ー特別編ー水の中の目
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生ぬるい水に浸かって、なぜか最初に思い出したのは、ミナガワからあずかった金の鎖のことだった。俺はまだあのネックレスを、やつが育った町の海に投げていない。それなのに、アツシの鎖を首に巻かれたまま、このカルキ臭いプールのなかへ沈んでいこうとしている。水中で息をとめたまま、俺は猛烈に腹が立ってきた。まったく、俺はぜんぜんバラけちゃいない。
手のなかに怒りを強く握り拳をつくった。そのとき、アツシの動きがおかしくなった。首を絞められた俺と違い、急に水中に落ちたせいで、気管に水でもはいったのだろうか。ばたばたと水中で腕を振り回す。首のステンレスチェーンが緩んだ。俺は必死でプールの底を足先で探った。あわてなければ、つま先が防水塗料でツルツルの底に届くはずだ。水の深さは肩くらいしかないのだから。ようやくプールのなかで立った俺は水面に顔を出し、空気をたっぷりとすって、また水にもぐった。
今度息を止めるのはアツシの番だ。
上半身裸のアツシの身体が、水中で横倒しになって、でたらめに手足を動かしていた。俺は体重をかけて、やつを水の底に押してやる。アツシの青い唇から、破裂するように空気の泡が漏れ、光りながら上昇していく。水の中でアツシと俺の目があった。アツシは目をいっぱいに開いて哀願している。助けてくれ。空気をくれ。絶望、恐怖、憎悪、さまざまな名で呼ばれる黒い感情が、アツシの瞳の底で荒れ狂っていた。長い髪が海藻のように揺れて、美しい顔を隠した。俺はアツシを殺すつもりはなかった。最後にもうひと押し、やつを紺色のプールの底に押してから、反動で水面に顔を出す。頭上には池袋の星のない明るい夜空が広がった。
しびれるように甘い空気を肺いっぱいに吸い込む。ちりちりと全身に酸素が運ばれていくのが感じられるようだった。俺は水面から顔だけ出して、しばらく荒い息をつないでいた。ようやく呼吸を整え、顔の水をぬぐい、足元を見た。アツシはまだ俺を見上げていたが、水の中の目は焦点をなくし、ぼんやりと揺れているだけだった。開いた口のなかにも水が入っている。なぜ、やつは浮かんでこないんだろう。誰も押えてなどいないのに。俺はもう一度息を吸い、暗い水の中にもぐっていった。
アツシの身体は沈んだばかりの船のように、斜めに傾いて水中に漂っていた。手を大きく広げ、水の動きに髪を揺らしながら。俺はプールの底を見た。俺たちがもみ合っていた場所には、五十センチ四方くらいの排水溝が開き、二センチ角ほどの格子の鉄のふたがはまっていた。そこから、アツシの腰のチェーンが伸びていた。身体が浮きあがろうとすると、チェーンはピンと水中で張った。俺はプールの底に顔を押し付け、様子を確かめた。鎖の先についたT字型の留め金が、格子のすきまにしっかりと挟まっているようだった。水面に戻ろうとしたとき、、排水溝の横に金の鎖が落ちているのを見つけた。ミナガワのネックレスは暗い水底でも、鈍く輝いていた。いいだろう、俺はその光を見て心を決めた。アツシはこのまま放っておこう。ミナガワは故郷の海に、アツシは中学のプールに帰してやるのだ。
俺は鎖だけ拾い、鉄の鎖はそのままにして、プールの反対側まで泳ぎ、ぬるい水からあがった。
さっき座っていた場所に戻り、自分が飲んだビールの空き缶を拾った。ブーツを手にして、乾いたシャワーエリアと消毒液の水路をひとりで戻った。水の中でうつぶせに揺れているアツシの姿が頭を離れなかったが、俺は一度もふり返らなかった。
金網の破れ目をくぐるときは、誰にも見られないことと周囲に触れないように注意した。そんなことをしなくても、深夜一時過ぎの住宅街には、人影はまるで見当たらなかったのだが。中学校をでてから初めて俺はブーツをはいた。歩いて家に戻ったのは真夜中の二時だ。
熱いシャワーを浴びてから、ベッドにもぐりこんだのだが、俺の震えは朝方までとまらなかった。
翌日、ブーツとTシャツと軍パンをまとめて、東京都の燃えるゴミ袋に押し込み、集積場に捨てた。アツシの遺体は、部活の指導に訪れた体育教師によって、午前遅くに発見されている。ちょっとした騒ぎになったらしいが、血中からアルコールが発見され、争った形跡も残っていないことから、警察の調べは酔ったうえでの事故死の線で落ち着いた。その中学では、たびたび卒業生が深夜のプールへ忍び込んでいたとの情報が、決め手になったらしい。アツシの死は、新聞の社会面の隅で三×四センチほどの面積で扱われただけだった。アキラの一面トップとは大違い。
もっとも水に落ちるきっかけを先に作ったのはアツシで、ミナガワの幽霊がやったのでなければ、排水溝の格子に鎖が絡んだのも偶然だったのだから、俺は警察の考えは間違ってないと思う。救えたかもしれないが、おれはアツシを救わなかった。それだけだ。もう一度同じ目にあったら、おれはまた同じことをすると思う。
