SV
アオイがわたしたちのアカデミーに編入してきてから、もう半年になる。あの冒険の熱も冷めやらぬまま、宝探し期間は終了し、わたしたちはすっかりそのまま学校生活を過ごし、二年生へと進級した。ペパーは単位が足りなくて、いまだに三年生としてこのアカデミーに通い続けている。でも、わたしたちと同じ年に卒業できることははっきりとわかっていて、彼の地頭の良さが見て取れる成績ではあった。
そんなこんなで、わたしは朝、アラームの音で目覚めたのだ。
そして、ここは寮の部屋じゃない。学期と学期の区切りである、この休暇期間は寮に残る生徒と、実家に戻る生徒に別れる。わたしは、両親に顔を見せるためにもこのコサジタウンの家に戻ってきたのだ。アオイともお隣さんだからすぐに会える。ボタンとペパーは寮に残るそうだから、登校すればいつでも会えた。最高の休暇だった!楽しかったなあ、バトルもできたし、色んなところに行けた。去年のわたしには想像もつかなかったような、宝物がいっぱい。
コサジタウンのあの浜辺のバトルコート。そこで、わたしはある夏にあの人と出会い、半年前に今のライバルと出会ったのだ。あのバトルコートは、わたしにとって、馴染み深い場所で、それでも少し身近すぎて、特別感はないと今でも考える。
特別なライバルと、特別な試合をするにあたって、わたしは最高の舞台を用意したかったし、後からアオイに少し愚痴めいたことを言われた時には少し驚いたものだ。わたしだけがあのバトルコートを大切に思っているわけではないことを、嬉しくも思う。
たぶん、ライバルの話であって、この話を、あの人にしてもおそらく大切だとは言ってもらえないだろう。それはそう。いずれ思い出すとしても、それはいつかの話でいい。わたしたちの関係は、まだ実る前の、花開く前のつぼみの段階なのだ。ふたりとも、手探りであるべきだと思う。
以前は、そうやってためらうことをせず突き進んだ結果、大失敗を経験したから。そのことを後悔してるわけじゃないけど、同じ失敗を繰り返すのは良くないと思う。
体を起こして伸びをする。朝日が差し込んできて、とっても気持ちいい。
荷物はもう送ってあるから、この身ひとつで登校すればいい。軽やかな足取りで、半年前と同じように、アオイと二人で小道を抜けて、アカデミーに登校するの。
半年前とは明確に違うことといえば、あの人が卒業してしまったことだ。アカデミーは単位制だから、授業を詰めこんでしまえば、極端に言って一年でも卒業できてしまう。なかなかいないけれど、二年でアカデミーから巣立っていく子は、ちらほらいるらしい。わたしは卒業セレモニーで、アカデミーを去っていくあの人の挨拶を聞いた。椅子に座って、在校生代表挨拶のメモを握りしめて、あの人の言葉を聞いた。未来への展望を語り、残されたわたしたちへ期待を残していった。
セレモニーが終わってからあの人とゆっくり話そうと思ったら、すごく苦戦しちゃった。人波をかき分けて、背中を掴もうとしても、全然届かない。届かないことには慣れっこだったけど。
人波が手を突き出してきて、その時初めて、あの人がわたしの手を取ろうとしたことに気がついた。
とりあえず、人気のないところまで逃げてきて、あまりにもボロボロだったから、少し笑っちゃった。
「立派になってなくても返しにこなくてもいいけど、欲しいなら、あげる」
別に特段欲しいわけでもなかったけれど、いずれ返すという約束で、グローブをねだった。何時だって外さないような、ボロボロの、形見に近いそれを貰えれば、少なくとも片翼をもがれたような気分は和らぐと思ったから。
そんなこんなで、あの人はアカデミーを巣立って行ったし、今日わたしがアカデミーに登校したところで、あの人はあの学舎のどこにもいないのだ。生徒会室を覗いたって、あの人の私物は一個もない。ロッカーだって空っぽだし、生徒名簿にも名前は載ってない。
