責任だけでは終われない
9(ワグナス視点)
鳥の鳴き声が聞こえる。
締め切ったカーテンの隙間から漏れる光が目を刺して、ワグナスは眉間に皺を寄せた。
窓を開く。
朝の爽やかな風が髪を揺らし、室内の澱んだ空気に息吹を吹き込む。
快晴の空に、乾いた風。
爽やかな一日の始まりだが、降り注ぐ暴力的な光が徹夜明けのワグナスの瞳を焼いた。
昨晩、ボクオーンと別れた後に寝ようとしたが、目を伏せると思い浮かぶのは彼女のことばかりだった。
なぜ。どうして。どうすれば。
頭がまったく休まらず、眠れる状態ではなかった。
ならばいっそ眠るのをやめよう。そう決めて、ワグナスは仕事に没頭した。やらねばならないことはたくさんある。時間はどれだけあっても足りない。
強い風が吹き込む。
それは机上の書類を巻き上げ、天井を白く染めた。慌てて窓を閉めると、舞っていた紙が一斉に落ちてくる。
ボクオーンが片付けてくれた部屋は、一瞬で元の足の踏み場もない部屋に戻ってしまった。
彼女がいなくなってしまう、暗示のようだ。
ワグナスはため息をついて、屈んで足元の紙を拾った。
その時、控えめに扉が叩かれた。
「どうぞ」
告げると扉の前にボクオーンが立っていた。彼女は部屋の惨状に顔を顰め、苦笑を浮かべる。
「朝食の時間なので、呼びに参りました。……一晩で随分と散らかしましたね」
「空気を入れ替えようとしたら、風にやられた」
ボクオーンが吹き出す。
笑いながら足元の紙を拾ってくれる彼女に苦笑を返し、ワグナスも紙の回収を急いだ。
静かな部屋に、紙が擦れる音だけが響く。
「朝食の後、合成術の実験に付き合っていただけますか?」
張り詰めた声に、ワグナスは頷いた。
成功しなければずっと隣にいてくれるのだろうかと、邪な気持ちが顔を出す。
それに気づいた時、胸がずんと重くなった。
何を考えているのだ。
彼女の傷と、自分の欲を天秤にかければ、傷を消すことの方が、大事に決まっているだろう。それなのに、自らの欲のために失敗を望むなど、なんて卑しいのだ。
ボクオーンのことを見ることができなかった。
紙を集め終え、端を揃えて机に置く。
隣に立ったボクオーンに差し出された束を受け取り、改めて礼を言った。
「ちゃんとこの状態を維持してくださいね」
それは暗に「自分はもうできないから」と告げているようで、胸が引き裂かれそうになる。
ともに生きてほしい、と願う。この滅びに向かう世界の中で、残された時間はわずかなのかもしれない。たとえ短い時間だったとしても、彼女の隣にいることを許してほしい。
その知略で、目的を果たす道へと導いてほしい。
だがそんな甘えを表に出すべきではない。
「……もちろん、善処するよ」
ワグナスは強がって笑みを浮かべた。
朝食はいつもと同じメニューだったのに、砂を噛んでいるようだった。
食べ終えたあと、ワグナスとボクオーンは庭に出た。
手頃な魔物の調達ができなかったので、ワグナスの指先につけた傷に術を行使してもらった。
輝く緑色の光が地面から浮かび上がってくる。
魔力が傷口に作用していくのを、目を凝らして見つめる。制御も効果も完璧だ。
「さすがだな」
この短期間で、よくぞここまで仕上げたものだ。
光の残滓が空気に溶ける。
ワグナスはボクオーンへと微笑みを向けた。彼女は頬を紅潮させ、術の成功を噛みしめていた。
次はボクオーン自身にかける番だ。
「一度、傷跡を見せてもらっても?」
「……はい」
ボクオーンは躊躇うように視線を揺らしながら、うなずいた。
今日はいつもの黒いローブではなく、屋敷の者が用意したワンピース姿だった。袖から右腕を抜き、右の肩をむき出しにする。肩から胸元にかけて薄赤色の皮膚が盛り上がっていた。
思わず伸びかけた手を引っ込め、心を落ち着けるためにそっと深呼吸をした。
「君は術を試してみてくれ。私はその魔力の流れを操作して、肩に集中させてみよう」
「そんなことができるのですか!?」
「多分だが」
別の術で試したことがあるので、おそらくなんとかできるだろう。エリクサーの治癒効果は抜群だが、この傷はできてから日にちが経ってしまっている。通常の術の行使では足りないかもしれない。
「それでは、いきます」
ボクオーンが魔力を集める。穏やかな水が流れるような透明感のある魔力と、温かい生命を包み込むような土の力強さとが混ざりあう。
術式自体には問題はないが、魔力のバランスは水の方がやや強い。
緑色の光がボクオーンを包む。息吹を上げた芽が茎をのばし、葉を茂らせる。輝くつぼみがその花びらを開いた瞬間、魔力が溢れた。
