ワグボクで学パロ!

裏切り


 付き合い始めて約二週間。
 ボクオーンとは時間が合えば一緒に登下校をし、図書館や本屋に寄って本を勧めあったり、ファストフード店やファミレスで話をした。彼は知識が豊富で知識欲や探究心も旺盛なので、議論を交わすことがとても楽しい。
 だが、それは恋人という名前がつく前と同じ付き合い方だ。
 手を繋いで帰ることはあるが、清く正しい交際を続けている。
 ――この先に進むにはどうすれば良いのか。そもそも、この先とは何をすれば良いのか。そんな情報を積極的に取り入れたことがないので、知識も経験も持ち合わせていなかった。
 信頼する親友達に聞いたとしても、スービエには引っ掻き回されるだろうし、ノエルは沈黙するだろう。
 そして思い出すのは自分を信頼していると微笑みながら告げていたボクオーンの顔だ。
 彼の信頼を裏切るわけにはいかない。
 だが――。
 ワグナスは、初めての恋人との付き合い方に悩んでいた。

 中間試験前の最後の週末に、ボクオーンがワグナスの家を訪れた。勉強のためだが、息抜きを兼ねての別の目的もあった。
 ワグナスの家は昔ながらの日本家屋で、広い庭には蔵がある。
 先日、郷土史の論文を読んで盛り上がった流れで、ボクオーンは蔵の中を見たがった。祖父に聞いたところ、ワグナスとボクオーンなら問題ないと許可が出て、さらに値打ち物があったら教えてくれと、ボクオーンに対する伝言まで頼まれた。
 穏やかな午後の日差しの下、二人は庭の外れにある蔵の前にやって来た。
 ワグナスは鍵を開け、立て付けが悪くなった蔵の戸を力任せに開く。ギギっと不気味な軋みが上がり、重い空気が外に流れてきた。
 目の前にぽっかりと広がる闇に、一瞬足がすくんだ。
 小さい頃から閉鎖された空間の闇が苦手だった。なぜかはわからないが、えも言えぬ不快感が込み上がってくる。それは魂に刻まれたような、本能的な恐れだった。
 あの奔放なスービエや、ノエル兄妹も同じだった。聞いたことはないが、ボクオーンも同じかもしれない。
「少し待っていてくれ」
 中に入ると冷えた空気が肌を撫で、かび臭い匂いが鼻をつく。電球をつけ、橙色の柔らかい光に安堵しながら狭い階段を二階へ上がり、雨戸を開けた。
 ボクオーンを呼ぶと、彼はおっかなびっくりという感じでゆっくりと歩いてくる。
「宝探しみたいでドキドキしますね」
「両親の実家にはないのか?」
「ありませんよ。うちは極々平凡な家系ですから」
 ボクオーンが見たがっていたのは家系図だ。祖父から聞いた場所にある大量の箱を、片っ端から開けていく。
 大きな皿を見つけたのでボクオーンに渡したら、「結婚式の引き出物のようです」と皿の裏側を見て返された。ワグナスが見つけるものは微妙なものが多い。
 一方のボクオーンは面白いものを引き当てていく。
「こちらの湯呑みを包んでいるのは大正時代の新聞ですよ。新聞の方が欲しいくらいです」
「湯呑みは値打ちものなのか?」
「新聞紙で包まれているくらいなので、普段使いのものだったのではないでしょうかね?」
 ボクオーンは骨董品に詳しいわけではなさそうだが、百年も前の品に興奮している様子だった。好奇に目を輝かせ、口元を緩めながら次なるお宝を探して箱を漁っている。
 最初こそ小遣い稼ぎに値打ち物はないかと探していたワグナスだったが、いつからか視線はボクオーンだけを追っていた。普段は落ち着いた物腰で静かに話す彼が、子供のように無邪気に宝探しをしている。その姿が、ワグナスにはとても微笑ましく映った。
 手前の箱をどかしていくと、足がついた大型の箱が出てきた。ボクオーンが歓声を上げる。
「唐櫃にしまわれているのですか。素敵ですね」
 ボクオーンはうっとりとした面持ちで箱を撫でていた。