そう考えると寂しくなるし、無理を言ってでも留年して貰えばよかったなんて考えてしまう。やはりわたしの翼は片方もがれてしまったのだけど、最初からわたしの翼はひとつだけだったような気もする。
欠けていたピースを埋めてくれたのはきっとアオイだし、わたしというパズルを完成させたのもアオイだ。でも、わたしというトレーナーの大枠を作ったのはあの人で、わたしにとってはどちらも欠かせない存在だ。わたしはあの人の翼にはなれないけど、わたしに翼を授けてくれたのはあの人なのだ。たとえ両翼揃っていなくても、わたしは真っ直ぐに飛んでいける。
ありがとう。さようなら。
わたしの先輩。わたしの道標。わたしの好きだった人。わたしのライバルだった人。
つらつらと寝起きでそういうことを考えていたら、時間は刻々と進んでいた。
アオイを待たせるのも悪いと思って、わたしは隣で寝ていた人物をとりあえず揺すり起こすことにした。
チャルはこのアラームの中でもいまだに目を覚ますことはなく、静かな寝息を立てている。暫くは、こっちの世界に帰ってきそうにない。
こうしてチャルが卒業した後も居候の身になるまでには、結構複雑な紆余曲折があった。
まず最初に、卒業後にチャルが寮を引き払ったこと。パルデアに残るつもりはないこと。実家に帰って、自分探しでもなんなりして、そして、いずれ帰ってくること。
わたしと約束したことは最後。それは、パルデアの地に戻ってくることであった。いずれだとかなり曖昧なので、一年後とか一年半とか、数ヶ月とか、数日とか、色々と交渉をしてみたものの、どうにも曖昧な返事しかもらうことはできなかった。「あんたが来ればいいじゃん」というごもっともな意見も拝聴したが、追うものと追われるものが逆転することが許せないのはきみのはずだ。きみにそう約束させることに意味があると思う。
セレモニーが終わったあと、自転車を押しながら「じゃあ、また」と言って消えていった背中を、数日後にまた見ることになった。
ちょうど休暇期間に入ったので、寮で四人で集まろうとしたときに、アカデミーの近くでここら辺じゃみないキャンプのテントを見かけた。
案の定、中にはチャルがいたし、カレーは作ってなかったけど袋を開けて麺をゆがいてる最中だった。
パスポートを紛失したとか、申請に暫くかかるとか、お役所仕事は最悪とか、そういう旨の話だった。結構早く、チャルはわたしの元に帰ってきたのだ。いや、あまりにも早すぎる。これで約束を反故にされたらあんまりかも。
わたしの家に泊めることになったのは成り行きというか、思わぬ長期戦に備えてのことだった。真っ先に頼るべきはトップだと思ったんだけど、そこから経由してこの事態が実家に露見することを心底恐れているらしい。死ぬのなんか怖くないとか散々言ってるくせに。長くても二、三日程度のつもりだとチャルは念押ししていたものの、わたしはなんだかんだと理由をつけて、こうして今日まで、チャルを毎朝揺すり起こさせてもらっていた。
手を伸ばしても届かない一番星だとわたしのことを言うけれど、きみは掴めない蜃気楼のようなものだ。掴んだと思えば、結局掴んでもいなかったし、存在もしていなかった。でも、今きみは確かにここにいる。
*
パスポートを紛失したことに気付いたのは、カロスとの国境付近だったから、まだ幸いだったかもしれない。こんなバカみたいな真似をする自分をほとほと信じられなくなったのも、こうして敵と呼んだ女に長々と寄生している訳の一因かもしれない。かも。よくわからない。はっきりしていることは、あんな大見得をきって卒業したあの学舎や後輩たちに「パスポート無くしたから帰れない」という無様な姿を晒すのは流石に忍びないということだ。
というわけで、この家で寝食を与っている客人の立場として心苦しいが、あまり外出もせずにネモと過ごしてばかりだ。どうにもならない。パスポートは全然再発行されないし。何が悪いんだあたしの。性格か?
