ー特別編ードラゴン・オーシャン
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帰りはまた目隠しされた。
レクサスが到着したのは、西口公園の芸術劇場側の出口だった。のどかな公園では、またもギター弾きと将棋大会。脱走も不法就労も夢の中の話しのようだ。ここにいるたいていの日本人には、中国人研修生など透明人間と同じなのだろう。どこかの山の中の工場や社員寮に閉じ込められていたのでは、そいつも無理はない。
リンとおれはぶらぶらと黒い知恵の輪のような巨大な彫刻の足元を抜けて、円形広場に向かった。ステンレスのパイプベンチは、春の日差しを浴びて暖房便座のように暖かい。おれはいった。
「今回の話しは誰が正しいのか、ぜんぜんわからなくなった」
おれは疲れ切っていた。東龍のプレッシャーと難解な宿題で頭が痛い。
「悠、わたしも楊と同じようにひとつわすれないでほしいことがあります」
「なんだよ」
リンは正面を向いたまま言った。
「研修生に選ばれるのは、宝くじで当たるのと同じくらい中国の農村では幸運なことなのです。楊のいうように組合は貧しい人から奪っているのかもしれない。ですが、厳しい仕事でも最後まで働き抜いた研修生は、年収二十年三十年分の貯金をして中国に帰国していきます。それは彼らにとっては、とてもラッキーなことなのです。郭とともに海を渡った他の二百四十九人には罪は有りません。彼らすべての夢を、郭ひとりの脱走のために潰してしまうわけにはいかない。わたしもウチの組合が絶対に正しいとは考えていません。ですから残った人々のことだけはわすれないでください」
春野ビル風が広場をやわらかに抜けていく。この風に毎年吹かれているだけでおれは十分に幸福だった。だが、三年の奴隷労働で生涯賃金を稼ごうと思い定めるほど、おれも池袋という街も貧しくはない。ただそれだけのことかもしれない。豊かでスポイルされた高度資本主義の甘えだ。
「ああ、わかった。とりあえず、おれはまだリンの味方だよ」
そのときリンはくすりと笑った。
「あの楊という男は、日本で長く暮らし過ぎたのです。自由や平等や人権をうるさく主張し過ぎる。資本主義の毒に当てられたのでしょう」
走資派の毒には東龍のボスだけでなく、中国奥地のどんな秘境に住む人間だって、もう骨の髄までやられている。それが今の地球に生きているということだ。そういいたかったが、おれは黙っていた。その代りにおれは質問した。
「なぁ、リンって、何人なんだ?」
意表を突かれたようだ。リンの表情がフリーズしたディスプレイのように一瞬静止した。
「生まれも育ちも中国ですが、わたしは現在、法的には日本人です。ですが、ほんとうのところは、わたしにもよくわかりません。わたしの血の中には故郷の土と水と空気が分離できないほど密に混ざりこんでいる。こうしてネクタイを締め、スーツを着て、副都心の公園にいても、わたしはすべて幻のように感じることがあります。」
端正な日本語でアドバイザーはそういった。なめらかな標準語の裏に、氷のような寂しさを感じた。この男も自分の仕事を信じているわけではないのだろう。ただやらなければならないから、やっている。まあ、誰にとっても仕事ってそんなもんだよな。
「わかったよ。さあ、つぎはどうする?」
リンはベンチから立ち上がると、背筋をまっすぐ伸ばした。
「東龍にもう少し圧力をかけなければなりません。夜にはまた連絡を入れますから、悠は待機していてください。」
おれはわかったといって昼下がりの西口公園から歩いて帰った。池袋の街角では、あちこちで花火のように中国語が飛び散っている。
自分の生まれた街がチャイナタウンになるのは、やっぱりおかしな感じ。
茶屋に戻って、店番を始めた。
