責任だけでは終われない
7(ボクオーン視点)
ターム討伐隊の帰還を確認した後、ボクオーンは討伐隊の拠点に詰めていた。
日はとうに暮れ、月だけが下界を照らす。
机の上にいくつかのランプを置いて明かりを取りながら、ボクオーンは手元に展開した地図を見下ろしていた。
地図上に描かれた赤い丸はタームが現れた場所だ。
「クイーンはどこにいる……」
赤い印は王都への包囲網を作るように迫っている。守ってばかりではだめだ。攻めなければ。クイーンを討つための一手を――
「ボクオーン」
顔を上げると、扉の前にワグナスが立っていた。
土と血で汚れた鎧を脱ぎ捨て、水を浴びてきたのだろう。白いローブ姿で、肩に無造作にタオルをかけている。
自然と頬が緩んだ。
凱旋の際に遠目から眺めたが、こうして言葉を交わすのは五日ぶりだった。
「ただいま」
はにかむように告げてくるワグナスに、「おかえりなさい」と当たり前のように返す。そんな関係がくすぐったくて、だけど少し違和感を覚える。
ぽたりとワグナスの髪から雫が落ちた。
ボクオーンは思わず半眼になる。
「髪はちゃんと拭くようにと、言いましたよね?」
「……すまない。少しでも早く君のもとに来たかったのだ」
そんな風に言われては怒れないではないか。
ボクオーンはため息をついて、ワグナスを椅子に座らせた。その背後に回り、優しく髪を拭っていく。
つい先ほどまでは作戦を立てなければならないと焦っていた心が軽くなって、温かいものがじんわりと広がっていく。
「……ずっと君に謝りたかった」
「何がですか?」
思い当たる節がないため尋ねると、ワグナスはばつが悪そうに目を細めた。
「私は君の実力を本当に認めているのだ。知略の面はもちろん、戦力としてもだ」
その告白を聞いた瞬間、「ああ」と乾いた声を漏らした。
何日も前のことを謝罪に来るワグナスの律義さに苦笑を浮かべる。
「あの時は私も焦っていましたし、お互い様でしょう。気にしておりません」
無意識に右肩をなでる。
ワグナスがボクオーンの身を案じるのは、あの時のことがトラウマになっているからだろう。自分をかばった人間が――しかも女性が大怪我をした。その瞬間、彼の中でボクオーンは庇護対象に置かれてしまった。
それはとても不本意で、忌々しいことだけれども。
右肩を押さえる左手を、ワグナスの指が恭しく触れてくる。その視線は左手の下のローブで隠れる傷口に、まっすぐに向いていた。
――もう気にしなくてもいいのに。
こんな傷など本当にどうとも思っていないのだ。ただ、この傷のせいで弱く見られることが気に入らないだけだ。
ボクオーンは苦渋を滲ませるワグナスの顔を見つめていた。
見つめるならば傷ではなく、自分自身を――そう、願ってしまう。
ふと、彼の灰色の瞳がこちらを向いた。
真っ向から受け止めてしまい、視線を逸らせなくなる。
左手が強く握られた。
熱い。
その瞳に宿る炎も、手の甲から伝わってくる熱も。
ワグナスが立ち上がり、椅子の足が床を引きずる音が響くと同時に、その顔が近づいてくる。ボクオーンはそっと瞳を閉じた。
新たな熱が、唇に宿った。
一瞬だけ触れたそれが遠ざかっていくのが名残惜しくて、ボクオーンはワグナスの首に手を伸ばした。
同時にワグナスに腰を引き寄せられ、強く抱きしめられた。
先ほどの儀式めいた静かさとは対照的に、荒々しく重ねられる唇。もっと彼を感じたくて角度を変えて深く絡めあう。
廊下から足音が聞こえた。
ボクオーンとワグナスは慌てて距離を置き、背を向けあった。
足音は二人がいる部屋の前を通過して、だんだんと遠ざかっていく。
ボクオーンは止めていた息をゆっくりと吐き、逃げるように窓辺に寄った。
勢いよく窓を開くと、冷気を含んだ風が吹き込み、ボクオーンの赤い髪を揺らした。
机上の紙が音を立てる。
慌てて振り返ったが、先にワグナスが机に駆け寄る姿が見えた。丁寧に紙をまとめ文鎮を置いていく姿を横目で見て、ボクオーンは安心して風に身を任せた。