「起きて!朝だよ!」
そんな定番の挨拶で、やっと意識が覚醒してきた。
「むにゃむにゃ」
「え、起きてる?」
目線を動かして、カレンダーの日付を見ればホリデーの終わりを告げている。アオイも…とにかくまとめて全員進級しているはずだ。恐らく。わからないが。前に進んでいる。あたしはこんなところで何を燻っているんだろう。
この長い期間で、ネモに起こされることにも慣れてしまった。いや、元からあったと言えばあったのだが。
「遅刻するよ!」
「いや、あたしはもう行かないし…」
「チャルは学校に行かなくとも、朝ご飯を食べる義務があるんだよ」
朝食の義務のために、ネモに揺すり起こされた。いや、アラームが今止められたことから察するに、そもそもだいぶん前から起こされてはいたらしい。
ベット脇で仁王立ちしているネモは、今にも走り出さんばかりのご機嫌だった。おそらく階段を降りるだけで息も絶え絶えになるくせに。
「学校にも行かないのに早起きなんかしたくない…」
「わかるよ。わたしも一日が二四時間じゃなかったらもう少し寝ていたいもん。一日が四八時間だったらいいのにね!」
まあ、おそらく四十八時間になっても二十四時間分をバトルに当てるだけで、大した生活リズムは変わらないのだろう。早起きしたら勝てるのかもしれない。そう考えたら早起きする気になってきた。よし。
「いや、寝る」
「寝ちゃダメ!」
お招きに与るにあたって、本来ネモ家の両親へのご挨拶は必要不可欠だが、その多忙なスケジュールに、あたしのような居候に割ける時間は無かったらしい。いや、ネモは〝恋人〟として伝えていたらしいのだが、やはりネモ自身もここ数ヶ月は顔を合わせたこともないと口にしていた。決して不仲ではなく、挨拶代わりの、電話口でのやり取りでも、ご両親の柔和な人柄は伝わってきたし、ネモ自身もまた、家庭への不満など持ってはいなかった。お姉ちゃんもいるらしい。あたしにも弟がいると返そうとしたが、突っ込まれると面倒なので黙っておいた。
朝食は、ここにきてから毎朝、庭先のガーデンテーブルで摂る決まりになっていた。ネモは普段からここで食事をとっていたわけではないことは、給仕の方から伺った。特別扱いなのだろうか。いや、ただ単に、気まぐれかもしれない。あたしはネモのことを、何も知らないのだ。
そんなこんなで、わたしは朝、アラームの音で目覚めたのだ。
そして、ここは寮の部屋じゃない。学期と学期の区切りである、この休暇期間は寮に残る生徒と、実家に戻る生徒に別れる。わたしは、両親に顔を見せるためにもこのコサジタウンの家に戻ってきたのだ。アオイともお隣さんだからすぐに会える。ボタンとペパーは寮に残るそうだから、登校すればいつでも会えた。最高の休暇だった!楽しかったなあ、バトルもできたし、色んなところに行けた。去年のわたしには想像もつかなかったような、宝物がいっぱい。
コサジタウンのあの浜辺のバトルコート。そこで、わたしはある夏にあの人と出会い、半年前に今のライバルと出会ったのだ。あのバトルコートは、わたしにとって、馴染み深い場所で、それでも少し身近すぎて、特別感はないと今でも考える。
特別なライバルと、特別な試合をするにあたって、わたしは最高の舞台を用意したかったし、後からアオイに少し愚痴めいたことを言われた時には少し驚いたものだ。わたしだけがあのバトルコートを大切に思っているわけではないことを、嬉しくも思う。
たぶん、ライバルの話であって、この話を、あの人にしてもおそらく大切だとは言ってもらえないだろう。それはそう。いずれ思い出すとしても、それはいつかの話でいい。わたしたちの関係は、まだ実る前の、花開く前のつぼみの段階なのだ。ふたりとも、手探りであるべきだと思う。
以前は、そうやってためらうことをせず突き進んだ結果、大失敗を経験したから。そのことを後悔してるわけじゃないけど、同じ失敗を繰り返すのは良くないと思う。
体を起こして伸びをする。朝日が差し込んできて、とっても気持ちいい。
