想いを乗せて花は咲く
13日目
青い水晶の間でフィネアの香りに包まれた瞬間、誰かの意思がボクオーンの中に流れ込んできた。
それは強い負の感情だった。
愛を信じられない気持ち。
他人を信じられない気持ち。
愛が転じて、やがて憎しみと成り果てた感情。
それなのに、愛することをやめられない。ただの愚か者の心。
「やめろ……」
――そんな物を見せるな。感情を同調させるな。愛なんていらない。自分にはそんなものは不要なのだ。
フィネアの花の香りが鼻腔から脳に届く。頭を殴られたかのようにぐらぐらと視界がぶれる。
「違う……」
これは幻覚だ惑わされるなと、否定の言葉を呟いたボクオーンの目の前に、女が現れた。白色のローブを身に纏った、赤い髪の儚げな雰囲気の女だ。頼りなげな細い体躯の中で、どろりと怪しくゆらめく血色の瞳だけが異質だ。
巫女だ、と、直感が告げる。
彼女は両手を開いて、うっすらと口元に笑みを浮かべた。
『一緒に行きましょう。あなたとわたしはよく似てる』
「怨霊の友人なんて願い下げです。仲間に死霊収集マニアがいるので、紹介しますよ」
くすくすと、花のように可憐にたおやかに、彼女は笑う。
死角から何かが飛んできた。咄嗟に杖で叩き落とすと、それはフィネアの花だった。
『他人も自分も信じられないのでしょう? なら、私と一緒じゃない』
「愛だのなんだのという不確かな感情が嫌いなだけですよ。私はちゃんと仲間を信頼しています。一緒にしないでください」
蔦がしなって振り下ろされる。それを杖で弾いて、眉を寄せた。幻覚にしては重量がある。これは幻と現実、どちらだ。
『裏切られることを、誰よりも恐れているくせに』
魔物の言葉に耳を貸すな。
『仲間ですら、信じていないくせに』
勝手に言わせておけばいい。
ぎらりと、血の色の瞳が輝いた。赤い唇の両端が吊り上がる。見るも悍ましい、狂気の表情だ。
『リーダーさんと愛し合っているでしょう?』
彼女の言葉と同時に腕を掴まれた。咄嗟に振り払おうとしたその視界に、黒髪が揺れる。
思わず動きを止めてしまった。
見上げた先にいたワグナスは瞳に熱を宿して、優しい眼差しをボクオーンに向けていた。
これは幻覚だ。敵を前にして緊張感がなさすぎる。
分かっていたのに、一瞬の躊躇いが生じた。
ワグナスに掴まれている場所に熱を感じる。そこから彼の純粋な愛が流れ込んできた。キラキラと金色に輝く、眩しくて温かい感情だ。直向きにボクオーンを見つめる瞳が、愛おしげに、優しく細められる。
『彼は本気よ。他人の心を読む事ができる、わたしが保証するわ』
「愛している」
真摯な言葉が胸に沁みる。
それに誘導されるように、心の奥底にこっそりとしまっていた、蓋が開かれ、暴かれようとする。
「私は……」
首を振る。認めたくない。認めてはいけないその気持ちを、否定するように首を振る。
「あなたなんて、愛していないっ!」
感情的に叫んだ瞬間、体の中の熱が奪われて全身が震えた。魔力が根こそぎ奪われるように吸い上げられる。
視界の端が暗く窄まり、急速に世界の色が褪せていく。
しまったと思った時には、意識が黒で塗りつぶされていた。
その後の記憶は曖昧だ。
次の記憶の中で、赤い髪の巫女は炎に包まれていた。全身に火傷を負いながらも、狂気を孕んだ顔で笑っている。
彼女は鈴を転がすような、異様に澄んだ声でそっと囁く。
『わたしの元へいらっしゃい。わたしとあなた、ひとつになりましょう。じゃないと――』
それを最後に、ボクオーンの意識はぶつりと途切れた。
目を開く。
木目の天井をぼんやりと仰いだ。
窓から差し込む光が眩しい。
目を擦ろうとして、手が拘束されていることに気付く。視線を横にやると、ベッドの上に黒髪が流れるように広がっていた。ワグナスがボクオーンの手を握ったまま、突っ伏して寝ているようだ。
「ちゃんと寝ろと言ったのに……」
苦笑を浮かべながらボクオーンは自由になる逆の手を掲げた。吸い上げられて奪われた魔力は回復し、全身を襲っていた倦怠感も消えている。
