想いを乗せて花は咲く
浮遊島6
瞼の裏に、陽の光がじんわりと灯った。
柔らかい風が髪を揺らす。ボクオーンの頬を黒い癖っ毛がくすぐり、こそばゆさに微かに息を漏らした。
――温かい。
目覚めたボクオーンは微睡みながら、その心地よさに身を委ねた。
とくんとくんと規則正しく響く鼓動は子守唄のようで、眠りの淵へといざなった。自分の鼓動は、頬から伝わってくる彼のものと同期するように、ゆっくりと鳴っている。
――幸せだ。
真綿に包まれるような、ふわふわとした感覚。頬に吸い付いてくる素肌の感触が、心地よい。
――素肌? かすかな違和感に、ボクオーンはゆっくりと目を開いた。
開いた瞼の先にあったのは、朝日を浴びて柔らかな光を帯びたワグナスの横顔だった。整った顔は神々しく輝いている。見惚れかけて、その上半身が裸であることに気付いた。ワグナスの細いがしっかりと筋肉のついた腕が、ボクオーンを包み込んでいる。身じろぎをするのも困難なほど、硬く、強く。
そして、なぜか自分はワグナスの服を着せられている。
――なんなんだ、この状況はっ。と、ボクオーンは狼狽した。
記憶を辿ってみる。
そして、やってしまったと頭を抱えたくなった。身動きは取れなかったわけだが。
昨日は巫女を吸収したことで記憶と感情が混濁していた。そして勝利の余韻もあり、気分が高揚していたので本音を暴露してしまった。
確かにボクオーンはワグナスのことを愛している。
しかし、ボクオーンの気持ちは胸の奥深くに封じなければならない感情だった。今回のことも含めて、感情が表に出ると自分は判断を誤る傾向がある。だから――
何が恋人ごっこだ。結果だけを見れば必須ではなかった。そのくせ真っ白で純粋なワグナスの心を惑わせて、彼と村の人間の命を危険に晒して。何がしたかったというのだ。
「ボクオーン……?」
名を呼ばれ、視線を上げると目が合った。ワグナスはいつの間にか目覚めたようで、険しい表情で、じっとボクオーンを見つめていた。
「ワグナス殿……」
名を返すと、ワグナスは表情をふわりと和らげた。
ボクオーンは息を呑んだ。
彼はなんて幸せそうな顔をしているのだ。ときめくよりも先に、彼の幸福感が伝染して胸がじんわりと熱をおびた。
ワグナスはボクオーンを抱きしめる腕に力を入れた。そして、唇を重ねてくる。
驚いて、ボクオーンは抵抗するように腕に力を入れて引き剥がそうとした。しかし、ぴくりともしない。そのうちに舌が触れてきて、不器用なほどまっすぐな思いが流れ込んでくる。
されるがままに身を委ねると、やがて唇が離れ、強く抱きしめられた。
「突然何をなさるのですか」
「キスだが……?」
そんなことも分からないのか、とばかりに真顔で返された。
――違う、そうではない。
しかし、ワグナスは壊れ物を扱うかのように震えながらボクオーンの頬に触れた。その瞳には、張り詰めた糸が切れそうなほどの切実さと、安堵の光が混じり合っていた。
「生きていて、本当に良かった」
他にも策はあったが、確実なのは巫女と同化して彼女の核の在処を探ることだった。彼女が魔力を放出する際に、自分の魔力を混ぜることができる確信もあった。
とはいえ、彼には酷な選択を強いた自覚はある。
「申し訳ありません。もう、あのような策は取りません」
素直に謝罪をすると、うん、とワグナスは泣き笑いの顔をして頷いた。
そんな顔をさせてしまったことに罪悪感が募る。
だから、今は彼の好きにさせてやることにした。
身支度を整えて、浮遊島の探索を始めた。
廃墟と化した城の中を、二人は地下に向かって歩いていた。
ボクオーンの服はボロボロに裂け、ただの布きれ同然だった。疲労と失血で意識を失ってしまったボクオーンを裸で放置するのは忍びないと、ワグナスが自分の服を着せてくれていたそうだ。