火照った体と心を冷やそうとするように。
「合成術に興味があるのか?」
振り向くと、ワグナスは茶色の本へ視線を落としていた。ワグナスの部屋で見つけた、合成術の魔術書だ。
「ああ、勝手に持ち出してすみません」
「いや。管理さえしてくれれば問題はないよ」
ワグナスは先ほどの動揺がおさまっていないようで、落ち着きなくページを繰っていた。
その本を所持していたことに罪悪感が募り、聞かれてもいないのにボクオーンは口を開いた。
「エリクサーという術をご存じですか?」
「……ああ、もちろん。非常に強力な回復の術だ。そうか、君ならば使いこなせるかもしれないな」
「ええ。治癒力が高い術を行使できれば、戦闘の被害も抑えられるかもしれません」
ワグナスは目次を見て、該当の術の記載を探しているようだった。
その指先を見つめながら、ボクオーンは拳を固く握りしめる。――嘘を、ついた。いや、全てが嘘ではない。強力な術が戦闘で役立つことは間違いない。だがこの術を使いたい本当の理由は、傷を消したいからだ。ワグナスとのいびつな契約の動機を排除したいから。
「合成術ならば私にも手伝えることがあるかもしれない。今度、一緒に試してみようか」
だから、そんな善意の言葉に胸が痛む。
「ええ、お願いします」
ふいに沈黙が落ちる。
ボクオーンは視線を落とし、身を固くしていた。
対するワグナスは、手にしている本の表紙を指で何度もなぞっている。
ワグナスは長い指で口元を押さえ、気まずげに切り出した。
「さきほどは、許しを得ていないのに、すまなかった」
――口づけをしてしまったことに対してだろう。
流してくれとは思うのだが、とてもワグナスらしい。
「お互い、流されただけですよ。お気になさらず」
ボクオーンは事務的に答え、笑みを貼り付けた顔を上げた。
「ワグナス殿は婚約者としての責任を果たそうとしてくれているのでしょうが、……ああいうのは、必要ありませんよ」
ぺらぺらと口から零れ落ちていった言葉に、内心舌打ちをする。
こんなの、否定をしてほしくて試し行動をしている子供の様ではないか。
ワグナスはわずかに目を見開いた。言葉を探すように唇がわずかに動き、しかし何も言わずに目を伏せた。
鼓動を叩く音が、鼓膜にまで反響してやかましく鳴り響く。
ワグナスの次の言葉に期待と不安が入り混じり、握りしめた拳が震えた。
永遠のような沈黙が落ちた。
ゆっくりと目を開いたワグナスは、いつも通りの眉間にしわを寄せたしかめっ面だった。
「そうだな。……すまなかった」
ワグナスは深く頭を下げる。
ボクオーンは息を呑んだ。世界から全ての音が消えた。先程まであんなにうるさかった鼓動さえ、沈黙してしまったようだ。
そして、否定してもらえると信じていた自分の弱さに愕然とする。
背中に冷や汗が伝う。
動揺を悟らせぬよう、ボクオーンは微笑みを浮かべた。とても美しく見えるだろう、笑みを。
「遠征は疲れたでしょう。今日はもう、お休みください」
声はかすれていた。
だがワグナスは気づいた様子もなく、不自然に目を合わせないままで柔らかな笑みを浮かべた。
「ありがとう。……君も無理はしないでくれ。おやすみ」
ワグナスは部屋を出て行った。
ボクオーンは微笑み顔のまま、その後姿を見送った。
絨毯に落ちた水滴が染みを作る。そっと視線を落とし、ボクオーンはその跡を消すように踏みつけた。
手の甲で乱暴に目元を拭い、机の前に立つ。
「今は自分の役割を果たせ」
自身に言い聞かせるように強くつぶやき、ボクオーンは地図に視線を落とした。
自分の価値を損なうようなことはするな。知略で役に立てず、失望されるものか。
――女は捨てたはずだった。その代わりに知略を磨き、欲しいものを勝ち取ってきた。
そんな自分が、いまさら女としてみられたいだなんて、なんて愚かで、滑稽なのだろう。
作戦の草案を記した紙に書かれた文字が、ぼやけてゆらゆらと揺れているのを、ボクオーンは無言で見つめた。