責任だけでは終われない

8(ワグナス視点)


 こちらを向く金色の瞳が暗く陰っている。
 頼りなげで、指先で触れただけで砕け散りそうなガラスのようだった。
 ――慰めてやらねば。
 衝動的に手が伸びた。
 ボクオーンは自立した強い女性だ。そんなことを思うのは傲慢だったと、今は思う。
 だけどあの時は、泣かないでいいと抱きしめてやりたかった。

 ――それが、言い訳だということは、自覚はしている。

 本当はただ、あの柔らかそうな唇に触れたかった。
 そんな身勝手な気持ちを、責任という言葉を盾にしていることを見透かされたのだろう。だから彼女に拒絶をされたのだろう。
 肩に負わせた傷も、実家との関係で抉ってしまった心の傷も、まだ癒えていないというのに。
 それなのに、己の欲を優先してしまったから――

「ワグナス!」
 名を呼ばれ、慌てて顔を上げた。
 正面には、険しい顔に若干の呆れを滲ませたノエルがいる。
 ワグナスは大きく瞬きをして、視線を巡らせた。会議室の大きな丸テーブルには地図が乗っており、その周りをいつもの仲間が囲んでいる。
 両隣のスービエとダンターグは呆れたような視線をこちらへ向けていた。
 ただひとり、ボクオーンはこちらに背を向けて、壁に貼り付けた紙に数字を書いている。
「昨日から今朝まで、ずっと神殿に詰めていたそうだな。疲れているなら、少し休んだらどうだ」
「……ああ、夜通しで大神官様の愚痴をたっぷりと聞かされたよ。すまないが、そうさせてもらおう」
 こめかみをもみながら苦笑を浮かべると、にやりと笑ったスービエがボクオーンの背中に声をかける。
「おーい、ボクオーン。愛しの旦那様に添い寝してやれよ」
「殴りますよ、スービエ。……ノエル殿、行きましょう」
 ボクオーンは振り向きもせずに冷ややかに告げ、机上の資料をまとめるとノエルを連れて歩き出した。実行部隊の兵たちに作戦の詳細を説明するらしい。
 ワグナスは、ローブの裾を翻しながら歩いていくボクオーンの後ろ姿を見つめた。
 ふと、先日の去り際に見せた彼女の美しい笑みが脳裏をよぎる。強い彼女に限ってそんなことはないだろうに、泣き出しそうだと錯覚をしてしまうほど、儚げな微笑みだった。
 ワグナスは声をかけようかと迷ったが、彼女は振り返ることはなく、足早に部屋を出て行ってしまった。
 ため息がこぼれた。
 作戦会議は終わりだ。
 ダンターグが席を立ち、ワグナスも仮眠所に移動しようとすると、スービエに呼び止められた。
「お前ら、なんかあった?」
「私とボクオーンか? いや、何もないが。……なぜそんなことを?」
「ボクオーンがお前の方を見なかったから」
 肩をすくめてスービエが告げる。
 ワグナスは目を丸くしたまま、スービエと、誰もいない扉の方とを交互に見た。
 無意識に指が唇をなぞる。そんなに拒絶されているのだろうか。
「痴情のもつれを持ち込むな、鬱陶しい」
 地を這うような低い声を放ち、ダンターグが鋭くこちらを睨む。
「死ぬぞ」
 それは警告だった。
 ワグナスはその事実から逃げるよう、目を伏せた。
 いつかの洞窟での、血にまみれたボクオーンが瞼の裏に浮かぶ。公私混同など彼女がするはずはない。自分とて、そこは切り離した判断ができる――はずだ。
「ダンターグのは極端だけどさ、言いたいことはわかるよ。死んだら、もう伝えることができねぇからな」
 スービエはダンターグをなだめるように、その肩をぽんぽんと叩く。ダンターグはふんと鼻を鳴らし、不機嫌に部屋を出て行ってしまった。
 ワグナスはゆっくりと瞳を開いた。
 スービエは行儀悪くテーブルに腰を掛け、手にしている槍をくるくると器用に回している。その穂先をぼんやりと眺めた。
「何を、伝えろと?」
「それは自分で考えろよ。俺の言葉で言ったって、ボクオーンの心には届かねぇよ。……四回目の婚約破棄にならないようにな」
 じゃあ、お休みーと軽く告げて去っていくスービエを見送り、ワグナスは己の胸に手を当てた。
 ボクオーンは何を考えている。
 そして、自分は――