拳を握りしめて、顔を歪めた。
油断をしたつもりはなかった。だが、敵を操る技を扱う自分が操られたなんて、この上ない屈辱だ。
ボクオーンが目覚めた気配を察したのか、ワグナスも動き出す。目が合うと、彼は穏やかに目を細めた。
「おはよう」
「……おはようございます。どのくらい寝ていましたか?」
「丸一日だな。今朝は十三日目だ」
思ったよりも寝ていたと考えていると、立ち上がったワグナスが居間へと歩き出した。
「何か口にするものを持ってこよう。隣のご婦人や、花冠をくれた姉妹が、見舞いにと果物やパンを差し入れてくれたのだ」
「なぜ皆が知っているのですか?」
「君を連れて遺跡から戻ってくる途中に出くわしてしまってな……」
気まずそうに肩をすくめるワグナスにため息をつきながら、ボクオーンは部屋を出ていく彼を見送った。
フィネアの伝承を聞く過程で知り合ったお人よしどもだ。
少し優しくしただけで懐いてくれて、扱いやすかった。
ボクオーンは腕で顔を覆った。
巫女の声が脳裏に蘇る。
『――じゃないと、風が呪いを運んじゃうかも』
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ボクオーンとワグナスは神妙な顔をして、向かい合って座っていた。
テーブルの上には村の人々からの差し入れと、ワグナスが隣の老婆から作り方を教わったミルク粥が乗っている。
ボクオーンが受けた精神干渉の内側と外側からの詳細を共有し、今後について話し合っていた。
「我々が求めているのは異世界転移装置だ。ここの転移装置はおそらく、地上と浮遊島の二点を繋ぐ物。何かの役に立ちそうだし、浮遊島も気になっていたから調査をしていたが、敵が君を取り込もうとしているのならば、今回の件からは手を引くべきだ」
ワグナスが調査からの撤退を主張する。それは当然だ。ボクオーンも本来であればそうしたい。
ただ、最後に巫女が残した不穏な言葉が、頭にこびりついて離れない。『風が呪いを運ぶ』という一言は、ワグナスにも伝えていない。伝えてしまったら、彼はこの村を守ることを選ぶだろう。彼はそういう男だ。人に裏切られた過去があるというのに――
ミルク粥をスプーンで掬って啜る。口の中に広がる甘ったるい味に、ボクオーンは思わずむせた。
「だ、大丈夫かっ。美味しくなかったか?」
ワグナスが慌てて背中をさすってくれる。
彼がパンケーキに蜂蜜をたっぷりとかけていたことを思い出す。意外と甘党のようだ。追放されてから数百年、七英雄の食事係を続けていたが、気付かないものだとおかしくなってきた。
口元を緩めるボクオーンに気付いて、ワグナスは不安そうな顔をしている。
「甘くて、とても美味しいです」
笑いながらミルク粥を口に運ぶと、ワグナスはほっとした表情になって自席へ戻っていった。
食べながら考える。
巫女はボクオーンとひとつになりたいと言っていた。それは食料という意味なのか。ボクオーンの能力を欲している意味なのか。
彼女の元へ行くには、おそらく装置を起動させる必要がある。しかし指し示されたのはボクオーンひとりだ。
――だとすると。
「ボクオーン」
低く、厳しい声が響く。
ワグナスは眉間に皺を寄せて、難しい顔をしていた。
「転移装置の先には、魔物がいるだろう。それが巫女かは分からないし、この際どうでもいい。だが、君が狙われていることは事実だ」
「……私の属性は相性が悪いでしょうね。取り込んだ魔物の力も植物系なので、花を扱う相手に対して優位に立てることはない」
「分かっているのならば……」
「明日一日、いただけないでしょうか?」
視線を外にやる。窓から見えるのは青空と、風に揺れている木々。村の広場では明日の祭の準備が進められているだろう。耳をすませば、微かに太鼓の音や子供達の歌が聞こえてくる。
「祭りに行くと、約束をしてしまっているので」
ワグナスは顔を顰めたが、何も言わなかった。
ボクオーンは視線をワグナスへ戻し、口元に薄い笑みを作った。