荷物はもう送ってあるから、この身ひとつで登校すればいい。軽やかな足取りで、半年前と同じように、アオイと二人で小道を抜けて、アカデミーに登校するの。
半年前とは明確に違うことといえば、あの人が卒業してしまったことだ。アカデミーは単位制だから、授業を詰めこんでしまえば、極端に言って一年でも卒業できてしまう。なかなかいないけれど、二年でアカデミーから巣立っていく子は、ちらほらいるらしい。わたしは卒業セレモニーで、アカデミーを去っていくあの人の挨拶を聞いた。椅子に座って、在校生代表挨拶のメモを握りしめて、あの人の言葉を聞いた。未来への展望を語り、残されたわたしたちへ期待を残していった。
セレモニーが終わってからあの人とゆっくり話そうと思ったら、すごく苦戦しちゃった。人波をかき分けて、背中を掴もうとしても、全然届かない。届かないことには慣れっこだったけど。
人波が手を突き出してきて、その時初めて、あの人がわたしの手を取ろうとしたことに気がついた。
とりあえず、人気のないところまで逃げてきて、あまりにもボロボロだったから、少し笑っちゃった。
「立派になってなくても返しにこなくてもいいけど、欲しいなら、あげる」
別に特段欲しいわけでもなかったけれど、いずれ返すという約束で、グローブをねだった。何時だって外さないような、ボロボロの、形見に近いそれを貰えれば、少なくとも片翼をもがれたような気分は和らぐと思ったから。
そんなこんなで、あの人はアカデミーを巣立って行ったし、今日わたしがアカデミーに登校したところで、あの人はあの学舎のどこにもいないのだ。生徒会室を覗いたって、あの人の私物は一個もない。ロッカーだって空っぽだし、生徒名簿にも名前は載ってない。
そう考えると寂しくなるし、無理を言ってでも留年して貰えばよかったなんて考えてしまう。やはりわたしの翼は片方もがれてしまったのだけど、最初からわたしの翼はひとつだけだったような気もする。
欠けていたピースを埋めてくれたのはきっとアオイだし、わたしというパズルを完成させたのもアオイだ。でも、わたしというトレーナーの大枠を作ったのはあの人で、わたしにとってはどちらも欠かせない存在だ。わたしはあの人の翼にはなれないけど、わたしに翼を授けてくれたのはあの人なのだ。たとえ両翼揃っていなくても、わたしは真っ直ぐに飛んでいける。
ありがとう。さようなら。
わたしの先輩。わたしの道標。わたしの好きだった人。わたしのライバルだった人。
つらつらと寝起きでそういうことを考えていたら、時間は刻々と進んでいた。
アオイを待たせるのも悪いと思って、わたしは隣で寝ていた人物をとりあえず揺すり起こすことにした。
チャルはこのアラームの中でもいまだに目を覚ますことはなく、静かな寝息を立てている。暫くは、こっちの世界に帰ってきそうにない。
こうしてチャルが卒業した後も居候の身になるまでには、結構複雑な紆余曲折があった。
まず最初に、卒業後にチャルが寮を引き払ったこと。パルデアに残るつもりはないこと。実家に帰って、自分探しでもなんなりして、そして、いずれ帰ってくること。
わたしと約束したことは最後。それは、パルデアの地に戻ってくることであった。いずれだとかなり曖昧なので、一年後とか一年半とか、数ヶ月とか、数日とか、色々と交渉をしてみたものの、どうにも曖昧な返事しかもらうことはできなかった。「あんたが来ればいいじゃん」というごもっともな意見も拝聴したが、追うものと追われるものが逆転することが許せないのはきみのはずだ。きみにそう約束させることに意味があると思う。
セレモニーが終わったあと、自転車を押しながら「じゃあ、また」と言って消えていった背中を、数日後にまた見ることになった。
ちょうど休暇期間に入ったので、寮で四人で集まろうとしたときに、アカデミーの近くでここら辺じゃみないキャンプのテントを見かけた。
案の定、中にはチャルがいたし、カレーは作ってなかったけど袋を開けて麺をゆがいてる最中だった。