アイポッドには、リンにぴったりのメロディを選曲した。『中国の不思議な役人』はバルトークのパントマイムのための劇音楽。一幕物で三十分ばかりの曲だから、クラシックが苦手な奴でも気軽にきけるかもしれない。
だが、内容ときたら例によって恐ろしい話。三人組の悪党が若い女に男を誘惑させる。引っかかったのは奇妙な服を着た中国の役人。部屋に誘いこまれた役人は身ぐるみを剥がされ、男たち二三度腹を刺されるが死なないのだ。役人はシャンデリアから首を吊られても、不死身だ。まあ、最後には若い女の腕の中で息を引き取るんだが、その不死性が何だか金融危機でもくたばらない今の中国見たいで、実に怖くて面白い。
おれはもの凄く高級な怪奇映画のサントラみたいな曲を無限リピートさせながら考えた。郭順貴(クーシュンクイ)という幻の女と何度腹を刺されても死なない楊峰(ヤンフエン)と林高泰(リンガオタイ)のこと。黄金の夢を見て海を渡り、工場と寮しかこの国を見ずに、預金通帳一冊持って帰国するのは、どんな気分なんだろうか。おれがセンチメンタルなムードで大江戸学園の歩道を眺めていると、久秀が言った。
「なにをしょぼくれているの?ちゃんと店番しないとダメじゃない。そんな不景気な顔をしていたら、お客だって寄り付かないわ」
久秀のいう通りかもしれない。おれだって悩んでる時のおれから、桜もちを買いたくない。
「悪いな。いいことを教えてやるよ。つぎに店番を雇うときには、不法就労の中国人を雇うといい」
久秀は頭がおかしくなったんじゃないかという顔をして、おれを見た。
「おれの半分の給料で、三倍働くんだってさ」
にやりと笑って、敵はいった。
「わかったわ。そんな優秀な店番がいるのなら、すぐに連れて来なさい。それで悠はとっとと久秀に忠誠を誓って隠居するといいわ。」
失業者がもうひとり増加するところだった。おれはやる気があるところを見せるために、バルトークからVOODOOkingDMOに切り替えて、店先の掃除を開始した。
レクサスが到着したのは、西口公園の芸術劇場側の出口だった。のどかな公園では、またもギター弾きと将棋大会。脱走も不法就労も夢の中の話しのようだ。ここにいるたいていの日本人には、中国人研修生など透明人間と同じなのだろう。どこかの山の中の工場や社員寮に閉じ込められていたのでは、そいつも無理はない。
リンとおれはぶらぶらと黒い知恵の輪のような巨大な彫刻の足元を抜けて、円形広場に向かった。ステンレスのパイプベンチは、春の日差しを浴びて暖房便座のように暖かい。おれはいった。
「今回の話しは誰が正しいのか、ぜんぜんわからなくなった」
おれは疲れ切っていた。東龍のプレッシャーと難解な宿題で頭が痛い。
「悠、わたしも楊と同じようにひとつわすれないでほしいことがあります」
「なんだよ」
リンは正面を向いたまま言った。
「研修生に選ばれるのは、宝くじで当たるのと同じくらい中国の農村では幸運なことなのです。楊のいうように組合は貧しい人から奪っているのかもしれない。ですが、厳しい仕事でも最後まで働き抜いた研修生は、年収二十年三十年分の貯金をして中国に帰国していきます。それは彼らにとっては、とてもラッキーなことなのです。郭とともに海を渡った他の二百四十九人には罪は有りません。彼らすべての夢を、郭ひとりの脱走のために潰してしまうわけにはいかない。わたしもウチの組合が絶対に正しいとは考えていません。ですから残った人々のことだけはわすれないでください」
春野ビル風が広場をやわらかに抜けていく。この風に毎年吹かれているだけでおれは十分に幸福だった。だが、三年の奴隷労働で生涯賃金を稼ごうと思い定めるほど、おれも池袋という街も貧しくはない。ただそれだけのことかもしれない。豊かでスポイルされた高度資本主義の甘えだ。