魔力を込めようとして、冷えた指先が震えた。
一瞬だけ、躊躇う。傷が消えなければ、彼女を繋ぎ止めることができるのかもしれないと、浅ましい考えが頭をよぎってしまった。
しかしそれを打ち消すように指先に魔力を集中させ、ボクオーンの術式の上に土の魔力を注ぐ。彼女の魔力と混ざり合い、溶けて、そして肩へと誘う。
光がはじけた。
ワグナスは思わず目を伏せた。
魔力が細かい粒子となって辺り一面を舞う。
眩しさに真っ白に染まっていた視界が元の色を取り戻したとき、傷一つないボクオーンの美しい肩があった。
術は成功したようだ。
よかったと安堵に表情が緩む。
祝福を告げようと開いた唇を固く結び、肩を見つめるボクオーンの横顔を凝視した。
「優しい魔力ですね」
彼女は緑色の魔力を身に浴びながら、愛おしむように目元と口元を緩めていた。
その美しさに息をすることさえ忘れそうになった。
そっと伏せられたボクオーンの長いまつ毛に、小さな丸い水滴がついて、虹色に輝いた。
憂いを帯びたその表情に、抱きしめて慰めたい衝動が沸く。
――そうだ。彼女に触れたいのだ。と、己の欲を自覚した。
「もう、これで……」
「昨日、君が言っていた通りだ。この傷が消えた今、私が責任をとる理由がなくなってしまった」
ボクオーンの瞳が大きく見開かれた。
光の残滓に当てられて輝く金水晶を見つめながら、ワグナスは意を決して告げた。
「だから、今度はただの一人の男として申し込ませてほしい。……私と結婚をしてほしい」
「は?」
疑心に満ちた声とは裏腹に、ぱちりと大きく瞬きをしたボクオーンの瞳から涙が零れた。しかしすぐに彼女は慌てた様子で涙をぬぐい、首を振った。
「なぜそんなことをっ」
「君と一緒に生きていきたいと思ったからだ」
「だからなんで!」
光を反射しながら溢れ続ける涙は、宝石のようだった。
ワグナスは懐から取り出したハンカチで涙を拭ってやりながら、しばし考えるように首をかしげた。
なぜか。
この感情を言語化するとしたら、それは――
「愛……かな」
ボクオーンが息を呑む。
口にしてみて、思った以上にしっくりときた。ワグナスは自分の言葉を噛み締めるようにうなずいた。
使命のためであれば、己の身なんてどうでも良かった。死と隣り合わせの戦場で震えることもなかった。それなのに、ただ一人の女性が離れていくことには心の底から怯え、体を震わせていた。
いつからだったのだろう。
日々が楽しかったからだろうか。
彼女が自分の重荷を、一緒に背負おうとしてくれたからだろうか。
女性であるというだけで虐げられた彼女が、それでも強い眼差しで前を向いている姿を目の当たりにしたからだろうか。
過去のことはわからない。だが、今の気持ちと、未来のことは、わかる。
「君を愛しているから、一緒に生きたいと願う」
「適当なことを。いままでそんなそぶりを見せなかったではありませんか」
怒ったような強い口調で返され、ワグナスは苦笑を浮かべるしかなかった。
「今気づいたのだから、許してくれ」
「いまさら、なに、をっ」
ボクオーンは俯いて表情を隠した。涙の粒が、地面を濡らしていく。それがあまりにも痛々しくて、手を伸ばした。
「抱きしめてもいいか?」
「ダメに決まってます! 責任がなくなった今は、婚約者でも何でもないでしょうっ」
「そうか……」
しょんぼりとしながら腕を引っ込める。
ボクオーンはその場にしゃがみ込み、顔を伏せた。ぐすりと鼻をすする音が響く。
なんと声をかければいいのか迷い、ワグナスはその場に立ち尽くしていた。
「……ください」
「すまない、聞こえなかった」
慌てて彼女の前に膝をつき、顔を覗き込むと、彼女は真っ赤になった瞳を上げて、すねたように告げた。
「忘れているようですが、私の肌を見た責任も、唇を奪った責任も残っておりますからね。さらに抱きしめるのでしたら、一生かけて償ってもらいますよ」
ワグナスは大きく目を見開く。そんな理屈をこねる彼女を可愛いと思ってしまった。愛おしい気持ちが溢れ、止まらない。
ワグナスは彼女の体を抱きしめた。そして目の前の肩にやさしく口づけを落とす。
「愛している、ボクオーン。私の伴侶になって、一生を共に生きてくれないか?」
もう一度問うと、ボクオーンは顔をくしゃくしゃにして、うなずいた。
「はい。私も、あなたのことが――」
多分大事なことを言おうとしていたのだと思う。
けれどワグナスは気持ちが昂って、ボクオーンの唇を口付けで塞いでしまっていた。
拒絶はなかった。
ボクオーンが縋りつくように抱き着いてきたから、ワグナスはその体を強く抱きしめた。