想いを乗せて花は咲く
浮遊島4
冷たい風が巫女の赤い髪を揺らしていた。
ワグナスは蔦で縛られた体をよじらせ、どうにか脱出の手を探った。
赤い光はボクオーンの二の腕と太ももを貫いている。滲み出す血が、地面を赤黒く染めた。
「もう満足したでしょう? そろそろ、わたしとひとつになりましょう」
「お断りします」
「ふふ、強情な子ね」
巫女は無表情に、血のように赤い瞳でボクオーンを見つめる。
愛おしげにボクオーンの頬を撫でるその手に、ボクオーンから伸びた蔦が刺さった。
巫女の眉がわずかに歪み、虫を払うように手を振る。
「もう、仕方のない子」
空から降ってきた赤い光が、ボクオーンの手のひらを貫いた。
「っぐ」
ボクオーンの呻き声がこぼれる。
ワグナスは奥歯を噛み締めた。取り乱すな。絶望するな。あの程度でボクオーンがどうにかなりはしない。今は隙を見つけろ。
巫女が手を掲げる。彼女を中心に、円状にフィネアの花が咲き乱れた。甘い香りがふわりと漂い、意識を柔らかく侵そうとしてくる。
巫女はボクオーンの横に膝を抱えて座り、彼の髪を優しく撫でた。
「わたしは優しいから、さっきは見逃してあげたのだけど。でもね、そんなに意地を張るなら、ここはどうかしら?」
彼女はボクオーンのつむじの辺りを人差し指で突き、目を細める。
「責めるとわかっていて、屈するとでも?」
「あなたは平気でも、あちらはどうかしら。ねぇ?」
ねっとりと絡みつくように笑う。彼女は右手に持つ花を指揮棒のように振り、その先をワグナスへ向けた。
フィネアの花の香りが強くなり、現実と幻想の境界が曖昧になる――
ワグナスの脳裏に、鮮やかな情景が浮かび上がった。
まるで夢の中に入り込んだようだった。誰かの視界なのだろうか。
映像にはワグナスがいた。誰かと話している姿だ。
ワグナス以外にも、ノエルやスービエ、ダンターグの姿が映る。やがてそこにはロックブーケやクジンシーも現れるようになった。
作戦会議でも、戦場でも、酒場でも。
どんな場面でも、視線はワグナスへと向いていた。別の何かを見ても、ふとした瞬間に視線がワグナスを追う。
それは無意識のようであった。
その眼差しの意味を、あの頃の自分は知らなかった。
だが、今ならば分かる。
――これは、恋だ。
心臓の奥が、きゅうっと締め付けられた。
視界の端が滲みそうになって、ワグナスは目を細めた。
――ずっと、見てくれていたのか。
ふと、幻影が消え、現実世界に戻る。
ワグナスはボクオーンへと視線を向けた。
彼は赤い光に捕えられたまま、俯いて微動だにしない。だが、脳裏に直接届くあの映像は、彼にも見えていただろう。
「ボクオーンはね、自分の居場所を欲しがっていたの。地位も、名誉もお金も全部、そのため」
くすくすと楽しそうに巫女が笑う。
「だから、嬉しかったのよ。あなた達の力になれて。自分のためにしか生きてこなかった子が、『誰かのため』を知ったのに……」
巫女の赤い瞳がワグナスに向く。
ぞわりと背筋が震えた。
『あなたの傲慢が、彼の絶望を生んだことも知らないでしょうね』
先ほど彼女から投げられた言葉が甦った。
全身の血が一瞬で凍りつき、喉が鳴る。
その時に、ワグナスは足に刺すような痛みを感じた。視線を落とすと、足元に細い蔦が伸びていた。それはワグナスに絡まっている蔦を切り裂き、ワグナスの拘束を解こうとしている。
ボクオーンを見ると、彼の瞳が一瞬だけこちらを向いた。その金色の瞳は強い光を宿している。
心を鎮めろと言われている気がして、ワグナスは唇を噛んだ。
「ボクオーンは自分を責めてるのよ。ずっと、ずっと……。自分の頭脳を評価され、英雄と呼ばれて浮かれていた。だから大神官の策謀も、民衆の動向も気付けなかった。……それは、彼の役目だったのに、ね」
