責任だけでは終われない
6(ボクオーン視点)
「ワグナス殿、食事の時間です。食堂に参りましょう」
とワグナスに声をかけたのに、彼はボクオーンの方を見もしない。
「今立て込んでいるので、もう少し後で……」
「……はぁ? あなたにも仕事があるように、使用人たちにも仕事があるのです。彼らの予定を狂わせないでください。文句を言っている暇があるなら、早く食べ終わればいいのですよ」
ボクオーンはワグナスの手を無理矢理引いて、食堂へ連行した。
日付が変わり、静まり返った夜更け。ワグナスの仕事部屋の扉が勢いよく開かれた。
「ちゃんと睡眠をとってください。寝不足は思考を鈍らせます」
「添い寝してやれば、おとなしく寝るんじゃね?」
茶化すスービエの頭に拳を叩き込むボクオーンの姿を見たワグナスは、危険を察したのか素直に従った。
「髪はちゃんと乾かしてから寝てください。翌朝髪が跳ねて困るのはワグナス殿なんですからね」
タオルで丁寧に髪を拭うと、くすぐったそうに身を固くして、ワグナスは笑った。
ワグナスの屋敷にボクオーンの声が響く。それをスービエや使用人たちは時に微笑ましく、時に拍手喝采を伴いながら見守っていた。
――私はあなたの母親ですか、と何度か言いかけた。
外から見ると完璧超人のワグナスは、私生活はかなりボロボロであった。彼にはもともと使命と理想のために自らを省みない傾向はあった。私生活をおろそかにするのも、その延長なのかもしれない。
だが、それが許容できるかといえば、潔癖な性質のボクオーンには到底無理な話だった。婚約者の立場を抜きにしても、なんとかせねばと思うのだ。
そんな変化はあるものの、ワグナスの仮の婚約者になったことで、ボクオーンの生活が劇的に変わることはなかった。
優先すべきはタームの討伐。
戦略家として参加しているボクオーンは、情報を集めて作戦を立てるのが役目だ。場合によっては自ら出向いて指揮を取る。
それらの仕事はむしろ、決定権を持つ人間が傍にいる今の方が効率よく回すことができた。
食事を忘れて引き籠るワグナスを引っ張り出すことで使用人たちの信頼を勝ち取り、国の機密を知り策謀を巡らせ、さらにはタームを滅するための立案をする。
ワグナスは申し訳なさそうな顔をしつつも、ボクオーンの言いなりだ。
世話を焼いて、微笑みながら礼を言われることが嬉しかった。
彼の作業を手伝って、賞賛を受けることが自尊心を満たした。
女扱いをされることは不本意だったが、少しだけくすぐったくもあった。
――とても充実した日々を送っていた。
「この辺の紙は勝手に整理しますからね」
作戦立てに煮詰まった時は、もっぱらワグナスの部屋の片づけをしていた。昔からいい案が浮かばないときには、料理など、作戦とは関係ないことをして気晴らしをしていたので、それがワグナスの世話になっただけのこと。
床にある物は捨てていいと言われていたが、一応分類して束ねておく。
ワグナスは作業に没頭しながらも、声は一応聞こえているようだ。本当に重要なことには受け答えをしてくれる。
紙を手に取り内容を確認した。
転移装置についての報告書だ。転移装置自体はもちろん、人を動かし、金を動かし、評議会への根回しまで行い、ワグナスの仕事は多岐に渡っている。様々な専門性があるし、一人でやる作業量と責任ではない。
想像以上に、彼が抱えているものは大きかった。そんな男が自分のことを利用していいと言う。操り甲斐があると思う一方で、純粋に彼の役に立ちたいという気持ちも顔を出してきた。
床がきれいになったところで箒をかけ、乾拭きをする。きらりと輝く床に満足し、ボクオーンは微笑みを浮かべた。
さて、次は本棚だ。
乱雑に積み上げられた本を適当に分類し、並べ始める。
ふと、引き寄せられるように目についた茶色の古びた書物。
ページをめくってみると、魔術書のようだった。
興味を覚えて読み進めると、それは合成術についての内容だった。
――なんで個人の本棚に、こんな貴重なものが眠っているんだ!
