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SV

 ネモのルガルガンの首筋に、ドラパルトから打ち出された一匹のドラメシヤが肉薄する。辛うじてそれを避けた直後、肉薄した小竜の真後ろから、ニ体目の刺客が迫る。腹のあたりに直接打ち込まれた二体目のドラゴンアローのダメージで、ルガルガンの四肢はぐらつきだす。空を舞ったドラメシヤ二匹は、フィールドを回り回って、主人であるドラパルトの鞘の元へ還った。

 共に最後の一匹同士。ネモは三体目のパーモットにテラスタルを使用しているため、わかりやすい切り札は彼女の手には残されていなかった。しかし、その程度がなんの逆境か。彼女がオーブを使わずとも、数多のトレーナーを捻り潰してきたことは、チャルメル自身が一番よく知っている。完封されたことだってある。こちらが死力を尽くしても、なお届かない頂があることを、チャルは誰よりもよく知っている。

 闘いとはままならぬもの。優勢は優勢でしかなく、雌雄を決する決定打にはなり得ない。だからこそ、チャルは自分に残されたワンチャンスのタイミングを見計らっている。ネモ側も同じ。互いの手の内はもはや知り尽くしている。それ以上の何か。いや、しかしこれは王道を突くべきなのか。互いにとって何が正解なのか、手に取るようにわかるがゆえに、八方塞がりに陥る。あたしたちは、互いをわかりすぎて、実は何もわからないのだ。

 間髪入れず、ネモはストーンエッジの指示を出す。片膝をついていたルガルガンは瞬時に体勢を立て直すと、槍型の岩が地面を割り、空中へ飛び出してくる。向かってきた細かい破片の間を潜り抜けるが、いかんせん数が多い。大きく体を逸らしたところに、鋭く尖った岩の直撃を食らったドラパルトは、体をのけぞらせて、地面へ叩き落とされる。一目でわかる、完全に急所に入った。

 もはや、これを使うしかないのか。いや、これを使うべきなのかもしれない。テラバーストなら、弱点をつける。あの餓狼を退けて、ネモに膝をつかせることができるかもしれない。

 奇抜もクソもなく、予定調和以外の何者でもないこの光を、今こそ解き放つ時だと、チャルは確信した。取り出したテラスタルオーブを、チャルメルは自らの眼前に突き出す。輝きと風圧に負けそうになるのを、ぐっと踏み込むことで抑え込む。
 眩しさで片目を閉じることに、一抹の悔しささえ感じる。ああ、あたしはどこまでも光に愛されていない。この刺々しい輝きが、あたしの心の奥底に閉じ込めたコンプレックスを刺激して、どうにもならない悪意の扉を解放してしまう。

 「砕け散れ!何もかも、今ここで!」

 砕け散ってしまえ、あたしの宝物。あたしの憎しみ。あたしの怒り。あたしの愛。
 いっそ、この命と引き換えでもいいから。早く、早く、消えてくれ。苦しいから。もう何も考えつかないから。あなたを満足なんかさせられないから。お願いだから。でも。

 決してあたしなんかのひと押しで、膝をつかないでほしいとも、思う。負けるのか?ネモ、取るに足らない、あたしの一撃で。あたしの全身全霊で、あんたは負けるのか。





 土煙と、テラバーストの余波が消え失せた頃には、ルガルガンは地面に力なくうなだれていて、ネモは力尽きた相棒の背中を撫でながら「よくやったね」と声をかけていた。
 テラスタルが解けたドラパルトは、チャルの顔をちらりと見ると、バカにしたように舌を出した。勝っても負けてもどうせあんたの手柄なんだろ、といわんばかりにふてぶてしく、チャルメルのボールへと戻っていく。

「……白星か」

 ネモと闘って勝つことは容易ではない。たとえネモに負けることを恐れ、ネモを拒絶する前から、ずっとチャルはネモに勝つことを熱望していた。
 ネモを上回っていた頃でさえ、チャルはネモには本来、“勝てない”ものだと考えていたものだ。
 勝利を熱望していたのは、“お前は決して天才には勝てない”と世界の方が、そう定めたような気持ちでいたから。

 チャルは、ネモを通じて世界の仕組みに喧嘩を売っていた気分だった。

 「(あたしはネモを否定する。あたしは天才を否定する。あたしは才能による取捨選択を否定する。あたしは才能により、無辜の人々が食い物にされる世界を否定する。あたしは、誰かが、誰かの強さで、傷ついて、心を折ることが、許せない。)」

 強者にはそれ相応の責任があり、強さとは罪であり、勝利とは他者から何かを奪うことに等しい。
チャルは、自分を“奪われた側”の人間だと、自負してきた。
 “誰もが勝てるバトルの方程式”を作ること。
 勝利の平等分配。
 誰も泣かないような、バトルを楽しめる世界を。

 その誰も。
 つまり、バトルを楽しめる誰か。
 その誰かは、もしかしたら自分なのかもしれない。バトルへの強迫観念。“バトルで勝てない人間がのうのうと生きていてはいけない”というそんな考えがあたしには、棲みついていて――