両手を広げて、受けた神託を告げるよう厳かに、巫女は告げる。
「だから彼は自分に絶望した。心に、蓋をした。まるで、最初からなかったみたいに。……ふふ。そうよ、気付いた? あなたが彼を――」
「……やめろ」
うめくように、ボクオーンが低い声を上げる。
巫女が戯けるように耳に手を当てて、ボクオーンに顔を寄せた。
「ワグナス殿は関係ないっ!」
巫女がボクオーンの顔を覗き込む。
ワグナスの位置からは彼の表情は見えない。
だが、巫女の横顔が不気味に歪むのは見えた。
彼女の指先がボクオーンの額に触れる。
ボクオーンの蔦はワグナスの腕まで伸びて、剣を持つ手の拘束を解こうとしている。
――急げ。ワグナスは心の中で祈った。
「ようやく、心をむき出しにしてくれたのね。嬉しい!」
弾むような巫女の声。それは狂気を孕んだ響きを持っていた。
「ボクオーンっ!」
何が起ころうとしているのかは分からないが、せめて彼の意識を繋ぎ止めようとして叫んだ。
赤い光が広がる。
フィネアの花の香りが濃くなる。
そして世界は一面、真紅に染まった。
光が消えた時、巫女の姿はなかった。
赤い光の残滓の中、ボクオーンはただひとりその場に立っている。
彼がゆっくりと振り返った。
目が合った瞬間、ワグナスは息を呑む。
かつて黄金に輝いていた美しい瞳は、ぞっとするほど深い血の色に染まっていた。
ワグナスは顔を歪めた。
ボクオーンの強い眼差しを思い出す。七英雄の頭脳、ボクオーンが易々と敵に体を明け渡すとは思えない。ならば、必ず何かの思惑があるはずだ。――ワグナスに、策を残しているはずだ。
「そんな戦い方は、するなと言っただろう」
自由になった右腕で蔦を切断する。責めるようにつぶやいた声は風に溶け、すぐに消えた。
血の滴る脇腹に手を当て、癒しの術を発動する。
ボクオーンはおもむろに手を振りかざした。その手から砂塵が吹き上がり、ワグナスの上空へと消えていった。
その右手を握ったり開いたりしながら、しげしげと見つめる。
「まだ、うまく制御できませんね。でも、思ったとおり、力の親和性が高い」
ボクオーンの声で、口調で、呟く。微笑みはとても優しげだったが、その奥に巫女の邪悪な笑みが透けて見えるようだった。嫌悪でワグナスの背筋に悪寒が走る。
ボクオーンはワグナスへと手を向けて、人差し指を揺らした。
その合図とともに、ワグナスの足元が悲鳴をあげて裂ける。
黒々とした蔦が、蛇のように蠢きながら飛び出した。ワグナスは身を捻りながら、根本に狙いを定めて剣を一閃した。
影が差す。それが何かを確かめる余裕もなく、背後へ大きく飛んだ。ワグナスが立っていた場所には、先の尖った岩が、雨のように降り注いだ。ひとつひとつが杭のように地面に突き刺さっていく。
視界の端でボクオーンの腕が動いた。楽団の指揮をするように、しなやかに、踊るように。ワグナスを愛おしむような優しい顔を崩さぬまま。
ワグナスが飛んだ着地点には、口を大きく開けた巨大なフィネアの花が待ち構えていた。
――まずい。
甘い芳香が漂い、ワグナスの心を絡め取ろうとする。
ここで折れるわけにはいかない。
「燃えろ」
火球がほとばしる。爆ぜて、赤い炎を上げる花の横に片足をつき、身を回転させながら舞うように炎の鞭を振るった。それは襲いかかる花の刃を一掃する。
ワグナスは飛んで後退をした。煙の中から伸びてくる気配を感じ、さらに距離をとった。
目前を砂の渦が疾っていく。
霞む視界の向こう側に、ボクオーンが立っていた。
ボクオーンは口元に優しげな笑みを浮かべている。前に突き出した右手だけが、この演奏がまだまだ続くことを告げるように、静かに宙をなぞっていた。
これまでの巫女の攻撃は、一撃ごとは強力であったが、力押しばかりであった。しかし今の攻撃は計算された一連の罠のようだった。まるで、あの男が指揮を執っているかのように。