叫びたい気持ちを抑え込みながら、ページを繰る。
その中に、『エリクサー』という回復術の術式を見つけ、鼓動が高鳴る。どんな傷でもたちどころに治癒する強力な術だ。戦闘で役に立つことは間違いない。
それに――。ボクオーンは無意識のうちに右の肩に触れた。
「おーい、飯だぞー」
遠くからスービエの声が聞こえる。が、無視をした。
『エリクサー』の基礎となる系統は水と土。それならばボクオーンも条件は満たしている。
ボクオーンは水の術であれば最上位術の『クイックタイム』まで習得しているが、土の術はそこまでの練達はない。
まずは試してみよう。術式はどうなっている? 魔力量は足りているか。実験サンプルを確保するために、その辺の魔物を狩りに行く必要がある。しかしまだ作戦の立案は終わっていない。
ああ、時間が足りない。
「おーい、ボクオーン。こっちに戻ってこないと、キスするぞー」
背後から声が聞こえたかと思えば、少し離れたところでガタガタっと何かが崩れる音がした。
「人の婚約者に不埒な真似をするのはやめてもらおうか!」
「お、ワグナスは釣れた。次はボクオーンを……」
スービエに背後から抱きつかれたが、張り付いているだけなら害はないと放置する。しばらくするとワグナスの怒鳴り声が聞こえ、背中の熱が去っていった。
そのまま背後でワグナスとスービエがもめている気配がするが、今はそれどころでない。
その時、本が手元から取り上げられた。
「何をするのですか!」
怒鳴りながら手を伸ばしたところで、浅黒い肌の端正な顔が視界いっぱいに飛び込んできた。
「ノ、ノエル殿!? な、なぜここに……」
目の前に立ち、本を頭上に掲げているのはノエルだった。彼がここに来ることは珍しい。
近すぎる距離に慌てて背後に飛びのくと、上質な服を纏った大きな体が受け止めてくれた。
「おっと」
それはワグナスだった。ボクオーンは自ら彼の胸の中に飛び込んでしまったようだ。
心の準備ができていないところへの二連撃に、ボクオーンは頬を染めながら狼狽えた。
「休暇中にすまないが、火急の用だ」
ノエルの硬い声を耳にした瞬間、昼食前ののどかな時間は緊迫した空気へと変わった。
ワグナスの応接の間の机を囲み、四人は地図を見下ろしていた。
討伐軍の主要メンバーであるダンターグは、作戦は任せるというスタンスなのでこの場にはいなかった。
ノエルが持ってきたのは、近隣の町がタームに襲われたという伝令だった。
ボクオーンはもたらされた情報を紙に書いて整理をしながら、使用人に作らせたサンドイッチを食べる一同を見渡した。
まずは件の町付近の詳細な地形を共有する。そのうえで、第一陣としてスービエとダンターグそれぞれ機動力に優れた兵を付け、送り込む作戦を提案した。目的は町に残っているタームの殲滅と生き残りの救出だ。現場指揮と細かい判断はスービエに任せる。
一同は頷いた。
部隊編成の大枠を決め終えると、スービエは一足先に拠点へと駆けていった。
残された三人で、本隊の動きについての相談をする。
襲撃が王都の近くであるからこそ、ここの守りも手厚くする必要がある。
ボクオーンは王都の防衛にリーダーであるワグナスを置くべきと提案をした。
しかしワグナスは彼とボクオーンが本隊で打って出るべきと主張した。
リーダーであり全体の指揮をするワグナスと、戦略を立てるボクオーンの役割を考えれば、分けて配置する方にメリットがある。だが一方で、一緒に行動していれば万一の事態でも臨機応変に、効率的に対応できるだろう。
互いにそれを理解しつつも、どちらも譲らなかった。
いままでにも意見が対立することはあった。だがここまで頑ななワグナスを見たことがない。ボクオーンは戸惑いながら、背の高いワグナスのことを見上げた。
「二人とも、頭を冷やせ」
目を伏せたノエルが、ため息交じりに告げる。
「ワグナス。ボクオーンは自ら戦うことができることはわかっているだろう。お前が守る必要はない」
ワグナスが息を呑む。
その言葉の意味を瞬時に理解し、ボクオーンは拳をテーブルに叩きつけた。
「あなたは、私がそんなにか弱い存在だと侮っているのですか!?」
