から歩道にまわり、電話に出た。
「ウエイ」
くすりと笑う女の声が耳元で鳴った。
『もしもし小鳥遊悠さんですか。こちらクーですが、昨日は大変お世話にらりました。』
おれはこの街で数々のトラブルに巻き込まれた女たちの面倒をみてきたが、こうした基本的な挨拶ができたのはこの中国人だけだった。
「いや、こちらこそ、しんどい話しをしてすまなかった」
ほんのわずかだが、沈黙が続いた。カラータイルの歩道を、カップルが手をつないで歩いていた。母親の移植手術のために身体を売るクーも、年齢はさして変わらないはずだ。
『あの、一日ゆとりがあると言っていましたよね。だったら、小鳥遊さん、今日だけ付き合ってもらえませんか』
「なにをするんだ」
クーが電話の向こうでため息をついた。
『わたしはこれから一生、池袋の街に戻ってくることはできないでしょう。さよならをいうまえに、この街を見ておきたいんです。すみませんが、小鳥遊さん、案内してくれないでしょうか』
「わかった。小鳥遊さんでなく、悠でいいよ」
この街を離れるということは、クーが工場にかえるということだった。クーは同胞のために母親をあきらめたのだろうか。おれはそれ以上なにも聞きたくなかったので、できるだけ明るい声を出した。
「待ち合わせは、ウチでいいか。昨日渡したメモに、下手くそな地図があっただろ。クラブから歩いても四、五分だ」
「分かりました。すぐこちらをでます、十五分後に」
通話を切ってから、おれは慌てて久秀に声をかけた。緊急の用事で帰るっとな。
昇竜の国の意外な一面だった。それでは医療保険に入っていなければ、病人も外に放り出されるアメリカの医療現場と変わらない。
「腎臓移植に現金で五百万円必要です。わたしはあの工場で、ミシンを踏んでいるわけにはいかなかった。同胞のみんなにはもうし訳ありません。ですが、逃げたのはなにもわたしがもっと豊かに暮らしたいとか、東京で遊びたいとかいう理由ではありません。ここの仕事も若い女性が決して望むようなものではないのです。」
ただ酒の相手をするだけで、短期に五百万も稼ぎだすのは困難なことだろう。客に声をかけられれば、そのあとホテルにも付き合う。ここは高級な連れ出しクラブなのだ。
「そうだったのか」
どうしたらいいのか、まるでわからなくなった。クーを工場に戻せば、クーの母親は腎臓病で死ぬ。クーを戻せなければ、二百四十九人が強制送還される。それぞれの研修生の家庭にはクーと同じような事情があるかもしれない。そのときおれはカウンターに置いてあった募金箱を思い出した。
「もしかして、入口にあった募金って、クーの親父さんの移植費用のためなのか」
クーは恥ずかしげにうなずいた。
「そこまでしてくれなくてもいいといったのですが、スタッフも店の女の子もわたしがかわいそうだといって、募金を始めてくれたんです。このクラブだけでなく、池袋の中華街で募金活動が広がっていると聞きました」
なるほど、不法就労の斡旋を事業の柱にする東龍が、クーを手放したがらないわけだった。圧力に負けてこの女を追い払えば、楊の面子が潰れるだけでなく、収益部門の評判に傷がつく。とことん困っている逃亡者を見殺しにするんだからな。
おれがリンに嘘をついて稼いだ猶予はたった一日。明日中に何とかできるような問題ではなかった。中国の中原・河南省からきた女と同じように、おれも進退きわまってしまった。こんなときには、どんななぐさめの言葉もきかないだろう。おれは単純に事実だけを伝えた。
「茨城の工場に五日後に査察が入る。アンタが消えたことが判明したら、全員が中国へ送還されるだろうし、アンタの捜索が始まるだろう。おれはアンタに母親を見殺しにしろとは言えない。だが、同時に不法就労を続けるのが、いい方法だとも思えない。あと一日だけゆとりがあるんだ。ゆっくりは無理だが、自分で考えて結論を出してくれないか。この店のことは、組合にもリンにもしらせてないんだ。」
おれはそれだけ伝えて、連絡先を書いたメモを残し、クラブを離れた。
おれはその夜、不安を誘う「中国の不思議な役人」を、繰り返し聞いた。きっと三度腹を刺されても死なないのは、人間ではないのだと思った。貧しさ、それも絶対的な貧困というやつこそ不死身なのだろう。クーのような若い女が世界の果てまで逃げても、貧しさはきっと追いかけてくる。
現金収入が月に千円しかない農村で、子供や老人が病気にかかったところを想像した。ちょっとした病気で入院すれば、年収の二、三倍分の借金を背負うことだろう。人生は楽じゃないし、そこではほんのわずかな免疫の差が一生を左右する。
おれは窓を開け、春の夜の風を部屋に招いた。気分は最悪だが、それでも夜風は甘く柔らかだ。この時間も工場で夜勤をしている研修生や北口のラブホテルで身体を売っているかもしれないクーのことを思った。おれはラクチンな布団の中に寝そべり、世間の問題に頭を悩ましている。だが、夜明けが近付くにつれて、おれの思考はスローになり、いつの間にか眠りこけてしまった。結局のところおれ達は目のまえにある事しか見えない。苦悩でも、安楽でもね。それがおれたちの救いで、同時に呪いなのかもしれない。
つぎの日の昼前だった。
茶屋の店番をしているおれの携帯には、またも見慣れぬ番号の着信。楊だろうか。店の奥から歩道にまわり、電話に出た。
「ウエイ」
くすりと笑う女の声が耳元で鳴った。
『もしもし小鳥遊悠さんですか。こちらクーですが、昨日は大変お世話にらりました。』
おれはこの街で数々のトラブルに巻き込まれた女たちの面倒をみてきたが、こうした基本的な挨拶ができたのはこの中国人だけだった。
「いや、こちらこそ、しんどい話しをしてすまなかった」
ほんのわずかだが、沈黙が続いた。カラータイルの歩道を、カップルが手をつないで歩いていた。母親の移植手術のために身体を売るクーも、年齢はさして変わらないはずだ。
『あの、一日ゆとりがあると言っていましたよね。だったら、小鳥遊さん、今日だけ付き合ってもらえませんか』
「なにをするんだ」
クーが電話の向こうでため息をついた。
『わたしはこれから一生、池袋の街に戻ってくることはできないでしょう。さよならをいうまえに、この街を見ておきたいんです。すみませんが、小鳥遊さん、案内してくれないでしょうか』
「わかった。小鳥遊さんでなく、悠でいいよ」
この街を離れるということは、クーが工場にかえるということだった。クーは同胞のために母親をあきらめたのだろうか。おれはそれ以上なにも聞きたくなかったので、できるだけ明るい声を出した。
「待ち合わせは、ウチでいいか。昨日渡したメモに、下手くそな地図があっただろ。クラブから歩いても四、五分だ」
「分かりました。すぐこちらをでます、十五分後に」
通話を切ってから、おれは慌てて久秀に声をかけた。緊急の用事で帰るっとな。