アツシは実の姉と同じように、最後は偶然のアクシデントで死んだ。そして、その偶然が起こるまでに、ふたりの姉弟には、死よりももっと悪いことが起こっていた。姉はパーティ潰しの手によって、アツシは自分自身の手で、生きながら破滅していったのだ。
おれはどうする事も出来なかった。どちらの事件も書くことさえできないのだから。
手のなかに怒りを強く握り拳をつくった。そのとき、アツシの動きがおかしくなった。首を絞められた俺と違い、急に水中に落ちたせいで、気管に水でもはいったのだろうか。ばたばたと水中で腕を振り回す。首のステンレスチェーンが緩んだ。俺は必死でプールの底を足先で探った。あわてなければ、つま先が防水塗料でツルツルの底に届くはずだ。水の深さは肩くらいしかないのだから。ようやくプールのなかで立った俺は水面に顔を出し、空気をたっぷりとすって、また水にもぐった。
今度息を止めるのはアツシの番だ。
上半身裸のアツシの身体が、水中で横倒しになって、でたらめに手足を動かしていた。俺は体重をかけて、やつを水の底に押してやる。アツシの青い唇から、破裂するように空気の泡が漏れ、光りながら上昇していく。水の中でアツシと俺の目があった。アツシは目をいっぱいに開いて哀願している。助けてくれ。空気をくれ。絶望、恐怖、憎悪、さまざまな名で呼ばれる黒い感情が、アツシの瞳の底で荒れ狂っていた。長い髪が海藻のように揺れて、美しい顔を隠した。俺はアツシを殺すつもりはなかった。最後にもうひと押し、やつを紺色のプールの底に押してから、反動で水面に顔を出す。頭上には池袋の星のない明るい夜空が広がった。
しびれるように甘い空気を肺いっぱいに吸い込む。ちりちりと全身に酸素が運ばれていくのが感じられるようだった。俺は水面から顔だけ出して、しばらく荒い息をつないでいた。ようやく呼吸を整え、顔の水をぬぐい、足元を見た。アツシはまだ俺を見上げていたが、水の中の目は焦点をなくし、ぼんやりと揺れているだけだった。開いた口のなかにも水が入っている。なぜ、やつは浮かんでこないんだろう。誰も押えてなどいないのに。俺はもう一度息を吸い、暗い水の中にもぐっていった。
アツシの身体は沈んだばかりの船のように、斜めに傾いて水中に漂っていた。手を大きく広げ、水の動きに髪を揺らしながら。俺はプールの底を見た。俺たちがもみ合っていた場所には、五十センチ四方くらいの排水溝が開き、二センチ角ほどの格子の鉄のふたがはまっていた。そこから、アツシの腰のチェーンが伸びていた。身体が浮きあがろうとすると、チェーンはピンと水中で張った。俺はプールの底に顔を押し付け、様子を確かめた。鎖の先についたT字型の留め金が、格子のすきまにしっかりと挟まっているようだった。水面に戻ろうとしたとき、、排水溝の横に金の鎖が落ちているのを見つけた。ミナガワのネックレスは暗い水底でも、鈍く輝いていた。いいだろう、俺はその光を見て心を決めた。アツシはこのまま放っておこう。ミナガワは故郷の海に、アツシは中学のプールに帰してやるのだ。
俺は鎖だけ拾い、鉄の鎖はそのままにして、プールの反対側まで泳ぎ、ぬるい水からあがった。
さっき座っていた場所に戻り、自分が飲んだビールの空き缶を拾った。ブーツを手にして、乾いたシャワーエリアと消毒液の水路をひとりで戻った。水の中でうつぶせに揺れているアツシの姿が頭を離れなかったが、俺は一度もふり返らなかった。
金網の破れ目をくぐるときは、誰にも見られないことと周囲に触れないように注意した。そんなことをしなくても、深夜一時過ぎの住宅街には、人影はまるで見当たらなかったのだが。中学校をでてから初めて俺はブーツをはいた。歩いて家に戻ったのは真夜中の二時だ。
熱いシャワーを浴びてから、ベッドにもぐりこんだのだが、俺の震えは朝方までとまらなかった。
翌日、ブーツとTシャツと軍パンをまとめて、東京都の燃えるゴミ袋に押し込み、集積場に捨てた。アツシの遺体は、部活の指導に訪れた体育教師によって、午前遅くに発見されている。ちょっとした騒ぎになったらしいが、血中からアルコールが発見され、争った形跡も残っていないことから、警察の調べは酔ったうえでの事故死の線で落ち着いた。その中学では、たびたび卒業生が深夜のプールへ忍び込んでいたとの情報が、決め手になったらしい。アツシの死は、新聞の社会面の隅で三×四センチほどの面積で扱われただけだった。アキラの一面トップとは大違い。
もっとも水に落ちるきっかけを先に作ったのはアツシで、ミナガワの幽霊がやったのでなければ、排水溝の格子に鎖が絡んだのも偶然だったのだから、俺は警察の考えは間違ってないと思う。救えたかもしれないが、おれはアツシを救わなかった。それだけだ。もう一度同じ目にあったら、おれはまた同じことをすると思う。
アツシは実の姉と同じように、最後は偶然のアクシデントで死んだ。そして、その偶然が起こるまでに、ふたりの姉弟には、死よりももっと悪いことが起こっていた。姉はパーティ潰しの手によって、アツシは自分自身の手で、生きながら破滅していったのだ。
おれはどうする事も出来なかった。どちらの事件も書くことさえできないのだから。