ー特別編ー水の中の目
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三越の裏にある地元っ子しか入らない汚い居酒屋に行った。ポリエステル化粧板のカウンターとテーブルがふたつだけ。ここのおやじの趣味は毎朝、築地で仕入れをすること。刺身の切り身はひとつひとつがピラミッドのようにそびえ、皿は慢性的な過積載状態だ。ミナガワの食欲はすごかった。かき寄せて、口に押し込む。ミナガワにとって食べることもまた、別な意志の表現であるようだった。おれとマドカは生ビールを飲みながら、硬めにゆであげた枝付きえだまめをつまんだ。浅緑の歯ざわり。夏だ。おれは聞かなくていいことを聞いた。
「マドカさんて、将来なにをやりたいの」
マドカは悪びれずに答える。
「福祉関係の仕事をやりたい。でも、ちょっと不安だな。今、あまり簡単にお金が稼げ過ぎるから」
毎日五万も十万も入ってくれば、それは金銭感覚がどうにかなるに決まってる。マドカは中ジョッキから、一口すすった。
「私ね、税金一円も払ってないでしょ。だから寄付をしてるんだ。収入の十パーセント。小学校に通えないベトナムの子たちのための教育基金なの。お金って不思議だよね。私の寄付だけで、ふたクラス分の子供たちが、小学校に通えるようになるんだから」
金に印はついていない。大人のパーティでオヤジたちが落としていく金が、まわりりまわってベトナムで教材や給食になる。おかしな話だが、おかしいのはマドカではなく、それ以外の人間なのかもしれない。風俗に流れ込む無税の膨大な金は、みな地下に潜って、こっちの世界には戻ってこない。税務署も警察も見て見ぬふりをしている。やつらにとって法律の外にある金は、金じゃないのだ。
黙って刺身盛りの山を崩していたミナガワが、ジョッキを空けると口を開いた。
「いいんじゃないか。俺は中学しかでてないから、けっこう苦労した」
おれは生ビールをふたつ追加すると、ミナガワに聞いた。
「なぜ、ミナガワさんは肉屋って呼ばれてるんだ」
ミナガワはおもしろくもなさそうにいう。
「学校を出て、最初に住みこみに入った店が肉屋だったから」
「そうなんだ。いつもさっきみたいに、人間をバラしてるからじゃないんだな」
ミナガワは冷蔵庫のように冷たい視線でおれを見つめ、それから急に笑顔をつくった。嵐の雲が切れて突然日がさしたような気がした。
「そのせいも、ある。」
ミナガワの話しが始まった。いっとくけど、おれはその話を聞いただけで、ぜんぜんつくっちゃいない。そのくらい悲惨な話。
ミナガワは海のそばの静かな町の生まれだという。
「うちのおやじはさえない漁師だった。貧乏人の子だくさんというのは本当の話しで、おれには兄弟が七人居た。おれはうえから二番目なんだが、義務教育を終えたら、すぐに働きに出された。隣町の肉屋だ。朝一番で店を空け、昼間は店番、夜は店を閉めたら八時から、つぎの日店に並べる肉をさばく。牛のアバラの片身は百キロ近くあった。肉をフックに引っかけ、助骨に身が残らないようにペティナイフで筋をいれていく。それからタコ糸をあばら骨と肉のあいだに通して、全身でこそげるように骨を剥がしていく。ばりばりと音を立ててな。」
そんな話をするあいだ、ルカ姉の手話みたいにミナガワの両手が空中で動いた。手が覚えている話か。
「肉屋も色々なんだろうが、その店の店主はとんでもなくひどいやつだった。ボーナスは年に一回なんだが、すずめの涙のような金を払うのが嫌で、小僧を徹底的にイジメ抜く。俺は商売ものに傷をつけるたびに、包丁の柄で頭をどやしつけられた。額が割れて血が肉に落ちると、肉を汚したとまた同じところをやられる。俺は二年近くそこで我慢したが、二度目の年の瀬のボーナス前には、肉たたきで左手の小指を潰された。俺を辞めさせ、小金を倹約したかったんだろうな。だが、俺はしっかりボーナスをもらったぜ。ほら、見ろ、小指は曲がったまま動かねえけどな」