結局、ボクオーンはワグナスの白い羽織を、そしてワグナスはインナーの黒を身に纏った。いつもとは逆の色味で、違和感を感じる。
「恋人に自分の服を着てもらうのは、少し落ち着かないな」
ほんのりと頬を染めたワグナスがボクオーンを見つめる。
ボクオーンはため息をついた。
「忘れてそうなので念を押しますが、恋人という設定はこの任務の中だけですからね」
ワグナスの眉間に皺が寄り、目が細まる。彼は目に見えて不満そうな顔をしていた。
罪悪感で心がグラグラと揺れる。
だからあえて彼から視線を逸らせて、歩く速度を早めた。
地下への階段を三階分降りると、まっすぐに伸びる通路が現れた。壁には橙色に輝く水晶が嵌め込まれている。
「元の関係に戻らねばならぬだろうか?」
背後からかけられた声に、足を止めた。
無視をしても良かった。だが、向き合わねばならないことだった。それは、恋愛に関して純粋無垢であったワグナスを汚したことに対する、ボクオーンの責任だから。
「そういう約束だったはずです」
「しかし、私は……」
「あなたは私のことが好きだと思い込もうとしただけです。だから、少し経てば消える……」
突然腕を掴まれて引っ張られた。
身体を向き合わされて見上げると、ワグナスは眉を寄せて険しい顔をしている。
彼が怒っていることに気付き、思わず喉を鳴らした。
「君が私のことをどうとも思っていないのなら、それでいい。だが、私の気持ちを否定することはやめてくれ」
唇を噛みながら、俯いた。
反論ならできた。ワグナスは自分で思うよりもずっと誠実だから、その責任感に飲まれただけだとか。ボクオーンに好意を持つように、ボクオーンが仕向けていたところもあるだとか――。
ただ、彼の気持ちをボクオーンが否定すべきではないのも、また事実だ。
「申し訳ありません」
「……いや、謝って欲しいわけではない。ただ、君が信じられない気持ちも分かる。だから、信じてもらえるまで、毎日愛を囁いても良いだろうか?」
肩が震えた。
顔を上げると、ワグナスの灰色の瞳とぶつかった。瞳に反射する橙色の光が、まるで彼の気持ちを表す炎のようにゆらめいていた。
――ワグナスが毎日愛を囁く? そんなの、心が持つわけがない!
顔が沸騰するように、一瞬で真っ赤になった。湯気まで立ちそうな錯覚を覚える。
「だ、だめです」
「嫌だと言われても、毎日花と共に君に贈る。君が振り向いてくれるまで」
ワグナスは眉根を下げ、口元にだけ笑みを形作る。
そんな顔をさせてしまっていることに、罪悪感が募ってくる。
興奮状態にあったとはいえ、一時は受け入れてしまった気持ちなのに、彼はそれを非難することもしない。
「私の気持ちを知っているのに、指摘はしないのですね」
「気持ちの整理ができるまで、待つよ。君は長い間、つらい思いを抱えてきたのだろう?」
ボクオーンの額に口付けを落として、ワグナスはボクオーンのことを解放した。
「さあ、先に進もう」
背筋をまっすぐに伸ばして、ワグナスは通路を歩いていく。
揺れる長い黒髪。
ずっとその背中を視線だけで追ってきた。手を伸ばすことさえ、罪深いと思っていた。だが――
唇を引き結び、じっと前を見据えて彼を追いかけた。
今ならば、隣に並ぶことができるかもしれない。――そんなことを、考えてしまった。
通路の先は行き止まりだった。
壁に嵌め込まれたレリーフには、宙に浮いた島と有翼人の姿、そして古代の文字が描かれている。
「この島のどこかに、島を浮遊させる仕組みがあるはず。……巫女は分からなかったようですがね」
ボクオーンはレリーフの文字を指でなぞる。