唇をわななかせながら、ボクオーンはワグナスをにらみつけた。
それは女だからか。それとも先日の傷の一件で、魔物の力量を見誤ったことで失望をさせたとでもいうのか。
ワグナスは眉間にしわを寄せ、しかし何も言わずにそっと視線を逸らした。
目の前が真っ赤に染まる。さらに糾弾しようと口を開いたところで、ノエルの手が視界を遮った。
「それは君も同じだ、ボクオーン」
「は? 私が私情を交えた策を立てたと申されるか!」
隣に立つノエルに噛みつくが、彼はその金色の瞳で静かにボクオーンを見下ろした。
その冷たさにぞくりと背筋が震える。
リーダーを陣地の奥深くに置くことは定石だ。私情であるはずはない。
そう告げればいいのに、いつもは滑るように紡ぎ出される言葉が、のどに引っかかって出てこない。
それはおそらく、ノエルの言葉が図星だからだ。
ワグナスを危険から遠ざけたい――自分でも意識していない深層で、そう判断をしてしまったというのか。
それはなぜかを考えようとして、思考を止めた。今は余計なこと考える時間はない。
「……少し落ち着きましょう。お茶を用意させます」
俯いて告げると、了承を示す抑揚のないノエルの声が返ってきた。
ボクオーンは逃げるように部屋を後にした。
今は頭を冷やせ。冷静になって、自らの価値を示すために作戦を立案しろ。
そう、何度も心の中で言い聞かせた。
協議の結果、王都防衛の指揮はボクオーンが取ることになった。
そして戦いは、タームの本隊が退却済みだったこともあり、あっさりと町からタームを退けることができた。
戦果だけでいえば白星であるが、町人の大半がタームに連れ去られているのを、勝利と呼んでいいのかは、はなはだ疑問だった。
このままではいけない。
後手に回る状況も、私情を混ぜる采配も。
夕暮れの空の下、ボクオーンは高台に立ち、ノエルを先頭に凱旋する兵の行列を眺めていた。
隊の中ほどを歩くワグナスの姿はすぐに見つけることができた。無事を認め、無意識のうちに胸の前で固く組んでいた手を解く。
ワグナスに自分を売り込み、指揮下に入ったのはそう遠くない昔だ。その後、何度か戦場に赴く彼を見送ってきた。逆に自分が送られる立場のこともあった。
その時にはなかった何かが、心の奥底に潜んでいる。
私情を挟み、彼を戦場から遠ざけようとした理由――。
リーダーが拠点を守るのも、広範囲に作用する強力な攻撃術を使えるワグナスが防衛に回るのも合理的で、自然な発想だ。だが、他の案にメリットがあるならば、ムキになって固執する必要などなかった。
強い風が吹き抜ける。風にあおられたローブの裾がバサバサと音を立てながらはためいた。
「私は彼を失いたくないと思ってしまった」
自分の手が届かないところで、あの時のように彼に刃が迫ったらと考えると、怖くて仕方がなかった。
なぜだ。
なぜ、彼を思うとこんなに胸がしめ付けられるのだ。
どうして、彼の無事を確認しただけでこんなに胸が温かくなるのだ。
なぜだ、なぜだと、自身に問いかける。
実家を出た馬車の中で、男に扮して虚勢を張る必要のない、ありのままの自分を受け入れられたことが嬉しかった。
意外と抜けている彼の世話を焼くことで感謝されることが、自分を肯定してくれているようで、幸せだった。
「……愛?」
ボクオーンは己の右肩を強くつかんだ。
かつて触れられた手を思い出し、胸が熱くなる。
だがワグナスは――
風がボクオーンの赤い髪を揺らす。普段は隠れた左側の瞳が露わになり、小さくなったワグナスの背中を映した。
ボクオーンにとってこの婚約はメリットだらけだ。ワグナスは根無し草の自分に居場所を与え、世話を焼かせ、甘えさせてくれている。自分の力を試す場所ですら、提供してくれるという。
しかし彼は、この体に消えない傷を付けたことへの贖罪だけで動いている。
契約だけの関係であったならそれでもよかった。
だがそこに愛なんて重い感情を乗せてしまうことは、酷く歪で許されざることのような気がした。
茜色の空に差す金色の光。その眩しさが目に染みて、ボクオーンはそっと顔を伏せた。