ー特別編ードラゴン・オーシャン
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「わたしが働いていた工場は、川崎市にありました。四時間おきにコンビニに配達される弁当をつくる工場です。シフトは一日四交代。そのうちふたつを取ることになります。働いているのは研修生だけでした。仕事は厳しかったけれど、それは覚悟の上です。問題は工場の現場監督でした。日本人の中年男です。タニグチ、今も名前は忘れません。仕事中でも酒を飲み、わたしたちを理由もなく殴ったりした。」
リンの手がテーブルの上で、ぎゅっと握りしめられた。
「研修生は他の仕事に就くことも、逃げることもできない。それがわかっていたので、監督は好き放題わたしたちに暴言暴力をふるいました。逃走しようか、あの監督を殺してやろうかと、何度も仲間と話し合ったものです。」
勇気づけるようにおれはいった。
「だけど、アンタは郭のように逃げたりはしなかった」
「ええ、お母さんがいましたから」
親父がおかしな顔をした。
「中国のお母君は無くなったのでは?」
リンは笑って頷いた。
「はい、あれは日本に来て半年ほどのことです。工場のとなりにあるアパートに住んでいるひとり暮らしのお年寄りとわたしは親しく話をさせてもらうようになりました。研修生のおかれている状況に同情してくれ、時にお菓子をくれたり、お茶を飲ませてくれた。お母さんがいなければ、わたしはなにをしていたかわからない。人の頭を殴るのは、中国では大変な屈辱です。」
「なるほど」
外見ではほとんど分からないけれど、日本人と中国人のあいだには当然文化ギャップがある。
「おれはまだリンに失礼なことをしてないよな。置時計とか送っていないし」
リンはうなづくと、コーヒーをひと口飲んだ。
「悠は大丈夫。そしてやっぱり勉強家です。」
「置時計を贈る」は中国語でいうと「送鐘」、「死に水を取る」を意味する「送終」と同音になってしまうので、贈り物に置時計はタブーなのだ。リンは続ける。
「研修もあと一年というところで、工場で仲間が右手の中指の先を切断するという事故が発生しました。工場も組合も責任をとろうとしない。労災認定も難しい。誰かが日本の当局に訴えなければならない。日本語の得意なわたしが選ばれました。ですが、そんなことをすれば、工場を首になるかもしれないし、中国に送り返されるかもしれない。ある日の休み時間に、わたしはお母さんのところにお別れをいいに行きました。もう会えないかもしれない。わたしとしてはまだ日本に居たいし、名残惜しいけれど。わたしはそのとき初めて、そのお年寄りのことをお母さんと呼びました。中国にかえっても、あなたはわたしのお母さんです。いつかまた会いに来ますからと」
親父がうんうんとうなずいていた。このおっさん、家族ものの映画や芝居に、でたらめに弱い節があるのだ。
「そうか、リンさんは偉かったのだな。」
「すると奇跡が起きたのです。お母さんがいきなりいってきました。あなたが日本に住み続けるには何が必要なのかと」
おれにもようやく道筋が見えてきた。研修生が日本人になるには、日本国籍を取るしかない。日本人と結婚するか、養子縁組をするか。おれはいった。
「それでリンはその日本人を、ほんもののお母さんにした」
「はい、わたしはお母さんの籍に入りました。それで、工場の人間はわたしに手出しできなくなった。日本の役所の対応は素早く的確でした。労災は認められ、わたしは無事三年間の契約期間を務めあげ、今度は組合のために働くことになりました。」
そうして今の研修生アドバイザーのリンが、日本にいる。
「人との出会いは本当に分からないものです。わたしたちは日々新しい人と出会い、そこでよいものや悪いものを交換する。今回の郭順貴の事件が、関係者みんなにとってよい結末を迎えるように、わたしは全力を尽くすつもりです。」
中国人の不思議なアドバイザーか。おれはすこしまぶしい思いで、さして年齢の変わらない男を眺めていた。
「ちょっと待ってもらえるかな。その日本の母君とは、リンさんは今どうしている?」