「心を重ね、互いを映せ。意志を共鳴させし時、縁の導き、門を開く。同時に触れよ。……地上の扉にあった言葉と同じですね」
「だが、こちらには続きがあるな」
ワグナスの指摘にボクオーンは頷いて、その続きに指を滑らせた。
「道は、浮遊石、へ通じる、です」
「もったいぶった文言だが、結局は装置に同時で触れることだけを示しているのか?」
「……。地上と天空、双方でタイミングを合わせるために使われたのはフィネアの花でした」
有翼人が地上にもたらした小さな花は、伝承の通りに花を持つ者同士の心を繋げる役割を持っていた。
「ただし制約はあって、同一人物が魔力を注いだもの同士でなければ繋がることはできない。その辺を説明しているのかもしれませんね」
ボクオーンは目を伏せた。
巫女の時代のフィネアは、中央が黄色で花びらが白い花だった。神殿の周りに咲く白い花は、陽の光を反射して金色に輝く。彼女はその花を慈しみを込めて大切に育てていた。
その花を媒介に心を重ねて互いを知り、花に魔力を注いだ有翼人と巫女は惹かれあった。
「このレリーフは他の場所にはないのか?」
ワグナスに声を掛けられて、はるか遠くの情景を思い浮かべていたボクオーンは我に返った。
「城の逆側に地下への階段があります。その先にありますね」
視線を交わし、頷きあう。
ボクオーンが手のひらに魔力を集めると、紫色のフィネアが二輪現れた。そのうちの一輪をワグナスに渡す。
ワグナスをこの場に残し、ボクオーンはもう一つのレリーフがある場所へと向かった。
廊下には風もなく、無音だった。その静寂を破るように、ボクオーンの足音だけが響く。
静かで冷たい空気にカビの匂いが混ざっていた。
地下部分は綺麗な状態で残っていたが、地上部分は全体的に朽ち果てていた。ボクオーンは通路を、穴に落ちないように慎重に進んだ。
かつて、この浮遊島は有翼人達の住処であった。
彼らが滅んだ原因は巫女にも分からない。ある時から彼らは地上に姿を現さなくなった。
ボクオーンは二階のとある部屋の前で立ち止まった。
中には家具はなく、赤いフィネアの花が絨毯のように敷き詰められていた。
外壁は抉られ、床の一部にも穴が空いている。この穴は巫女との戦いの時に、ボクオーンのロッククラッシュによって開いたものだ。
巫女の回復の秘密――核は、彼女が愛した男の部屋に隠されていた。今ではただ一つ残された、彼女の愛した有翼人が魔力を込めた白いフィネアの花の姿で――
ふいに、風が動いた。甘い芳香が部屋から運ばれる。
その香りが幻覚を見せた。
部屋の中央に朧げに現れた、長身の男の白い長衣が翻った。彼の背に白い羽が広がり、長い黒髪が揺れる。
顔の輪郭が朧げで容姿はわからない。何かを喋っているようだが、声も聞こえない。
ただ、彼の後ろ姿はワグナスに似ていると思った。
巫女がボクオーンの体を欲したのは、ボクオーンの能力が彼女と親和性が高かったことも確かにあるのだろう。だがそれ以上に、彼女が愛した男に似た面影を持つワグナスに抱きしめられたかったのかもしれない。
真実は巫女の消滅とともに消えてしまった。
だからボクオーンがそう思っただけの話だ。
――愛を否定したくせに、手放すことができなかった愚かな存在。そんなところが、彼女から見てボクオーンは似ていたのだろう。
地上を訪れなくなった有翼人。巫女が有翼人と恋仲であったことを知る村人は、両者間の諍いと疑い、彼女を牢獄に閉じ込めた。
恋人と村人とに裏切られ、失意の果てに彼女は魔物となった。それからずっと彼女はこの部屋を守り、恋人達に悪趣味な試練を課して生きていた。
それも、もう終わった。
「ストーンシャワー」
ボクオーンの杖から魔力が放たれ、現れた無数の岩が部屋を破壊していく。