 ワグナスは蓋を開き、その中から巻物を取り出した。破かないよう慎重に開くと、江戸時代からの家系図が出て来る。
 ボクオーンは床の上に展開されたそれを、真剣そのものの瞳で見つめていた。その指先が恭しく系図をなぞっていく。
「この方達から今のワグナスに繋がるのですね。だとすると、あなたまで血を繋いでくれたご先祖様に感謝をしなければなりませんね」
「随分と大袈裟な言いようだな」
 苦笑しながら返すと、ボクオーンはいつもは鋭い瞳を柔らかく緩めた。
 鼓動が高鳴る。
 その眼差しの優しさは、いつかの夏の雨の日に見た彼を思い出させた。
「あなたが生まれてきて私と出会ってくれたから、とても楽しくて充実した日々を送ることができています。だから、大袈裟なんかではありませんよ」
 ――抱きしめたい、そう衝動的に思ってしまった。
 伸ばしかけた手が、宙で震える。触れた瞬間、己の理性など吹き飛んでしまいそうな気がした。彼の信頼を裏切るわけにはいかないと心に言い聞かせ、拳を握りしめた。
 ボクオーンは微笑みながら視線を家系図に戻した。
 はやる鼓動を抑えるように深呼吸をしながら、手近なところにあったオルゴールを手にして、ぜんまいを回す。
 座禅を組んだ時を思い出せ。無の極地を極めろ。
 指を離すとぜんまいが動き出し、ゆっくりとシリンダーが回る。突起がくしがねを弾くたびに、澄んだ繊細な音が蔵に響いた。
 辿々しかった音が徐々に音楽を奏でていく。
「『愛のあいさつ』ですか。子供の頃にコンクールで弾きましたね。技術的には問題はなかったのですが、情感を込められなかったんですよね。今ならうまく弾けるかな」
 ワグナスはボクオーンを見つめた。
 子供の頃は情感を込められなかった『愛のあいさつ』をうまく弾けるというのは、それは彼が愛の感情を知ったからだろうか。それは、つまり――
 優美なメロディが気持ちを高揚させていく。ワグナスの恋心に共鳴して、感情が溢れ出す。そしてボクオーンの口から囁かれた「愛」という単語が、胸を貫いていた。
「……おっ、このオルゴールも結構古いものなのでは?」
 ワグナスの手元のオルゴールを覗き込もうと、ボクオーンが身を寄せてくる。腕が触れ合い、彼の体温が伝わってきた。
 大きく体を震わせると、怪訝そうな瞳がこちらを向いた。
 ボクオーンの無防備な表情を、熱がこもった瞳で見つめ返す。
 オルゴールの音が、遠くで響いていた。
 その音色も、鼓動も、全てが静止した。次の瞬間、意識下ではないところで腕が勝手に伸びて、ボクオーンの頬に触れる。

 そして――

 我に返った時、目の前にあったのは驚きに見開かれたボクオーンの金色の瞳だった。
 唇に触れる温かくて柔らかい、とても心地がいい感触。
 かがめていた身を起こしたワグナスは、長い指で熱くなった自分の唇を押さえた。
 ボクオーンは呆然としたように、焦点が合わない瞳で虚空を見つめている。
「……その、突然すまない」
 その言葉に、ボクオーンは肩を震わせる。止まっていた時が流れ始めたように、ゆっくりと瞬きをした。
「あ……いえ。大丈夫です。恋人ですから、キスくらいしますよね」
 ワグナスは息を呑んだ。
 そうだ。キスをしてしまった。衝動的に、理性を飛ばした状態で。それはボクオーンの信頼を裏切る行為ではなかったのか。
 ボクオーンは、何事もなかったかのようにワグナスから離れ、家系図をそっと巻いていく。
「さて。お宝探しは満喫しましたし、そろそろ試験対策を始めましょうか」
 そう言って微笑む顔を見ながら、ワグナスは無理矢理に笑みを作って頷いた。
 手の中のオルゴールの音色は徐々にゆっくりになり、やがて沈黙した。
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