「今回の学校最強大会、勝者は……!」


 思考が切り替わる。

 ――そうだ。あたし、優勝したんだ。

 ふと、今は観客に見られていることを思い出して、いつもの対人スマイルに切り替えた。俯いていた顔をあげて、目が合った顔見知りの後輩たちに手を振ると、黄色い歓声が返ってくる。直後、自分を呼ぶ放送、そして一瞬の間からの歓声とざわめきが鼓膜を突き抜けた。

 歓声。
 チャルにとっての存在証明。バトルをすることで、本当に欲しかったもの。

 ――誰かの“褒め言葉”
 ――誰かの“承認”
 ――誰かの“許し”

 敗北して、誰にも期待されなかった、いや、期待されすぎて、その期待に応えられない自分を許してくれる、光のような差し伸べられる手。
 それを、チャルは本質的に求めている。誰かに肯定されたいからこそ。

 そう、勝てば“こう”なのだ。勝った者のみが、この惜しみない称賛の声と熱狂を一身に受けられる。そう、敗者であるネモの方に、群衆のスポットライトは当てられない。勝者のみが光の中に立っていられる。
 チャルは、ネモに勝った。
 群衆はそれを認めて、チャルを、褒め称えている。チャルを少なくとも、今だけは肯定している。チャルメルは、ネクタイごと、シャツの胸元を握りしめた。この胸を占めている感情は、歓喜だ。

 ネモと二人きりの時の勝利は、基本的に自分への不信に繋がる。何故勝てたのか。何故敗北しなかったのか。その二つの疑問に頭の中が占められる。“また、次も勝てるだろうか”というマイナスで埋め尽くされる。
 チャルにとって、勝利とは救済ではなかった。ネモと対等になる、ネモの側にいていい証明というだけ。そのはず。そのはずだ。

 ――あたしは、いま、多分満足している。

 勝利自体ではなく、この惜しみない称賛の声に。自分に向けられる視線に。嬉しい。あたしの存在が、まるで丸ごとこの世界に許されたような気持ちになる。

 ――もう、これで終わりにしていい、ような。

 このわけのわからない、捩くれた関係性は、ここで終わりでも、もしかしたら。わからない。
 しかし、その気持ちのままで、チャルメルはネモの目をまっすぐ見れない。

 決定的に違うのは、ネモと闘う気にはなれないことだ、とチャルは思案した。あたしの心の中の憎しみが、消え失せたような気がする。さながら、ストーンエッジの刃のように食い込んでいたものが溶けて、チャルは柔らかく微笑めるのだ。まるで日光を受けてまどろんでいるような。そんな感覚。
 いつもなら感想戦という名の詰問を始めるタイミングで、チャルはネモと握手をしたことがないことを思い出した。いや、正確には初戦のとき。本当の本当に、ネモと初めて闘ったあの日の一戦だけでしたこと。怒りを込めて、ネモをくびり殺すと誓ったあの時だけは、ネモの手のひらをきつく握りしめたことを思い出す。

 今なら、柔らかく、彼女の手を握れる気がする。

「ネモ」
チャルは、ネモの側に駆け寄った。

「チャル、優勝おめでとう!すっごくたのしかった…勝負してくれて、本当にありがとう!」
ルガルガンをボールに戻したネモは、にっこりと笑った。

 光の中に生まれてきた、選ばれし人間。生まれながらの宝石。輝ける才能。一瞬だけ、チャルはめまいを感じながらも、ネモに微笑みながら、片手を突き出した。

 「勝負してくれてありがとう、ネモ」
 観衆の声が聞こえる。背を向けていてもわかる、自分への羨望。
 勝利者の愉悦などとは一線を画す、太陽の下で暮らすことを認められた感覚。チャルは久しぶりに、こんな邪気のない、晴れやかな気持ちになれたような気がすると考えた。
 ネモは、差し出された手を一瞥するが、その手を取ることはなく、チャルの顔を一心に見つめていた。

「あ、えっと、握手。ほら、こういう場ですし。礼儀として」
 何故か取り繕ってしまった。

 普通に今は気分がいいから握手してやると言えばいいのに、とチャルは内心苦々しく思う。ネモは逡巡したように一度チャルの目を見つめた。
 ネモに見つめられたことで、チャルは見透かされたような気持ちになった。差し出した手に汗を滲ませる。

 「……チャル」
 「手を抜いてないのはわかってるから弁解しなくていいですわ」
 「チャルと戦うのに絶対手抜きなんかしない、ずっと本気で戦ってきたし、これからもずっと、ずっとずっと本気だよ!」

 ネモは差し出された手を押しのけて、まるで縋り付くように早口で捲し立てる。
 ネモが迫ってきたため、身じろぎをすれば、鼻先がぶつかってしまうような距離感。が、チャルは一歩も引かなかった。ただし、ネモの瞳を見返すことは難しくて、目だけは逸らした。

 「こっちを見て」
 「無理」
 「わたしが嫌いなのは知ってるよ!でも、チャルはわたしが嫌いだから、わたしとポケモン勝負、してくれてたんだよね」
 「……何を今更」
 「わたしの目を見て」

 一歩引こうとしたチャルの顔を、ネモが掴んだ。乱暴な仕草だった。顔を逸らさせまいと、逃さまいという執念すら感じる。本来ならこんな真似をするはずがないと、チャルは琥珀色の瞳を見返して思案する。

 むしろ、チャルは自分が一歩引いたことに驚いていた。

 ――まさか、これは、後ろめたさか。後ろめたさなのか?どんな侮蔑を吐き散らし、怒りと憎悪をぶつけてきたあたしが今更そんな感情を?