 
 仮眠を取った後は自宅に戻り、いつもの仕事部屋で作業に没頭した。
 獣の鳴き声が耳に入り、ワグナスはなんとなく視線を上げた。闇に覆われた空から差し込む光はなく、魔道具の照明だけが部屋を照らしていた。
 足の踏み場もないほどに散らかっていた床は、いつの間にか塵一つないほどきれいに片付いている。本棚に収まる本も分類され、整頓されていた。
 懐から時計を出し、時刻を確認する。そしてそっと眉をひそめた。
 今日はボクオーンが就寝を促しに来ていない。
 そんなことを考えて、自分は馬鹿かと呆れた。子供ではないのだから、寝る時間くらい自分で管理すべきだ。
 だけど彼女に世話を焼かれるのが存外に心地よく、甘えが混ざっていた。そんなところが彼女に呆れられたのだろうか。
 凝り固まった肩を回しながら立ち上がり、歩き出す。
 廊下に出てボクオーンの部屋の方を見ると、扉の隙間から光が漏れているのが見えた。
 扉を叩いてみるが、反応はない。
「ボクオーン、起きているのか?」
 返事がないことに不安を覚え、扉のノブを回してみた。抵抗もなく開いた扉の隙間から中を覗き込むと、正面の机に突っ伏しているボクオーンの姿が見えた。
「ボクオーン」
 やはり返事がないので、扉を開けたままにして中へ入る。
 部屋と廊下の空気が混ざり、ふわりと清涼感のある香りが漂った。彼女の好きなハーブだろうか。
 ボクオーンは寝ているようだった。呼吸も安定しているので、具合が悪いわけではなさそうだと、ほっと胸をなでおろす。
 テーブルの上には地図と作戦指示書の走り書き、そしてエリクサーのページを開いた魔導書が散乱していた。
 ワグナスはエリクサーと書かれている文字に指を這わせた。
 エリクサーの術は現存する術の中で一番回復力が高いものだ。合成術であることもあり、国の中でも使い手が限られ、かつ、その使い手も権力者に囲われてしまっている。
 もしもこの術が完成すれば、ボクオーンの傷も消えるのではないだろうか。
 彼女は口では気にしていないと言っていたが、肩に触れることが多かった。女性であることを捨てたとはいっても、気になるのだろう。できれば、その憂いを消してやりたい。
 だが今は、こんなところではなくきちんと布団で寝ることの方が優先だ。
 肩をゆすりながら呼びかけると、ボクオーンの目が開いた。その瞳がワグナスを映した瞬間「ひゃっ」と可愛らしい悲鳴を上げて飛び起きた。
「ワグナス殿、なぜここに」
 狼狽える姿に愛おしさを感じつつも表に出さないようにし、ワグナスはやましい気持ちはないと示すよう、肩の高さに両手を上げた。
「部屋から明かりが漏れていたのに返事がなかったので、心配になったのだ。勝手に入って申し訳ない。……こんなところで寝ては風邪を引く。ベッドに入れ」
「いつもとは逆ですね」
 いじわるそうに笑う顔に、苦虫をつぶしたような顔を返すしかなかった。
 こんな時間に女性の部屋に長居をすべきではない。就寝の言葉をかけて部屋を後にしようとすると、呼び止められた。
 廊下に出たところで振り向くと、追いかけてきたボクオーンが扉の前に立った。
「明日、少しだけ時間をいただけないでしょうか」
「構わないが、なぜだ?」
 ボクオーンは口元に薄い笑みを浮かべ、左手で右の肩をなでた。
「エリクサーの術を試してみたくて」
「そうか、完成したのか。協力させてくれ」
 彼女は頷き、寂しそうに微笑む。ワグナスは右肩の傷跡に触れたい衝動にかられた。手を伸ばしかけたが、すんでのところで思いとどまる。
「エリクサーであれば、肩の傷も消すことができるかもしれないな」
「……なければ、……」
 肩の方に顔を向けながら、ボクオーンがささやいた。静まり返った夜の静寂の中でも拾えないほどに、小さい声で。
「すまない。もう一度言ってもらえないだろうか」
 ボクオーンの瞳がまっすぐにワグナスを向いた。射抜くような、強い光をたたえて。責めるような、縋るような、相反する複雑な感情を込めた視線から、目が逸らせなくなる。
「傷がなければ、私たちが婚約をする必要はありませんよね」
「……え?」
 その言葉を理解することができず、ワグナスは間抜けな声を上げた。心臓がキュッと握りつぶされたような痛みを放ち、息が止まる。
 ――そんなはずがあるか。そう、叫びたかった。
 だがそういう契約だったはずだ。ボクオーンに――貴族の娘に傷を負わせてしまったから、その責任を取ると。
 この関係が心地よかったのはワグナスの都合だ。
 そうだ。彼女は最初からこの契約に乗り気ではなかったではないか。
 引き留める権利などなくなる。ボクオーンが去るというのであれば、仕方がない。
 それでも――
 何を言えばいいのかとっさに出てこず、立ち尽くした。
 だが何かを言わなければならないと、震える唇から声を振り絞ろうとした。
「それは……」
「おやすみなさい」
 ワグナスの言葉を遮るようにボクオーンは微笑み、扉を閉めた。
 伸ばした右手は彼女に届くことはなかった。代わりに触れた扉はひんやりと冷たく無機質で、指先が震えた。
 ガチャンと錠が閉まる甲高い音が廊下に鳴り響いた。それは彼女の拒絶のように感じられた。
 ワグナスは震える拳を握りしめた。
 共に過ごす時間が心地よかったのは自分だけだったのだろうか。こんなにも離れ難く、惹かれていたのは自分ばかりだったのか。
 あの口付けだけが原因ではないだろう。戦いの前の作戦会議で、彼女を軽んじてしまったからだろうか。私生活のダメっぷりに呆れられたのだろうか。
 いや、そもそも初めから、彼女にとってはただの契約だったのだろうか――わからない。
 どうすればいいのだろう。
 
 立ち尽くすワグナスをあざ笑うかのように、扉の隙間から床に漏れていた光が掻き消え、静かに闇が広がっていった。
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