リンはにこりと親父に笑顔を向けた。韓流や華流のアイドル好きなら、ばたりとその場に倒れそうなスマイルだ。
「お母さんはお母さんです。仕事のないときは、今も川崎のアパートで一緒に暮らしていますよ。ただ……」
リンが言葉を濁すなんて珍しかった。NHKアナウンサーが原稿をとちるようなものだ。
リンの手がテーブルの上で、ぎゅっと握りしめられた。
「研修生は他の仕事に就くことも、逃げることもできない。それがわかっていたので、監督は好き放題わたしたちに暴言暴力をふるいました。逃走しようか、あの監督を殺してやろうかと、何度も仲間と話し合ったものです。」
勇気づけるようにおれはいった。
「だけど、アンタは郭のように逃げたりはしなかった」
「ええ、お母さんがいましたから」
親父がおかしな顔をした。
「中国のお母君は無くなったのでは?」
リンは笑って頷いた。
「はい、あれは日本に来て半年ほどのことです。工場のとなりにあるアパートに住んでいるひとり暮らしのお年寄りとわたしは親しく話をさせてもらうようになりました。研修生のおかれている状況に同情してくれ、時にお菓子をくれたり、お茶を飲ませてくれた。お母さんがいなければ、わたしはなにをしていたかわからない。人の頭を殴るのは、中国では大変な屈辱です。」
「なるほど」
外見ではほとんど分からないけれど、日本人と中国人のあいだには当然文化ギャップがある。
「おれはまだリンに失礼なことをしてないよな。置時計とか送っていないし」
リンはうなづくと、コーヒーをひと口飲んだ。
「悠は大丈夫。そしてやっぱり勉強家です。」
「置時計を贈る」は中国語でいうと「送鐘」、「死に水を取る」を意味する「送終」と同音になってしまうので、贈り物に置時計はタブーなのだ。リンは続ける。
「研修もあと一年というところで、工場で仲間が右手の中指の先を切断するという事故が発生しました。工場も組合も責任をとろうとしない。労災認定も難しい。誰かが日本の当局に訴えなければならない。日本語の得意なわたしが選ばれました。ですが、そんなことをすれば、工場を首になるかもしれないし、中国に送り返されるかもしれない。ある日の休み時間に、わたしはお母さんのところにお別れをいいに行きました。もう会えないかもしれない。わたしとしてはまだ日本に居たいし、名残惜しいけれど。わたしはそのとき初めて、そのお年寄りのことをお母さんと呼びました。中国にかえっても、あなたはわたしのお母さんです。いつかまた会いに来ますからと」
親父がうんうんとうなずいていた。このおっさん、家族ものの映画や芝居に、でたらめに弱い節があるのだ。
「そうか、リンさんは偉かったのだな。」
「すると奇跡が起きたのです。お母さんがいきなりいってきました。あなたが日本に住み続けるには何が必要なのかと」
おれにもようやく道筋が見えてきた。研修生が日本人になるには、日本国籍を取るしかない。日本人と結婚するか、養子縁組をするか。おれはいった。
「それでリンはその日本人を、ほんもののお母さんにした」
「はい、わたしはお母さんの籍に入りました。それで、工場の人間はわたしに手出しできなくなった。日本の役所の対応は素早く的確でした。労災は認められ、わたしは無事三年間の契約期間を務めあげ、今度は組合のために働くことになりました。」
そうして今の研修生アドバイザーのリンが、日本にいる。
「人との出会いは本当に分からないものです。わたしたちは日々新しい人と出会い、そこでよいものや悪いものを交換する。今回の郭順貴の事件が、関係者みんなにとってよい結末を迎えるように、わたしは全力を尽くすつもりです。」
中国人の不思議なアドバイザーか。おれはすこしまぶしい思いで、さして年齢の変わらない男を眺めていた。
「ちょっと待ってもらえるかな。その日本の母君とは、リンさんは今どうしている?」
リンはにこりと親父に笑顔を向けた。韓流や華流のアイドル好きなら、ばたりとその場に倒れそうなスマイルだ。
「お母さんはお母さんです。仕事のないときは、今も川崎のアパートで一緒に暮らしていますよ。ただ……」
リンが言葉を濁すなんて珍しかった。NHKアナウンサーが原稿をとちるようなものだ。