 まずい。決定的な何かを見逃している気がする。それをネモに見咎められて、その点にネモは怒っている。そう、ネモはおそらく怒っている。長いまつ毛と琥珀色の瞳、吊り上がった眉毛は、かわいらしくも整った顔立ちに似つかわしくはなかった。
 普段は笑顔でいるためだろうか、ひどく不似合いな顔だとチャルは場違いにも考えてしまった。

 「綺麗だ」

 チャルは呆然と、今の状況にまるで噛み合わない、単純な感想を呟いた。
宝石への賞賛の言葉。悪意の一欠片も混ざらない、ネモへの惜しみない賞賛だった。
 瞬間、チャルの顔を引き寄せて、まるで口を塞ごうとしたかのようにネモは唇を重ねた。
 二秒ほどか。いや、一瞬だったような。チャルがその感触を覚える前に、ネモは掴んでいた手を離して、後ずさった。

 「チャル」

 「次もまたバトルしてくれる?明日も、明後日も」

 「わたしと、またバトルしてくれますか?」

 風に、ネモの緑色の前髪が揺れた。
 まるで、懇願するように。見放された子供が、親の服の裾を掴むように。もはや、その顔には怒りではなく、悲しみが満ちていた。泣き出しそうな、まるで挫折してしまった敗者のような顔。

 遠い昔、鏡越しに見たもの。はじめてのポケモン勝負に負けて、泣き腫らした自分の顔。

 大きく目を見開いたチャルは、言葉を発することができなかった。合わせていた目を伏せると、次にネモの顔を両手で引き寄せた。
 掴まれたネモの出した驚きの声に構わず、チャルはネモの目を見据える。

 そして、唇を重ねた。
 ――正確には、噛んだ。ネモの唇を。

 痛みに肩を震わせた少女から手を離すと、チャルは見栄えの悪い歯を剥き出しにして、何よりも愉快そうに笑う。
 噛まれた唇に触れたネモは、呆気に取られたように指先についた血を見つめている。

 「思い上がるなよ、化け物が」

 もう誰の声も、何も聞こえない。ネモの声だけが聞こえる。ネモの吐息と、ネモの心臓の鼓動だけが、チャルの心を震わせる。吐き出しかけた憎しみと怒りを、チャルはしっかりと飲み込んで、我がものと飼い慣らす。感情とはコントロールするもので、呑まれるものではない。

 「あたしは永遠にあんたを許さない。せいぜい寝首をかかれないように、震えて眠れ」

 誰があたしを賞賛しようが、それがなんだ。それがとっくに意味のない話だったことを、チャルはトップチャンピオンとの闘いで思い知っていた。

 思い上がるなよ、あたし。あたしを生かすのは、苦しみと憎しみ。
 それと共存した、この離し難い恋心だけだ。
 この女を捩じ伏せて、この女に勝負を捨てさせることだけが、チャルの存在理由。
 この女と向き合って、この女と対等に闘うことのみが、チャルメルを肯定するたった一つの理由。

 憎しみに駆られて闘う。ウケる。無様じゃないか。
 愛のために闘う。笑える。醜いじゃないか。
 無様でも醜くても滑稽でも結構。辛酸なら嫌になるくらい舐めてきた。

 「あたしはライバルじゃない」
 今度はネモの目を見据えて、言える。

 「だけど、あんたと対等になりたい。だから」
 そう切り出したタイミングで、ネモが食い気味に「絶対!」と叫んだ。

 同じタイミングで話し始めたせいで、なんとも言えない感じになってしまった。気まずい。

構わずネモは、殊更食い気味で、「次は勝つから!」と言い切った。
 力強く、白い歯を見せつけて笑う。まるで祈るように両手を重ねる。憎むべき強者の笑い方で、この場にいる誰もが目に入らないくらい、愛おしい笑顔。

 ――いや。対等っつーか、あたしはこいつにこういう顔をされたいだけなのかもしれないけど。それも、多分正解かもしれない。

 相変わらず、琥珀色の瞳は満天の輝きをたたえていて、深青の眼光は抜き身の刃のようだった。それでいい。それがいいのかもしれない。馴れ合いの果てに待つのは破滅なら、いっそ差し違えてしまってもいいのだろう。
 最後の、燃え尽きる一瞬まで。
 どちらかが倒れるその時まで、同じ過ちを繰り返せばいい。
 それを許せないようでは、我々は、ライバルどころか、宿敵ですら失格だ。
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