こめかみから汗が伝っていく。ワグナスは苦々しく、顔を歪めた。
「私が相手じゃ手が出せないようですね」
ボクオーンがにこりと笑って首を傾げてみせる。
「では、交渉しようじゃありませんか。ボクオーンはあなたを殺してしまうことを、とても悲しんでいます。だから、一緒に暮らしましょう?」
何を言っているんだと、ワグナスは眉をひそめた。
ボクオーンは彼がよくそうするように、後ろで手を組んで口元だけに笑みを浮かべている。
「あなたもボクオーンが大切なのでしょう? ならば、彼への慰めに、ずっと抱きしめてあげてください。彼が消えて無くならないように、ね。ふふ」
ワグナスの胸の奥が締め付けられる。
そこにボクオーンはいるはずなのに、巫女の気配しかないことが恐ろしかった。
ワグナスは首を振った。
「彼はそんなことを望まない」
「あなたも先ほど見たではありませんか。健気にあなたを見つめる、ボクオーンの視線を」
くすくすと笑うボクオーンの背後に、木の幹ほどの太さの蔦が何本も出現する。
ワグナスは警戒するように剣を構えた。そしてその手に魔力を集める。
「その気持ちに応えてあげたらどうです?」
次々と蔦が生えて、ワグナスとボクオーンの周りを取り囲む。
ボクオーンはにたりと顔を歪ませ、杖を掲げた。
「さあ、答えは?」
「拒否する」
間髪入れずに答えれば、ボクオーンの赤い瞳がぎらりと光を放つ。
その杖が振り下ろされる前に、ワグナスは天に向かって手を掲げた。巫女と話しながら練り上げていた魔力を解放する。
「ギャラクシィ」
世界から色が消えた。
一瞬の後、時空が裂けて穴から光が漏れる。空間が湾曲する。そして、爆音とともに破裂した。
地面から生えていた蔦が根こそぎ粉砕される。
ワグナスは眩しさと爆風から守るために目を細めた。バサバサとローブがはためく音が耳に入ってきた。
直撃を受けたボクオーンはその場に蹲っていた。服は裂け、肌には火傷と打撲の跡と、そして出血がある。
心臓がぎゅっと締め付けられ、冷たくなる指先をきつく握りしめた。胸が痛まぬはずがない。だが、彼は言ったのだ。自分が操られた時は、容赦をせずに殴れと。だから、彼の言葉を信じる。
「信じられないっ!」
裏返った声は明らかに巫女のものだった。ボクオーンの仮面の下から、彼女自身の動揺が漏れ出たようだ。
猿芝居をする余裕もないのか、巫女の時の口調で悲鳴を上げる。同時に、黄金の光が傷を癒やしていく。
「恋人に全力で魔法を放つバカがどこにいるのよっ!」
「ボクオーンならばきっと、もっとえげつない事をするぞ」
彼の頭上に太陽のような光球が現れ、炸裂した。紅蓮がボクオーンを飲み込む。
同時にワグナスは地面から生えてきた蔦から回避するように飛んだ。次々に現れる蔦の表面を足場にしてボクオーンへと迫る。
跳躍し、剣を振りかぶった。
ボクオーンの手から伸びた蔦が、ワグナスの体を貫いていく。しかし臆さず、一直線に彼の元へと飛び込み、長剣を振り下ろした。
ボクオーンは身をよじるが、肩から脇腹にかけて斬撃を入れた。
手首を返し、横に一閃する。
ボクオーンは痛みに目を見開き、苦悶の声を上げた。彼の身体から血が滴り落ちる。
震える指先に力を込め、剣を握って突きを放つ。命は奪えない。だが、致命傷を与えなければならない。
「ああああああああっ!」
絶叫とともに花吹雪が視界を覆った。風の刃で応戦するが、勢いを殺しきれずに吹き飛ばされた。花の刃が全身に刺さる。その間に黄金の光がボクオーンを包み、傷を癒やす。
「あなたはいつだって勝手なのよっ!」
誰に向かっての言葉なのか、癇癪を起こしたような巫女の言葉と共に、紫色の光が放たれた。
――紫?
