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SV

「おめでとうございます」
 乾いた拍手の音だった。手袋越しの少し籠った音。しかし、間違いなくそれは拍手の音だったし、チャンピオンになったチャルへの賞賛の言葉だった。
 
 散々無理をさせてきたドラパルトは息も絶え絶えながらそこに立っていたし、トップチャンピオンのキラフロルは力なくコートに横たわっていた。オモダカはキラフロルに労りの一声をかけ、ボールを取り出すと手持ちへと戻す。
 
 オモダカはこちらへ歩み寄ってくる。
 
「良い勝負でした」
 一言そう告げ、そのまま握手を求められるが、到底その手を取る気にはなれなかった。試験会場であるリーグの屋上コートには二人きりだったし、人目を気にするとかではないけれど、なんとなく〝終わった〟ような気がしなかったからだ。その顔には勝負中、最初から最後まで微塵も歪まなかった完璧な微笑が浮かべられていたことも、少しは関係があったかもしれない。
 
 黙り込んでいるチャルを他所に、オモダカはその手を引っ込めると、改めて「おめでとうございます。パルデアにまた、新たなチャンピオンが誕生しましたね」と称賛の言葉を口にした。
 
「どうですか?」
「…何が」
 質問の意図がよくわからなかったチャルは、そっぽを向いたまま質問で返す。
 
「これが、貴方の見たがっていた頂上の景色です」
 オモダカは微笑を浮かべたまま、そう告げた。
 見上げれば、満天の星空に手が届きそうだった。遠景にはテーブルシティの明かりが見えるし、聳え立つ山々を超えれはそこには大穴がある。特段高いわけでも、眺めがいいわけでもない。しかし、パルデアのトレーナー、その全てが焦がれたであろう景色だ。チャンピオンとしての栄光を手にする夢を見た人間は、今、チャルが立っているこの場所を目指して走り出したのだから。
 チャルはそう考えて、そう考えて、それでも、
 
「…‥何も」
 
 何もないじゃないか、と思った。
 
 こんなところ。
 ピクニックでもできそうなくらいちょっと広いだけの、何もない、ごく普通の、屋上コートだ。なんならテーブルシティのバトルコートの方がずっと広い。
 
 チャルが欲しかったのは、そんな称賛の言葉ではなかったし、チャンピオンの座でも無かったのだ。
 
 この景色が、あたしの何かを変えてくれるなんてことは無かった。
 あたしが死に物狂いでたどり着いたこの景色は、あたしの心を満たすことなんてなかった。
 心満たすために走っていたはずなのに、あの星を追いかけてきたはずなのに、いざ掴んだところで何も手には残っていなかった。
 
「姉貴」
「なんでしょう」
「姉貴は、どうだったの?」
「…そうですね」
 ここにきて、初めてオモダカが言い淀む。
 
「私は最初からここにいましたから」
 
 そりゃあそうだ。この人はあたしが焦がれたこの景色で生まれたのだ。今もここで、同じ高みを目指す人間を審判し続けてきたのだ。星の人。宝石。夜空の星に、地を這うミミズの気持ちなど、到底わかるはずがない。聞いたあたしが、間違いだった。阿呆らしい。
 
 高揚感はあった。
 急所に当てて調子づいたとき、最後の一体に願いを託したとき。勝負の駆け引き。オモダカの強さに畏敬の念すら感じた。チャンピオンになったことで努力が報われたとも思った。無我夢中で走り続けたことが、無駄じゃなかったとさえ思えた。
 
 オモダカに勝つまでは。
 チャンピオンになるまでは。
 今、この瞬間までは。
 
 チャルが心の奥底で望んでいた変革は何も訪れなかったし、オモダカを倒したところで、チャンピオンになったところで、何も変わらなかったのだ。オモダカに勝てば、空っぽが満たされると思ったから走り続けたのに、そこに何もなかったことが、理解ってしまったから。
 
