責任だけでは終われない

3(ワグナス視点)


 ワグナスは馬車の振動に身を任せながら、目を伏せた。
 脳裏に浮かぶのは、つい先ほど訪れたあの陰気な屋敷の光景だ。
 ワグナスは婚約を止めるために彼女の家を訪れた。そこにボクオーンがいたことは本当に偶然だった。
 あまりいい噂が聞こえてこない家だったので、何も知らない彼女ではなく、自分から事情を説明しようと、多少強引に中に入れてもらった。その部屋の前でワグナスの耳に届いたのは、彼女の父親の醜悪な言葉だった。
「母は子を二人産んでいるので、彼女の血を継ぐ私には価値があるのだそうです」
 ボクオーンは自嘲気味に告げた。
 長命種である自分たちは――特に貴族階級にある者は、長い時を生きることと引き換えなのか、子を授かる力が極めて低い。だから子供が生まれることは稀であるし、二人もの子が生まれたのであれば尚更だ。ボクオーンにもその可能性を見出され、道具として嫁ぐ価値を押し付けられていたのだろう。
「祖父母が生きていた頃は、淑女教育と一緒に、一族の次期当主としての教育を受けることができました。ですが……」
 しかし、二人が事故で亡くなり、同時期に弟が生まれたことで、その立場はあっさり覆った。
「この世の中、女性は子を産み、そして男性のサポート役として生きることを求められています。ですが、私は自分の力を試したかった」
 窓から流れる景色を見つめ、ボクオーンは静かに語った。
 ワグナスはそんなボクオーンの横顔を見つめていた。彼女の表情は凪いでいて、諦念を感じさせるものであった。
「だから私は女であることを捨て、あなたの下で名誉を得ようとしていました。私はあなたのような奉仕の精神は持ち合わせていません。タームを滅したという戦果が欲しいだけです」
 低い声で、抑揚なく告げていく。
 ボクオーンがこちらを向く。窓から入ってきた街灯に照らされて、その金色の瞳が鈍く光った。
 ワグナスは苦笑した。
「それは、気づいていたよ」
 彼女の瞳が大きく見開かれる。
 彼女の中でのワグナスは、操りやすいお人好しのリーダーだったのだろう。しかし、中央政治に近い神殿で、責任ある立場につける程度の度量は備わっている。――苦手分野であることは、自覚しているが。
「私は戦力になる人間が欲しいだけなので、その信念まで強制するつもりはない」
 力を貸してくれるのであれば誰でもよかった。そしてボクオーンはその知略でワグナスを支えてくれた。それだけだ。
 馬車は一定間隔で揺れる。
 車輪の回る音と馬の蹄の鳴る音が響く空間で、ワグナスは真摯な瞳を彼女に向けた。
「元々結婚なんてするつもりがなかったので、この傷が残ることに何の問題もありません。だから、あなたが責任をとる必要などありません」
「君が誰とも婚姻を結ぶつもりがなかったとしても、傷を残してしまった事実は消えない」
 もっと高位の術を行使すれば可能性はあるが、そんなものは上級の人間だけが恩恵を受けられる代物だ。
 ワグナスは床の上に片膝を付き、恭しくボクオーンの左手を取った。堅く、努力の跡が刻まれている、好ましい手のひらだった。だけど小さい手だった。大きなお世話だとはわかっているが、それを守ってやりたいと思ってしまった。
「傷の責任だけではない。我が家のいざこざに君の家族ごと巻き込んでしまい、そのせいで心までも傷つけることになった。その点に関しても、本当に申し訳なかった」
 ボクオーンは首を振った。
 あの様子では、ボクオーンの実家は彼女の意思を無視して強引に話を進めるだろう。その中できっと彼女は傷つくことになる。
 せめて、自分の手の中にいれば、それらから守ることはできる。――彼女はそんなことは望まないだろうが。ワグナスは、彼女をあの家に戻したくないという、個人的な感情を、責任という言葉の下に隠した。
「だが、今は婚約の話が家族間で進んでしまっている。……そして、私は、君との婚約を望んでいる」
 上目遣いに見つめると、ボクオーンは困ったように眉根を下げて、視線を返してきた。その瞳の奥には、怒りがくすぶっている。
「どうか、受け入れてくれないだろうか?」
「形ばかり問うていますが、拒否権など初めからないではありませんか」
「……その点については、本当に申し訳なく思ってる」
 深く頭を下げると、ボクオーンのため息がワグナスの髪を揺らした。「もういいです」と投げやりな言葉が降ってくる。
 自棄になっていないか不安げに顔を上げると、こちらを見下ろすボクオーンは苦笑を浮かべていた。
 仕方ないと言い聞かせるような諦めの表情に、胸が痛くなる。
 彼女の性格を考えると絶望に抗うことをやめはしないだろう。だが、そんな顔をさせたかったわけではない。
「その代わりと言ってはなんだが、君はもっと私のことを利用していい。私は神殿関係者で、政治にも多少は関わっている。君が表立って動くことはできないかもしれないが、裏で私を操ることはできるかと思う」
「……え?」
 驚愕に彼女の手が揺れる。
 ワグナスはその左手を両手で包み込んだ。
「あなたは、婚姻後も私が野心を持つことを許容するというのですか?」
「君の有能さは、戦時において隣に立って、十分に理解しているつもりだ。その力を世の中のために役立ててくれるのであれば、協力は惜しまない」
 ボクオーンの目が見開かれる。外から差し込む光が彼女の瞳を細かく揺らめかせた。だがすぐに光は消え、彼女の表情を隠してしまう。
 彼女はすがるように右手でワグナスの手を握りしめた。その手が小刻みに震えている。
「卑怯な取引を持ち掛けて申し訳ないが、これが私にできる精いっぱいの償いだ」
 ボクオーンはそっと息を吐いた。
「謝罪はもう結構です。ワグナス殿。あなたの立場も状況も、理解しました。利用していいとおっしゃるのでしたら、そういう契約として受理させていただきます。……よろしくお願いいたします」
「契約か。君らしいな」
 前向きな返事をもらえたことで、張りつめていた気持ちがほぐれてついつい笑みが浮かぶ。
 それを正面から受け止めたボクオーンは視線を逸らして、その頬を朱に染めた。
 だが馬車の薄暗がりの中で、ワグナスはそれに気づくことはなかった。
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