ワグナスは目を瞠った。彼女の魔力の色は赤色だったはずなのに、なぜ。
「何よ、これ」
呆然と、自らの右手を見上げる巫女の声が響いた。
「やめなさいっ!」
光はどんどん大きくなり、辺り一体を照らしながら弾けた。
ワグナスはその眩しさに目を伏せる。
ふわりと。
心地よい匂いがワグナスの鼻腔をくすぐった。爽やかで嗅ぎ慣れた、とても愛おしい香り。
ワグナスが瞳を開くと、紫色の花びらが空を舞っているのが見えた。
温かい風がワグナスの髪を優しく撫でた。まるでボクオーンに慰められていた時のように。
地面を覆った大量の紫色の花が、波打つように揺れていた。その花は見える範囲一帯を覆っている。
――ああ、そうか。ワグナスはようやくボクオーンの策を理解した。彼は、巫女がフィネアを咲かせる量を制限していると言っていた。その制限を取り払うために、彼女の中で息を潜めて機会を窺っていたのだろう。
「あなた、何をやったの。答えなさいよっ」
狼狽するボクオーン――巫女を視界に収めながら、ワグナスは残りの魔力全てを込めて、手をゆっくりと掲げた。
そして祈りを捧げるよう、厳かに、静かに告げる。
「ファイアストーム」
ワグナスの身を包むように収束した炎の渦が、地を撫でるように広がっていく。風が紫色の花びらを空へと誘い、燃え盛る炎の奔流は大地を焦がすことなく、フィネアの花だけを燃やし尽くしていった。
「きゃああああっ」
ボクオーンの身体を紫色の炎が包んだ。
その体の表面から、赤い粒子が剥がれ落ちていった。
フィネアの花は巫女にダメージを与えると、ボクオーンが言っていた。そして紫色のフィネアにはボクオーンの魔力が通されている。ボクオーンに乗り移っていた彼女には効果覿面だっただろう。
赤い粒子とともに、巫女がボクオーンから分離をした。
うずくまるボクオーンの横に、全身を血で染めた姿の巫女が実体化した。仰向けに倒れ、大きく胸を上下させて咳き込んだ。その口から血が吐かれる。
彼女は手を胸の前で合わせようと、震える腕を必死に動かしていた。
その傍で傷だらけのボクオーンが立ち上がり、歩き出す。おぼつかない足取りで、一歩一歩ゆっくりと。その金色の瞳の先には、城の廃墟が広がっていた。
「ワグナス殿、巫女にとどめをっ! 私は核を破壊します」
掠れる声で告げた彼は立ち止まり、手を掲げる。
「ま、まって!」
巫女が悲鳴とともに手を伸ばす。
ボクオーンの行動を妨げてはいけないと、ワグナスは慌てて技を放った。
「サイコバインド」
光の鎖が巫女を拘束する。
巫女は拘束を解こうともがいている。ほんの一時かもしれないが、これで十分だ。ワグナスは自分の仕事に集中した。彼女が治癒を忘れて気を取られている間に、さらなる攻撃を――
ワグナスは地面を蹴って、飛んだ。
「お願いっ、やめてっ!」
「ロッククラッシュっ!」
巫女の懇願など聞かずに、ボクオーンが手を振り下ろすと、現れた岩が城の二階の一角を崩す。
ワグナスは視界の端にそれを捉え、空高くに跳躍した。
剣に聖なる祈りを込める。赤紫色の光が蝶のように舞い、やがて巫女を中心に地に浄化の十字を描いた。
巫女の顔が苦悶に歪む。
ワグナスは落下の勢いを乗せ、渾身の力を込めて剣を突いた。
巫女を貫くと、十字に沿うようにして光が弾ける。
爆発音が響いた。
「いやぁぁぁぁぁぁ」
巫女の断末魔が響く。
赤紫の光が消えた時、彼女は焦げた地面の上に倒れていた。
彼女は体のほとんどを失っていた。しかし残った片方の目だけは恨みを込めて、ワグナスを見据えている。
ふらつく足取りで、ボクオーンが巫女に近づいていった。
彼は憤るわけでも哀れむわけでもなく、感情のない瞳を、自分と同化していた魔物に向けていた。
「さあ。望み通り、ひとつになりましょう」
手をかざす。
その手のひらから放たれた魔力が巫女を呑み込んだ。赤い光の粒子を撒き散らして、彼女は消えた。
ボクオーンがその場に崩れるのを見て、ワグナスは彼の元へ駆け寄っていった。