天井が崩れ、壁を壊し、赤い絨毯を引き裂いた。
部屋の最期を見届けることなくボクオーンは踵を返し、目的地へと向かって歩き出した。
『ボクオーン、何かあったか?』
脳裏にワグナスの声が響いた。
ボクオーンは静かな視線を、手の中の紫に落とした。感情の揺れをフィネアが察して、伝えてしまったのだろう。
「何もありませんよ」
平坦な声で答える。
そうか、とワグナスは短く返してきた。彼はそれ以上追求してこなかったから、ボクオーンは説明をしなかった。
廊下の突き当たりの階段を降りる。
ふいに、首から背筋にかけてむず痒い感覚が走ったが、不快さはなく胸の芯がじんわりと温かくなる。しかしどうにもくすぐったく、落ち着かない気持ちになってきた。
「ワグナス殿、何かをしていますか?」
『ん? いや、暇だったので、花に口付けを……』
「余計なことはしないでくださいっ!」
文句を言うボクオーンの頬は赤く染まっていた。
まだ制御に慣れないので、互いの心を繋ぎすぎている。この花は危険だ。
早足で歩いて、目的地へと辿り着いた。
壁に埋め込まれたレリーフには、先ほど見たのと同じ文言が刻まれている。
「ワグナス殿、せーので触りますよ」
同意とともに、剥き出しの感情が流れ込んでくる。花を見てボクオーンを思い出し、愛おしむ誠実な想いが――
いい加減にしてくれとは思うが、動揺すれば彼に伝わってしまう。ボクオーンは必死で感情の波を沈めた。
「では、行きます。せーの!」
やけくそ気味に叫んで、レリーフに触れた。
何かがはまり、かちん、と音が響いた。
指先に振動が伝わってくる。注意深く付近を探ると、今までは何もなかった通路の一角に扉があらわれていた。
ワグナスの方も同じ現象が起きているらしい。
その扉にも同時に触れる。指先で触れたわずかな力で扉が開き、階段が姿を現した。
青白い光が照らす階段を降りる。その終着点からは長い通路が続いていた。
しばらく歩くと、逆側から歩いてくるワグナスの姿が見えた。ボクオーンの姿を見とめるなり、彼は安堵したように微笑む。
心にさざなみが立つが、ボクオーンは唇を引き結んで平静を装った。
やがて通路の中ほどに、大きな扉が現れた。
黄金の浮き彫りが複雑な紋様を描き、訪れるものを威圧するような荘厳な空気を放っている。
「この中に浮遊石が?」
「おそらく。巫女はこの仕組みに気付かなかったようなので、開いてみないと分かりません」
扉には例の文言は刻まれていなかった。だけど二人は当然のように手を重ねて心を繫げ、ゆっくりと扉に力をかけた。
中は天井が広いがらんと広がる空間だった。
強い魔力が溢れ、電撃のような刺激が肌を打つ。部屋に入ることを禁じるような圧だ。
緊張に、背中を汗が伝っていった。
金色に発光する石がいくつも宙に浮かび、共鳴し合うように魔力を迸らせている。
「これだけあれば、数個くすねても問題はなさそうだな」
ワグナスは部屋の中央に進んだ。
物色するように浮遊石を見渡し、その手を天に向かって掲げる。キラキラと輝く石はワグナスの手に導かれるよう、その軌跡に金色の線を描きながら落ちてきた。
その神々しい美しさに、まるで天から信託を受けているかのようだった。
数個の石を手に入れて、ワグナスの口元が緩んだ。
「私は少し、島を浮遊させる仕組みを調べてみようと思う」
「承知しました。私も探索を続けますので、お構いなく」
大きく頷き、ワグナスは奥へと向かっていった。このような知識に貪欲な姿は、とても好感が持てる。ついつい口元に笑みが浮かんだ。
ボクオーンは部屋を探索し、奥に書庫を見つけた。そこに眠っていた本の山に目を輝かせる。
財宝よりも価値がある当時の記録に胸を躍らせながら、ボクオーンはその中の一冊を手に取った。