 チャルメルという人間が走るための理由は、今ここで霧散した。
 だから、チャルは走り続けることをやめたのだ。
 
 立ち上がるための足に、力が入らなくなった。
 チャルはゆるゆると地面に座り込む。そのまま、体育座りの姿勢で膝に顔を埋めた。程なくして、静寂の中に、啜り泣く声が混じり出した。
 オモダカは、今日初めて微笑を崩し、地面に片膝をついた。
「貴方はどんな暗闇の中でも、恐れずに進もうとしている」
 チャルは顔を上げず、迷子の子供のように座り込んだままだった。構わずオモダカは言葉を選びながら、ゆっくりと語りかけた。
 
「ですが、星ばかり見てはいけませんね。首を痛めてしまいますから」
 啜り泣く声はいつのまにか止んでいた。埋めていた顔を上げたチャルは「下を向いてると、涙がこぼれてしまうから」と言い訳がましく呟く。
 
 聞いているのかいないのか、オモダカは「たまには足元を見て、自分の航跡を振り返りなさい」と告げて、片手を差し出した。
 
「テラスタルオーブを、こちらに」
 促されたチャルは、逆らうことなくオーブをオモダカに手渡す。何かが可笑しかったのか、オモダカはくす、と笑った。トップチャンピオンは、オーブを受け取るとそのまま立ち上がる。
 
「これは暫く預かっておきます」
「………別にいいですよ、いらないです」
 
 拗ねたようにそう言ったチャルは、立ち上がらなかった。赤くなった目の端から溢れた涙を拭っている。
 
「もう誰とも闘う気にはならないもの」
「だからこそ」
 こうするのですよ、とオモダカはハッキリとした口調で言い切った。
 
「貴方には必ず、必要になりますから」
 
 *
 
「これ、あの…トップから預かってるんです」
 おずおずと、ネモはボディバッグから丸みを帯びた物体を取り出す。
 
 ネモが差し出したのはテラスタルオーブだった。
 
 鈍い輝きを放っている。宝石のように光を反射するのではなく、自ら光を放つ、パルデアの結晶。選ばれたトレーナーにのみ与えられる、ポケモンの新たな可能性。それがテラスタルだった。
 ネモは自前のテラスタルオーブを持っているのに、先ほどのバトルではテラスタルしなかった。
 何故か?
「(あたしがテラスタルできないから)」
 
 あたしが、テラスタルオーブを手放したから。勝負するつもりがなかったから。
 もう、立ち上がる気にもならなかったから、あのとき、オモダカに没収されたから。あたしに扱う資格がなかったから。
 
 ネモの瞳は揺れていた。顔も名前も知らない相手にこれを渡せと言われた事への困惑もあっただろう。ただ、それだけではない気がする。ネモに満ちていたのは、期待だった。テラスタルを使ったバトルがしたくてたまらなかったのだろう。
 
「(あたしにオーブを受け取って欲しいのだ、この女は。おそらく)」
 
 ネモは、チャルと対等なバトルがしたいと望んでいるのだ。だからこそ、テラスタルオーブを受け取って欲しいのだ。
 やっとオモダカの意図に理解が及んだチャルは、盛大に舌打ちしたくなった。オモダカもネモも、この行為を通じてチャルに問いかけていることは、結局同じ。
 
『バトルする意思があるかどうか』
『また走り出す覚悟はあるかどうか』
 
 戦闘狂どもが。強者どもが。いい加減にしろ、舐めた真似しやがって。あたしはポケモン勝負なんか好きじゃないし、あんたらなんてもってのほかだ。大っ嫌いだ。
 でも、目の前の女を倒さない限り、あたしは自分から目を逸らし続けることになる。
 
 チャルはもう走り出す理由がないとか、望んだ先に何もなかったとか、そうやって散々泣いておきながら、結局、またポケモン勝負がしたくなったのだ。
 
 チャルは手を伸ばした。ネモの差し出したオーブを掴むために。
 
「いいよ、闘ろう。もう一度」
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