パスポートを紛失したとか、申請に暫くかかるとか、お役所仕事は最悪とか、そういう旨の話だった。結構早く、チャルはわたしの元に帰ってきたのだ。いや、あまりにも早すぎる。これで約束を反故にされたらあんまりかも。
わたしの家に泊めることになったのは成り行きというか、思わぬ長期戦に備えてのことだった。真っ先に頼るべきはトップだと思ったんだけど、そこから経由してこの事態が実家に露見することを心底恐れているらしい。死ぬのなんか怖くないとか散々言ってるくせに。長くても二、三日程度のつもりだとチャルは念押ししていたものの、わたしはなんだかんだと理由をつけて、こうして今日まで、チャルを毎朝揺すり起こさせてもらっていた。
手を伸ばしても届かない一番星だとわたしのことを言うけれど、きみは掴めない蜃気楼のようなものだ。掴んだと思えば、結局掴んでもいなかったし、存在もしていなかった。でも、今きみは確かにここにいる。
*
パスポートを紛失したことに気付いたのは、カロスとの国境付近だったから、まだ幸いだったかもしれない。こんなバカみたいな真似をする自分をほとほと信じられなくなったのも、こうして敵と呼んだ女に長々と寄生している訳の一因かもしれない。かも。よくわからない。はっきりしていることは、あんな大見得をきって卒業したあの学舎や後輩たちに「パスポート無くしたから帰れない」という無様な姿を晒すのは流石に忍びないということだ。
というわけで、この家で寝食を与っている客人の立場として心苦しいが、あまり外出もせずにネモと過ごしてばかりだ。どうにもならない。パスポートは全然再発行されないし。何が悪いんだあたしの。性格か?
「起きて!朝だよ!」
そんな定番の挨拶で、やっと意識が覚醒してきた。
「むにゃむにゃ」
「え、起きてる?」
目線を動かして、カレンダーの日付を見ればホリデーの終わりを告げている。アオイも…とにかくまとめて全員進級しているはずだ。恐らく。わからないが。前に進んでいる。あたしはこんなところで何を燻っているんだろう。
この長い期間で、ネモに起こされることにも慣れてしまった。いや、元からあったと言えばあったのだが。
「遅刻するよ!」
「いや、あたしはもう行かないし…」
「チャルは学校に行かなくとも、朝ご飯を食べる義務があるんだよ」
朝食の義務のために、ネモに揺すり起こされた。いや、アラームが今止められたことから察するに、そもそもだいぶん前から起こされてはいたらしい。
ベット脇で仁王立ちしているネモは、今にも走り出さんばかりのご機嫌だった。おそらく階段を降りるだけで息も絶え絶えになるくせに。
「学校にも行かないのに早起きなんかしたくない…」
「わかるよ。わたしも一日が二四時間じゃなかったらもう少し寝ていたいもん。一日が四八時間だったらいいのにね!」
まあ、おそらく四十八時間になっても二十四時間分をバトルに当てるだけで、大した生活リズムは変わらないのだろう。早起きしたら勝てるのかもしれない。そう考えたら早起きする気になってきた。よし。
「いや、寝る」
「寝ちゃダメ!」
お招きに与るにあたって、本来ネモ家の両親へのご挨拶は必要不可欠だが、その多忙なスケジュールに、あたしのような居候に割ける時間は無かったらしい。いや、ネモは〝恋人〟として伝えていたらしいのだが、やはりネモ自身もここ数ヶ月は顔を合わせたこともないと口にしていた。決して不仲ではなく、挨拶代わりの、電話口でのやり取りでも、ご両親の柔和な人柄は伝わってきたし、ネモ自身もまた、家庭への不満など持ってはいなかった。お姉ちゃんもいるらしい。あたしにも弟がいると返そうとしたが、突っ込まれると面倒なので黙っておいた。
朝食は、ここにきてから毎朝、庭先のガーデンテーブルで摂る決まりになっていた。ネモは普段からここで食事をとっていたわけではないことは、給仕の方から伺った。特別扱いなのだろうか。いや、ただ単に、気まぐれかもしれない。あたしはネモのことを、何も知らないのだ。
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