ミナガワは奇形のイモムシのように丸まった小指を掲げる。
「マドカさんて、将来なにをやりたいの」
マドカは悪びれずに答える。
「福祉関係の仕事をやりたい。でも、ちょっと不安だな。今、あまり簡単にお金が稼げ過ぎるから」
毎日五万も十万も入ってくれば、それは金銭感覚がどうにかなるに決まってる。マドカは中ジョッキから、一口すすった。
「私ね、税金一円も払ってないでしょ。だから寄付をしてるんだ。収入の十パーセント。小学校に通えないベトナムの子たちのための教育基金なの。お金って不思議だよね。私の寄付だけで、ふたクラス分の子供たちが、小学校に通えるようになるんだから」
金に印はついていない。大人のパーティでオヤジたちが落としていく金が、まわりりまわってベトナムで教材や給食になる。おかしな話だが、おかしいのはマドカではなく、それ以外の人間なのかもしれない。風俗に流れ込む無税の膨大な金は、みな地下に潜って、こっちの世界には戻ってこない。税務署も警察も見て見ぬふりをしている。やつらにとって法律の外にある金は、金じゃないのだ。
黙って刺身盛りの山を崩していたミナガワが、ジョッキを空けると口を開いた。
「いいんじゃないか。俺は中学しかでてないから、けっこう苦労した」
おれは生ビールをふたつ追加すると、ミナガワに聞いた。
「なぜ、ミナガワさんは肉屋って呼ばれてるんだ」
ミナガワはおもしろくもなさそうにいう。
「学校を出て、最初に住みこみに入った店が肉屋だったから」
「そうなんだ。いつもさっきみたいに、人間をバラしてるからじゃないんだな」
ミナガワは冷蔵庫のように冷たい視線でおれを見つめ、それから急に笑顔をつくった。嵐の雲が切れて突然日がさしたような気がした。
「そのせいも、ある。」
ミナガワの話しが始まった。いっとくけど、おれはその話を聞いただけで、ぜんぜんつくっちゃいない。そのくらい悲惨な話。
ミナガワは海のそばの静かな町の生まれだという。
「うちのおやじはさえない漁師だった。貧乏人の子だくさんというのは本当の話しで、おれには兄弟が七人居た。おれはうえから二番目なんだが、義務教育を終えたら、すぐに働きに出された。隣町の肉屋だ。朝一番で店を空け、昼間は店番、夜は店を閉めたら八時から、つぎの日店に並べる肉をさばく。牛のアバラの片身は百キロ近くあった。肉をフックに引っかけ、助骨に身が残らないようにペティナイフで筋をいれていく。それからタコ糸をあばら骨と肉のあいだに通して、全身でこそげるように骨を剥がしていく。ばりばりと音を立ててな。」
そんな話をするあいだ、ルカ姉の手話みたいにミナガワの両手が空中で動いた。手が覚えている話か。
「肉屋も色々なんだろうが、その店の店主はとんでもなくひどいやつだった。ボーナスは年に一回なんだが、すずめの涙のような金を払うのが嫌で、小僧を徹底的にイジメ抜く。俺は商売ものに傷をつけるたびに、包丁の柄で頭をどやしつけられた。額が割れて血が肉に落ちると、肉を汚したとまた同じところをやられる。俺は二年近くそこで我慢したが、二度目の年の瀬のボーナス前には、肉たたきで左手の小指を潰された。俺を辞めさせ、小金を倹約したかったんだろうな。だが、俺はしっかりボーナスをもらったぜ。ほら、見ろ、小指は曲がったまま動かねえけどな」
ミナガワは奇形のイモムシのように丸まった小指を掲げる。