「ああ、わかった。とりあえず、おれはまだリンの味方だよ」
そのときリンはくすりと笑った。
「あの楊という男は、日本で長く暮らし過ぎたのです。自由や平等や人権をうるさく主張し過ぎる。資本主義の毒に当てられたのでしょう」
走資派の毒には東龍のボスだけでなく、中国奥地のどんな秘境に住む人間だって、もう骨の髄までやられている。それが今の地球に生きているということだ。そういいたかったが、おれは黙っていた。その代りにおれは質問した。
「なぁ、リンって、何人なんだ?」
意表を突かれたようだ。リンの表情がフリーズしたディスプレイのように一瞬静止した。
「生まれも育ちも中国ですが、わたしは現在、法的には日本人です。ですが、ほんとうのところは、わたしにもよくわかりません。わたしの血の中には故郷の土と水と空気が分離できないほど密に混ざりこんでいる。こうしてネクタイを締め、スーツを着て、副都心の公園にいても、わたしはすべて幻のように感じることがあります。」
端正な日本語でアドバイザーはそういった。なめらかな標準語の裏に、氷のような寂しさを感じた。この男も自分の仕事を信じているわけではないのだろう。ただやらなければならないから、やっている。まあ、誰にとっても仕事ってそんなもんだよな。
「わかったよ。さあ、つぎはどうする?」
リンはベンチから立ち上がると、背筋をまっすぐ伸ばした。
「東龍にもう少し圧力をかけなければなりません。夜にはまた連絡を入れますから、悠は待機していてください。」
おれはわかったといって昼下がりの西口公園から歩いて帰った。池袋の街角では、あちこちで花火のように中国語が飛び散っている。
自分の生まれた街がチャイナタウンになるのは、やっぱりおかしな感じ。
茶屋に戻って、店番を始めた。
アイポッドには、リンにぴったりのメロディを選曲した。『中国の不思議な役人』はバルトークのパントマイムのための劇音楽。一幕物で三十分ばかりの曲だから、クラシックが苦手な奴でも気軽にきけるかもしれない。
だが、内容ときたら例によって恐ろしい話。三人組の悪党が若い女に男を誘惑させる。引っかかったのは奇妙な服を着た中国の役人。部屋に誘いこまれた役人は身ぐるみを剥がされ、男たち二三度腹を刺されるが死なないのだ。役人はシャンデリアから首を吊られても、不死身だ。まあ、最後には若い女の腕の中で息を引き取るんだが、その不死性が何だか金融危機でもくたばらない今の中国見たいで、実に怖くて面白い。
おれはもの凄く高級な怪奇映画のサントラみたいな曲を無限リピートさせながら考えた。郭順貴(クーシュンクイ)という幻の女と何度腹を刺されても死なない楊峰(ヤンフエン)と林高泰(リンガオタイ)のこと。黄金の夢を見て海を渡り、工場と寮しかこの国を見ずに、預金通帳一冊持って帰国するのは、どんな気分なんだろうか。おれがセンチメンタルなムードで大江戸学園の歩道を眺めていると、久秀が言った。
「なにをしょぼくれているの?ちゃんと店番しないとダメじゃない。そんな不景気な顔をしていたら、お客だって寄り付かないわ」
久秀のいう通りかもしれない。おれだって悩んでる時のおれから、桜もちを買いたくない。
「悪いな。いいことを教えてやるよ。つぎに店番を雇うときには、不法就労の中国人を雇うといい」
久秀は頭がおかしくなったんじゃないかという顔をして、おれを見た。
「おれの半分の給料で、三倍働くんだってさ」
にやりと笑って、敵はいった。
「わかったわ。そんな優秀な店番がいるのなら、すぐに連れて来なさい。それで悠はとっとと久秀に忠誠を誓って隠居するといいわ。」
失業者がもうひとり増加するところだった。おれはやる気があるところを見せるために、バルトークからVOODOOkingDMOに切り替えて、店先の掃除を開始した。